今治に受け継がれる田坂槍之助の史跡と伝承
各地の武将たちが争い、陸でも海でも絶えず戦が起こっていた戦国時代。
瀬戸内海では、複雑な潮流と多くの航路が交わるこの海域を舞台に、独自の力を発揮した水軍たちが活躍していました。
それぞれが島々を拠点にし、海を自在に操りながら勢力を伸ばしていったのです。
その代表的な存在が、宣教師ルイス・フロイスに「日本最大の海賊」とも評された村上水軍です。
そして、この村上水軍の中に、ひときわ武勇で名を馳せた武士がいました。
それが「田坂槍之助（たさかやりのすけ）」です。
瀬戸内海に覇を唱えた「海の武士団」村上水軍
村上水軍は、瀬戸内海を舞台に勢力を誇った「能島（のしま）」「因島（いんのしま）」「来島（くるしま）」の三家、すなわち能島村上氏・因島村上氏・来島村上氏からなる武士団で、三島村上氏とも呼ばれています。
その勢力は伊予（現在の愛媛県）、備後（広島県東部）、安芸（広島県西部）の沿岸地域に及び、海上交通の管理、交易船の護衛、通行料の徴収などを通じて、海上に独自の秩序と統治体制を築いていました。
村上海賊の名でも知られていますが、単なる略奪を目的とした海賊とは異なり、戦国時代においては戦術に長けた組織だった水軍として、その勇名は広く瀬戸内海一帯に知られていました。
まさに「海の武士団」と呼ぶにふさわしい存在だったのです。
来島村上氏と河野氏の関係
潮流の激しい瀬戸内海での航行技術に長け、戦術的にも優れていた村上水軍は、各地の戦国大名と連携しながら、時には自立した勢力として活動することもありました。
形式的には伊予国の守護・河野氏の重臣とされていましたが、必ずしも完全な従属関係にあったわけではなく、独自の判断で行動することも少なくありませんでした。
一方、来島を拠点とした来島村上氏は、河野氏と縁戚関係を結び、因島村上氏や能島村上氏に比べても格段に深い結びつきを維持していました。
なかでも来島家を代表する村上通康（来島通康）は、河野氏第26代当主・河野通直の娘との婚姻によって、両家は深い血縁関係で結ばれました。
天文11年（1542年）、河野氏の内部で家督争いが発生した「天文の内訌（伊予の乱）」において、村上通康は義父である河野通直を全面的に支えました。
この内紛は伊予一国を揺るがす大規模な争いとなりましたが、通康は通直を自身の来島城に迎え入れて保護し、最後までその身を守り抜きました。
その信頼の証として、来島村上氏は河野氏の家紋である「折敷に三文字」の使用を特別に許されていました。
「折敷に三文字」は、本来河野氏一門のみが用いることを許された格式高い紋であり、その使用が許可されたことは、来島村上氏が河野氏の重臣として極めて厚い信任を受けていたことを示しています。
来島を拠点にした来島村上氏
来島村上氏は、来島を拠点に、海だけでなく陸地にまで大きな影響力を及ぼし、瀬戸内海一帯の交通や防衛、通商を掌握していたことで知られています。
その来島は、今治市波止浜湾に浮かぶ周囲およそ850メートルの小さな島で、美しい海と豊かな自然に恵まれ、古くから瀬戸内海の海上交通の要衝として重要な役割を果たしてきました。
周辺海域・来島海峡は鳴門海峡・関門海峡と並ぶ日本三大急潮流の一つに数えられるほど、潮の流れが激しく古くから「海の難所」として恐れられる場所でもありました。
最速で時速10キロメートル（およそ5ノット）を超える潮流は、船を瞬く間に岩礁へと押し流し、操船を誤れば命取りとなるほどの力を持っていました。
それだけではなく、この潮流は一日に四度も流れの方向を変え、その特性を知らなければまともに航行することすらできませんでした。
さらに、この潮流が生み出す渦潮は、昔の船乗りたちにとっては現代のような動力船や航行技術がない時代、まさに死を意味するものでした。
帆船や櫓船では渦潮に抗う力などなく、ひとたび渦の力に引き込まれれば、船はあっという間に翻弄され、転覆し、岩礁に叩きつけられ、命もろとも海に呑まれてしまったのです。
来島海峡は、こうした渦潮の恐怖によって「海の難所」として古くから船乗りに恐れられたのでした。
一方で、この潮の流れを熟知し、自在に乗りこなすことさえできれば、この海域では無類の強さを手に入れることができたのです。
その一人が来島村上氏でした。
十五世紀頃、来島村上氏はこの島に自身の本拠として来島城を築き、島全体を要塞化しました。
周囲を取り巻く激流は天然の防壁ともいえるもので、潮の流れを熟知した来島水軍にとって、来島城はまさに難攻不落の拠点となり、後に河野通直を保護するうえでも重要な役割を果たしました。
この城を拠点とした来島村上氏は、海を自由自在に駆け抜ける単なる海賊ではなく、瀬戸内海の交通を管理し、時には船舶の護衛を行う「海の武士団」として活動しました。
船舶から通行料（船役）を徴収する代わりに、敵対勢力や無法者の海賊たちから船を守り、河野氏とともに伊予国における瀬戸内海の秩序維持に重要な役割を果たしていたのです。
来島村上家きっての名槍・田坂槍之助
来島城主・村上通康の父である村上康吉には、田坂貞縁という家臣がいました。
貞縁は来島村上家中の中でも特に武芸に秀で、とくに槍の扱いにおいては群を抜いていました。
その実力は来島村上家中でも随一と評され、主君である村上康吉から直々に「槍之助（鑓之助）」という名前を与えられるほどの武勇を誇っていました。
戦国時代の主役は「刀」ではなく「槍」
武士といえば「刀」のイメージがありますが、実際の戦国時代の合戦で最も多く使われ、最も多くの戦死者を生んだ武器は刀ではなく槍（鑓）でした。
刀は主に組み合いになった際や乱戦の最中に用いられることが多く、主力武器ではありませんでした。
戦場では数百、数千の兵が密集してぶつかり合うことが多かったため、距離を取りながら突き打てる槍の方がはるかに理にかなっていたのです。
戦国時代の槍は三〜六メートルもの長さを持ち、集団で構えて前進すれば、敵の突撃を受け止め、逆に味方の進撃を押し出す力を発揮しました。
この長柄槍を持った歩兵たちが横隊を組んで前へ突き進むと、前面には無数の槍先が林立し、まるで鉄の壁のようになって敵兵を寄せつけませんでした。
長槍によるこの強固な隊列は、合戦における攻防の中心であり、戦国時代の軍事を支える要でした。
足軽はこの槍隊列の中核を担い、長槍を構えながら密集して前進する重要な役割を果たしました。
隊列の維持は容易ではなく、重い槍を構え続けるには強靭な体力と訓練が求められましたが、槍隊列が崩れれば味方は一気に押し潰されてしまうため、足軽の働きは戦場の命運を左右しました。
一方、武将や騎馬兵が扱う槍は歩兵の槍とは長さや重さが異なり、馬の速度と合わせて一撃で敵を突き崩すための強力な武器として使われました。
馬上から繰り出される槍の突撃は、敵陣の隙を突く破壊力に優れ、戦局を大きく動かしたといわれています。
「一番槍」 武士が憧れた槍の称号
このように戦国時代の戦場で極めて大きな役割を果たした槍は、武功を称える際の称号としても頻繁に用いられました。
とくに知られているのが「一番槍」です。
「一番槍」とは、合戦の始まりに味方の中で最初に敵陣へ突入し、最初の戦果を挙げた者に与えられる称号です。
敵が構える槍衾（やりぶすま）や鉄砲隊の一斉射撃を正面から受ける位置に真っ先に飛び込むという行為は、生半可な武勇では到底務まりませんでした。
そのため一番槍を挙げることは、命を賭して道を切り開く勇者にのみ許された最高の名誉とされました。
一番槍を得た武士は、戦後の軍功評価で必ず名が挙げられ、主君からの信頼と地位を大きく高めました。
戦国時代は実力が直接的に身分や待遇に反映された時代であるため、この称号を手にすることは将来の出世にもつながる大きな転機となりました。
似た言葉に「先駆け」というものがありますが、これは部隊全体が隊列を組んで敵陣へ突入することを指す言葉です。
それに対して「一番槍」は、個人が最初に戦果を挙げた際に与えられる称号です。
武勇を示す「槍」の異名
歴史に名を残す戦国武将の中には、槍の名を冠して呼ばれた人物も数多くいます。これは、槍を用いた武功が際立ち、家中でも屈指の武勇を誇る「武辺者（ぶへんもの）」として高く評価されていた証です。
戦国時代の主力武器である槍にまつわる異名を与えられることは、その実力と勇猛さが誰からも認められた武士にのみ許された最高の名誉でした。
- 「槍の又左」前田利家
織田信長の重臣・前田利家は、通称の又左衛門から「槍の又左」と称されました。若い頃から常に織田軍の先陣に立ち、大柄な槍を振って敵陣を真っ先に切り開く姿は、多くの兵を奮い立たせたと伝えられています。その豪胆な槍働きは信長からも高く評価され、のちの加賀百万石へと至る出世の原動力となりました。 - 「黒田家随一の剛勇の士」母里太兵衛
黒田家の母里太兵衛は、五メートルを超える長槍を自在に操った猛将として知られています。重く扱いの難しい長大な槍で敵兵を連続して突き伏せたとされ、その武勇は黒田家中随一と評されました。その活躍は黒田官兵衛を通じて豊臣秀吉の耳にまで届き、太兵衛の名声をさらに高めることとなりました。
「賤ヶ岳の七本槍」今治にもゆかりの深い戦国の武人
そして、豊臣秀吉の天下取りを支えた「賤ヶ岳の七本槍」。
加藤清正・福島正則・加藤嘉明・脇坂安治・片桐且元・平野長泰・糟屋武則の若武者七名は、この戦で誰よりも槍働きが際立ち、名実ともに武勇の代名詞となりました。
のちに大名へと成長した者も多く、槍の名声がそのまま出世に直結した象徴的な例でもあります。
この七人の中には、愛媛に深い関わりをもつ人物も含まれます。
加藤嘉明は猛将として知られ、その槍働きによって秀吉の信任を得ました。関ヶ原後には伊予松山藩の初代藩主となり、堅牢な松山城を築いた人物として現在も語り継がれています。
そしてもう一人、特に今治との結びつきが強いのが福島正則です。
四国攻めによって河野氏が滅亡すると、伊予国の統治はまず秀吉の腹心・小早川隆景に委ねられました。
隆景は湯築城（現・松山市）に入り、四国平定後の伊予を安定させるための政務を担いました。
しかし天正15年（1587年）、隆景は筑前・筑後（現在の福岡県）へ転封となり、伊予国は新たな領主を迎えることになります。
その後任として任じられたのが、福島正則した。
正則はまず湯築城へ入城しましたが、湯築城は中世的で近世の軍政や城下町形成には不向きでした。
そのため正則は、天正16年（1588年）に本拠を湯築から国分山城へ移し、この地を拠点として伊予国の統治を行いました。
今治の刻まれた田坂槍之助の最期の戦い
こうした当時の時代背景を踏まえると、田坂貞縁が来島村上家中でも「槍之助」という名を許されたことがどれほどの名誉であったかがわかります。
そして「槍之助」の名は、今治市桜井の地を舞台に、壮烈な戦いとともに歴史に刻まれていきます。
一隻の船の無許可通航
ある日、瀬戸内海の静けさを切り裂くように、巨大な帆を張った船が、来島村上氏の統治する海域「来島瀬戸」へと姿を現しました。
その船は、帆だけで十反――畳六十枚を超えるほどの大帆を高く掲げ、海風を一身に受けて大きくふくらませ、潮を蹴りながら一直線に来島海峡へと進みました。
その船には、芸州（現在の広島県）の佐伯氏の家臣二十数名が乗り込んでおり、海域を警戒していた来島村上氏の番衆（ばんしゅう）たちは、従来の慣習どおり、通行の安全と海上秩序を守るために「帆別銭（通行料）」の支払いを求めました。
しかし、その船は帆別銭を納めようとせず、強引に通り抜けようとしたのです。
これは、地域の海上秩序を乱すだけでなく、来島村上氏の権威そのものを踏みにじる行為でした。
多勢に無勢、一人で挑む槍之助
この報せを受けたのが、来島城主・村上康吉の家臣、田坂槍之助でした。
槍之助はすぐさま小舟に飛び乗ると、荒々しい潮を切り裂きながら一直線にその船を追いました。
潮流が渦を巻く来島海峡をものともせず、まるで海そのものを味方につけたかのように突き進み、ついにはその船へ追いつきました。
槍之助は船上の佐伯家臣たちに向かって鋭く声を放ちました。
「帆別銭を出して行け。天下の法をないがしろにする振る舞い、断じて許すわけにはいかぬ！」
しかし、佐伯氏の家臣たちは、一人で追ってきた槍之助の姿を見ると、二十名を超える自分たちの人数を鼻にかけ、嘲笑しました。
「この広い海を通るのに関所とは片腹痛いわ。帆別銭がほしければ、どこまでもついてくるがよい」
その嘲りの言葉は、主君・村上家を侮辱するも同然でした。
槍之助は、ついに怒りを抑えきれなくなりました。
「問答無用！ これ以上の無礼は許すわけにはいかぬ！」
そう叫ぶやいなや、槍之助はひとり槍を手に敵船へと飛び移りました。
こうして槍之助は、圧倒的な人数差の中、しかも四方を囲まれた不利な海上で、主君の名誉と瀬戸内の秩序を守るため、たった一人で戦いに身を投じました。
槍之助が魅せた伝説的な武勇と壮絶な最期
槍之助は揺れる甲板の上で槍を自在に操り、一撃目で一人、続けてもう一人を突き伏せました。
海上戦に不慣れな佐伯家臣たちは、足場の悪さに翻弄され、槍之助の動きにまったく対応できず、混乱のまま後退を余儀なくされました。
戦いの最中、潮の流れは容赦なく船体を押し流し、船は桜井沖へと漂い、志島ヶ原の沖合を経て旧桜井港である江口（えのくち）浜へと近づいていきました。
その頃にはすでに八人が倒れ、六人が深手を負い、二十名を超える兵のうち半数以上が槍之助ただ一人の手によって戦闘不能となっていました。
敵船の上には血の跡と呻き声が残るばかりで、槍之助の圧倒的な武勇に恐れおののく声が広がっていました。
恐怖に駆られた佐伯家臣たちは、このままでは全滅すると悟り、「陸で勝負をしてほしい」と両手を合わせて必死に懇願しました。
多勢でありながら、たった一人を相手に敗北寸前となり、命乞いに等しい懇願を口にする姿は、もはや武士としての威厳も誇りも感じられないものでした。
槍之助は義理人情に厚く、この願いを聞き入れ、江口の砂浜で改めて決着をつけることを承知しました。
しかし、陸上でも槍之助の猛攻は止まりませんでした。
七、八人に囲まれながらも、槍之助は瞬く間に五、六人を突き伏せ、さらに数名に傷を負わせる奮戦を見せました。
砂浜に響く叫び声と、槍が砂を払う鋭い音は、周囲にいた者の胸を震わせるほど激しいものでした。
ただ、圧倒的な人数差と海上戦から続く疲労には抗えず、槍之助の身体はついに限界を迎えました。
血に濡れた砂の上で深手を負い、立ち続ける力を失った槍之助は、最後は力尽き、打たれて首を取られてしまいました。
それでも、生き残った佐伯家臣はわずか五人であり、そのうち無傷だったのはただ一人だけだったといわれています。
江口の浜で繰り広げられたこの死闘は、「槍」という名を与えられた武士にふさわしい壮絶な武勇であり、来島村上家中における槍之助の名声を決定的なものとした戦いでした。
武家の誇りを汚した佐伯家臣の運命
江口の浜での死闘を終え、かろうじて生き残った佐伯氏の家臣たちは、討ち取った槍之助の首を「戦功」として塩漬けにし、急ぎ芸州へと持ち帰りました。
瀬戸内の荒海を渡り、ようやくの思いで帰参すると、主君・佐伯侯の前に進み出て、事の顛末を包み隠さず報告しました。
しかし、この報告を聞き終えた佐伯氏は、激しい怒りを抑えきれませんでした。
「法にそむき、たった一人の武士を相手にこれほどの無様な失態を晒すとは……。武士として見苦しき振る舞いである！」
佐伯氏の怒りは、単に敗北したからではありません。
無法者のように振る舞ったうえに、二十余名という大人数で挑んでなお、一人の武士に半ば壊滅させられ、さらには陸での勝負を自ら懇願してようやく討ち取った首を「戦功」として持ち帰る。
誇りをなによりも重んじる武士の世界で、家中の名誉を深く傷つけたことへの怒りだったのです。
そのため佐伯氏は即座に処断を下し、帰参した家臣のうち五名を家中から追放しました。
追放とは、主従関係を断たれ、武士としての身分・立場を失うことを意味します。
とくに大名家の正式な処分として「追放」を言い渡されることは、武士として二度と家に帰れないだけでなく、他家に仕官することも極めて難しくなる、武士としての人生の終わりを意味していました。
この出来事は、家の名を汚し、武士としての面目を地に落とした、まさに一生拭えぬ“致命的な恥”だったのです。
複数の地で弔われた槍之助、人々が寄せた深い敬意
この一部始終を目撃していた桜井の人々は、槍之助がただ武勇に優れた武士であっただけではなく、法を守り、主君への忠義を貫くために命を投げ出したその姿に深い感銘を受けました。
最後の瞬間まで槍を握り、圧倒的な不利の中でも一歩も退かず戦い抜いたその生き様は、まさに武士の鑑ともいえるものでした。
桜井の人々は、激しい戦いの舞台となった入江の浜辺に槍之助の亡骸を丁重に葬り、その勇気と忠義に深い敬意を捧げました。
また大西地区の真光寺・新町にも分骨され、もう一つの墓所「田坂槍之助の墓」が築かれました。
このように複数の地で弔われたことからも、当時槍之助の武勇が広く知られ、人々から深く尊敬されていたことがうかがえます。
「江口八幡宮」槍之助の御霊を慰めるために建てられた社
その後、槍之助の墓前を馬に乗ったまま通ると、馬が突然苦しみ悶えはじめ、落馬する者が出るなど不可思議な出来事が相次ぎました。
桜井の人々は、これを無念のうちに散った槍之助の霊が迷い、成仏できずにいるためではないかと考えるようになりました。
そこで、槍之助の魂を慰めるため、沖浦（旧桜井町沖浦）にそびえる江口山（明神山）の頂上に、小さな祠（社）を建てることに決めました。
江口山の頂は瀬戸内海を一望できる静かな高台で、槍之助が生涯を通して見守ったこの海を見渡すのにふさわしい場所でした。
こうして建てられた祠（社）は「江口八幡宮（えのくちはちまんぐう）」と呼ばれ、村人たちは槍之助の御霊に祈りを捧げ、丁重にまつり伝えていったのです。
八幡神は古来より武士の守護神として強い崇敬を受けてきました。
その御神徳は「武運長久」「勝負必勝」「国家鎮護」に及び、武士の家々や武門の集団にとって欠かせない存在でした。
来島水軍の一員として海の掟を守り抜き、帆別銭を拒んだ武士たちとただ一人で戦い、渦巻く海の上で主君の名誉のために殉じた田坂槍之助の生涯は、まさに八幡神が象徴する「忠義」「勇気」「武の道」と深く響き合うものでした。
そのため、槍之助が八幡神として祀られるようになったことは、地域の人々にとってごく自然なこととして受け止められたと考えられます。
綱敷天満宮に迎えられた槍の八幡神
それから年月が流れ、世の中が次第に安定へ向かう江戸時代へと移り変わっていきました。
江戸幕府の成立後、今治から桜井・旦の一帯は行政再編を受け、桜井の地はやがて松山藩領へと組み入れられました。
藩領の境は地域の寺社の管理や祭礼にも大きな影響を及ぼし、宗教文化は藩ごとに形を変えていくようになりました。
瀬戸内海で覇を競い、海上秩序を支えてきた村上水軍も、時代の移ろいとともにその役目を終え、来島村上氏もまた歴史の表舞台から静かに姿を消していきました。
しかし、どれほど時代が進んでも、桜井の人々が田坂槍之助に寄せる敬意だけは変わらず受け継がれ続けていました。
そして、絶えることのない敬慕の念と、地域に息づく信仰の流れがひとつに結びつき、桜井の歴史とも重なり合う中で、その御霊は綱敷天満宮（綱敷天満神社・新天神）の境内へと合祀されることになります。
古国分神社から志島ヶ原へ受け継がれた天満信仰
志島ヶ原に鎮座する綱敷天満宮（綱敷天満神社・新天神）は、実は後の時代に建立された「二つ目の綱敷」にあたります。
その源流をたどると、最初に「綱敷」の名を冠した社は桜井ではなく、古国分の地に創建された古国分神社（綱敷天満神社・古天神）でした。
この古国分神社の歴史は、菅原道真公が瀬戸内海で遭難した伝承と深く結びついています。
古国分神社が建てられる以前、道真公は太宰府へ向かう途上、桜井沖で嵐に遭い、船が転覆しかねない危険な状況に置かれました。
そのとき、地元の漁民たちが船を出して救助に向かい、道真公を無事に助け上げた場所が、桜井の東端に位置する入江（江口）であったと伝えられています。
救助された道真公は、濡れた衣を岩に掛け、漁民たちが急ぎ丸めた綱を敷いた上で身体を休めたとされます。
この故事が後世まで語り継がれ、「綱敷（つなしき）」の名が生まれました。
やがて、この由来に基づき、菅原道真公を祀る「綱敷天満宮」が古国分の地に創建されることになります。
つまり、古国分神社こそが、最初に建立された綱敷天満宮であり、志島ヶ原の新天神に先立つ“元祖の綱敷”であったのです。
その後、綱敷天満神宮（古天神・古国分神社）は国分寺の別当寺として管理され、神仏習合のもとで運営されていきました。
しかし、江戸時代の宝永から正徳期にかけて、祭礼における作法や運営上の問題をめぐって寺社間に行き違いが生じ、ついには七年間ものあいだ神輿が出せない事態に陥りました。
この中断は村にとって深刻な問題となり、桜井と旦の氏子たちは貴重な伝統が失われる危機に強い不安を感じていました。
氏子たちは状況を打開するため、新たに独立した天神社の建立を願い出る決断をします。
享保5年（1720年）、松山藩主・松平定国がこれを許可し、桜井に新しい綱敷天満宮（綱敷天満神社・新天神）が建てられることになりました。
社地として選ばれたのは、もともと荒神社が祀られていた志島ヶ原の地で、古くから地域の人々が神聖視してきた由緒ある場所でした。
こうしてこの地域では、従来から続く天満宮（古天神）と、志島ヶ原に新たに建立された天満宮（新天神）の二つの社によって受け継がれていくことになりました。
綱敷天満宮に迎えられた槍之助の御霊
新たな綱敷天満宮（綱敷天満神社・新天神）の社殿が志島ヶ原に建立される際、境内の一角に小さな社が建てられました。
この社には、桜井東端の江口で長く祀られてきた江口八幡宮から、田坂槍之助の御霊が丁重に移されました。
江口八幡宮で受け継がれてきた信仰を絶やさぬよう、志島ヶ原の新しい天神さまの境内に迎えられた形です。
移された槍之助の御霊は、ここで「田坂八幡神社」と称され、武の神である八幡神として祀られることになりました。
田坂槍之助ゆかりの地を巡る
綱敷天満宮（綱敷天満神社・新天神）の春祭りでは、境内に祀られた田坂八幡宮のすぐそばで「奉納少年剣道大会」が行われます。
試合が始まると、竹刀がぶつかり合う鋭い音が境内に響きわたり、真剣な眼差しで踏み込む若い剣士たちの気迫が、空気を張りつめさせます。
緊張と熱気が交錯するその場所は、まさに武の神が祀られる社にふさわしい厳かな雰囲気に包まれます。
もしかすると田坂槍之助は、遠い戦国の海で最後まで武を貫いた己の魂を重ねながら、毎年この奉納剣道大会を楽しみに、若き剣士たちの成長と気概を静かに見守っているのかもしれません。
かつて槍之助を祀っていた江口八幡宮は社殿こそ失われていますが、御神体が安置されていたとみられる石祠や基壇跡が、今も江口山（明神山）にひっそりと残されており、槍之助の歴史を今も伝えています。
田坂八幡神社、江口山に残る小さな石祠、そして真光寺・新町の墓所。
これら三つの場所には、戦国の海で掟と忠義を貫き、たった一人で敵船に立ち向かった武士・田坂槍之助の記憶と魂が静かに息づいています。
その存在は、今治という土地の歴史に深く刻まれたかけがえのない足跡であり、これから先も、人々の祈りとともに静かに語り継がれていくことでしょう。