「東禅寺(とうぜんじ)」は、ハリソン東芝ライティングの裏側、鴨部神社と道路を挟んで反対側にあります。この場所は今治市民が「ケヤキ並木みち」と呼んで親しまれている道が途切れた先にあります。
「ケヤキ並木みち」は、JR今治駅から総社川(蒼社川)へと続く約700メートルの並木道で、秋を告げる場所として今治市民に親しまれています。
ケヤキのアーチが続くこの道は、秋には美しい紅葉で彩られ、訪れる人々を季節の移ろいの中に誘います。
並木道を進んでケヤキが途切れると、桜並木が現れます。
春には桜が満開になり、また違った美しい景色を楽しむことができるこのあたりに、歴史ある「東禅寺」が静かに佇んでいます。
鉄人を討て!伊予の英雄伝
東禅寺の創建は「鉄人伝説」から語り継がれています。
当時、新羅 (しらぎ)・百済 (くだら)・高句麗 (こうくり)の「三韓(朝鮮大陸)」に「鉄人」と名乗る非常に強くて悪賢い武将がいました。
鉄人は、卓越した知略と圧倒的な武力を兼ね備えた存在で、その名を聞くだけで人々を震え上がらせるほどでした。
そんな鉄人が、あろうことか8000人もの靺鞨の兵を率いて海を越え、筑紫の国(現在の九州地方)から侵攻を開始したのです。
これは、当時の日本にとってまさに未曾有の危機でした。
最恐の鉄人の進軍を止めろ!
日本も必死に応戦しましたが、ようやく鉄人を包囲したかと思えば、彼は突如「風雨の術」と呼ばれる神秘の力を操り、戦場に暴風と豪雨を巻き起こして混乱を招き、包囲網をあざ笑うかのように突破していきました。
兵たちは翻弄され、多くの戦死者を出るなかで、もはや手のつけようがない状況に陥っていきました。
さらに鉄人には、ただ戦うだけでなく、倒した人々を食べるという恐ろしい噂まで流れました。
このため、地域の老人や女性、子どもたちは山林に身を潜め、日夜、命の危険と隣り合わせの恐怖の中で暮らすしかありませんでした。
暮らしは悲惨を極め、誰もが「次は我が身か」と怯えながら日々を送っていたのです。
そしてついに、鉄人が筑紫の国から都(京都)へと攻め上がろうとしていることが明らかになると、朝廷は深刻な危機感を抱きます。
もはや一刻の猶予も許されぬ状況の中、国家の命運を託されたのが、文武両道に優れた古代伊予の豪族・越智益躬でした。
三島大明神の御神託
朝廷から鉄人討伐の勅命を受けた越智益躬は、戦に向かうにあたり一族の守護神である「三嶋大明神(三島大明神・大山祇神・大山積神)」に、七日七夜(一週間)にわたって祈願を捧げました。
その祈りが通じたのか、益躬のもとに神託が下されました。
「鉾(ほこ)を鏃(やじり)にして隠もち、鉄人の隙を見て討て」
この神託が、後に鉄人との戦いにおける重要な導きとなります。
益躬 vs 鉄人
いよいよ鉄人と対峙することになった益躬ですが、鉄人の強さは予想以上でした。
武力での勝利は難しいと判断した益躬は、思い切って鉄人に降伏し、家来となることでその隙をうかがうことにしました。
しかし、用心深い鉄人にはほとんど隙が見当たらず、見つけた弱点といえば「馬に乗っている際に足の裏にわずかな穴が開いている」ぐらいでした。
それでも益躬じっとチャンスを待ち続けました。鉄人はそのまま進軍し、やがて現在の兵庫県にあたる播磨国(はりまのくに)の明石の選坂(かにさか )にまで到達しました。
この時、ついに決定的な好機が訪れます。
三島大明神の神撃が鉄人を貫く
その日、鉄人は目の前に広がる美しく壮大な景色に心を奪われ、警戒心を忘れて無防備に立ち尽くしていました。
すると、突然の雷鳴が響き渡り、空を裂く稲妻が辺りを照らし、その中には三島大明神の姿がありました。
鏃は鋭く空を裂き、風を切りながら鉄人の方へと飛んでいきました。そして驚くべきことに、唯一の弱点とみられた足の裏に穴に突き刺さったのです。
これが致命傷となり、鉄人はそのまま息を引き取りました。
こうして、益躬はついに鉄人を討ち取ることに成功したのです。
大将である鉄人を失い大混乱の軍はあまりにも脆く、益躬は鉄人の家来を次々と打ち破り、逃げた者は生け捕りにしました。
手をあわせ命乞いをする者は捕まえて獄舎につなぎ、鉄人についての詳しい情報を吐かせました。
詳細な鉄人の情報を知った益躬は、討ち取った首を手にして宮中に参上し、朝廷(天皇)に鉄人のことについて申し上げました。
この勝利に、朝廷は非常に喜び、益躬に伊予の国(今の愛媛県)越智郡の大領(郡の長官)の役を任じました。
「東禅寺」兵士の霊を慰めるため
凱旋帰郷した越智益躬は、鉄人との死闘において命を落とした数多の兵士たちの霊を慰めるため、一寺を建立しました。
これが「東禅寺」のはじまりになります。
一説では、この時に日吉郷と鴨部郷から田地が百町(約99ヘクタール)寄進されたといいます。
「鴨部神社」神格化された益躬
その後、益躬が亡くなると、その比類なき武勲と、誠心をもって貫いた忠誠が朝廷に認められ、文武天皇(在位697〜707年)より「鴨部大神(かんべおおかみ)」の尊号が贈られ、神格化されました。
これを受け、この地の人々はその御神霊を長く敬い、恩徳に報いようと、かつて益躬が建立した東禅寺の近くに、鴨部大神をお祀りする社殿を設けました。
これが道を挟んで鎮座している神社「鴨部神社(かんべじんじゃ)」です。
越智益躬の子孫「河野氏」の統治
時代は進み、平安時代の伊予国(現在の愛媛県)は、越智益躬の血を受け継ぐ河野氏によって統治されていました。
瀬戸内海最強の水軍「河野水軍」
河野氏は、瀬戸内海沿岸に勢力を拡大し、特に河野水軍は「瀬戸内海で最強」と称され、その影響力は伊予国内にとどまらず、周辺の海域全体に及んでいました。
瀬戸内海は航行が難しく、潮流や風向きが複雑なため、高度な航行技術が必要とされます。河野氏はこうした地理や潮流を熟知し、それを活かした戦術で他を圧倒していました。
また、船団は規模も非常に大きく、多くの武装兵を乗せることで、海戦における機動力と攻撃力で圧倒的優位に立っていたのです。
さらに、河野氏は瀬戸内海を航行する商船や漁船から年貢や手数料を徴収し、その潤沢な資金をもって水軍の装備や兵力を高め続けていました。
この独自の税収システムは、河野氏にとっての重要な経済基盤であり、瀬戸内海全域にわたる勢力を保つために必要不可欠でした。
瀬戸内海での交易や流通の要所を押さえたことで、他の豪族や貴族が瀬戸内海で活動する際には、河野氏の許可が必要になることも多く、その権威は非常に高まっていました。
荘園制度を利用した平家の勢力拡大
しかし、時代が進むにつれ、伊予を取り巻く情勢は大きく変わり始めます。
平安時代の後期、中央政界で台頭した平清盛を頂点とする平家一門は、朝廷・武家・経済の三つの力を掌握し、その影響力を全国へと広げていました。
その動きはやがて瀬戸内海を越え、静かに、しかし着実に伊予の地にも及び始めたのです。
この時代の日本の土地制度
当時の日本では、「公地公民制(こうちこうみんせい)」という土地制度が基本とされていました。
これは、すべての土地と人民(国民)を朝廷(国家)が所有し、個人による土地の私有を認めないという制度です。
国民は戸籍に登録され、「班田収授法」によって一定の耕作地を与えられました。これは、6年ごとに戸籍をもとに土地を配分し、一定期間ののちには返還するという制度です。
そのかわりに、与えられた土地で得た収穫の一部を「年貢」として納めたり、労働(=「庸」や「雑徭」)に従事したりする義務が課せられていました。
そうすることで、年貢や労役を課されることになります。
これは、律令国家において土地と民を中央が一元的に統制するための基礎制度とされていたのです。
しかし、時代が進むにつれて朝廷の統制力は次第に弱まり、地方では有力な貴族や寺社、そして武士層が土地を「荘園」として実質的に私有化する動きが広がっていきました。
この「荘園制度」では、土地の耕作者が年貢などを納める代わりに、中央の有力者(本所)から保護を受けるという関係が築かれます。
その結果、荘園は課税や官人の立ち入りを免れる「不輸・不入」の特権を持つようになり、国家の干渉を受けない半ば独立した領域となっていきました。
こうした荘園の拡大は、地方にいる豪族にとっては自分たちの土地を守るための有効な手段でもありましたが、同時に中央政権に近い有力者たちが各地に影響力を持つきっかけにもなりました。
荘園制度を利用した平家
平家は、この荘園制度を巧みに利用し、伊予を含む西日本一帯でその勢力を拡大していきました。
中央政界での強力な地位を武器に、寄進や開発の名のもとに各地で次々と荘園を獲得し、現地の豪族とも結びつきながら影響力を強めていったのです。
「従う or 戦う」河野氏の迫る平家の力
一方、こうした平家の勢力拡大は、伊予を拠点としていた在地豪族・河野氏にとって、深刻な脅威となっていきました。
荘園として認められる土地は基本的に、貴族や寺社など中央に近い存在にのみ付与されるものであり、地方豪族の領地は制度的には正規の私有地として認められにくい立場にありました。
さらに平家は、瀬戸内海の制海権を握るため、海上交通と水軍の掌握にも力を注いでいました。
伊予は古くから、瀬戸内海交通の要衝として知られ、良港に恵まれた地であると同時に、豊かな海産資源にも恵まれていました。
さらに、中国大陸や九州との交易にも近い立地にあったため、この地域を制することは、日宋貿易の拡大を目指す平家にとって、まさに死活的な課題だったのです。
しかしその問題の瀬戸内海には、すでに強大な水軍を擁し、海上の実権を握ってきた一族が存在していました。
それが、伊予を拠点とする河野氏です。
平家側から見れば、河野氏はまさに「手を組めば頼もしく、敵に回せば厄介な存在」でした。
そして今や、両者が交差する状況は、もはや避けては通れないものとなっていました。
この中で、河野氏に残された選択肢は、ただ二つ。
- 平家の軍門に下り、その勢力下に従属するか。
- 自立を守り、武力をもって対抗するか。
そしてこの選択こそが、のちに巻き起こる源平合戦の中で、河野氏の命運、そして伊予国の歴史の方向を決定づけることになります。
運命の源平合戦のはじまり
1180年、源頼朝が打倒平家を掲げて挙兵すると、河野氏はいち早く源氏への味方を表明し、兵を挙げました。
これは、単なる源氏への加勢ではなく、自らの独立性を守り、伊予国内における勢力を維持するための重大な決断でもありました。
当時、平家は瀬戸内海を中心とした水軍を強化し、海上からの統制を図っていましたが、源氏方に河野氏(河野水軍)が加わったことで、瀬戸内海における勢力図は大きく源氏に傾いていきました。
平家が危惧していた通り、瀬戸内海における河野氏の力は非常強力で、やがて源氏の海上作戦を支える上で不可欠な存在となっていきます。
その実力が存分に発揮されたのが、那須与一が見事に「扇の的」を射抜いたという逸話でも知られる「屋島の戦い(やしまのたたかい)」でした。
「屋島の戦い」河野水軍が平家を翻弄
屋島の戦い(やしまのたたかい)は、平安時代末期の1185年(元暦2年・寿永4年)2月19日に、讃岐国屋島(現在の香川県高松市)で繰り広げられた源平合戦の重要局面の一つです。
前年の一ノ谷の戦い(1184年)で敗北した平家は、西方へ退却。屋島と長門国彦島(現在の山口県下関市)に拠点を築き、強力な水軍を背景に瀬戸内海の制海権を掌握しようとしていました。
源氏を率いていた源頼朝(みなもと の よりとも)は追撃を指示していましたが、正式な許可の遅れに業を煮やした源義経(みなもと の よしつね)は独断で挙兵。
こうして始まった屋島の戦いですが、義経軍はわずか150騎ほどの少数精鋭。そのため正攻法では勝ち目がなく、義経は奇襲によって戦局を覆す作戦を決断します。
義経は嵐の夜、わずか5艘の船で出航し、阿波国(現在の徳島県)に上陸。そこから険しい山道を陸路で進軍し、屋島の背後から平家軍を奇襲しました。
当時、平家は屋島の対岸に数百艘にも及ぶ軍船を配置し、海路からの攻撃に備えていました。
しかし背後からの急襲には対応できず、軍勢は混乱。
平家は慌てて船で沖合へと退避するほかありませんでした。
源氏の奇襲は見事に成功し、屋島は義経の手に落ちることとなったのです。
この大胆な作戦の成功を陰で支えたのが、河野氏が率いる河野水軍でした。
河野氏は、河野水軍を使って平家の注意を伊予方面に引きつけ、義経が少数の兵で屋島を攻めるための隙を作り出しました。
この屋島での勝利は、源氏にとって極めて重要な転換点となり、河野水軍の支援なくしては実現し得なかったともされています。
「壇ノ浦の戦い」平家滅亡、河野水軍の支援
屋島を失ったことで、平家は瀬戸内海の制海権を喪失し、海上の補給線や連絡路を確保することが困難になっていきました。
一方、九州ではすでに源頼朝の異母弟・源範頼(みなもと の のりより)が大軍を率いて上陸しており、平家は東からも西からも追い詰められ、最後の拠点としていた長門国彦島(現在の山口県下関市)に孤立していました。
源義経は、屋島での勝利の勢いをそのままに水軍を再編成し、平家を完全に討ち果たすべく、彦島沖に位置する「壇ノ浦」へと進軍しました。
源義経は、屋島での勝利の勢いをそのままに、河野水軍などの協力を得て水軍を再編成。いよいよ平家を完全に討ち果たすべく、彦島沖に広がる「壇ノ浦」へと進軍します。
こうして、源平合戦の最終決戦となる「壇ノ浦の戦い」が幕を開けました。
この戦いは、元暦2年(1185年)3月24日(西暦4月25日)、現在の山口県下関市と福岡県北九州市の間に位置する関門海峡で繰り広げられました。
潮の流れが速く、戦の行方を左右する海域において、源氏の勝利の鍵を握ったのは、やはり河野氏の水軍でした。
河野氏が味方をした源氏の水軍は、関門海峡の複雑な潮流を巧みに利用し、平家軍の動きを封じ込めるように包囲網を築きました。
やがて平家軍は総崩れとなり、幼き安徳天皇は三種の神器とともに入水。平家一門は壇ノ浦の海でその命運を終えることとなりました。
鎌倉幕府の始まりと河野氏の貢献
この勝利により、長く続いた源平合戦はついに終結し、源氏が全国において実権を握ることとなりました。
そして1185年(文治元年)、源頼朝は鎌倉に政庁を設置し、事実上の政権運営を開始します。これが、武士による本格的な政権としては日本史上初となる「鎌倉幕府」の始まりとされます。
正式な征夷大将軍の宣下は後の1192年(建久3年)ですが、実質的な武家政権としての機能はすでにこの時点から確立しており、以後、日本の政治の中心は貴族から武士へと大きく移っていくことになります。
そして、源平合戦において重要な軍功を挙げた河野氏は、この新しい政権のもとで、河野通信は源氏の功臣とし高く評価されることとなります。
源家と義兄弟となった河野通信
河野氏の当主・河野通信(こうの みちのぶ)は、源頼朝から伊予国の統治権を正式に認められたうえ、頼朝の正室・北条政子の実妹を妻として迎え、両家は政略的にも親密な縁戚関係を築くこととなりました。
こうして河野氏は、「源氏の武力的支柱」としてだけでなく、政治的にも中枢に近い立場を確保することに成功したのです。
しかしその道のりは痛みを伴うものでもありました。
戦友・源義経と河野通清
実は、源平合戦の初期において、河野氏は一度平家に敗れ、当主であった河野通清(こうの みちきよ)が戦死するという大きな打撃を受けています。
この敗北により、家中は混乱し、伊予国内でも河野氏の地位は一時的に不安定なものとなりました。
しかしその後、通清の嫡子である河野通信が家督を継ぐと、父の仇を討つべく源氏に味方し、河野水軍を率いて義経の屋島・壇ノ浦の戦いを支援。
これによって見事に平家打倒の一翼を担うこととなり、伊予国における確固たる立場を築いたのでした。
中でも。源義経とは同じ戦場を駆け抜けた戦友として、また政結婚によって北条一門と縁戚関係を結んだことで、河野通信は名実ともに鎌倉政権の一角を担う有力武将として知られるようになっていきます。
兄に追われた源義経と河野氏の運命
しかし、この安定は長くは続きませんでした。なんと頼朝とその弟・義経の間に深刻な対立が生じたのです。
兄弟とはいえ、頼朝と義経は母が違い、年齢も離れていました。
父・源義朝が平治の乱で敗死した際、義経はまだ幼児であり、鞍馬寺に預けられて成長しました。
一方、頼朝は伊豆に流され、異なる環境でそれぞれの人生を歩んでいました。
そのため、二人の間にはそもそもの距離がありました。
積み重ねられた不信感
頼朝が義経に不信感を抱くきっかけとなったのは、義経が頼朝の許可を得ずに朝廷から「左衛門少尉」の位を授けられたことでした。
当時、武士が官位を得る際には主君の承認が必要であり、頼朝にとっては、義経が自分の許可なく官位を受けた行為が重大な不敬と映ったのです。
頼朝にとって義経は鎌倉幕府の一員であり、自身の指揮下にあるべき部下であったため、この行為は幕府内の主従関係や秩序を乱すものとされました。
さらに、義経が京都で公家や朝廷の力と結びつき、頼朝の承認を得ずに独自の行動を取ったことは、頼朝の立場を揺るがすものでした。
当時、義経は都で権威を高めようと奔走していましたが、頼朝から見ると朝廷側につき、鎌倉幕府での自身の権力基盤を脅かす行動に映ったのです。
義経追討とその波紋
こうしたことが要因となり、ついに頼朝は義経の鎌倉入りを禁じ、義経を追討する命令まで出しました。
兄に追われることとなった義経は、各地を転々としながら逃亡生活をすることになりました。
最終的には奥州平泉の藤原氏を頼った義経でしたが、幕府の圧力をうけて庇いきれなくなり、平泉の地で義経は自害しました。
こうした状況下で、源義経と親しかった武将たちにも幕府の監視が強まりました。
河野氏の幕府での地位が没落
義経の戦友であり、源平合戦をともに戦った河野通信にも疑惑の目が向けられたのです。
通信は義経と共に壇ノ浦の戦いを戦い抜いた忠臣であり、河野水軍の働きは義経の奇襲戦術にとって不可欠でした。
その絆は戦場だけでなく、互いの信頼に基づいた深い結びつきでもありました。
しかし、義経が謀反の意志を持っていたとされる噂が流れるなか、通信もまた「義経と近しかった」という理由だけで警戒される存在となっていきます。
「承久の乱」鎌倉幕府と敵対する河野通信
源頼朝の死後、その家督は長男・頼家、続いて次男・実朝へと引き継がれました。
しかし、鎌倉幕府を支える御家人たちの間では、やがて勢力争いや対立が激化していきます。
頼家は頼朝の義父である北条時政によって失脚させられ、実朝もまた、甥にあたる公暁の手にかかり暗殺されてしまいました。
こうしてわずか三代で源氏の直系は断絶し、幕府の実権は北条氏の手に完全に移ることになります。
北条氏は「執権」として幕府の中枢を掌握し、以後の鎌倉政権は北条家を中心に運営されるようになりました。
しかし、こうした権力集中は、頼朝以来の古参御家人たちの間に不満を生み出します。
河野通信のような古参の武将たちは、かつてはその武功によって評価されていましたが、次第に北条氏の政治姿勢により、忠誠や従順こそが重視されるようになり、彼らの立場は厳しいものとなっていきました。
一方で、朝廷もまた北条氏の台頭を快く思わず、両者の間には緊張が高まっていきます。
そしてついに、後鳥羽上皇は朝廷の威信回復と武家政権への対抗を決意し、承久3年(1221年)に幕府打倒を掲げて挙兵します。
これが「承久の乱」の始まりです。
両陣営に分かれた河野氏の戦略
承久の乱で通信は、幕府側(北条氏)ではなく朝廷(後鳥羽上皇)側に付き参戦しました。
これは義経との関係で幕府から不信を持たれたことに対する不満、さらに北条氏が強引に御家人を抑圧し始めたことへの反発が理由だったと考えられます。
さらに、当時すでに通信の子・通政や通俊、そして孫の通秀らが京都で後鳥羽上皇の側近「西面武士(さいめんのぶし)」として仕えており、河野家の一部は朝廷との関係を深めていました。
このことも、通信が朝廷方に付く大きな要因だったといえるでしょう。
一方で、通信のもう一人の子、通久は幕府側に残りました。
これは、戦乱の世において河野氏一族の滅亡リスクを避けるために選んだ生存戦略だったと考えられます。
河野氏のような地方豪族にとって、権力者たちの勢力争いが絶えない乱世では、一族の一部を異なる陣営に分散させることで、一族全体の滅亡を回避することが重要な手段でした。
しかし、こうした戦略は、家族が戦場で敵として向き合い、時には命を奪い合うという、非常に厳しい運命をもたらしました。
「承久の乱の結末」河野通信、義経の地に果てる
こうして始まった承久の乱は、多くの武士が後鳥羽上皇方に参じたものの、幕府もすぐに対応し、執権・北条義時の命を受けて、北条泰時を総大将とする鎌倉軍を京都へ派遣しました。
幕府軍は、日頃から戦闘訓練を重ねた武士によって組織され、統制も取れた精鋭部隊でした。
一方、上皇方は数こそ劣らなかったものの、急きょ動員された寄せ集めの軍勢で、貴族や戦闘経験の乏しい地方武士が中心だったため、統率に欠け、次第に士気を失っていきました。
京へ向かう鎌倉軍は各地で合戦を繰り広げ、次々と勝利を重ねて、ついには京都を制圧。こうして承久の乱は幕府側の圧勝に終わります。
敗れた後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、それぞれ遠流とされ、上皇方に加わった武士たちも多くが処罰を受けました。
この中で、河野通信も流罪に処されることになりました。
そして何の因果か、その流刑地はかつての戦友であった源義経が最期を迎えた奥州・平泉でした。
義経との絆を心に抱き続けた通信にとって、義経が眠るこの地での流罪は運命の皮肉ともいえるものでした。
そして貞応2年(1223年)、河野通信はその平泉の地において、68年の波乱に満ちた生涯を静かに終えたと伝えられています。
河野通信誕生の地としての東禅寺
このような乱世を生き抜き、波乱に満ちた生涯を送った河野通信。
その生誕の地、そして精神的支柱ともいえる場所が、今治市の東禅寺です。
名を変えて歩んだ生涯
保元元年(1156年)、河野通信は東禅寺で誕生し、幼少期には「若松丸」と呼ばれていました。
成長するにつれて「東禅寺殿」とも称され、やがて河野家の後継者として重責を担っていきます。
通信は伊予国府において、伊予権介(いよのごんのすけ)という在庁官人に任命されました。これは、朝廷の代理として国政を実務面で担う極めて重要な役職です。
この官職により、通信は「河野介」と称され、伊予国内において確かな地位と影響力を持つようになりました。
源平合戦以前からの縁
河野通信は、承久の乱に敗れて奥州・平泉に流され、同地でその生涯を閉じました。
しかし、通信にとって東禅寺は単なる生誕の地ではなく、信仰の拠点であり、河野氏一族にとっても代々の祈願所・菩提所として大切にされてきました。
東禅寺の伝承によれば、平安時代後期の延久5年(1073年)11月に義経の祖先「源頼義(みなもと の よりよし)」と河野氏の始祖とされる「河野親経」親経が協力し、七堂伽藍が再興されたとされています。
このことからも、河野氏と源氏の関係が源平合戦以前から築かれていたことがわかります。
一遍上人と通信の位牌
弘安3年(1280年)には、河野通信の孫にあたる「一遍上人(いっぺんしょうにん)」、が時宗を開いた後に平泉で亡くなった通信の墓参りを行いました。
そして、帰郷ののちに通信の位牌を東禅寺に納め、以後この寺は通信の菩提所として河野氏の守護を祀る場所となったのです。
通信の戒名は「東禅寺殿前豫州大守觀光西念大居士(とうぜんじどの ぜんよしゅうたいしゅ かんこうさいねんだいこじ)」とされ、今もなお、河野氏と東禅寺との深い絆を物語る存在となっています。
河野氏による東禅寺の再建
元弘3年(1333年)11月、南北朝の動乱の中で、当時の当主「河野備後守通綱」が七堂伽藍を再建しました。
河野氏はこの時代、伊予国において統治体制を強め、地元の豪族として仏教信仰を支える一方で、河野氏一族の祈りの場として東禅寺の復興に力を注ぎました。
しかし、再建から数十年後、南北朝時代の混乱が続く文中3年(応安7年・1374年)、東禅寺は再び兵火によって焼失してしまいます。
加えて、この時には幕府の圧力も強まり、東禅寺の寺領が没収されるという苦境に立たされました。
寺領の没収は、寺院の運営を支える基盤を失うことを意味しており、経済的に大きな打撃を受けました。
この時期、河野氏は南朝方に属していました。南北朝の対立が激化する中で、
河野氏は南朝の支持者として戦いを続けていましたが、その影響で度重なる戦火に巻き込まれることとなり、東禅寺の再建が非常に困難な状況に置かれていました。
河野氏は、南朝を支持し続けることで幕府側の敵視を受け、寺院や領地に対する支援が制約され、東禅寺の維持がさらに厳しい状況に追い込まれてしまったのです。
それでも、文明3年(1471年)には、河野氏一族の河野通昭が東禅寺の再建を果たし、再び寺領を奉納しました。
その後、永正15年(1518年)には、河野氏の一族である河野通宣によって本堂である薬師堂が再建されました。
戦火からの再建と保存
天正13年(1585年)8月、豊臣秀吉の四国征伐が行われ、伊予国は戦火に包まれました。
この際、秀吉から伊予を任された小早川隆景の第一陣が今治に上陸し、東禅寺に本陣を構えました。
しかし、この戦いの中で、東禅寺の諸堂や多くの貴重な什器が焼失し、大きな被害を受けました。
一方、永正15年(1518年)に河野通宣によって再建された薬師堂はこの戦火を免れ、奇跡的に残存しました。
薬師堂はその後も地域の信仰を集め、慶長16年(1611年)と寛永9年(1632年)には、当時の今治城主藤堂高吉によって修復が施されています。
この薬師堂は、河野氏の祈りを象徴する建物として重要視され、度重なる修復を受けてその姿を保ち続けました。
寛永12年(1635年)には、伊勢国長島藩から移封された今治の初代藩主である松平定房が今治城に入り、東禅寺も引き続き補修を受けました。
松平定房は徳川家康の異母弟・松平定勝を父に持つ久松松平家の出身で、東禅寺は松平家歴代藩主の崇敬を受ける寺院として大切にされました。
松平家の支援によって、寺院の維持が確立され、修復や補修が続けられました。
明治時代に入り、東禅寺の保存活動も進められました。明治26年(1893年)には内務省より建物保存資金として五拾円が交付され、寺院の保全に役立てられました。
さらに明治35年(1902年)にも修理が行われ、寺院の歴史的価値が保たれました。
東禅寺の薬師堂はその歴史と文化的価値から明治37年(1904年)に旧国宝に指定され、国の宝として位置づけられました。
昭和9年(1934年)から翌年にかけては、国庫の補助を得て大規模な改修が行われ、東禅寺の修復と保存がさらに進められました。
この大改修により、東禅寺は新たな時代に向けてその姿を整え、地域の信仰と歴史を守る重要な文化財として存続していきました。
薬師堂と如意輪観世音菩薩像の歴史
このように再建され続けた東禅寺の中でも、特に国宝に指定された薬師堂は地域の重要な信仰の対象として、また河野氏の祈りを象徴する建物として大切にされてきました。
薬師堂の内部には、本尊の「如意輪観世音菩薩像」が安置されていました。
この菩薩像は、天平元年(729年)に越智玉澄公の命により、行基律師が巡錫の際に霊木の根幹から等身大の尊像を自作したものと伝えられています。
長い歴史を持つこの尊像は、東禅寺の信仰の中心であり、地域の人々の祈りと願いを受け止める象徴的な存在でした。
また、この尊像には越智氏にまつわる伝承も残されています。
伝説によれば、越智氏の祖先である越智益躬が「白村江の戦い(663年)」において唐に捕らえられ、捕虜となりましたが、観音菩薩の霊験加護により、幾多の海難を無事に乗り越え、帰還することができたとされています。
この出来事が契機となり、越智益躬は如意輪観世音菩薩を永く崇敬することを決意し、この尊像を東禅寺に安置したと伝えられています。
観世音菩薩像や薬師堂は、河野氏一族の信仰の象徴であるとともに、地域の人々にとっても重要な信仰の対象でした。
越智氏から河野氏へと受け継がれてきたこの観世音菩薩像は、除災招福の仏として広く崇敬を集め、薬師堂とともに東禅寺の中心的な存在として人々の心の支えとなってきました。
しかし、この観音菩薩像と薬師堂も、ある一つの出来事によって甚大な被害を受けてしまいます。
それが、昭和20年(1945年)の今治空襲です。
「今治空襲」東禅寺の焼失
昭和20年(1945年)、太平洋戦争の末期、今治市は3度にわたる空襲に見舞われました。
なかでも、8月5日から6日にかけての夜間空襲では、アメリカ軍のB-29爆撃機によって260発以上の爆弾が投下され、今治市街地の大半が炎に包まれました。
この空襲により、全市戸数の約75%が焼失するという壊滅的な被害が生じ、市民生活はもちろん、歴史的・文化的資産にも甚大な損害が及びました。
国宝の消失…焼け落ちた薬師堂
このとき、東禅寺もまた焼夷弾の猛火に巻き込まれ、かつて国宝に指定されていた薬師堂は他の堂宇とともに完全に焼失してしまいました。
長年にわたって信仰と祈りの拠り所であった薬師堂の焼失は、地域にとって極めて大きな喪失でした。
薬師堂の内部には、数々の貴重な仏具や荘厳具が安置されていましたが、この火災によりすべてが焼け落ちました。
中でも、河野氏一族が寄進した厨子、台座、十二神将像などは、単なる装飾を超えた深い信仰と歴史の象徴であり、文化的価値も極めて高いものでした。
これらは、一瞬の戦火によって失われ、東禅寺と地域社会にとって取り返しのつかない損失となったのです。
「奇跡の救出劇」本尊・薬師如来像の疎開
しかし、全てが失われたわけではありません。
本尊の薬師如来像だけは、空襲に先立って、当時の住職・堅城和尚の判断により他の地域へ疎開されていたため、奇跡的に焼失を免れることができました。
この尊像は、河野氏の祈りと地域の信仰を結ぶ象徴であり、その唯一の遺産が火中を逃れたことは、戦後の東禅寺再建と信仰の継承において、かけがえのない希望となりました。
戦火を越えて…再建と復興
戦後、今治市が復興の道を歩み始める中で、東禅寺も大きく変わることとなりました。
空襲によって美しい松並木の参道を失ったことに加え、昭和28年(1953年)には今治市の都市計画法のもと、境内の間に市道が通されることが決まりました。
この市道の開通により、東禅寺はかつての統一された景観を失い、本堂と本坊が道路を挟んで分かれることとなりました。
薬師堂の再建
薬師堂の再建にあたっては、昭和初期に行われた解体修理の際に文部技官が残した詳細な記録や、愛媛県庁に保管されていた薬師堂の図面が復元において重要な資料となりました。
これらの資料をもとに、焼失から約10年後の昭和31年(1956年)、薬師堂は忠実に再建され、再び地域の信仰の象徴としての役割を果たすことができるようになりました。
境内が分かれた現在の東禅
現在、東禅寺は境内を貫く市道によって本堂と本坊が分かれる形となり、かつての一体感ある風景は失われてしまいましたが、その歴史と信仰が今も絶え間なく受け継がれています。
戦火を逃れた薬師如来像
本尊である薬師如来像は今治市の指定有形文化財に指定され、戦火を逃れた「お薬師さん」として、地域の人々の心の支えであり続けています。旧暦の7日には縁日が開かれ、多くの参拝者が訪れます。
現代へ続く東禅寺と河野通信
東禅寺と河野通信の関わりは、単なる歴史的記録にとどまらず、地域に根ざした信仰と忠義の象徴として、現代に至るまで語り継がれています。
大正5年(1916年)11月28日には、大正天皇により、承久の乱における忠節が讃えられ、河野通信に「従五位」の勲位が追贈されました。
その後、境内には「従五位 河野通信公塔」と刻まれた石塔が建立され、すぐ背後には「東禅寺と河野通信」と記された石碑が寄り添うように静かに佇んでいます。
これらの記念碑は、河野通信の生涯を称えるとともに、忠義と信仰の精神を今に伝える存在となっています。
春には桜が咲き、秋には紅葉が境内を彩る東禅寺の風景の中で、河野通信の名は今も静かに息づいているのです。