洪水とともに歩んだ今治の歴史と教訓
今治市の中心部を流れる蒼社川(そうじゃがわ)。
かつては「総社川(そうじゃがわ)」とも呼ばれ、平安時代からこの地の生活と農耕を支えてきた重要な水源でした。
しかし、この川は何度も氾濫を繰り返す“暴れ川”として、昭和の中頃まで地域の人々に恐れられていました。
氾濫を繰り返した蒼社川の旧流路
当時の蒼社川は、現在のように整備された直線的な流れではなく、玉川町から日高、片山、馬越を経て浅川方面へと大きく蛇行しながら海に注いでいました。
この蛇行した地形こそが、氾濫を招く最大の要因でした。
「曲がりくねった川は、水が流れにくい」
蛇行の多い川では、水はたびたび曲がり角を通るため、流れが直線の川に比べて遅くなりやすくなります。
そのため、上流から大量の雨水が流れ込むと、水の流れが追いつかず、川の水位は急激に上昇し、やがては堤防(川の土手)を越えて氾濫を引き起こしました。
「川が削れて土砂がたまる」
川が大きく曲がるたびに、水の流れはカーブの外側の岸に強くぶつかり、長い年月をかけてその岸を削っていきます。
そして削り取られた土砂は、流れの緩やかな内側へと運ばれ、次第にそこへ堆積していきました。
こうして川底の一部が浅くなったことで、水の通り道も狭くなり、大雨の際には水が行き場を失ってあふれ出し、氾濫を引き起こすようになったのです。
「削られた堤防が決壊」
さらに、水の勢いが何度も同じ場所に集中することで、堤防そのものが少しずつ削り取られていきました。
見た目には大きな変化がなくても、内部からじわじわと弱っていき、気づかぬうちに堤防の強度は失われていたのです。
そして、大雨や増水のたびに圧力がかかり続け、ついには決壊。
川の水は一気にあふれ出し、周囲の集落や田畑に甚大な被害をもたらしました。
恐怖の「人取川」
とくに梅雨や台風の季節になると、蛇行した川筋はあっという間に濁流と化し、たびたび堤防を越えて氾濫しました。
そのたびに、田畑は押し流され、家々は水に沈み、ときには人命さえも奪われる惨状が繰り返されたのです。
こうした被害の記憶は、地域に深い悲しみと恐怖を残し、やがて人々はこの川を「人を取る川」、「人取川(ひととりがわ)」と呼ぶようになりました。
古来の今治と治水の記憶
蒼社川は地域住民にとって恐ろしい存在となり、その災害を防ぐための治水対策が長年の課題となっていました。
今治の歴代藩主たちはこの川の改修に取り組んできましたが、蒼社川の上流が花崗岩の風化地帯であることから、洪水とともに大量の土砂が流れ込み、河床が年々高くなるため、大規模な洪水が繰り返されていました。
今回は1200年の時をかけた、今治の治水の歴史を振り返りたいと思います。
「弘仁6年」弘法大師による治水と泰山寺の創建
弘仁6年、弘法大師(空海)が今治の地を訪れた際、蒼社川は度重なる豪雨により頻繁に氾濫し、村人たちに大きな被害をもたらしていました。
特に梅雨の時期には急勾配の地形によって川の水が一気に流れ込み、川沿いの集落を水浸しにすることが多かったのです。弘法大師はこの状況に心を痛め、村人たちを指導して堤防を築き、川の流れを抑えるための工事を指揮しました。
さらに、弘法大師は仏教の秘法である「土砂加持」を行い、災害の鎮静を祈りました。
この儀式は、光明真言によって加持した土砂を用いて人々の安全や平和を祈願するものであり、古くから伝えられた祈祷です。
蒼社川の氾濫が鎮まるまで、弘法大師は何度も土砂加持を繰り返し、その最中に延命地蔵菩薩が現れ、治水祈願が成就したと伝えられています。
これをきっかけに、弘法大師は延命地蔵菩薩を本尊として泰山寺を創建し、泰山寺は、川の氾濫を鎮めた象徴として今も深く信仰され続けています。
しかし、蒼社川の氾濫はその後も繰り返されることになります。
「慶長7年」藤堂高虎と蒼社川の治水
慶長7年(1602年)、藤堂高虎が今治藩の初代藩主として着任し、今治城の築城に着手しました。
今治は、地理的に海に面し、蒼社川(当時は総社川)に隣接していたため、戦略的にも重要な土地でしたが、治水の観点では非常に課題の多い地域でもありました。
高虎は築城の名手として知られ、城の設計だけでなく、城下町全体の安全対策も考慮していました。
蒼社川の上流は、花崗岩が風化しやすい地帯であり、そのため土砂が大量に川へ流れ込み、川床が年々高くなっていく問題がありました。
この現象は、豪雨のたびに川の氾濫を引き起こし、洪水が頻発していたのです。
特に平野部に住む人々や、農業を営む村々にとって、蒼社川の氾濫は重大な脅威であり、これに対する対策は急務とされていました。
築城名人としても知られる藤堂高虎であれば、このような地理的なリスクを理解し、城下町と城を洪水から守るために、蒼社川周辺の改修にも意識を向けたと考えられます。
記録には、高虎が堤防の強化や川の流れの修正など、具体的な治水対策を行った明確な資料は残されていませんが、築城における防御的な設計や、水を使った「海城」の特徴から、自然災害への対策も同時に行っていたことは容易に予測できます。
また、城下町の設計には、堀や溝で洪水を防ぐ構造が取り入れられており、西端に竹藪を配置するなど、自然を利用した防御策も見られます。これらの対策が、今治城とその周辺地域を蒼社川の氾濫から守るための一環だったと考えられます。
高虎が築いた防御的な城と町の構造は、その後の藩主たちにも引き継がれ、江戸時代を通じて今治藩の治水対策の基盤となりました。
「寛永12年(1635年)」松平定房による治水事業の開始
寛永12年(1635年)、今治藩の初代藩主として今治城に入部した松平定房(まつだいら さだふさ・久松定房)は、濃尾平野の三川(木曽川、長良川、揖斐川)の治水で培った経験を活かし、今治の治水事業に取り組むことになりました。
当時の蒼社川は急勾配と花崗岩の風化土で覆われた山地から土砂が流れ込みやすく、頻繁に洪水が発生していました。
こうした状況に対処するため、松平定房は堤防の強化や川の流路の安定化を進めました。
現代のような重機がなかった時代、人力による作業は困難を極めましたが、松平定房の治水政策は今治地域に安定をもたらし、経済的な発展に寄与しました。
「享保7年」今治藩の危機と川ざらえの開始
享保7年(1722年)6月、蒼社川の堤防が大規模に決壊し、今治藩は深刻な危機に直面しました。
この時の洪水は今治城の三ノ丸の堀にまで達し、城下町全体に甚大な被害をもたらしたのです。
村々の田畑は水に浸かり、家屋やインフラは壊滅的な打撃を受け、地域住民の生活は脅かされました。
この災害を通じて、今治藩は蒼社川の治水対策が急務であることを痛感することとなり、住民にとっても洪水リスクの重大さが改めて浮き彫りになりました。
そして今治藩は新たな治水対策に乗り出します。
その中心となったのが大規模な「川ざらえ(宗門掘り・瀬掘り)」の実施でした。
享保9年(1724年)の4月から始まった川ざらえは、毎年春に3日間行われ、郡奉行や勘定奉行の厳しい監督のもとで進められました。
各村からは15歳から60歳までの男子が2人1組で動員され、指定された場所で川底に堆積した土砂を取り除く厳しい作業が行われました。
さらに元文元年(1736年)の4月には、地方から2,460人、町の中からも1,000人が動員され、堤防のさらなる強化と大規模な宗門掘が実施されました。
また、この宗門掘は寛延3年(1750年)の4月に頓田川でも実施され、今治地域全体の治水意識を高め、川の氾濫を防ぐための重要な対策として定着していきました。
「宝暦元年」河上安固が手掛けた大規模改修工事
4代藩主「松平定基(まつだいら さだもと・久松定基)」は、宝暦元年(1751年)に蒼社川の改修と付け替えを決断しました。
この工事は13年の歳月をかけて行われ、川の流路を直線化する大規模な事業でした。
工事を指揮したのは、勘定目付を務めていた河上安固(かわかみやすかた)です。
安固は土木工事に精通しており、特に蒼社川の治水問題に対して強い関心を持っていました。
当時の蒼社川は、現在とは異なり、玉川町から日高の片山、馬越を経て浅川方面に大きく曲がって海に注いでいました。
この曲がりくねった川筋が、洪水の主な原因とされていました。
安固は、鳥生にあった自宅から毎日のように現在の大須伎神社が鎮座する権現山へ登り、山上から蒼社川の流れを見下ろして観察を続けました。
そして考えを巡らせた結果、川筋を真っ直ぐに付け替えることで洪水を防ぐことができるという結論に達し、藩主に計画を提案しました。
しかし、この計画はあまりにも規模が大きく、当初は許可を得ることができませんでしたが、安固の情熱に心を動かされた藩主は、最終的に安固にすべての工事を任せる決断をしました。
こうして宝暦元年(1751年)に着工されたこの大規模な改修工事では、まず川筋に沿う農民たちを動員し、支流を廃止して川筋を直線化しました。
工事当初、農民たちは安固のやり方に反発しましたが、熱意に押されて最終的には協力するようになりました。
さらに、川の付け替えだけでは豪雨時に水が溢れる可能性があるため、堤防をさらに高くし、地盤を固めるために松を植えました。
また、宗門掘も引き続き毎年春に実施していきました。
しかし、工事が進められている最中の6月、蒼社川は再び決壊しました。
この再度の決壊により、計画は再検討されることとなり、安固はさらに改良を加えることを決意しました。
安固は洪水の被害を最小限に抑えるため、流路の変更と堤防の強化だけでなく、水門の設計も進め、従来の治水対策をさらに発展させたのです。
こうして13年に及ぶ改修工事を終え、蒼社川は現在のような直線的な川筋へと変わりました。
この徹底した治水対策の結果、蒼社川の氾濫は大幅に減少し、地域の安全が確保されました。
安固は蒼社川だけでなく、呑吐桶や鳥生高下浜の唐桶といった他の地域の土木工事にも携わり、その優れた技術を発揮しました。
その功績を称えるため、大祝屋敷跡(鳥生屋敷跡)の北側に「古土居家先祖累代墓」と記された、安固の墓が設けられました。
その左側には、今治市教育委員会や鳥生史談会、鳥生老人会によって建てられた「史跡河上安固之墓」という木碑が立てられ、右側には「河上安固墓所」という石碑も建立されました。
しかし、残念ながらそこまでしても完全に氾濫を防ぐことができたわけではありませんでした。
明治時代に入っても、蒼社川やその支流の堤防が度々決壊し、大規模な洪水災害が発生してしまったのです。
明治の今治における洪水対策と森の再生
明治元年(1868年)の明治維新によって、江戸幕府の支配体制が崩壊し、新政府が成立しました。
これにより、各地で数百年にわたって続いてきた藩による地方統治(藩政)が終わりを迎えます。
明治4年(1871年)には「廃藩置県」が実施され、全国の藩はすべて廃止されて、中央政府が任命する県令(県知事)によって直接統治される体制に移行しました。
この政策によって、藩がそれぞれに行っていた年貢徴収・治水工事・教育・軍備・民政などの仕事は、国の制度のもとで再編されることになります。
今治を含む地方では、藩政のもとで行われていた川ざらえや堤防修築などの治水事業が一時的に途絶しました。
それまで、これらは藩の財政や人夫動員によって実施されていましたが、廃藩後は統一的な指示や資金がなくなり、地域の共同体が独自に行わざるを得なくなったのです。
さらに、明治初期は中央政府もまだ地方行政を整備しきれておらず、河川管理や山林保全の制度が十分でなかったため、伐採や山火事による山の荒廃が進行し、土砂の流入量が増加しました。
こうして、自然環境の悪化と人為的管理の後退が重なり、今治を含む多くの地域で洪水や土砂流入が再び頻発するようになったのです。
「明治6年」頓田川堤防の決壊
明治6年(1873年)8月、豪雨が続いた結果、川の水位が急激に上昇し、その圧力に耐えきれず堤防が決壊しました。
氾濫によって広範囲が浸水し、農地は甚大な被害を受け、さらに多くの家屋が流失・損壊するなど、被害は極めて深刻なものとなりました。
「明治26年」蒼社川の大洪水と復興
さらに明治26年(1893年)10月11日から降り始めた豪雨は、13日に台風の接近に伴って暴風雨となり、蒼社川流域を襲いました。
連日の豪雨と暴風により、蒼社川の堤防は耐え切れず、10月13日に決壊し、大規模な洪水が発生しました。
この災害は、鈍川村を中心に甚大な被害をもたらし、家屋が倒壊し、田畑が流失しました。
さらに10月17日には、蒼社川の堤防がさらに14箇所で決壊し、死者や行方不明者が多数にのぼる大災害となりました。
「明治34年(1901年)」台風による甚大な被害
明治34年(1901年)6月に発生した台風は、蒼社川流域に甚大な被害をもたらしました。
6月6日から8日にかけて続いた豪雨により、蒼社川の堤防が複数箇所で決壊し、流域の農地や集落が大きな被害を受けました。
特に丸和村と龍岡村では、堤防が大規模に崩壊し、龍岡村では180間余(約327メートル)にわたる堤防が決壊しました。この決壊によって、多くの水田が流失し、橋梁も2か所で流失するなど、地域のインフラが壊滅的な打撃を受けました。
この災害は、蒼社川流域の住民にとって再び治水対策の必要性を痛感させるものでした。
度重なる洪水や堤防の決壊は、流域の農業生産に大きな影響を与え、地域経済にとっても深刻な問題となりました。
明治期の政策と地域社会
このような洪水は全国各地で発生しており、この事態を重く見た明治政府は、各地の山林荒廃を防ぎ、河川の氾濫を抑えるために、国家的な治山・治水政策の整備に乗り出しました。
明治30年(1897年)には「森林法」を制定し、森林の保護と水源涵養(かんよう)を国の責務として位置づけました。
この法律は、日本の近代森林行政の出発点であり、「治水には治山が不可欠である」という理念を全国に広めるものでした。
さらに政府は、森林の乱伐を防ぐとともに、荒廃地の復旧や水害の軽減を目的として、伐採規制や保安林の指定、植林の奨励などを体系的に進めました。
これと並行して、山地災害の防止を目的とした太政官布告が出され、各地で砂防工事の試験的導入が始まりました。
こうした国家主導の取り組みは、明治期の公共事業の中でも特に重要な位置を占め、後の国土保全政策の礎となります。
蒼社川水系における近代砂防工事のはじまり
蒼社川水系でもこの動きに呼応し、明治39年(1906年)から翌40年にかけて、県下では初めてとなる近代的な砂防工事が実施されました。
工事内容は、谷止め石積、山腹石積、積苗、苗木植栽などの山腹工事が中心であり、崩壊地を安定させ、雨水の流出を緩やかにすることを目的としていました。
これらの工事は、当時の愛媛県内では最初期の取り組みであり、県の砂防行政の先駆けといえるものでした。
一方で、こうした国や県の政策的支援を背景に、地域社会でも治山治水への意識が高まりを見せました。
もともと藩政下では、村民が共有の野山に入会して薪炭や肥料草を採取する権利を持っていましたが、明治維新後にその権利の存続が危ぶまれると、明治12年には寺町の雄寺に約八百人もの郡民が集い、県令岩村高俊に入会権の存続を陳情しました。
その結果、明治23年(1890年)10月1日付でこれらの山々は正式に共有山として認められ、翌24年(1891年)9月5日には玉井勝太を管理者とする共有山組合が設立されました。
この共有山組合を中心に、地域住民は荒廃した山地の再生に取り組み、植林と森林整備を進めていきました。
「森が川を守る」郷土を築いた偉人・曽我部右吉
その中心人物として大きな役割を果たしたのが、越智郡九和村与和木(現・今治市玉川町)出身の曽我部右吉(そがべうきち)です。
元治元年(1864年)2月20日、庄屋・武田弥平太の三男として生まれ、17歳のとき桜井村の叔父・曽我部甚太郎の養嗣子となり、22歳で曽我部家の長女テイと結婚しました。
若いころから地域の暮らしや政治に関心が深く、郷土の将来を真剣に考える人物でした。
明治27年(1894年)、31歳で桜井村長に就任し、その後も村政から町政への移行を経て初代・桜井町長に就任し、79歳で町長を辞任するまで、教育・産業・治山事業などの基盤整備を幅広く推進し、桜井地区の発展に尽くしました。
荒廃した山をよみがえらせる
曽我部右吉は、たび重なる河川の氾濫を見て、その原因が上流の荒れた山にあることを強く感じました。
川の流れを安定させるためには、まず山に木を植え、雨を蓄えられるようにすることが何より大切だと考えたのです。
しかし、荒廃した山々は官有地であり、民間の手では勝手に植林することができませんでした。
そこで右吉は、官有山を民有地として払い下げてもらうため、県庁や関係機関へ何度も足を運び、粘り強く訴えを重ねました。
その熱意と誠実な働きかけは次第に人々の心を動かし、明治24年(1891年)、ついに越智郡日高村ほか13か町村による共有山組合の設立が認められました。
これにより、約二千五百ヘクタール(約25,000,000平方メートル)におよぶ荒廃山林が無償で払い下げられ、地域の手によって山を再生する道が開かれたのです。
この出来事こそが、今治地域の近代的な治山事業の第一歩であり、曽我部右吉の長い挑戦の幕開けとなりました。
組合長としての造林事業と技術導入
明治35年(1902年)、曽我部右吉は共有山組合の初代および五代目の組合長に就任し、地域の山林再生に向けて本格的な造林事業を推進しました。
右吉は就任後、和歌山県や奈良県吉野地方など、当時国内で最も進んだ林業地を訪ね、育苗や造林、経営の技術を学びました。
吉野の林業は計画的な伐採と植栽を繰り返す「循環林業」として知られ、その技術や組織運営は全国の模範となっていました。
右吉はこうした知見を地元に導入し、越智郡の自然条件に適した造林体制を整えました。
特に、育苗法の改良に力を注ぎ、和歌山で学んだ方法を基に苗圃(びょうほ)を整備して、苗木の品質を高めました。
また、山の傾斜や地質に応じてマツ・スギ・ヒノキなどの樹種を選定し、計画的な植栽を行いました。
これにより、単なる植林ではなく、伐採から再造林までを見据えた持続的な森林経営が実現したのです。
共有山は三つの形態に区分され、それぞれの目的に応じて管理体制が整えられました。
- 直営林(組合直轄):
共有山組合が直接造林を行い、全体の森林計画と管理を担いました。 - 部分林(町村分担):
自治会・青年団・消防団など地域の団体が分担して植林や手入れを行いました。
これにより、地域住民が主体的に治山事業に関わる仕組みが整いました。 - 学校林(教育用地):
児童や生徒が植林に参加し、育てた木材を校舎の建設や修繕に活用しました。
また、得られた利益を教育資金として地域に還元するなど、学びと実践を結びつけた活動が展開されました。
このように、地域の総力を結集した造林事業が進められたことで、共有山は広大な森林としてよみがえりました。
その成果は流域の保水力向上や土砂流出の減少となって現れ、洪水被害を大きく軽減しました。
県政への提言と晩年の顕彰
曽我部右吉は、現場での造林事業にとどまらず、県政の場でもその手腕を発揮しました。
明治31年(1898年)に県会議員に選出されると、治山治水の重要性を訴え、県に山林技師を置くことを提案しました。
これが実現し、県庁に林務課が新設されました。
さらに、植林事業を支援するための「山林槙樹費補助規程」が制定され、植林者への助成制度が整いました。
これらの施策は、愛媛県を全国有数の造林県へと導く基盤となり、県の林務行政の確立に大きく貢献しました。
右吉は「県林務行政の生みの親」とも称され、地域と県を結ぶ調整役として重要な役割を果たしました。
また、右吉の功績は生前から高く評価され、多くの表彰と顕彰を受けました。
昭和31年(1956年)8月4日、92歳で生涯を閉じましたが、その偉業をたたえる頌徳碑や胸像は玉川町法界寺や綱敷天満神社など各地に建立され、今治の治山治水の礎を築いた先人として今も人々に敬愛され続けています。
- 大正5年(1916年) 共有山組合より表彰状授与
- 昭和13年(1938年) 同組合より感謝状
- 昭和18年(1943年) 九和村法界寺に頌徳碑建立
- 昭和19年(1944年) 古谷、綱敷天満神社に頌徳碑建立
- 昭和23年(1948年) 高松宮殿下より表彰記念品の御下賜
- 昭和24年(1949年) 愛媛県治山治水協会長・農林大臣より表彰
- 昭和30年(1955年) 県人として初の黄綬褒章受章

戦後の伐採と山の再生
その後も地域の人々による山の保全と治水への努力は続けられました。
しかし、第二次世界大戦後、全国的な木材需要の高まりを受け、今治地域でも共有山のスギやヒノキが大量に伐採されました。
戦後復興や住宅建設の資材としての需要が急増したため、山林の手入れよりも伐採が優先され、かつて曽我部右吉らが築いた森林も次第に裸地化していきました。
その結果、山の保水力が低下し、土砂の流出が増加。昭和47年(1972年)と昭和51年(1976年)には連続して集中豪雨が発生し、蒼社川流域の集落や農地が大きな被害を受けました。
土石流は田畑を埋め、道路や橋を流し、山間の村々を孤立させるなど、明治期以前に見られたような被害が再び繰り返されました。
この惨状を目の当たりにし、共有山組合では再び山の再生へと立ち返りました。
林野庁が推進する「複層林構想(植林時期をずらして常に森がある状態を保つ方式)」を採用し、伐採と植林の時期を調整して、若木と成木が共存する森づくりを進めました。
この仕組みにより、常に木の根が地中で土を押さえ、雨水を蓄える力を保つことができます。
手間と時間を要する取り組みでしたが、山の生命を取り戻すためには欠かせない方法でした。
こうして山々は少しずつ緑を取り戻し、流域の水量も安定していきました。
そして、昭和53年(1978年)の玉川ダムの完成によって、蒼社川流域はようやく現在のような安定した姿になります。
「玉川ダム」蒼社川を治め、地域を潤す水の要
玉川ダムは、今治市玉川町の自然豊かな山間に位置する多目的ダムです。
その静かな湖面は「玉川湖」と呼ばれ、現在ではボート競技や釣り、桜や紅葉の名所としても知られています。
四季折々に変化する湖畔の風景は多くの人々を魅了し、今治市を代表する観光スポットの一つとなっています。
蒼社川流域と戦後の変化
戦後、今治市は空襲によって中心部が焼け野原となりましたが、日本全体が高度経済成長の波に乗る中で、次第に街は活気を取り戻していきました。
繊維・造船・化学などの産業が発展し、なかでも全国的に名を知られる今治タオル産業が大きく成長しました。
織布や晒し、染色などの各工程には大量の水が必要であり、清らかな水が製品の品質を左右しました。
そのため、蒼社川の水は「今治の命の水」として地域産業を支える重要な存在となりました。
人口も増加し、都市化が進む中で、こうした産業の成長と生活の拡大に伴い、農業・工業・生活用水の需要は急激に増大していきました。
特に蒼社川沿岸の約1,300ヘクタールの水田では、灌漑用水の不足が慢性化し、昭和9年(1934年)の大旱魃以降も地下水の枯渇や河川水の減少が深刻な課題となっていました。
こうした状況の中、昭和39年(1964年)に今治市が新産業都市に指定され、水需要はさらに増大しました。
これに対応するため、県と今治市は蒼社川開発計画によって抜本的な治水・利水対策に着手します。
この計画は、度重なる洪水被害の軽減と水資源の安定供給を目的としたものであり、その中核事業として玉川ダムの建設が進められました。
蒼社川開発計画の推進により、農業・工業・市民生活を支える水資源の確保が図られるとともに、長年地域を悩ませてきた洪水の根本的な防止が目指されることとなったのです。
災害を越えて築かれた玉川ダム
昭和45年(1970年)、県と今治市によって玉川ダムの本格的な建設工事が始まりました。
しかし、その途上でも自然災害は相次ぎ、計画の厳しさを痛感させるものでした。
昭和47年(1972年)9月8日、今治市は集中豪雨に見舞われ、蒼社川をはじめ浅川、龍登川が氾濫しました。
この豪雨災害では、重軽傷者8人、家屋の全半壊14戸、床上浸水972戸、床下浸水5,496戸、田畑流失39ヘクタール、崖崩れ586箇所に及ぶ甚大な被害が発生しました。
特に流域の住民にとっては、山からの土砂流出と河川氾濫による被害の深刻さを再認識する出来事となりました。
この災害により、大西町には災害救助法が適用され、抜本的な治水対策の必要性がいっそう強く求められました。
そうした中でも工事は着実に進み、昭和53年(1978年)、ついに洪水調節・農業用水・上水道用水・工業用水という四つの機能を持つ多目的ダム「玉川ダム」が完成しました。
玉川ダム完成と蒼社川の洪水リスク
玉川ダムの完成以降、蒼社川流域では洪水リスクが大幅に軽減され、長年地域を悩ませてきた氾濫被害はほとんど見られなくなりました。
決壊寸前まで増水することはあっても、堤防の決壊には至っておらず(2024年8月現在)、治水事業の成果が確実に表れています。
しかし、その安定の裏で、新たな課題も生まれています。
近年では、気候変動による極端な気象現象の増加が顕著であり、今治市でも豪雨や台風による被害が再び問題となっています。
気候変動と豪雨災害の増加
2018年(平成30年)の西日本豪雨では、今治市でも各地で土砂崩れや浸水被害が発生しました。
玉川ダムの放流が行われた際には、上流域では大量の流木が発生し、ダム湖の水質や周辺環境にも影響を及ぼしました。
この出来事は、「ダムがあるから安全」とは言い切れない現実を改めて突きつけたのです。
また、気温上昇による集中豪雨の頻発は、ダムの貯水計画や放流管理にも新たな課題をもたらしています。
現在では、西日本豪雨の教訓を踏まえ、令和3年(2021年)から事前放流の運用が導入されるなど、気象変動に対応した柔軟な治水管理が進められています。
放棄林・耕作放棄地の増加と新たなリスク
流域の山間部では林業や農業の担い手不足が深刻化し、放棄林や耕作放棄地の増加が進んでいます。
林業の採算性が低下したことで、伐採や間伐が行われない「放置林」が増え、倒木や根の弱体化によって土砂災害のリスクが高まっています。
また、農地の減少により、水田が本来持っていた「天然の貯水池」としての役割も失われつつあります。
かつては森林と水田が一体となって保水機能を果たしていましたが、現在では雨水の流出速度が速まり、局地的な氾濫を引き起こす危険が増しているのです。
土砂堆積と川ざらいの現状
土砂の堆積も深刻な課題のひとつです。
玉川ダム完成から数十年が経過し、上流の山地から流れ込む土砂や流木が年々ダム湖の底に溜まりつつあります。
特に、放置林の増加や豪雨による斜面崩壊が影響し、かつてに比べて堆砂の速度が早まっているのが現状です。
こうした堆積物はダムの有効貯水量を圧迫し、治水機能の低下を引き起こす要因となります。
現在では、行政が業者に委託して行う機械浚渫(きかいしゅんせつ)が主流となっています。
技術の進歩と機械化によって作業の効率や安全性は飛躍的に向上しましたが、それでもなお、増え続ける土砂の量に追いついていないのが実情です。
蒼社川の下流では、県による定期的な河床掘削工事が行われていますが、上流の玉川ダム湖では依然として堆砂の蓄積が進行しており、貯水容量の減少が懸念されています。
今後の課題と地域の備え
このため、今後は上流域の森林整備・砂防工事・流木対策を含めた流域全体の土砂管理が重要になります。
これからの蒼社川流域では、ダムや堤防だけに頼らず、森林・農地・住宅地・河川を一体的に管理し、地域全体で水害に強い環境をつくる「流域治水」が求められています。
地域住民もまた、防災意識を持ち続けることが不可欠です。
豪雨時には早めの避難行動をとり、日頃から避難経路の確認や防災用品の備蓄を怠らないことが大切です。
過去の経験と先人たちの努力を教訓に、今治の人々は今もなお、自然と共に生きる道を模索し続けています。
そして今、気候変動の進行により、豪雨の発生頻度は年々高まっています。
愛媛県内では1時間あたり50ミリを超える「非常に激しい雨」の発生件数が、1970年代に比べて約1.5倍に増加しており、短時間で大量の雨が降る傾向が強まっています。
気候変動の進行により、いつ災害が発生してもおかしくない「災害の時代」に、私たちは生きているのです。
しかし、災害は防げなくても、過去の教訓を忘れず、地域が一つとなって備えることによって被害を減らすことはできます。
過去の経験を教訓に、今後も災害に備え、地域一丸となって安全を守りましょう。