今治市民にとって「吹揚(ふきあげ)」と聞けば、まず思い浮かぶのが今治城と「吹揚神社(ふきあげじんじゃ)」です。
吹揚神社は今治の中心部、今治城内に位置し、その立地だけでなく、市民の精神的な主柱ともいえる存在で、大晦日から初詣、七五三、春祭りなど、さまざまな行事において多くの今治市民が訪れています。
江戸時代から振り返る創建史
吹揚神社の創建を知るには、まず江戸時代の背景を理解する必要があります。
当時の日本は約300の藩に分割され、それぞれが独自の政治体制と軍事力を持ち、あたかも小さな独立国のように存在していました。各藩は江戸幕府に従いつつも、城を中心とした城下町を発展させ、地域ごとの経済や文化を育んでいました。
一方、江戸幕府は鎖国政策を敷き、外国との交流を制限して国内の安定を保とうとしました。この政策により日本は他国からの影響を最小限に留め、独自の社会と文化を発展させましたが、時代が進むにつれ国内外から開国を求める圧力が高まっていきます。
1853年、アメリカのペリー提督が浦賀に来航し、日本に開国を迫ったことが大きな転機となりました。幕府は日米和親条約を結んで貿易を許可しましたが、この決定が国内の不安と不満を助長し、幕府の権威が揺らぐきっかけとなりました。
幕府は国内の混乱を避けるため、ペリーとの交渉に応じ、翌年1854年に日米和親条約を結び、一部の港での貿易を許可しました。しかし、これによって外国勢力が日本に影響を及ぼすようになり、国内では幕府に対する不安と不満が高まっていきました。幕府がこの状況に対応しきれないことが明らかになるにつれ、国内の秩序も揺らぎ始めました。
その中で、「尊王攘夷」(天皇を敬い、外国を排斥する)という思想が広がり、特に薩摩藩や長州藩が中心となって倒幕の動きを強めていきます。1860年代になると、幕府は長州藩への征討を試みますが、長州藩は洋式の兵器を用いて反撃し、幕府軍を退けます。この戦いで幕府の軍事力の弱さが露呈し、幕府の権威はますます失われました。
1866年、薩摩藩と長州藩は、幕府の衰退と外国からの脅威が迫る中、日本を新しい時代へと導くには武力で幕府を倒すしかないと考え、「薩長同盟」を結びました。この同盟は、薩摩藩の西郷隆盛と小松帯刀、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)らの協力によって成立しました。両藩が手を組むことで、幕府への対抗姿勢が一層強まり、日本国内の倒幕の機運も加速していきます。
幕府はこれに対抗して長州征討を試みましたが、、洋式の兵器を導入し近代的な軍備を整えていた長州藩に敗北し、幕府の軍事力による統治体制の限界が露呈し、幕府の権威は大きく失墜していきました。
こうした中で、15代将軍「徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)」は次第に政治的な解決を図ろうと考え始め、1867年に慶喜は政権を朝廷に返上する「大政奉還(たいせいほうかん)」をおこないました。
大政奉還によって政権が朝廷に返上されたことで、武力による対立が収まり、平和的な政治移行が実現すると思われていました。しかし、大政奉還後の朝廷内では、幕府を存続させるべきか、それとも新たな政府体制を作るべきかで意見が分かれ、政治的な混乱が続いていました。
その中で、薩摩藩や長州藩を中心とする倒幕派は、徳川家の影響を完全に排除し、新しい政府を樹立することを目指して動き出します。
1868年1月3日、倒幕派は朝廷の許可を得て「王政復古の大号令」を発し、天皇を中心とする新政府の樹立を宣言しました。これにより、幕府は公式に廃止され、徳川慶喜は朝敵とみなされます。
そして、これを契機に旧幕府勢力と新政府軍との間で武力衝突が始まりました。この内戦が「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」です。
戊辰戦争は、京都での鳥羽・伏見の戦いから始まり、新政府軍が勢いを増して東進する中で、旧幕府軍は徐々に追い詰められていきました。慶喜は最終的に江戸に退却し、江戸城に立てこもりましたが、新政府軍が江戸に到着すると、西郷隆盛と幕府側の代表である勝海舟の交渉により、江戸城は無血開城されます。これにより、江戸での大規模な戦闘は避けられました。
その後、旧幕府軍の一部は抵抗を続け、北陸や東北地方、さらには北海道にまで戦いが広がりましたが、新政府軍の勢力に対抗しきれず、次第に戦局は新政府側に傾いていきます。そして1869年、旧幕府軍が北海道の五稜郭で降伏したことで、戊辰戦争は終結しました。
こうして、約260年続いた江戸幕府は完全に崩壊し、日本は新しい時代「明治」へと踏み出すことになります。
廃藩置県の今治での影響と神社の創設
明治政府は、新たに樹立された中央集権国家のもとで、日本の近代化と国力強化を図るためのさまざまな政策を打ち出しました。その中でも重要な政策が「廃藩置県」です。
1869年、明治政府はまず大名たちに領地と人民を朝廷に返上させる「版籍奉還(はんせきほうかん)」を行いました。これにより、各藩は形式上、政府の管理下に置かれることになり、藩主たちは「知藩事」として自らの領地を引き続き管理するよう指示されました。しかし、この体制ではまだ旧来の藩体制が残り、中央集権国家としての統一は不十分でした。
そこで、1871年に政府は「廃藩置県」を断行し、全国の藩を廃止して県を設置することを決定しました。これにより、約300の藩は廃藩(完全に消滅)、藩主たちは知藩事の職を解かれ、統治権は中央政府に集約されました。各県には中央から府知事や県令が派遣され、地方の統治も中央の直接管理下に置かれることになりました。
今治藩も例外ではなく、他の藩と同様に廃藩となり、藩主の統治権は中央政府に返上されました。それまで今治藩の統治下で築かれていた地域の仕組みは解体され、代わりに県としての新しい統治が始まりました。中央からの役人が派遣されることで、これまでの藩による独自の支配体制はなくなり、今治の地域社会も大きな変革の波に飲まれました。
この廃藩置県の流れの中で、今治城もその歴史的役割を終え、城の敷地内で新たな役割が求められることになります。その中で、地域の新しい時代の象徴として、また人々が平和と繁栄を祈る場として神社を建立する計画が進められました。こうして誕生したのが「吹揚神社」です。
今治城廃城と吹揚神社の創建計画
明治6年(1873年)に廃城令が発布され、日本全国の多くの城が廃城となり取り壊されました。廃藩置県によって藩の役割がなくなったことで、城は軍事拠点としての必要性を失い、維持も困難になったためです。
実は、今治城は廃城令を待たずして、既に明治2年(1869年)10月に「当今時勢不用之品」(時代に合わない不要なもの)と見なされ、取り壊されていました。廃藩置県の流れの中で、今治藩が廃止され、藩としての統治機能が失われると、城もまた軍事拠点としての必要性を失い、維持が難しいものとなったのです。このため、時代に適さない施設とされ、解体が進められることになりました。
今治城内の建造物はほとんどが解体され、外堀や中堀も埋め立てられ、残されたのは内堀と本丸の石垣のみでした。城跡の土地は、旧藩主から旧家臣たちに分け与えられ、多くが更地となり、今治城はその役割を終えたのです。
4つの神社を一つに!
このような状況の中、今治城の本丸跡地を地域の新しい時代の象徴とし、また信仰の拠り所として再生するため、官許を得て新たな神社(吹揚神社)の建立が計画されました。
この神社の創建に際し、今治城下に存在していた4つの神社(神明宮・蔵敷八幡宮・厳島神社・夷子宮)が一つにまとめられる(合祀される)ことになりました。この4つの神社は、以下のようにそれぞれ地域の歴史や信仰に深い関わりを持っていました。
「神明宮(しんめいぐう)」は、旧神明町(現在の共栄町)にあり、地域の守護神として崇められてきました。古くから町民の暮らしを見守り、豊作や平和を祈願する神社として大切にされていました。
「蔵敷八幡宮(くらしきはちまんぐう)」は、今治城の城内に位置していましたが、城の建設に伴い、別の場所に移されていました。八幡宮は武神を祀る神社として、武家社会でも強い信仰を集めていた神社です。
「厳島神社(いつくしまじんじゃ)」は、蒼社川のほとりに鎮座していましたが、川の改修工事によって別の場所に移動しました。厳島神社は水の神様を祀り、川や海の守護として、漁業や水運に携わる人々から厚く信仰されていました。
「夷宮(夷子宮・えびすぐう)」は「蛭子神社(えびすじんじゃ)」とも呼ばれ、風草町にありました。この神社は商売繁盛や海上交通の安全を願う神社として、地元の商人や船乗りたちに篤く信仰されてきました。
明治5年「吹揚神社」誕生
そして明治5年(1872年)11月19日、今治城下に存在していた4つの神社をまとめた、新たな神社「吹揚神社」が創設されました。
神社名の「吹揚」は、今治城がかつて「吹揚城」と呼ばれていたことに由来しています。
今治城は、瀬戸内海に面した場所にあり、その周囲には「吹揚の浜」と呼ばれる砂丘地帯が広がっていました。「吹揚の浜」という名前は、「海からの風によって砂が吹き上げられてできた浜」に由来しており、地域の人々にとっては風光明媚な名所でもありました。
この地名にちなみ、今治城は「吹揚城」とも呼ばれるようになり、地域の象徴として親しまれました。その後、城が廃止され、旧本丸跡地に新たな神社が建設される際にも、「吹揚」の名前が受け継がれ、「吹揚神社」として創設されることになりました。
社有地が拡大
吹揚神社が旧本丸に建設されたことで、次第に地域住民の間から「台上全体を社有地にしよう」という声が上がり、多くの寄付金が集められました。この資金を元に旧家臣の一族が所有していた土地が買収され、吹揚神社の社領が境外にも広がることとなりました。
郷社から県社への昇格
吹揚神社は、創建(明治5年1872年)と同時にその社格が定められ、神社の分類の一つである「郷社」に列せられました。郷社は、府県社の下位に位置し、村社の上位にあたる神社です。このため、吹揚神社は地域の信仰の中心として重要な役割を果たすこととなりました。
さらに、明治15年(1882年)には吹揚神社の社格が昇格し、県から奉幣を受ける神社として「県社」となりました。県社は、官社や国幣社よりも下位ではあるものの、郷社よりも上位の社格であり、地域の中心的な信仰拠点としての地位を確立しました。
今治市を象徴する神社
明治42年(1909年)2月には、蔵敷に鎮座していた美保社(姫坂大神・貴布禰大神)が吹揚神社に合祀されました。さらに、大正14年(1925年)8月には、境内社として祀られていた松ノ本天満宮(主祭神:菅原道真)も合祀されることとなりました。
松ノ本天満宮は、もともと今治藩主の久松氏が所有していた別荘「松之本花園」に鎮座しており、藩の祈祷所である「光林寺(今治市・玉川地区)」が別当を務めていました。この松ノ本天満宮は、明治5年(1872年)に吹揚神社の境内に遷座され、神社の一部として新たな役割を果たすようになりました。
御祭神の菅原道真は久松家の遠祖にあたり、安霊神として祀られた初代藩主・久松定房とともに、地域の守護神として信仰を集めるようになりました。
さらに、今治城を築城した初代藩主「藤堂高虎」公も吹揚神社の配神として祀られるようになりました。
こうして、藤堂高虎、菅原道真、久松定房といった今治の歴史にゆかりの深い人物が祀られた吹揚神社は、単なる神社にとどまらず、今治の歴史と文化を象徴する信仰の拠点となりました。
桜の名所
大正3年(1914年)には、今治城の二の丸跡が公園(吹揚公園)として利用されることが決定され、整備が進められました。公園内には、山里の橋や石段が作られ、訪れる人々が快適に散策できるよう配慮されました。その際に桜が植えられ、現在のようなお花見スポットとなりました。
「戦火に消えた美」社殿の再生と焼失
昭和14年(1939年)には、台湾檜(たいわんひのき)を使用して社殿が新築されました。台湾檜は、大口径であり、大径材が必要な柱や梁として日本の神社仏閣で広く用いられている木材です。
特に、木目が通直で肌目が緻密、光沢があり、耐久性にも優れているため、多くの重要な建物に使われてきました。例えば、首里城や明治神宮の大鳥居、東大寺の大仏殿などもこの材を用いています。
高品質な台湾檜で新築された吹揚神社の社殿は、その美しさから地域の信仰の中心として多くの参拝者に親しまれる存在となりました。
しかし、昭和20年(1945年)の今治空襲によって、わずか数年で吹揚神社の美しい社殿は焼失してしまいました。
今治空襲からの復興
今治空襲から13年後の昭和33年(1958年)に、吹揚神社は戦災からの復興を果たしました。この復興により、神社は地域の人々に再び信仰の場としての役割を果たせるようになり、参拝者を迎え入れることができるようになりました。
昭和47年(1972年)には、吹揚神社の御鎮座百年祭を記念した事業で、今治城の歴史を反映した重厚な城郭式の神門や、境内末社がすべて新しく建て直されました。
今治城の再建
同じ時期には、今治城の再建に向けた運動も始まりました。昭和28年(1953年)10月9日、今治城の跡地が愛媛県の史跡に指定されたことで、地域の人々の間で再建への関心が高まり、「今治城の復元運動」が起こりました。昭和37年には期成同盟が結成され、再建に向けた組織的な活動が展開されましたが、当時は実現には至りませんでした。
しかし、その後の昭和54年(1979年)に市制60周年を迎えることとなった今治市では、その記念事業として今治城の再建を積極的に推進することを決定しました。この記念事業のもとで、今治城の再建計画が具体的に進められ、少しずつ城郭の姿が復元されていきました。
まず、昭和55年(1980年)には本丸の北隅に5層6階の天守が再建されました。この天守は築城者である藤堂高虎が建てたとされる層塔型を模しており、今治城の歴史を伝える象徴として蘇りました。
放火事件と再建
しかし、昭和55年(1980年)9月に吹揚神社は放火によって本殿や拝殿が全焼するという痛ましい事件に見舞われました。
この事件は地域社会に大きな衝撃を与えましたが、その直後、地域住民や神社を信仰する人々がすぐに立ち上がり、奉賛会を結成しました。そして、再建のための寄付や協力が全国から寄せられるようになりました。昭和58年(1983年)3月には、ついに新しい本殿が完成し、吹揚神社は再び地域の信仰を支える場として蘇りました。
昭和60年(1985年)には二の丸跡に今治城の御金櫓(おかねやぐら)が再建され、郷土美術館として内部が公開されました。さらに平成2年(1990年)には、山里櫓が復元され、武具や古美術品が展示される場として活用されるようになりました
平成19年(2007年)には、重要な出入口であった鉄御門(くろがねごもん)も再建され、枡形(ますがた)や多聞櫓(たもんやぐら)5棟の外観も復元され、城郭としての全体の姿が再現されました。こうして天守や櫓、門が順次再建され、雄大な城郭の姿がよみがえり、今治城と吹揚神社は今治市の歴史的シンボルとなりました。
吹揚神社の見所
吹揚神社の正面には、大きな御社殿があり、ここには天照御大神が祀られています。地域の人々にとって重要な信仰の場であり、さまざまな御祈祷や挙式がここで行われ、多くの参拝者が訪れます。
また、この神社には、今治城の過去の姿を知る貴重な資料である「今治城図」が残されています。これは絵師・沖冠岳によって描かれたもので、歴史の深みとロマンを感じることができる作品です。
吹揚神社の境内には、他にも多くの見どころがあります。
正面左手奥にある「吹揚稲荷神社」は、参道に美しい赤い鳥居が立ち並び、まるで鳥居のトンネルのような幻想的な光景が広がっています。このエリアは写真映えするスポットとしても知られ、多くの参拝者が撮影を楽しむ場所です。
右手奥にある「麁香神社(あらかじんじゃ)」は、建設業の神様を祀っており、地域の人々から厚く信仰されています。建設業に従事する人々や関連の企業が安全や繁栄を祈願に訪れる重要な神社です。
また、「土居神社」は古くから安産の神様として知られており、子宝や安産を祈願する多くの参拝者が訪れています。安産祈願のために古くから親しまれ、地元の人々の信仰を集めています。
境内には、「住吉神社」もあり、ここでは受験や就職、恋愛成就などのさまざまな願い事が絵馬に書かれて奉納されています。
さらに、境内には邪気を防ぐ狛犬や、白馬の像、神様の使いとして知られる狐の像も点在しており、これらは訪れる人々にとって散策しながら楽しめるスポットとなっています。特に狛犬は、吹揚神社が創建された際に他の神社から移されたもので、実際には吹揚神社自体よりも古い歴史を持っています。
このように、吹揚神社はその歴史と文化を感じながら心静かに参拝できる場所です。地元の人々にとっての精神的な支えであり、訪れる人々に安らぎを与えるこの神社は、四季折々の美しい風景とも調和しています。今治に来た時はぜひ一度訪れてみてください。