南北朝時代の歴史が刻まれた霊廟
国分寺(伊予国分寺)から東へ約五百メートル、山間の静かな一角に「脇屋神社(わきやじんじゃ)」が鎮座しています。
新田義貞の弟・脇屋義
ここは単なる神社ではなく、激動の南北朝時代に南朝の総大将・新田義貞(にった よしさだ)を支えた実弟、脇屋義助(わきや よしすけ)が眠る墓所であり「脇屋義助廟・脇屋義助公廟堂」として今日まで大切に守られてきました。
脇屋義助は、もとは新田(にった)姓を名乗っていましたが、上野国脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)を本拠としたことから脇屋を称するようになりました。
太田市の生品神社(いくしなじんじゃ)での挙兵以来、兄・義貞の副将として各地を転戦します。
義貞の戦死後もなお幕府方に抗し続け、やがて四国西国の南朝方大将として今治に赴任しますが、興国三年〔1342年〕五月十一日、この地で病没しました。
近世には四国巡礼で国分寺を参拝した人々が、足を延ばしてこの霊廟を訪ねたと伝えられています。
世田山合戦へと続く動乱の幕開け
「脇屋神社・脇屋義助公廟堂」の創建には、南北朝時代にこの地で繰り広げられた世田山合戦が深く関わっています。
しかし、その背景を理解するためには、さらに時代をさかのぼり、源平の争乱から鎌倉時代、そして南北朝時代へ至る歴史の流れを見ていく必要があります。
ここからは、伊予の地が歩んだ波瀾の歩みを追いながら、脇屋義助ゆかりの史跡がどのように生まれ、守られてきたのかを紹介します。
河野通信が見た時代の変化
1185年(文治元年)、源氏と平家の最終決戦「壇ノ浦の戦い」で、伊予の豪族・河野通信(こうの みちのぶ)は水軍を率いて源義経と共に参戦し、勝利に貢献しました。
この功績によって、源義経の兄・源頼朝が鎌倉に開いた新政権(鎌倉幕府)から、河野氏は伊予国の統治権を正式に認められました。
さらに通信は、源頼朝の妻・北条政子の妹を正室に迎えるなど、源氏と河野氏の関係は戦功を超えて、血縁関係を含む強固な絆で結ばれることになります。
しかし、鎌倉幕府の内部にはすでに暗雲が立ちこめていました。
義経の華々しい活躍を快く思わなかった兄・頼朝は、なんと義経の鎌倉入りを拒絶し、最終的には追討令まで発します。
義経は各地を逃亡した末、奥州平泉で自害に追い込まれました。
義経の同調者や支持者も厳しく取り締まられ、この中で深い絆を持つ河野通信にも疑惑の目が向けられ、厳しい統制を受けるようになりました。
源頼朝の死後、源氏の家督は頼家、続いて実朝へと引き継がれましたが、将軍の背後では北条氏が着々と実権を掌握していきます。
頼家は頼朝の義兄弟「北条時政(ほうじょう ときまさ)」によって失脚させられ、実朝も暗殺されてしまいました。
こうして、わずか三代で源氏の直系が断絶したことにより、鎌倉幕府の実権は北条氏が握ることとなりました。
しかし、頼朝以来の古参の御家人たちは、北条氏が執権として実権を掌握し、幕府運営を独占していく姿勢に不満を抱き始めました。
一方で、朝廷側も北条氏が幕府の頂点に立ったことを快く思っておらず、次第に両者の間には緊張が高まっていきました。
そしてついに、1221年(承久3年)後鳥羽上皇が北条氏打倒を掲げて挙兵。
ここに「承久の乱」が勃発します。
「承久の乱」朝廷 VS 武家
承久の乱は、日本史において初めて朝廷と武家政権が直接衝突した戦いであり、武士が政治の主導権を握るきっかけとなる重要な出来事でした。
1221年(承久3年)、朝廷の威信回復と武家政権に対抗する意志を固めた「後鳥羽上皇(ごとばじょうこう・後鳥羽上皇」は、上皇は、全国の武士や寺社勢力に呼びかけ、幕府に対抗する軍勢を組織して挙兵しました。
しかし、幕府は東国の御家人を動員し、北条義時の指揮のもとで迅速に対応し、圧倒的な戦力で上皇方の軍勢を撃破することに成功し、わずか1か月ほどで京都を制圧しました。
この戦いの結果、後鳥羽上皇は隠岐へ流され、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は自ら配流を受けて土佐へと移されました。
さらに、幕府が京都に「六波羅探題(ろくはらたんだい)」を設置し、朝廷の動向を監視する体制を整えたことで、朝廷は幕府の許可なしに自由に国政を行うことができなくなりました。
幕府と朝廷に分かたれた河野氏
承久の乱で河野通信は、幕府側(北条氏)ではなく朝廷(後鳥羽上皇)側で参戦しました。
これは義経との関係で幕府から不信を持たれたことに対する不満、さらに北条氏が強引に御家人を抑圧し始めたことへの反発が理由だったと考えられます。
また、通信の子である河野通政、通俊、孫の通秀も既に京都で上皇の側近として仕える西面武士となっていたため、通信は家族とともに上皇方に付く選択をしたのです。
一方で、通信のもう一人の子、通久は幕府側に残りました。これは、戦乱の世において河野氏一族が滅亡のリスクを避けるために選んだ生存戦略でした。
元寇と恩賞の不満!揺らぐ鎌倉幕府
承久の乱がすみやかに鎮圧されたことで、幕府の統治体制が確立されたかのように見えました。しかし、その後、御家人たちの不満はますます高まっていきました。
特に、鎌倉幕府の財政が圧迫される中、御家人の経済的困窮が深刻な問題となっていました。
1266年(文永3年)、モンゴル帝国(元)が日本に対して服属を求める使者を送ってきましたが、幕府はこれを拒否しました。
その後、1274年(文永の役)、1281年(弘安の役)と二度にわたって元軍が襲来し、いわゆる元寇(蒙古襲来)が勃発しました。
この戦いでは、全国の武士が動員され、九州を中心に防衛戦が展開されましたが、日本軍は奇跡的に元軍を撃退することに成功しました。
しかし、元寇は通常の戦争とは異なり、敵の領地を奪うのではなく、本土防衛を目的とした戦いでした。
そのため、戦に勝利しても新たな領地を獲得することができず、戦功を挙げた武士たちに対して十分な恩賞を与えることができませんでした。
戦には、武具の準備、兵糧の確保、馬の調達、家臣への報酬など、多大なコストがかかりました。それにもかかわらず、命懸けで戦った武士たちはそれに見合う見返りが得られたかったのです。
幕府に対する不満が全国で急速に高まっていく中で、内部でも北条氏い抑圧され御家人たちの不満が高まっていきました。
こうした状況の中、鎌倉幕府を打倒しようとする動きが全国に広がりました。
1333年、鎌倉幕府滅亡
そして元弘3年(1333年)に、後醍醐天皇の討幕運動に呼応した足利高氏(後の足利尊氏)・新田義貞らが挙兵し、幕府に対して戦を仕掛けました。
この戦いでは、足利尊氏(あしかがたかうじ ・足利高氏)が京都の六波羅探題を制圧し、新田義貞(にったよしさだ・源義貞)が鎌倉を攻め落としました。
北条高時以下一族は東勝寺で自害し、約150年間続いた武家政権、鎌倉幕府が滅亡しました。
これにより、再び朝廷に権力が戻り、後醍醐天皇による親政が始まりました。
後醍醐天皇が目指した天皇政治
建武元年(1334年)、上皇・法皇の院政や摂政・関白を廃止し、天皇に政治権力を集中させる「建武の新政」を開始しました。
後醍醐天皇は、長らく武士が握っていた政権を再び天皇のもとに取り戻し、公家による統治を復活させることを目指したのです。
この新政では、鎌倉幕府の制度を廃止し、恩賞の決定権を持つ記録所の復活、訴訟を扱う雑訴決断所の設置などを行い、中央集権的な統治を進めました。
また、全国の土地を再分配する方針を打ち出し、公家と武士の両方を統治しようとしました。
「南北朝時代」一つの国に二人の天皇
しかし、この新しい体制は、武士たちの期待を裏切る形になりました。
政治の中心が公家に偏り、武士の立場が軽視されたことで、武士たちの間で朝廷への不信感が広がってしまったのです。
また、鎌倉幕府の討幕に尽力した武士たちは、十分な恩賞を受け取れず、不満を募らせていきました。
こうした中で、討幕の最大の功労者であった足利尊氏が後醍醐天皇と対立し、武士たちの支持を集めながら独自の勢力を築いていきました。
尊氏は後醍醐天皇を京都から追放し、かわりに光明天皇を擁立すると、暦応元年(1338年)に尊氏は光明天皇より征夷大将軍に任じられました。
これによって京都に新たな武家政権「室町幕府」が誕生しました。
こうして、日本は南朝(吉野の後醍醐天皇)と北朝(京都の光明天皇)に分裂し、日本全土を巻き込んだ騒乱の時代「南北朝時代(1336年〜1392年)」へと突入しました。
兄の後を継いだ大将「脇屋義助」
南朝(後醍醐天皇)方についた新田義貞は、総大将として南朝勢力を率いましたが、「藤島の戦い(1338年)」で戦死してしまいました。
脇屋義助は新田義貞の副将として戦ってきた忠臣で、兄の死後も幕府軍に対して徹底抗戦しました。
興国2年(1341年)、義助は美濃国根尾城に籠城して北朝方と戦いましたが、力及ばず敗走。尾張・熱田の大宮司に助けられ、羽豆崎(現・愛知県師崎町)で兵を整えたのち、海路伊勢へ渡り、伊賀を経て吉野の後村上天皇の行宮に参内しました。
翌・興国3年(1342年)、義助は西国方面の南朝軍総大将に任じられると、熊野の海賊衆の協力を得て兵船三百余隻を集め、淡路島の沼島へ渡航。
現地の豪族・梶原二郎や佐々木信胤(塩飽水軍)らの協力を得て、義助は南朝方の勢力を固めました。
塩飽水軍の護送によって伊予国府が置かれていた今張(現・今治)の浦へ到着すると、篠塚重広や甥の大館氏明らとともに四国西国の南朝勢力を掌握し、伊予(今治)を拠点とした活動を本格的に開始しました。
しかし、着任から間もない興国三年(1342年)五月四日、国府に滞在していた義助は突然病に倒れ、七日間の療養もむなしく、五月十一日に国分寺で息を引き取りました。
享年わずか三十八歳、まさに志半ばでの最期でした。
『太平記』巻二十二には、敵にその死を悟られぬよう「偸ニ葬礼ヲ致」したと記されており、盛大な葬儀や立派な墓所は築かれなかったと伝わります。
伊予を襲った大軍勢
しかし、南朝の将軍・脇屋義助の病死の知らせは、すぐに北朝の武将・細川頼春に届きました。
これを最大のチャンスと捉えた頼春は、阿波(現:徳島)・讃岐(現:香川)から7000の兵を引き連れ、伊予へ侵攻を始めました。
川之江城を攻め落とすと、千町ヶ原の戦いで南朝軍を一掃し、そのまま椎ノ木峠を超えてこの地まで進軍し、伊予平野で激突しました。
これが「世田山合戦(1342年)」です。
「世田山合戦(1342年)」世田山城の激戦
「世田山合戦(1342年)」で両軍にとっての鍵となったのが、要衝・世田山城でした。
この城は「世田山城が落ちれば伊予の国も亡ぶ」とまで言われるほど軍事的に極めて重要であり、南朝方の大館氏明(脇屋義助の甥)が城主を務めていました。
当然のごとく北朝軍は世田山城を最重要目標に掲げ、その猛攻によって世田山城は落城し大館氏明は自害することになりました。
さらに、霊仙山城、行司原城までもが陥落し、伊予の南朝方は勢力を保つことができず、情勢は北朝方に大きく傾いていきました。
南朝方の武将・篠塚重広は最後まで奮戦しましたが、圧倒的な兵力差により追い詰められました。
世田山城の落城を見届けると、兜の内に秘めていた黄金観音像を笠松山の山頂に安置し、未来への祈りを託しました。
その後、重広は城門を開き、名乗りをあげて単身で敵陣に突撃。
敵兵はその迫力に圧倒されて道を開け、重広は堂々と戦場を立ち去ったと伝えられています。
やがて戦乱が静まると、村人たちは笠松山の山頂で黄金の観音像を発見しました。
その輝きと由来に深い感銘を受け、山頂に小さな祠を建てて観音像を丁重に祀りました。
この祠がやがて「笠松観音堂(かさまつかんのんどう)」と呼ばれるようになり、篠塚重広の勇名と祈りを象徴する場所として、今日まで多くの人々の信仰を集めています。
義助をしのぶ霊廟の建立
世田山合戦が終わったのちも、しばらくのあいだ義助のための立派な墓所が築かれることはありませんでした。
それでも地域の人々は義助の墓を伝え守り続け、近世初頭には「脇屋刑部卿義助の印の石」と呼ばれる小さな石が国分寺東の森にあったと伝えられます。
江戸時代の顕彰と霊廟再建
江戸時時代に入ると、義助の墓所は今治藩の記録にも登場するようになります。
寛文八年(1668)、今治藩初代藩主・松平定房に仕えた江嶋為信(えじま ためのぶ)が江戸から今治へ入国すると、義助の墓の所在を尋ねました。
国分寺で住人に訊ねると「そのような名前は聞いたことないが、シンデンギスケの塚なら東の丘にある」と教えられたといいます。
翌年、為信は国分寺の住職らと協議し、現在の墓石を建立しました。これが、今日に続く義助霊廟整備の最初の動きとされています。
その後、寛文九年(1669)には国分寺住職・快政法印の発願により、今治藩士・町野政貞、首藤又右衛門らが中心となり、浄財を集めて石塔を再建。
藩の儒臣・佐伯惟忠が表中碑を建て、儒学者・貝原益軒の讃文を刻んで義助を「南朝忠臣」として顕彰しました。
こうして義助の墓所は史跡として整備され、今治藩の公的な保護を受けるようになります。
当時の武家社会では中世軍記物語『太平記』の講釈が広く行われ、楠木正成や新田義貞といった南朝武将が「忠義の鑑」として再評価されていました。
今治藩においても、藩主・松平定房が徳川家康の甥であり、徳川家が新田氏系の源氏を称していたことから、義助は「藩主ゆかりの人物」として顕彰にふさわしい存在だったと考えられます。
四国遍路の中での巡礼と祈り
江戸中期になると四国遍路が盛んになり、国分寺は第59番札所として多くの参拝者を集めました。
参拝者は寺の本堂を参拝したあと、足を延ばして義助の墓所にも立ち寄り、霊廟は次第に「名所」として知られるようになりました。
1687年刊行の『四国遍路道指南』にも義助の墓所が紹介されており、その後の遍路ガイド本にも踏襲され続けます。
国分寺は墓所の管理を担い、近くには「新田堂」という庵寺を設けて参詣者を迎えていました。
文化十一年(1814)には、国分寺が「新田義助公御廟所ハ従往古拙寺支配所」と明言し、墓所までの参道の修理を役所に願い出ています。
この記録から、墓所が国分寺の管轄下にあり、寺院によって維持管理されていたことがわかります。
この記録からも、墓所は国分寺の、寺院によって維持管理されていたことがわかります。
また、この頃から義助の霊に瘧(おこり:マラリアのような熱病)の平癒を祈る民間信仰が広がり、霊廟は単なる墓所を超えて、病気平癒を願う人々の祈りの場となりました
「国分神社創建」脇屋義助を祀るため
明治維新のあと、政府は南朝を「正統」とする立場を打ち出し、楠木正成や新田義貞など南朝方の武将を祀る神社が全国で次々と建てられました。
今治でもこの流れを受け、藩主・松平定法が藩士や村人と協議し、脇屋義助を祀る神社を建てる計画を立てます。
これは、義助を「南朝忠臣」として顕彰することで、新しい時代の国づくりにふさわしい歴史人物として位置づける意味がありました。
明治三年(1870)、藩は朝廷に神社建立を正式に願い出ます。建設地には、義助の墓がある国分村に近い谷ノ口境の小高い山が選ばれました。
藩と村人が協力して工事を進め、翌明治四年(1871)八月四日、ついに社殿が完成します。
完成の日には、義助の墓所(国分寺東の義助廟)から御霊を移す儀式(招魂祭)が厳かに行われました。
人々は白木の箱に納められた御霊を松明の灯りで護りながら山上へと運び、祝詞と太鼓の音の中で祀り込めたと伝わります。
こうして墓での供養から神社での祭祀へと形が変わり、神社は「国分神社」と名付けられました。
独立した神社としての国分神社
この神社創建は、長年義助廟を守ってきた国分寺にとっては大きな転換点でした。
明治元年(1868)三月に発令された神仏分離令により、寺院が神社を管理したり神職を兼ねたりすることが禁じられ、仏像や仏具は神社から撤去されることとなります。
国分寺もその影響を免れることはできず、
寺院が行ってきた脇屋義助の祭祀を続けることが不可能となりました。
義助の霊を祀り、参拝者や四国遍路の世話を担っていた村庵「新田堂」も、明治四年(1871)二月に取り潰しが命じられ、新たに創建された国分神社に引き継がれます。
そして、国分神社は郷社であった綱敷天満宮(綱敷天満神社・古天神)の末社として組み込まれ、同神社の神職・広川清躬が兼務する体制がとられました。
「郷社(ごうしゃ)」とは、明治政府が制定した神社制度において、村落や地域全体で崇敬される神社に与えられた社格で、地域社会の中心的存在と位置づけられていました。
郷社は、村人たちの寄り合いや祭礼の拠点となり、地域の精神的支柱として大きな役割を果たしたのです。
国分神社も、この郷社制度のもとで綱敷天満宮(綱敷天満神社・古天神)の末社として位置づけられながら、、地域社会の中で守り伝えられていったのです。
廃藩置県と荒廃
しかし、明治四年(1871)八月、明治政府による廃藩置県が実施されたことで、創建されたばかりの国分神社は危機的状況に追い込まれてしまいます。
廃藩置県とは、江戸時代から続いてきた藩(大名領)をすべて廃止し、府と県を置いて明治政府が直接統治する体制に改めた一大改革です。
これによって今治藩も廃止され、藩主・松平定法は東京へ移住しました。
その結果、国分神社は藩からの経済的・人的支援を失い、神社の維持や祭祀を行うことが次第に難しくなっていきます。
やがて「氏子無之(氏子なし)」と記録されるほどに、神社を支える住民組織が存在しなくなり、参拝する人の姿もほとんど絶えました。
境内の草木は伸び放題となり、掃除もされず、鳥居や社殿も修繕されないまま傷みが進んでいきました。祭りや儀式も行われなくなり、「祭典すら調兼(ととのわず)」とまで言われるほど、神社は荒廃していったのです。
災害による倒壊と再建
さらに追い討ちをかけるように、明治七年(1874年)八月二十一日の暴風雨によって国分神社の社殿は無残にも倒壊してしまいました。
藩の庇護を失った直後で、再建に必要な資金も人手もまったく足りず、村人たちだけで再建を果たすのは非常に困難でした。
また、綱敷天満宮(綱敷天満神社・古天神)の末社として位置づけられていたため、独自に資金を集めることも難しく、再建の見通しはまったく立ちませんでした。
そこで地域の有志たちは、他の南朝忠臣を祀る神社と同じように、国分神社を官幣社(国家が祭祀の対象として認め、国費で維持する神社)に昇格させるよう願い出ます。
これは国家の費用で修理・再建を行い、義助を顕彰する祭祀を存続させるための必死の措置でした。
その後、明治十六年(1883)には脇屋義助に従三位の官位が追贈され、義助の功績が国としても正式に認められる形となりました。
しかし、肝心の国分神社の再建に関する具体的な記録は残されておらず、完全な復興は果たせなかったと考えられます。
「幻の国分神社」
それでも義助を偲ぶ声は途絶えることなく、明治三十四年(1901)には国分寺住職・中野堅照と地元庄屋・加藤徹太郎らが中心となり、「脇屋会」が結成されました。
脇屋会は義助の命日である五月十一日に慰霊法会を営み、荒廃しかけていた義助祭祀を地域の行事として復活させました。
法会当日には、近隣の境内で子ども相撲や剣道の奉納試合、さらには草競馬が催され、村人や参拝者で大いに賑わったと伝えられています。
こうした行事は、単なる追悼にとどまらず、地域社会を一体にする催しとして機能し、義助の名を後世に伝える重要な役割を果たしました。
しかし、明治四十一〜四十二年(1908〜1909)頃になると、明治政府が進めた神社整理事業の波が国分村にも及びます。
神社整理事業とは、全国に多数存在していた小規模な神社を統合し、地域ごとに中心となる神社へ祭祀を集約する政策で、国家神道体制を整える目的で実施されたものでした。
この結果、規模の小さい神社や維持が難しい神社は近隣の大きな神社へ合祀されることになりました。
国分神社も例外ではなく、近隣の村社・春日神社(かすがじんじゃ)に合祀されることとなり、創建からわずか三年ほどで独立した神社としての歩みを終えました。
今では「幻の国分神社」とも呼ばれ、その存在は地域の歴史を語るうえで象徴的な出来事として記憶されています。
また、明治二十年(1887)に新調された太鼓が、現在も春日神社に大切に保管されており、往時の祭祀の面影を今に伝えています。
地域が守り継いだ義助の祀り
一方で、義助を偲ぶ動きはその後も続き、大正五年(1916)には長らく仮の祀りの場として守られてきた義助の墓所に、ついに総檜造りの立派な拝殿が建立されました。
檜の香りただようこの拝殿は、義助の忠義を讃えるにふさわしい荘厳な姿を備え、霊廟としての整備が本格的に進められました。
昭和十六年(1941)には、義助の没後六百年にあたる大法会が盛大に執り行われました。
新田氏の末裔も遠方から参列し、地元の人々が総出で準備した奉納競馬や参詣が行われ、境内は多くの参拝者で賑わいました。
南北朝歴史サミットと姉妹都市提携
平成11年(1999年)5月30日、愛媛県今治市において「南北朝歴史サミット」が開催されました。
このサミットは、南北朝時代の歴史を共有する全国の自治体が一堂に会し、歴史を未来へ伝えていくことを目的に行われたもので、当日は5県15市町村から自治体関係者や歴史研究者が集まりました。
この場で「太平記の里 友好市町村連盟」が結成され、南北朝時代にゆかりのある地域の歴史遺産の保護と顕彰、次世代への継承、さらには地域間交流の推進が確認されました。
特に、参加自治体のひとつである群馬県太田市は、新田義貞の弟・脇屋義助の菩提寺とされる脇屋山正法寺や義助館跡が今も伝わる新田氏発祥の地です。
この歴史的縁が再確認されたことで、650年以上の時を越え、2002年(平成14年)4月4日、今治市と太田市は正式に姉妹都市提携を結びました。
この提携は、脇屋義助を介して結ばれた中世以来の絆を現代に結び直す象徴的な出来事となりました。
2000年(平成12年)の今治市大渇水の際には、太田市から2万本もの飲料水が届けられるなど、災害時の支援協力も行われています。
また、行政や議会関係者の研修交流をはじめ、自治会や郷土史研究者の行き来、学生や社会人によるスポーツ交流、青少年の体験交流、さらに合唱団や吹奏楽団による演奏会など、文化・教育・防災と多岐にわたる交流が継続的に行われています。
こうして、南北朝時代から続く歴史的縁は、現代の市民同士の絆へと発展し、今も生きた交流として受け継がれているのです。
現在に息づく脇屋義助の記憶
脇屋義助公廟堂は、荒廃と再建、そして地域の人々の信仰と尽力によって、その姿を変えながら守り継がれてきました。
神道における「霊廟」は、特定の人物の霊を祀る施設を指し、性格としては神社とほぼ同じ役割を果たします。
そのため、この脇屋義助霊廟も「脇屋神社」とも呼ばれ、祈りの場・顕彰の場として親しまれてきました。
現在でも桜井小学校・中学校の生徒たちが墓所の清掃を行い、地域の人々が草刈りや補修を続けています。
こうした地道な取り組みが、義助の霊廟を今日まで良好な姿で伝え、歴史を身近に感じられる場として残しているのです。
義助の墓の後ろには、家臣たちのものと伝えられる基石が静かに並んでいます。
それは、主君を失ったのちもその志を受け継ぎ戦い続けた家臣たちの、時を超えて結ばれた忠義の絆を、静かに語りかけているようです。