明治から令和へ、桜井小学校とともに歩んだユーカリ
かつて、桜井小学校の校庭には一本の大きなユーカリの木(ユーカリ樹)がありました。
ユーカリの木は、オーストラリア原産の常緑高木で、青みを帯びた葉と独特の芳香で知られています。
乾燥や強風にも耐える生命力の強い木であり、「たくましさ」「再生」の象徴ともされています。
明治34年に植えられて以来、124年間にわたり児童の成長を見守ってきたこの木は、今治市指定の天然記念物であり、桜井小学校の象徴として親しまれてきました。
この木は単なる学校の木ではありません。
桜井小学校に通った人々にとっては、それ以上の存在でした。
ユーカリの木のそばには鉄棒やジャングルジム、ブランコなどの遊具が並び、休み時間になると子どもたちの笑い声が絶えませんでした。
鬼ごっこをしたり、木陰で語り合ったり。
ユーカリはいつもその光景を静かに見守っていました。
桜井小学校の校歌の三番には、こう歌われています。
「桜、桜、桜井の
小学校の子どもらは
ユーカリの木のように
どっかりとこしをすえ
石鎚の肩の白雲
海わたる夜明けの風と」
世代を超えて歌われてきたこの一節のように、ユーカリの木は力強く根を張り、子どもたちの学びとともに時を重ねてきました。
その姿は、ただの校庭の風景ではなく、地域の誇りとして世代を超えて受け継がれてきたのです。
しかし、令和7年の夏に枯死が確認され、惜しまれながら伐採されました。
現在、その姿を校庭で見ることはできませんが、ユーカリの木は今もなお、桜井小学校の歴史とともに、人々の心の中に生き続けています。
そして、この木が見守ってきた124年の歩みには、桜井の教育のはじまりと、地域とともに築かれた人々の歴史が刻まれています。
明治の学制と桜井地域の学校創設
明治5年(1872)8月、明治政府は近代国家建設の基礎として、日本で初めての近代的な学校制度「学制(がくせい)」を公布しました。
それまでの教育は、寺子屋や藩校といった地域ごとの学びにとどまっていましたが、「学制」は全国を統一的に教育制度のもとに置くもので、すべての子どもに教育の機会を与えることを目的としていました。
学制では、全国を8大学区・256中学区・約53,760小学区に区分し、それぞれの区ごとに学校を設けることが定められました。
この制度により、従来の身分や性別にかかわらず、すべての子どもが学校に通うことが原則とされました。
つまり、「教育は一部の特権ではなく、国民すべてのもの」という理念が初めて明確に示されたのです。
桜井の地でも、この学制の公布を受けて教育の近代化が進められました。
桜井に生まれた最初の学び舎「一番小学校(陣屋学校)」
明治5年8月、桜井に「一番小学校(陣屋学校)」が創設されます。
校地は、この地域の行政の中心であった郷の陣屋跡に設けられたと伝えられています。
これが、桜井小学校の原点となりました。
一番小学校から第廿七番小学校へ、学区再編の時代
翌明治6年(1873)、文部省は全国の学校配置をより現実に合わせるため、各地の地理的条件や人口に応じて学区の再編を行いました。
明治5年の「学制」によって日本全土は大学区・中学区・小学区の三層構造で区分されましたが、これは理想的な制度設計であった一方、実際の運用面では多くの課題を抱えていました。
たとえば、山間部や離島などでは通学距離が長すぎること、また地域人口の偏りにより学区ごとの児童数が大きく異なることが問題となりました。
このため、文部省は「教育の実際に即した配置」を掲げ、府県ごとに学区を見直すよう通達を出しました。
この再編により、愛媛県(当時の石鉄県)は新たに「大区・小区制」を整え、教育行政を地域に密着させる体制を整備します。
桜井は第4大区に属し、その中の第30番中学区に位置づけられました。
「一番小学校(陣屋学校)」はこの中学区のもとで第27番小学区として再編され、名称も「第廿七番小学校(第27番小学校)」と改称されました。
第廿七番小学校から時習小学校へ
明治7年(1874)には、文部省が学校名の在り方について布達を出し、番号による呼称を改め、地名や理念を冠した校名への変更を促しました。
これを受けて、第廿七番小学校は「時習小学校」へと改称されました。
「時習(じしゅう)」という名は、中国の古典『論語』の冒頭にある言葉「学びて時にこれを習う(学而時習之)」に由来すると考えられます。
この言葉は、学んだことを折にふれて繰り返し実践し、確かな力として身につけていくことの大切さを説いたもので、まさに「学び続ける姿勢」を育む学校教育の理念にふさわしいものといえます。
地域の村ごとにつくられた学び舎
この頃の桜井は、それぞれの地域が独立した村として存在しており、村ごとに学校が設けられていきました。
例えば、第廿七番小学校(後の時習小学校)は桜井村と古国分村の子どもたちを対象としていましたが、他の地域でも次々と教育の場が生まれていきます。
登畑に芽生えた教育の灯「幾志小学校」
登畑村には、明治10年(1877)3月29日、第4大区第33番中学区・第7番小学区として「幾志小学校」が設立されました。
幾志小学校は、国分村・旦村・登畑村・宮ヶ崎村の児童を対象とし、桜井地域南部における教育の中心として開かれました。
当初は登畑の幾志端に校舎が建てられましたが、明治12年(1879)には「登畑村トトロ4番地の内一番」へと移転しています。
児童数の増加に伴い、明治17年には校舎を増築しましたが、翌明治18年には暴風で倒壊し、約百二十円の費用で再建されたことが記録に残っています。
長沢村に生まれた学び舎「楠本学校」
明治11年(1878)、長沢村の楠本内、現在の「庵・長沢」付近に「楠本学校」が設立されました。
学区は第11大区第37番中学区・第1番小学区に属し、長沢村・孫兵衛作村の児童を対象としていました。
桜井地域東部における教育の拠点として、地域の人々によって支えられた学校でしたが、明治14年(または15年)の台風により校舎が大きな被害を受け、授業の継続が困難となります。
このため、当時の戸長役場(現在の長沢集会所付近)に仮校舎が設けられ、一時的に授業が行われました。
その後、校舎は宮之前(須賀神社・長沢の公園側の一帯)へ移転したと伝えられています。
三つの学び舎がひとつに!桜井尋常小学校のはじまり
明治19年(1886)に公布された「小学校令」により、日本の初等教育制度が全国的に整備されました。
この法令は、すべての子どもに教育の機会を保障することを目的とし、従来の地域ごとの小学校を「尋常小学校」として統一。
修業年限を4年とし、読み書き・算術など、生活に必要な基礎教育を行うことが定められました。
この制度改革を受けて、翌明治20年(1887)、桜井地域では「時習小学校」「幾志小学校」「楠本学校」の三校を統合し、桜井郷に「桜井尋常小学校」が設立されました。
これが、現在の桜井小学校へとつながる歴史のはじまりです。
校舎の建設と開校
新しい校舎の建築工事は明治20年5月27日に着手し、同年8月に完成。
9月には盛大な開校式が挙行されました。
学校名は所在地である「桜井郷」に由来し、地域の中心に新たな学び舎が誕生したことを象徴しています。
当時の校地は現在の桜井小学校の場所ではなく、正門前から郷桜井の周辺に位置していました。
木造平屋建ての校舎で、地域の大工や住民が協力して建設に携わったと伝えられています。
桜井尋常小学校は、児童たちが「読み・書き・そろばん」を学ぶとともに、礼儀や勤労の精神を重んじる教育が行われ、地域社会の基礎を築く場となりました。
旧校地の記録と名残
三校の統合により役割を終えた時習・幾志・楠本の校地や建物は、その後売却され、現存していません。
しかし、綱敷天満神社の境内には「筆の石碑」が残されており、その碑面には「時習小学校生徒中」と刻まれています。
これは、当時の児童たちが書道の上達や学びの成果を祈念して奉納したものと考えられ、明治期の桜井の教育文化を今に伝える貴重な遺跡です。


新桜井村の誕生、地域が育てた桜井村立尋常小学校
明治21年に市町村制が公布され、翌明治22年(1889)には桜井郷を中心に周辺の村々が統合されて『桜井村』が誕生しました。
これにともない、翌明治23年(1890)6月2日「桜井村立尋常小学校」として新たに出発します。
村立となったことで、学校運営はより地域に根ざしたものとなり、村の財政から教育費が支出されるようになりました。
教員の任用体制も整備され、桜井村全体の児童が等しく教育を受けられる環境が築かれていきます。
また、村会(現在の議会にあたる組織)でも学校経営が重要な議題として扱われ、教育が地域ぐるみで支えられる仕組みが形づくられていきました。
「桜井高等小学校の誕生」桜井に広がった新たな学びの場
明治19年(1886)には「小学校令」が公布され、教育制度の全国的な統一が進みました。
この制度により、小学校は尋常小学校(4年)と高等小学校(4年)の二段階に区分され、前期の尋常小学校での普通教育4年間が義務教育と定められました。
この改革の目的は、すべての子どもに基礎的な教育を保障するとともに、より高い学びを望む児童に対して、次の段階である「高等教育の場」を整えることにありました。
すなわち、高等小学校は義務教育の延長ではなく、志を持つ子どもがさらに学びを深めるための進学課程として設けられたのです。
当時の農村では、就学率の向上がようやく進み始めたばかりであり、高等小学校に進む児童はまだ少数でした。
しかし、それだけに高等小学校の設立は、地域の教育水準を高めるだけでなく、「子どもたちに新しい未来を切り開く場をつくる」という村の大きな願いを込めた事業でした。
教育に熱心な村民や関係者の尽力により、明治34年(1901)6月4日、桜井尋常小学校の側に「桜井高等小学校」が開校しました。
校舎は桜井郷の中心部に建てられ、尋常課程を修了した児童を対象とする上級教育機関として運営が始まりました。
高等小学校では、国語・算術・修身に加え、地理・歴史・農業・商業など、地域の生活や産業に密接に関わる実践的な教育が行われました。
特に農業や商業の授業は、桜井地域の主要な産業に直結する内容であり、学んだ知識を将来の生業に生かすことが期待されていました。
高等小学校を卒業した者は「学問ある人」として地域から尊敬され、その存在は桜井村にとって誇りであり、地域社会の発展を支える象徴でもありました。
高等小学校創立の記念樹“ユーカリの苗木”
ユーカリの木は、明治34年(1901)に桜井高等小学校が設立された際に植えられたと記録に残されています。
寄付者や植樹の経緯を示す詳細な資料は現存していませんが、当時の文書や校史の記述から、学校創立を記念して植えられた記念樹であったと考えられます。
記録によると、ユーカリは正門の両側に2本植えられており、それぞれ高さ約1.7メートル、直径3センチほどの苗木であったとされています。
これらの木は、新しい学び舎の門を見守るように立ち、明治期の学校風景の一部として児童や地域の人々に親しまれました。
当時の日本ではユーカリはまだ珍しい外来樹であり、その強い生命力や常緑の姿から、「希望」「発展」「未来への成長」を象徴する樹木とされていました。
そのため、この植樹には、桜井の子どもたちの健やかな成長と、新しい教育の発展を願う想いが込められていたとみられます。
桜井尋常高等小学校の設立と移転
明治43年(1910)4月1日、義務教育制度が6年制に改められたことを受け、桜井村の教育にも大きな転機が訪れました。
これにより、明治34年に設立された桜井高等小学校は廃止され、それまで4年制であった尋常小学校に2年の高等科を併設する形で、新たに桜井尋常高等小学校が誕生しました。
この制度改正によって、児童は一貫した6年間の義務教育を受けられるようになり、教育の内容や体制が整えられていきます。
一方で、旧・桜井高等小学校の校舎と校地はそのまま残され、分校的な扱いで引き続き利用されていました。
この校地には、桜井高等小学校の創立時に記念として植えられたユーカリの木が立っており、地域の人々にとって教育の象徴、そして子どもたちの成長を見守る存在として親しまれていました。
その後、児童数の増加や施設の老朽化を背景に、学校の位置をどうするかという議論が地域で重ねられ、大正2年(1913)には、桜井尋常高等小学校を旧・桜井高等小学校の跡地(現在の場所)へ正式に移転・改築することが決定されました。
翌大正3年(1914)には新校舎が完成し、桜井の教育の中心は現在の校地へと移ります。
さらに大正6年(1917)には、行政区分の改正により桜井村が「桜井町」となり、学校も桜井町立桜井尋常高等小学校と改称されました。
こうして、桜井の学校は教育制度の近代化とともにその形を変えながら歩みを続け、ユーカリの木はその歴史のすべてを静かに見つめ続けてきたのです。
「桜井国民学校」戦時体制下の教育
昭和に入ると、日本は次第に戦時体制へと傾き、教育制度もその影響を大きく受けていきました。
昭和16年(1941)、政府は「国民学校令」を公布し、それまでの「尋常小学校」「高等小学校」という名称を廃止。
全国の小学校を統一して「国民学校」と改称しました。
これにより、桜井尋常高等小学校も「桜井国民学校」として再編されます。
この制度改正は、教育の理念を大きく転換するものでした。
従来の「個人の知性を育てる教育」から、「国家に奉仕する人材を育てる教育」へと重心が移り、修身・国史・国語といった教科を通じて、“大日本帝国の臣民”としての道徳と忠誠心を養うことが重視されました。
また、義務教育はそれまでの6年制から8年制に延長され、初等科(6年)と高等科(2年)の二段階で構成されました。
これにより、子どもたちはより長い期間、国家的な教育方針のもとで学ぶこととなります。
桜井国民学校でも、教室での授業に加えて、勤労奉仕・農作業・金属回収・防空訓練といった活動が日常的に行われ、児童は“国の一員”としての役割を担うことを求められました。
それでも、教師や地域の人々は、どれほど困難な時代であっても「子どもたちの未来を守る」ことを第一に考え、限られた環境の中で教育の灯を絶やさぬ努力を続けました。
なお、「尋常小学校」という名称は、明治20年(1887)に桜井尋常小学校が創設されて以来、実に55年間にわたって使われ続けてきたものです。
その呼び名が消えたことは、桜井の教育史におけるひとつの時代の終わりを告げる出来事でした。
「桜井町立桜井小学校」新たな学びの始まり
昭和20年(1945)、終戦を迎えると、日本の教育制度は大きな転換期を迎えました。
それまでの国家主義的な教育から一転し、「平和と民主主義」を基盤とする新しい教育体制の構築が進められます。
昭和22年(1947)には、新しい教育制度を定めた学校教育法が施行され、「国民学校」は「小学校」へと改められました。
これにより、桜井国民学校も桜井町立桜井小学校として再出発します。
この新制度では、アメリカの教育制度を参考にした6・3・3制が導入され、小学校6年、中学校3年、高等学校3年という現在に続く教育体系が整えられ、桜井中学校も開校されました。
また、教育の目的も「国家に奉仕する人間」から「人格の完成をめざす人間」へと大きく変わり、戦時中に失われた自由や個性を取り戻すことが重視されました。
桜井小学校でも、平和な社会を築くための新しい教育が始まりました。
教科書の改訂や新しい授業内容の導入、学校行事の見直しなどが進められ、子どもたちは再び、自由に学び、考える喜びを取り戻していきました。
今治市立桜井小学校の誕生
昭和30年(1955)2月、桜井町は今治市に合併し、学校は今治市立桜井小学校として新たな歴史を歩み始めます。
戦後の復興とともに地域社会も発展し、桜井小学校はその中心的存在として地域の子どもたちを育んできました。
校舎の整備や学級数の増加、そして地域行事や社会教育との連携を通じて、学校は「学びの場」であると同時に「地域の心の拠りどころ」としての役割を担うようになっていきます。
昭和45年(1970)には、校庭に立つユーカリの木が今治市指定天然記念物・ユーカリ樹として指定され、地域の象徴として広く知られるようになりました。
さらに、昭和55年(1980)には児童数が1,500人を超え、その後、国分小学校の分離新設を経て、現在の形へと発展していきます。
ユーカリとともに歩んだ歳月と別れ
平成13年(2001)8月、桜井小学校では「ユーカリ植樹100年のお祝い集会」が開かれました。
そして令和5年(2023)には、桜井小学校は創立150周年という大きな節目を迎えました。
明治初期の学制発布から始まり、戦争と復興、そして高度経済成長を経て、地域とともに歩んできた桜井小学校。
その長い歴史の中で、校庭に立つユーカリの木は、いつの時代も子どもたちの学びと成長を見守ってきました。
しかし、永く親しまれてきたユーカリにも、ついに終わりの時が訪れます。
令和7年(2025)6月11日、診断にあたった樹木医により、ユーカリの枯死が確認されました。
幹の内部まで腐朽が進行し、倒木の危険があることから、児童と地域の安全を守るために伐採が決定されたのです。
「ユーカリの樹、いままでありがとう集会」
伐採を前にした令和7年(2025年)7月3日、桜井小学校では地域の方々や卒業生を招き、「ユーカリの樹、いままでありがとう集会」が開催されました。
児童たちはユーカリにまつわるクイズや劇、感謝の言葉の発表を行い、校歌の一節「ユーカリの木のように どっかりと こしをすえ」を胸に刻みながら、長年学校を見守ってきた大樹に感謝を伝えました。
その模様は今治市公式YouTubeチャンネルでも公開されています。
桜井の人々が見送った最後の夏
また、7月12日・13日には、桜井小学校の校庭が一般に開放され、地域住民や卒業生が次々と訪れ、ユーカリの木の根元で手を合わせたり写真を撮ったりしながら、長年親しんだ大樹との別れを静かに見送りました。
校庭にはかつての笑い声や学びの記憶がよみがえるような、どこか懐かしい空気が流れ、ユーカリの木がこの地で果たしてきた役割の大きさを改めて感じさせるひとときとなりました。
当サイトで掲載しているユーカリおよび桜井小学校の写真は、この公開日の際に撮影されたものです。
桜井小学校ゆかりの宮司が見守る別れの儀
伐採の前日、令和7年(2025)8月7日には、長年桜井の人々に親しまれてきたユーカリの木に感謝を捧げる伐採祈願が執り行われました。
この儀式を執り行ったのは、桜井小学校の卒業生であり、現在は綱敷天満宮(綱敷天満神社)の宮司として地域に奉仕する菅としゆき氏(今治市議会議員)です。
菅宮司は、長年地域の象徴として親しまれてきたユーカリの木に深い敬意を表し、この祈りの儀をもって、ユーカリの木は静かにその最期を迎える準備を終え、翌日の伐採へと引き継がれていきました。
伐採の日、ユーカリが見上げた最後の空
令和7年(2025年)8月8日の朝、ついに桜井小学校のシンボルであったユーカリの木の伐採が始まりました。
前日までに枝打ちが終えられた巨木は、青空の下、静かにその最期の時を迎えました。
作業は大型重機を用い、慎重かつ丁寧に進められました。
午前10時半過ぎ、ユーカリの木は静かに倒れました。
枯死が確認されてからもなお、その幹は驚くほど堅く、容易には横たわろうとしなかったといいます。
桜井小学校の公式ブログには、この日の様子とともに、次のような言葉が記されています。
いつも空に向かって大きな手を広げ、桜井小のシンボルとして子どもたちを温かく見守り続けてくれた「ユーカリ樹」。最期まで、あなたの姿は圧巻でした。わたしたちの誇りです。これからもずっと・・・。
姿はなくなってしまっても、私たちの心の中にこれからも生き続けます。校歌を歌うとき、あなたの姿をいつの日も思い出します。
124年間、ありがとう!2025.8.8 ありがとう ユーカリの樹/今治市立桜井小学校
新たなユーカリへ──未来へつなぐ地域の記憶
伐採によって長い歴史に一区切りがつきましたが、それは終わりではありません。
令和8年(2026年)春の全国植樹祭の頃に、校庭へ新たなユーカリの苗を植樹する計画を進めています。
そして、ユーカリの伐採を惜しむ声が広がるなか、「この木の記憶を未来に残したい」という地域の想いから、今治市はガバメントクラウドファンディング(GCF)「今治市立桜井小学校にあるユーカリ樹を未来につなぐ!」を開始しました。
寄付金はこれまでの歩みを後世に伝えるため、顕彰看板の設置や記念木材の保存・活用も行われる予定です。
124年にわたり、桜井の子どもたちとともに歩み、地域の歴史を見守ってきたユーカリの木。
その姿はもう校庭にはありませんが、確かにこの地に根づいた「記憶」として生き続けています。
やがて新しい苗が植えられ、再び校庭に緑の葉が広がるとき、それは過去から未来へと受け継がれる桜井の象徴として、次の世代の子どもたちを静かに見守り続けることでしょう。