「綱敷天満神社（つなしきてんまんじんじゃ）」は、地元では「綱敷天満宮（つなしきてんまんぐう）」とも呼ばれる、学問の神様・菅原道真公をお祀りする神社です。
「学問の神」菅原道真の栄光と悲劇
菅原道真公（すがわらのみちざねこう）は、平安時代を代表する学者、漢詩人、そして政治家であり、貴族の中でも際立った才能を持った人物でした。
幼少期からその才覚は際立っており、わずか5歳にして漢詩を詠んだとも伝えられています。
若くして学問の道を極めた道真公は、やがて政界へと進み、右大臣として醍醐天皇に仕えて国家の中枢で活躍するようになります。
道真公の政治は、学問と知性に基づいた理性的な政策によって高く評価され、特に学問と政治を結びつけた姿勢は多くの支持を集めました。
藤原時平との政争
しかし、道真公の卓越した才能は、やがて嫉妬の的となります。
道真公の力を脅威と感じた藤原時平（ふじわら の ときひら）は、自らの権力を維持し、藤原氏の勢力を拡大するために、道真公を排除しようとしました。
昌泰4年（901年）、藤原時平は「道真が醍醐天皇を廃し、道真の娘が嫁いだ斎世親王（ときよししんのう、醍醐天皇の弟）を擁立しようとしている」と虚偽の告発を行いました。
太宰府への左遷
この告発には何の証拠もなく、しかも道真公には弁明の機会すら与えられませんでした。
そして、なんの罪状も明らかにされぬまま、「太宰権帥（だざいのごんのそち）」として筑紫の太宰府へと左遷されることとなったのです。
「太宰権帥」は、太宰府という古代の役所における副長官の役職で、太宰府は、当時の九州全体を統治・管理するための重要な政治的拠点がありました。
しかしこの任官は、名目上の栄転とは裏腹に、実際には政界からの完全な排除を意味していました。
道真公にとっては、都から遠く引き離され、政治の表舞台を退かされるという、事実上の流罪に等しい仕打ちだったのです。
綱敷天満神社に伝わる救助劇
左遷を命じられた道真公は、家族を都に残して、十挺櫓（じゅっちょうろ）の屋形船に乗り、大宰府へ向かいました。
命懸けの海旅
しかし、当時の航海は非常に危険を伴うものでした。
海図や航路標識が未整備であったうえ、船の構造も波や風に弱く、天候の急変や潮流の読み違いが命取りになる時代だったのです。
特に瀬戸内海は、複雑な潮の流れと狭い海峡が連続する航路であり、経験豊かな水先案内人をもってしても、嵐や暗礁に翻弄される危険が常にありました。
「綱敷」の由来と「衣干岩」
航海の途中、道真公の船は予州の迫門（愛媛県西条市の壬生川沖）に差しかかったところで、激しい嵐に見舞われました。
最悪なことに、この海域（桜井沖）は古くから「難所」として恐れられていた潮の流れが速い海域でした。
そんな危険な海域での嵐に、船はたちまち翻弄され、沈没寸前の状態に陥ってしまいました。
そのとき、浜辺にいた地元の漁民たちが、荒波に漂う道真公一行の船を発見します。
その中心にいたのが、のちに綱敷天満神社の宮司の祖先と伝えられる人物「広川修善」でした。
修善らはただちに小舟を出し、荒れ狂う海へと漕ぎ出して救助に向かいました。
そしてなんとか無事に道真公を救い出すと、一行は志島の東端（現在の今治市桜井付近）に避難させました。
しかし、あまりに急を要する事態であったため敷物の用意が間に合わず、漁船の綱を丸めて敷きました。
この出来事が、後に神社の社名となる「綱敷天神（つなしきてんじん）」の由来となりました。
「衣干岩」
また、道真公が上陸された際、嵐で濡れた烏帽子や冠、装束を、近くの岩に干されたと伝えられています。
このことから、その岩は「衣干岩（きぬほしいわ）」と呼ばれるようになり、今もなお、この地にその名をとどめています。
太宰府へ
その手厚いもてなしに深く感謝した道真公は、自らの手で一体の像を彫り上げたと伝えられています。
その像を刻むために用いた素材は、なんと船を操る際に握る「舵柄（かじづか）」です。つまり、進路を定める命綱ともいえる大切な部位でした。
この像には、道真公の感謝の念とともに、自らの行く末に対する静かな覚悟と祈りが込められていたのでしょう。
そして道真公は、彫り上げたその像を人々に託し、再び船に乗り込み、静かに太宰府の地を目指して旅立っていきました。そのとき、道真公はこう語ったと伝えられています。
「もし私が都へ戻ることが叶ったならば、この像を京へ届けてほしい。しかし、筑紫の地でそのまま命を終えることがあれば、どうかこの地に祀っていただきたい」
太宰府での過酷な生活
なんとか太宰府に到着した道真公でしたが、そこで待ち受けていたのは、あまりにも過酷な生活でした。
ここまでの移動費はすべて自費で賄わなければならず、到着後も俸給や従者は与えられず、政務に就くことも許されませんでした。
衣食住もままならず、与えられた住居は、雨漏りする粗末なバラック小屋だったといいます。
それでも道真公は、自らを律し、孤独に耐え続けましたが、過酷な現実の中で、次第に心身が衰えていきました。
「いつかまた、都に戻りたい。」
そんな強い願いを胸に、ひたすら過酷な生活に耐え続けた道真公でしたが、その想いが叶うことはありませんでした。
左遷から2年が経った延喜3年（903年）2月25日、道真公は病に倒れ、筑紫国・太宰府の地で静かにその生涯を閉じました。
この左遷は、名目上こそ官職の異動でしたが、実質的には死を意味する政治的な追放でした。
都から遠く離された地での厳しい暮らしは、道真公の心と身体を蝕み、ついには命を奪う結果となったのです。
「綱敷天満神社」の誕生
道真公が都へ戻ることなく、太宰府の地で亡くなられたという悲報が伝わると、郡司・越智息利をはじめ、地元の人々は深い悲しみに包まれました。
その御功績を偲び、御霊を慰めるために、人々は天慶5年（942年）、この地に一つの小さな社（やしろ）を建立し、道真公がこの地に託された御尊像を「素波神（そばがみ）」として丁重にお祀りしました。
そしてこの小社は、かつて道真公を漁船の綱を敷物としてもてなした出来事から「綱敷天満神社」と名付けられました。
実は古天神が大元
実は、綱敷天満神社は当初、現在の場所ではなく、「古天神」と呼ばれている別の地に建てられていました。
しかし、あるトラブルが発生し、その結果、享保5年（1720年）、松山藩主・松平隠岐守（まつだいらおきのかみ）の命により、神社は現在の地へと遷され、社殿も新たに再建されました。
学問の神様を訪ねて、受験生が参拝
新たな場所へと遷座された後も、地域の人々からの厚い信仰は変わることなく受け継がれ、特に受験シーズンになると多くの学生が参拝に訪れ、道真公のお姿が描かれた「祈願絵馬」が、毎年二千枚以上も奉納されています。
美しい松林と砂浜
綱敷天満神社の境内には、「志島ヶ原（しじまがはら）」と呼ばれる美しい松原が広がっています。
その広さはおよそ11万平方メートルにもおよび、約2,000〜3,000本ものアカマツやクロマツが風にそよぐ光景は、まさに自然の織りなす絵巻物のようです。
志島ヶ原の南には、燧灘（ひうちなだ）に面した砂浜が広がり、さらさらとした白砂が波打ち際まで続きます。
松林と白砂、そして青く広がる海との対比は見事で、古来より「白砂青松」の美景として人々に親しまれてきました。
昭和16年（1941年）には国指定の名勝として認められ、その後「日本の白砂青松100選」にも選ばれました。
また、志島ヶ原は愛媛県指定の有形文化財でもあり、自然の美しさと文化的な価値が保護されています。
この広大な松林の中を通る参道は、地元の人々には散歩コースとしても親しまれ、日々の憩いの場として利用されています。
梅の名所
綱敷天満神社は、梅の名所としても知られ、志島ヶ原の一角には菅原道真公が愛した「梅」の木が植えられています。
梅園には約300本の梅があり、毎年2月の開花時期には「観梅会」という梅まつりが開かれ、多くの参拝者や観光客が訪れます。
菅原道真は幼少の頃から梅を大変好んでいました。5歳で詠んだ和歌や11歳の頃に作った漢詩にも梅が題材として登場しています。
また、自宅の庭にも多くの梅の木を自ら植えていたとされています。大宰府への左遷が決まった際、道真は自宅の梅に向けて別れを惜しむ和歌を詠みました。
「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
この和歌が由来となり、「飛梅伝説」が生まれました。
伝説によれば、主人を慕った梅の木は、なんと一夜のうちに空を舞って大宰府まで飛び、道真公のもとに根を下ろしたといいます。
さらに、道真公を追って松の木も空を飛びましたが、途中で力尽き、現在の兵庫県にある「飛松岡（とびまつのおか）」と呼ばれる丘に根を下ろしたとも伝えられています。
そして九州・太宰府天満宮では、道真公の墓所の上に根を張る一本の白梅が、春ごとに静かに花を咲かせます。
この木こそが、伝説の「飛梅（とびうめ）」として人々に親しまれています。
こうした伝承にちなみ、太宰府天満宮では、道真公をお祀りする墓所の上に立つ飛梅にちなんで、梅の花が神聖な象徴とされ、毎年梅酒が神前に奉納されています。
「春祭り」
毎年5月5日に行われる「春祭り」では、お神輿や伝統のつぎ獅子、奉納少年剣道大会、桜井中学校親善交歓野球大会が行われ、地域が一年で最も賑わいます。
「宮島さん」
旧暦6月17日に行われる「宮島さん」は、境内社の「厳島神社」の管絃祭を模して行われる大祭で、麦わらで作った「わら舟」が海へ流されます。
わら舟は、男の子が生まれた家庭が子どもの成長と海上安全を祈願して流すもので、珍しい祭りとして多くの見物客を集めています。
「御神牛」
境内には、菅原道真公と深い縁を持つ牛の像が祀られています。
伝説では道真公は丑年、丑の月の丑の日の丑の刻に生まれたとされています。このため、牛は道真公の守護動物とされ、天満宮や天神社において、牛は非常に重要な存在とされています。
道真公が903年に太宰府で亡くなった際、遺体を運ぶ牛車が途中で動かなくなったという伝説もあります。
この伝説では、牛が動かなくなった後に、道真公の霊が現れて牛に「ここに留めてほしい」と告げ、そこに遺体が埋葬されました。そして、この地が現在の太宰府天満宮のはじまりとされています。
この伝説から、牛は道真公の意思を伝える存在としても崇められるようになり、全国の天満宮や天神社の境内には臥牛の「御神牛」が祀られています。
「御神牛」に、参拝者の願いを学問の神様である「菅原道真公（天神様）に伝えているといわれ、参拝者は心の中で祈りながら、牛の像を撫でたり、手を合わせたりすることで、その願いが天神様に届くと信じられています。
また、病気のある部分を牛に撫でつけるとその病気が治るという信仰も根強く、学問の成就や健康祈願のご利益を願って、多くの参拝者が手を合わせいます。
他の説には、天神様が雷の神としても信仰されていることから、農耕の守護神でもあり、牛がその役割を担っているとも言われます。
牛は農業に欠かせない動物であり、雷を司る天神様と結びつくことで、農作物の豊穣や自然の恵みを祈願する象徴としても捉えられているのです。
さらに、牛を大切に扱うことで、願いがより一層届くとされています。その一例として、牛のために「涎掛け（よだれかけ）」を作り、奉納する習慣があります。
この涎掛けは、牛を祀る際に敬意を表すものであり、涎掛けをかけることで牛が喜び、天神様に願いを伝えやすくしてくれるといわれています。
涎掛けの奉納は、特に子供の健康を祈る際や、特別なお願いをする際に行われ、信仰深い行為とされています。
「絵馬堂」
綱敷天満神社には大きな絵馬堂があり、かつては数多くの絵馬が奉納されていました。
中には、地元の名士や著名な絵師による作品も含まれており、た山本雲渓や沖冠岳といった名の知られた絵師たちによる貴重な絵馬も掲げられていました。
また、絵馬堂には奉納者として多くの名前が記された立札も建てられ、綱敷天満宮が地域社会にとって重要な役割を果たしてきたことを伝えていました。
しかし、年月が経つにつれて、これらの絵馬は風雨による劣化が進み、絵や文字がほとんど読めない状態になってしまいました。
特に、江戸時代に奉納されたものは、歴史的な価値が高い反面、その劣化も顕著で、修復が難しい状況になりました。
それに加え、落下する危険性もあったため、これらの貴重な絵馬は撤去されたそうです。
一説によると、氏子の皆で相談し、一度は文化施設に寄贈しようとしたものの、痛みがひどいため拒否されたと言います。
そこで、こんどはなんとか修復しようとしましたが、あまりの高額のため、最終的には焼却処分しようということにしたそうです。
その中の1枚の絵馬は、地域の集会所に置かれているとされていますが、現在それらの絵馬がどこにあるのか、あるいはまだ現存しているのかどうかについては、当サイトでは確認できていません。
「志々満保育園」
西参道沿いの松林の中には「志々満保育園（ししまほいくえん）」が建てられています。
この保育園は、昭和24年（1949年）に幼稚園として設立され、その後、昭和30年（1955年）に保育園として社会福祉法人の認可を受けました。
自然豊かな環境に囲まれた中で、地域とのつながりを大切にしながら、子どもたちの元気さと想像力、そして社会性を育む保育が行われています。
園庭には、子どもたちの明るい笑い声が響き、自然の中でのびのびと遊び学ぶ様子が見られます。
毎年の卒園式では、地域の方々も参加し、綱敷天満神社への参拝や、伝統的な神楽の奉納が行われます。子どもたちの成長を祝うこの行事は、地域全体で喜びを分かち合う温かいイベントとして親しまれています
歴史と文化が息づく散策
他にも、綱敷天満神社の境内や周辺には多くの記念碑、句碑、歌碑、そして銅像が点在し、地域の歴史や文化が色濃く反映されています。
参拝者は、神社の信仰だけでなく、歴史や文化を身近に感じることができる散策の楽しみも味わえます。
西鳥居前の道路沿いには、かつて廻船問屋が奉納した大きな常夜灯があり、夜間の航海の安全を祈願して建てられたこの灯は、かつての海運業の繁栄を今に伝えています。
さらに海岸には、幕末期に松山藩が黒船来襲に備えて築いた台場跡（砲台跡）も残されており、そこに据えられた石碑には「安政二年乙卯六月成」と刻まれています。
こうした数々の史跡や文化財は、綱敷天満神社を訪れる際の楽しみをいっそう深めるとともに、地域の誇るべき歴史と伝統を静かに伝えています。
