今治市玉川町法界寺に鎮座する「和霊神社・法界寺(われいじんじゃ)」は、地元では親しみを込めて「和霊さん」と呼ばれています。
病気平癒、漁業守護、交通安全などにご利益がある神様として知られ、今も多くの人々から信仰を集めています。
和霊神社の主祭神・山家清兵衛(山家公頼)
和霊神社・法界寺の主祭神である山家清兵衛(やんべせいべえ・山家公頼)は、もともと仙台藩主・伊達政宗(だて まさむね)の家臣として仕えていた名家老です。
慶長19年(1614年)、政宗の庶長子である伊達秀宗(だて ひでむね)が、大坂冬の陣で軍功を認められ、伊予宇和島十万石の藩主として国替えとなりました。
このとき政宗は、藩政を補佐するため、もっとも信頼する家臣のひとりであった清兵衛を宇和島に派遣します。
清兵衛は、若き秀宗の下で「惣奉行(そうぶぎょう)」という重職に就き、新たに成立した宇和島藩の基盤整備と政務の中心を担いました。
民に寄り添う善政とその波紋
宇和島に赴任した清兵衛は、まず領内の実情をつぶさに観察し、民の声にじっくりと耳を傾けました。
重すぎる年貢や不公平な裁判制度に苦しむ百姓や町人の姿を目の当たりにした清兵衛は、そうした状況を放置せず、改善に尽力します。
たとえば、年貢の徴収方法を見直し、収穫高に応じた実情に即した課税制度へと改革を進めました。これにより、領民の暮らしには少しずつゆとりが生まれたといいます。
また、武士に有利に傾いていた訴訟制度を是正し、町人や百姓にも正当な訴えの機会が与えられるよう努めました。
こうした誠実な政治姿勢により、清兵衛は領民から信頼され、多くの民衆に親しまれるようになりました。
しかし、このような正義感に基づいた改革路線は、次第に藩内で波紋を広げていきました。
若くして藩主となった伊達秀宗にとって、年長で藩政の実務を取り仕切る清兵衛の存在は、時に重く、また煩わしく感じられるようになっていきます。
清兵衛は、宇和島藩の藩主としての立場を守る一方で、仙台藩(伊達宗家)や江戸幕府との関係調整にも心を砕いていました。
たとえば、仙台の政宗公への隠居料として、藩領十万石のうち三万石を割くことを提案し、藩の財政難をやりくりしました。
また、幕府の大坂城石垣修復事業にも協力するなど、宇和島藩の立場を内外で支え続けたのです。
とはいえ、こうした清兵衛の手腕や影響力は、藩主・秀宗や家中の重臣たちの中に警戒心や不満を芽生えさせていきました。
とくに、清兵衛が藩政の状況を仙台の政宗に直接報告していたことは、秀宗にとって「自らの政権を父に監視されている」という不安を強く感じさせたともいわれています。
このようにして、信義を貫く清兵衛と、実権を求める藩主・重臣たちの間に、次第に修復しがたい亀裂が生じていったのです。
「和霊騒動」家中の対立と謀略の影
とくに、秀宗の側近であった家老・桜田元親(さくらだ もとちか・玄蕃)は、清兵衛の影響力を危険視し、次第にその排除を画策するようになります。
元親は、秀宗の側近派と結託し、清兵衛に対する誹謗中傷を藩主に吹き込み続け、家中の空気を清兵衛糾弾へと誘導していきました。
そして元和6年(1620年)6月29日の深夜、ついに事件は起こります。
秀宗の命を受けた桜田元親の家臣たちが、清兵衛の屋敷を襲撃し、そのまま清兵衛(享年42)を斬殺してしまったのです。
そればかりか、清兵衛の次男・三男のほか、娘婿とその二人の子どもまでもが命を奪われ、さらに、わずか9歳の四男にいたっては井戸に投げ込まれるという、まさに一族皆殺しの惨劇が繰り広げられました。
これは、ただの政争にとどまらず、忠義を尽くした者への冷酷な裏切りであり、藩政の中枢で起こった前代未聞の粛清事件でありました。
この凄惨な出来事は、後に「和霊騒動(われいそうどう)」と呼ばれ、宇和島の人々の記憶と語りのなかに、深い悲しみと怒りとともに今なお語り継がれています。
「清兵衛公の祟り」
清兵衛の非業の死から間もなく、、宇和島藩内では不可解な災厄が続発するようになります。
寛永9年(1632年)、藩主・伊達秀宗の正室・桂林院の三回忌法要が、城北にある金剛山正眼院で営まれました。
ところがその法要の最中、突然の大風により本堂の大梁が落下し、清兵衛公の政敵であった桜田玄蕃(元親)が下敷きとなって圧死するという出来事が起こりました。
その後も、かつて清兵衛公の排除に関与したとされる人物たちが、海難事故や落雷などで相次いで亡くなり、城下では「清兵衛公の祟りに違いない」と囁かれるようになっていきます。
このような事態を重く見た宇和島藩の家老・神尾勘解由(かんお かげゆ)は、宇和島城の北に位置する八面大荒神の社の隅に、小さな祠を建て、清兵衛公の霊を「児玉(みこたま)明神」として密かに祀りました。
しかし、それでも災厄は収まりませんでした。
秀宗自身が病床に伏し、長男・宗實(むねざね)と六男・徳松が若くして亡くなり、次男・宗時(むねとき)も病没します。加えて、城下では飢饉・台風・地震といった天災が相次ぎ、藩政は大きな混乱に見舞われました。
こうした一連の出来事が、「怨霊による祟りである」との噂をさらに強めていきました。
ついに承応2年(1653年)、藩主・秀宗は清兵衛公の霊を正式に鎮める決断を下します。
藩内有志の尽力によって、檜皮の森に社殿が建立され、京都・吉田家から奉幣使を招いて、6月23日・24日の二日間にわたって神祇勘請の祭礼が執り行われました。
このとき社号は「山頼和霊神社(やまよりわれいじんじゃ)」と名付けられ、正式に神として祀られることとなったのです。
さらに、享保16年(1731年)には、五代藩主・伊達村候(むらとき)によって、かつて清兵衛公の屋敷があった地に壮麗な社殿が新たに建立されました。
これが、現在の宇和島市にある和霊神社(総本社)の起源です。
以後、悲劇的な最期を遂げた忠義の士・山家清兵衛公頼は、「和霊様(われいさま)」として神格化され、さらに漁業守護・病気平癒・災難除けの神としても信仰が広まっていきました。
その御神徳は、宇和島藩領を中心に四国各地へと広がり、和霊神社の御分霊も各地で勧請されていきます。
法界寺村への分霊と創建
このような和霊信仰の拡大の中で、今治市玉川町にもその霊験が伝わってきます。
延享3年(1746年)、法界寺村の庄屋であった浮穴与右衛門包俊(かねとし)は、若い頃に患った重病が、和霊大明神の霊験によって奇跡的に回復したことに深く感謝し、宇和島の和霊神社本社から御分霊を勧請しました。
当初は自身の邸内に小祠を設け、身内や村の限られた人々のみが参拝していましたが、やがて病気平癒のご利益が評判を呼び、多くの参拝者を集めるようになります。
特に、瀬戸内沿岸の漁業従事者の間では「海の守り神」として信仰され、漁師町や島嶼部を中心にその信仰は広がりを見せました。
あまりにも参詣者が多くなったため、同年中に法界寺村の三島神社・法界寺の境内に社殿を移設。以後、地域の公的な神社としての役割を担い、「和霊さん」と呼ばれ親しまれるようになります。
今治藩主による社殿の整備と信仰
寛政11年(1799年)4月、第7代今治藩主・松平定剛(さだよし)公は、和霊大明神への篤い崇敬の念から、現在の地に社殿を新たに建立。
桑坂山に約七反(およそ70アール)の土地を寄進し、拝殿や境内の整備が進められたことで、神社はより広く地域社会の精神的拠り所としての役割を担うことになります。
このとき、主祭神である山家清兵衛公頼に加えて、以下の二柱が合祀されました。
- 天命開別命(あめのみことひらかすわけのみこと)
天命開別命は天智天皇の神名とされ、古代律令制度の整備や文明的施策を推し進めた英邁な君主として知られる。水時計の設置や庶政の整頓、冠位制度の改革などを通じて、後世では学問成就・国家安寧・殖産興業の神として信仰されるようになり、地域社会の発展や治世の安定を願う存在として迎えられた。 - 猿田彦命(さるたひこ)
猿田彦命は、『日本書紀』や『古事記』において、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊を高天原から地上へ導いた神であり、「道開きの神」として知られる。その神徳は交通安全や航海守護、方除け、導き全般に及び、特に瀬戸内海を航行する船乗りや漁師たちにとっては極めて重要な神格であった。また、猿田彦命は国土の地霊・土地神としての性格も持ち、今治のような沿岸・島嶼地域では土地の鎮護神としても篤く信仰された。
こうした神々を合わせ祀ることで、法界寺の和霊神社は、漁業・商業・交通安全・病気平癒・開運招福など、実生活に密接に関わる多面的な御利益を持つ神社として発展していきます。
その信仰は、今治市内、特に美保町や波方町といった港町を中心に、大島・伯方島・大三島などの島しょ部へと広がり、さらには対岸の広島県(因島・尾道・御調郡)など瀬戸内海沿岸一帯にまでおよびました。
境内の構造と文化財
和霊神社・法界寺の境内には、往時の信仰を今に伝える石造物が数多く残されています。
- 鳥居(享和元年・1801年):現在は昭和51年の災害により損傷
- 常夜燈(寛政4年〜天保13年):15基現存、県内屈指の規模
- 神門と随臣像(右大臣・左大臣)
- 百度石、狛犬、注連石、奉納絵馬(三十六歌仙・七福神) など
奉納者の銘を見ると、今治市内のみならず、大島・伯方島・大三島、新居郡・宇摩郡など、広範囲の地名が確認でき、和霊神社が広域にわたる信仰を集めていたことがわかります。
またかつては、現在地への移転以前に旧参道が存在し、今治市高橋から山越えで玉川へ至る道が、昭和20年代まで参詣道として利用されていました。
さらに、かつて存在した参籠殿には炊事場や風呂場も備わり、遠方から訪れる参拝者の宿泊・祈願の場として重要な役割を果たしていましたが、台風被害を受け取り壊されています。
例祭と風習に息づく地域の心
今治市玉川町に鎮座する和霊神社・法界寺では、毎年旧暦6月23日に盛大な例祭が執り行われ、多くの人々が参詣に訪れます。
これは、承応2年(1653年)に宇和島の和霊本社が「桧皮の森」へと遷座された日を記念するものであり、今もなお地域の人々にとって大切な祭礼です。
祈りと交流の一日
例祭当日は、拝殿での参籠(さんろう)祈願に続き、神主による御祈祷が厳かに行われ、家内安全、五穀豊穣、無病息災などが祈念されます。
参詣者の中には、前夜から神社に籠もり、身を清めて祭りを迎える人もいます。
祈願の後には、酒宴やカラオケなどの娯楽も催され、地域の人々が親睦を深める交流の場としても、例祭は長年にわたり親しまれてきました。
宗教行事にとどまらず、地域の絆と文化を支える大切な年中行事となっています。
「蚊帳をつらない」風習
この例祭には、全国的にも珍しい風習が今も伝えられています。
それが「蚊帳をつらない」というしきたりです。
この習わしは、祭神である山家清兵衛公頼(やんべ せいべえ きんより)の非業の最期に由来します。
伝承によれば、清兵衛公はある夜、蚊帳の中で眠っていたところを襲撃され、蚊帳の四隅を切り落とされたうえで暗殺されたと伝えられています。
この出来事への哀悼の念から、和霊神社・法界寺では毎年例祭の日には蚊帳を吊らず、清兵衛公の霊を慰めるとともに、その無念を忘れぬためのしきたりとして、今も地域の人々によって大切に守り継がれています。
害虫除けと五穀豊穣を祈る御札
かつては、地域の代表者が例祭に参詣し、各戸の戸数分の御札(おふだ)を受け取り、家々に持ち帰る風習もありました。
これらの御札は、田畑に立てて害虫除けや豊作祈願の祈念として用いられました。
こうした慣習は、和霊信仰が農業や日常生活と深く結びついていたことを物語っており、信仰が単なる神格への崇敬にとどまらず、人々の暮らしに根差した文化であったことを示しています。
このように、和霊信仰は今も玉川の地で静かに、そして力強く息づいているのです。