鶴姫生誕の地・別名が守り継ぐ大祝氏の系譜と伝承
今治市別名の端谷には、八基の五輪塔が静かに並び、中世伊予の記憶を今へと伝えています。
これが、今治市指定有形文化財に登録されている「端谷五輪塔群(はしたにごりんとうぐん)」です。
もとは現在地より東の丘陵上に散在しており、御鉾(みほこ)神社の背後に位置していました。
しかし当時はその由緒が忘れられ、子どもたちが転がして遊ぶほど雑然と散らばっていたといいます。
こうした五輪塔を、後年になって地元の有志たちが麓へと運び下ろし、ひとつずつ丁寧に積み直して現在の姿に整えました。
五輪塔に用いられている石材は、この地域では極めて珍しい凝灰岩(伊予の白石)です。
今治周辺に多い花崗岩製の石造物とは異なり、松山地方の作例に近い形状を示しており、その形式から鎌倉時代から室町時代にかけて造立されたものと考えられています。
こうした特徴をもつ端谷五輪塔群が、特に大切に守られてきた理由は、これらが大山祇神社の社家・大祝(おおほうり・おおはふり)氏の祖先墓として伝承されてきたためです。
伊予国一宮を支えた神職と氏族「大祝氏」
伊予国(現・愛媛県)において、古代から中世にかけて政治・宗教・軍事の中枢を担ってきた存在がありました。
それが、伊予国一宮・大山祇神社を中心に活躍した大祝氏です。
神の依り代となった最高神職「大祝」
「大祝(おおほうり・おおはふり)」とは、古代から中世にかけて神社に置かれていた神職の一つで、特に重要な神事を主宰し、祭祀全体を統括する高位の役職でした。
神職には、神に祝詞を捧げる「祝(ほうり・はふり)」、日々の神事や社務を補佐する「禰宜(ねぎ)」、神社の管理運営を担う「宮司(ぐうじ)」などの職掌がありますが、大祝はその中でも最も高位に位置づけられた特別な存在として重要な神事を主宰し、祭祀全体を統括していたのです。
たとえば、日本最古の神社の一つとして知られる長野県の諏訪大社では、「大祝」が神社全体の祭祀を統括していました。
諏訪大社は上社と下社に分かれており、特に上社における大祝は、神職であると同時に、神が人間界に降臨するための「依り代(よりしろ)」としての性格を持っていました。
すなわち、大祝自身が社の祭神である建御名方神(たけみなかたのかみ)の化身、あるいは神そのものとして信仰の対象とされていたのです。
そして、伊予国(現在の愛媛県)においても、「大祝」は極めて重要な存在でした。
大山祇神社の祭祀を統括した「大祝」
愛媛県大三島に鎮座する大山祇神社は、「日本総鎮守」と称され、伊予国一宮として古代から神々を祀る信仰の中心地として信仰されてきました。
祭神である「大山祇命(おおやまづみのみこと)」は、日本神話において山や海を司る神とされ、古くから瀬戸内海の航海者や漁業者、農業従事者に深く信仰されてきました。
また、全国の山岳信仰の中心でもあり、瀬戸内海の島々や沿岸地域からも多くの人々が参拝に訪れました。
こうした宗教的中心地において、「大祝」は神社の祭祀を統括する最高位の神職として、地域の精神的・政治的中心を担っていました。
そんな大山祇神社の宗教的な権威を支えたのが、「大祝(おおほうり)」でした。
越智氏が継いだ最高神職「大祝」を名乗った一族
大山祇神社における大祝は、伊予国一宮の神職として非常に重要な存在であり、伊予国全体に大きな影響を与える立場にあったため、古代からこの地域を治めていた豪族「越智氏」の一族がこの役職を代々世襲していました。
越智氏族の中で、神社の神主さんのことを「お祝(ほうり・はふり)さん」と呼んでいましたが、大山祇神社の神主は別格であったので、大の文字を付けて「大祝(おおほうり)さん」と呼ぶようになりました。
そして、大山祇神社の神主を代々務めていた一族は、「大祝」を自身の家名として名乗るようになり、社家として「大祝家」「大祝氏」として知られるようになりました。
歴代の大祝は神壇を住まいとし、「半大明神(はんだいみょうじん)」と称され、弓矢などの武器を持たず、国境を越えることもなく、日々の神事と祈祷に専念する生活を送っていたと伝えられています。
「半大明神」とは、完全な神ではないものの神に準じる特別な尊称であり、大祝が神の顕現者(現人神)として人々の信仰を集める存在であったことを示しています。
俗世から距離を置き、神に仕える生活を貫くことで、その神聖性を保ち続けてきたのです。
神職であり統治者、水軍の指揮官でもあった存在
当時、大山祇神社は単なる宗教施設ではなく、地域の政治的・経済的中心でもあったため、大祝は政治的な決定にも深く関与していました。
地域社会における秩序の維持や、領地の管理、経済的発展にも貢献し、実質的な統治者としての地位を確立していたのです。
さらに神職として、地域の信仰と祭祀を取り仕切る一方で、戦時には水軍の指導者として活動するという特殊な立場にありました。
これは、大山祇神社が航海や水軍の守護神である大山祇命(おおやまづみのみこと)を祀っていたためで、神社を最高責任者である「大祝」が宗教的な権威だけでなく、軍事的な指導力も求められていたためです。
この中で大祝氏は三島水軍の長として、伊予の水軍を率いる河野氏(越智氏)と深い繋がりを持つようになりました。
また、この繋がりは単なる軍事的なものにとどまらず、両家は同じ祖先である「越智氏」を通じて血縁関係にあったため、その結びつきはとても強いものとなっていました。
大祝氏と深い縁で結ばれた伊予の武家・河野氏
大祝氏の歴史をたどると、必ずもう一つの有力氏族の姿が浮かび上がります。
それが、伊予国の中世史を語る上で欠かすことのできない武家、河野氏です。
河野氏は、古代以来この地域を支配してきた豪族・越智氏の末裔とされ、大祝氏とは同じ祖をもつ同族関係にありました。
血縁のつながりに加えて、大山祇神社を中心とした宗教的結びつき、さらに瀬戸内海の水軍活動における軍事協力を通じ、両家は宗教・政治・軍事の三面で互いを支え合う強固な関係を築いていきました。
河野氏が歩んだ伊予の歴史
河野氏の歴史は、平安中期の藤原純友の乱で水軍を率いて戦功を挙げた河野好方に始まります。
鎌倉時代には源平合戦で源頼朝方に参戦したことで勢力を伸ばし、その功績によって伊予国内の地頭・守護としての地位を確立しました。以後、数百年にわたり伊予国の中心勢力として君臨していきます。
南北朝・室町時代には湯築城を本拠とし、瀬戸内海の制海権を握る水軍を背景に、四国でも屈指の有力国人として広く影響力を及ぼしました。
しかし戦国末期、豊臣秀吉による四国攻め(四国征伐)に降伏し、ここに長く続いた河野氏の歴史は幕を閉じることとなりました。
伝説から繋がる河野氏と大祝氏の起源
そんな河野氏の始まりは、越智氏から続く伝説的な系譜が語り継がれています。
七世紀半ばの朝鮮半島では、百済、新羅、高句麗の三国が激しく争っていました。とくに新羅は中国の大国である唐と手を結び、強力な連合軍を組織して百済を滅ぼそうとしていました。
百済は古くから日本と深い関係を結んでいた国であり、仏教をはじめ先進的な文化や技術を日本にもたらしていました。そのため日本は百済を重要な友邦とみなし、危機に際して継続的に支援を行っていました。
やがて百済は日本に本格的な援軍を求め、日本は国家の威信をかけて大規模な救援軍を派遣することを決定しました。
この遠征が天智二年(六六三年)の白村江の戦(はくすきのえのたたかい)です。
この戦いは海戦であり、大規模な水軍戦力が必要不可欠でした。
そこで白羽の矢が立ったのが、瀬戸内海を拠点として高い水軍力を誇った伊予水軍であり、その指揮を執っていたのが越智守興です。
白村江河口付近で、日本・百済連合軍と、唐・新羅連合軍は激突します。
守興の率いた水軍も先陣として奮戦しましたが、数と装備に勝る唐・新羅連合軍の前に、日本側は大敗を喫し、多くの船が焼き沈められる結果となりました。
この敗北によって百済は完全に滅亡し、日本は半島における政治的影響力を失うことになります。
伝承では、守興はこの戦いの中で新羅あるいは唐の捕虜となり、遠く大陸の地へ連行されたとされます。
その後の物語は、歴史というよりは伝説に近い色合いを帯びていきますが、ここからが越智氏の後世の物語に大きく関わる部分です。
守興は南方の地に送られ、そこで「越」という国の王女と出会います。越は現在の中国浙江省周辺にあった国とされ、日本にとっては敵側陣営の一角です。
本来であれば交わることのなかった二人が、戦争捕虜と王女という形で出会い、ともに暮らし、やがて二人の子どもが生まれます。
異国の地で築かれたささやかな家庭は、しかし長く続きません。やがて情勢が落ち着き、王女は本国に戻ることになり、別れの刻が訪れます。
そのとき王女は、一寸八分ほどの小さな黄金の観音像を守興に手渡し、「どうかこれを私だと思ってお祀りください」と言い残して去ったとされます。
守興はその観音像を深く敬い、異郷の地から故郷へ帰還する日を願って祈り続けます。
ある夜、夢に観音が現れて「仲間と力を合わせて船を造り、私を船首に祀りなさい。そうすれば無事に日本へ帰ることができるでしょう」と告げます。
守興はそのお告げの通りに仲間七人と船を作り、観音像を船首に祀って密かに出航し、数々の嵐を乗り越えて日本の海岸に辿り着きました。
このとき、子どもたちは現地に残されたままでした。命懸けの航海に連れ出すことをためらったのか、あるいはすでに越の国の人々として育っていた子どもたちの未来を思ってのことだったのか、その理由は伝えられていません。
ただ、守興の胸にどれほどの葛藤があったかを想像させる話です。
帰国した守興は、都に上ってこの一連の出来事を朝廷に報告しました。
帝はこれを深く感じ入り、守興の故郷である伊予の地に観音堂を建て、その観音像を航海の守り神として祀ることを許しました。
この観音は後に「船玉さま」と呼ばれ、東禅寺や高龍寺に伝わることになります。
その後、守興は越智氏の大領として伊予を治めたとされています。
さらに時代が下り、守興の子である玉興が家督を継いでこの地を治めていました。
そんなある日のことです。
玉興が乗る船が備中国水島沖を航行していたところ、一隻の見慣れない船と出会いました。
その船には若い兄弟と見られる二人の若者が乗っており、玉興の船に近づくと、一通の書付を差し出して自らの出自を語り、越の国で生まれ育った守興の子であることを告げました。
玉興は書付を手に取り、その筆跡と内容が父・越智守興のものであることに間違いないと確信しました。
そして二人が父を同じくする腹違いの弟であると悟り、大いに喜んで迎え入れると、兄に「玉守」、弟に「玉澄」という名を与えました。
さらに、二人が越の国から海を渡って来たことにちなみ、それまで用いられていた「小千」「乎致」といった表記を改め、「越知」(のちの越智)の姓を授けました。
このうち弟の玉澄は橘の里の統治を任され、のちに伊予国風早郡の河野郷に居を構えて「河野玉澄」と名乗りました。
和銅元年(708年)3月3日には、嫡男・越智益男(河野益男)に河野家の家督を譲り、次男の越智安元(河野安元)を三島大社(大山祇神社)の大祝に任じました。
こうして、越智玉澄(河野玉澄)を始祖とする河野氏、大山祇神社の社家「大祝氏」の歴史が幕を開けたと考えられています。
「河野」という地名・姓が示す自然環境とのつながり
「河野」という姓については、越智玉澄が河野郷に居を構えたことに由来するという説のほか、この地の自然環境に基づく由来も伝わっています。
伊予国は瀬戸内海に面し、川と海に恵まれた水の豊かな地域です。
この自然条件が家名の背景にあるとする説では、豊富な水源や河川が「河野」という名の基になったと考えられています。
また別の伝承では、越智氏が京から伊予へ下向する途中、高縄山で水を得ようと剣を地に突き立てたところ、その根元から清らかな水が湧き出たといいます。
この霊験に感じ入った越智氏が、地の水の恵みを讃えて「河野」と名付けたとも語られています。
いずれの説においても、「河野」という名には、この地域がもつ水の豊かさと自然との深い結びつきが色濃く反映されています。
大祝氏が暮らした日高地区・高橋郷別名村
このように、大祝氏は大山祇神社の神事を司る家柄として代々その重責を担ってきました。
しかし、意外にも 大祝氏が最初から大三島に居住していたわけではないことが、『三島大祝家譜資料』に記されています。
同資料によれば、宗家(本家)は初代・大祝安元の頃、伊予国越智郡高橋郷(日高地区)別名村の塔本(塔ノ本・とうのもと)に屋敷を構えていたとされます。
別名に眠る大祝一族の墓所
つまり、歴代の大祝たちは別名村で暮らしながら、神事の折には舟を出して海を渡り、大三島へ向かっていたと考えられています。
その暮らしの痕跡を今に伝えているのが、「端谷五輪塔群(はしたにごりんとうぐん)」です。
端谷五輪塔群は、かつてこの地に居住していた大祝家の墓地と考えられており、現在は今治市の指定有形文化財にも登録されています。
これらの五輪塔はかつて山中に散在していましたが、地元有志の尽力によってひとつずつ丁寧に収集され、整備が進められたことで、現在のように整然とした姿へとまとめられました。
今も静かにこの地に佇み、大祝氏が別名村に暮らした時代の面影を伝え続けています。
御鉾の森に鎮座した古社・御鉾神社
この地一帯はかつて「御鉾の森」と呼ばれ、高い石段の上に小泉村と別名村の両地域が共同で祭祀を行っていた鉾(ほこ)という名前がついた、御鉾神社(みほこのじんじゃ)が鎮座していました。
その境内には大祝氏の墓所が置かれており、端谷五輪塔群は、まさにこの墓所に築かれた五輪塔が後世まで残されたものです。
御鉾神社には次の二柱の神が祀られていました。
- 八千矛神(やちほこのかみ)
大国主命の別名ともされ、豊穣をもたらす農耕神。 - 猿田毘古大神(さるたひこのおおかみ)
天孫降臨の際に道案内を務めた、導きの神。
いずれも、農耕・開拓・道の守護を象徴する神として知られ、山の社にふさわしい組み合わせでした。
御鉾神社の祭礼や神事は、近隣の大熊寺が別当寺として取り仕切っており、神仏習合のもとで両者は深い結びつきを保っていました。
しかし、明治元年(1868年)に神仏分離令が発布されると、長く続いてきたこの関係は公的に断たれ、御鉾神社の信仰体系は大きな転換を迎えます。
さらに、明治四十二年(1909年)の神社合祀政策によって御鉾神社は分祀され、三島神社(今治市小泉)と天満神社(今治市別名)の両社で境内社として祀られる形に移されました。
こうして御鉾神社は独立した社としての姿を失いましたが、祈りそのものは絶えることなく、今もそれぞれの地域で守り神として静かに受け継がれています。
「越智益躬・小千益躬」御鉾神社を創建した越智氏の英雄
御鉾神社の創建は、古代伊予を代表する氏族・越智氏の一人、越智益躬(小千益躬・おちのますみ)によるものと伝えられています。
益躬は、「鉄人」と呼ばれた国外からの侵略者を討ち倒し、国を救った英雄で、その伝承は今治の各地に残っています。
大山祇神社、鴨部神社、東禅寺、御鉾神社(玉川地区)、三嶋神社・東村、三島神社・登畑、三嶋神社・祇園神社、光蔵寺……。
多くの場所で益躬ゆかりの物語が語り継がれており、地域の開拓や信仰の基盤づくりに深く関わった人物であったことがよくわかります。
中でも、玉川地区に鎮座する御鉾神社の創建には、まさに「鉾」を由来とした次のような伝承が残されています。
推古天皇の御代(6世紀末〜7世紀初頭)に越智益躬(小千益躬)が訓見郡徳威の宮から、神聖な神器「天之逆矛(あめのさかほこ)」を大三島宮(現・大山祇神社)へ奉納するという、重要な神事を任されていました。
奉納の道中、益躬は現在の玉川地区にしばらく滞在した際、天之逆矛の神威を後世に伝える必要を感じ、小さなお社を築き「御鉾の宮(みほこのみや)」として祀ったと伝えられています。
御鉾の森にかつて鎮座した、同じ「鉾」という名前をもつ同名の御鉾神社。
もしかしたら、同じ起源をもち、同時期にこの地に祀られたのかもしれません。
「大祝屋敷の誕生」武家への転換と本拠の移転
大祝氏は長らく別名村を本拠として、大山祇神社の神事に奉仕しながら平穏な日々を送っていました。
しかし、やがて時代は大きく動き出します。
戦乱の時代の中で、大祝氏にも神職としての務めだけでは立ちゆかない変化の波が押し寄せてきました。
その転換点となったのが、大祝安世(やすよ)の代です。
武士になった大祝「大祝安世」
元弘2年(1332年)、大山祇神社の大祝職に就いた安世は、代々の慣習に従い、日高地区の屋敷から船で大三島へ渡り、神事にあたっていました。
しかしその一方で、時代は急速に動き始めていました。
この頃、日本は鎌倉幕府の崩壊を経て、南北朝の内乱期へと突入しようとしていました。
伊予国内でも南朝方・北朝方の勢力が拮抗し、各地で戦火が広がるなど、情勢は混迷を極めていきます。
こうした動乱のただ中で、安世は神職としての務めだけでは家を守れないと判断したのでしょう。
大祝職をわずか四年で息子の安頭(やすかしら)に譲り、自らは武器を手にして武士としての道を歩み始めました。
そして足利尊氏の要請に応じ、北朝方の武将として各地の戦いに参戦していきます。
さらに、勢力を拡大しつつあった北朝方の足利尊氏の要請に応える形で、一族の分家を立てて、祇園町(愛媛県今治市祇園町2丁目3−2)に新たな拠点を構えました。
これがのちに「大祝屋敷」と呼ばれるようになる屋敷です。
「鳥生屋敷」大祝安世=鳥生貞実
大祝屋敷は「鳥生屋敷」とも呼ばれていますが、これは武士・鳥生貞実(とりゅう さだざね・越智貞実)がこの屋敷に居住していたことに由来すると考えられています。
鳥生貞実は南北朝時代に足利尊氏の北朝方として戦った武士であり、その活動時期や、大祝一族の系譜に連なるとされる点などから、実は大祝安世が武士として名乗った名前、すなわち同一人物であったとみられています。
鳥生貞実(大祝安世)は、各地において戦功を挙げただけでなく、男山八幡大神、仏城寺、広紹寺など、今治市内の数多くの神社仏閣の創建や整備にも深く関与したと伝えられています。
これらの神社や寺院は、鳥生貞実(大祝安世)が単なる武人ではなく、神職の家に生まれた者として信仰の大切さを理解し、地域の祈りと平安を重んじていたことを今に伝えているのです。
大祝安人の婿入りと鳥生への本拠移転
その後、別名・塔の本に本家(宗家)を構えていた大祝家は、一族の継承をめぐって大きな転機を迎えました。
宗家の長男・大祝安人が、鳥生に居住していた同族の大祝氏へ婿入りしたことで、塔の本の宗家は後継者を失うことになったのです。
この事情から、天正5年(1577年)、塔の本の大祝家は鳥生側へ合流し、その居館である大祝屋敷(鳥生屋敷)に本拠が移されました。
以後、代々の大祝は鳥生を活動の中心とし、大山祇神社の最高神職としての務めを果たしながら、一族の伝統と格式をこの地で受け継いでいきました。
やがて江戸時代に入り、幕藩体制のもとで今治藩と松山藩の領地が確立すると、大祝家にも大きな転機が訪れます。
延宝3年(1675年)、今治・松山両藩主の協議によって、38代大祝・安期が鳥生を離れ、大三島・宮浦へ移住することが決まりました。
当時、大三島は松山藩の領地であり、大山祇神社の神職家を大三島に戻すための藩政的な意図が背景にあったと考えられます。
この移住によって、大祝家の中心は再び大三島に移され、のちに40代大祝・安躬の代には、家名も「大祝」から「三島」へと改められました。
こうして、古代以来続いた「大祝姓」はひとつの区切りを迎えましたが、その流れは新たな姓のもとで脈々と受け継がれていきます。
一方で、安期の弟である安質は今治城下に留まり、今治藩二代藩主・松平定時に七石二人扶持で召し抱えられ、以後は河上姓を名乗るようになります。
なかでも河上安固(かわかみ やすかた)は、度重なる洪水に悩まされていた蒼社川の治水に力を尽くし、流路整備や堤防構築に多大な功績を残しました。
こうした河上家の歩みを今に伝えるものとして、現在も大祝屋敷跡(鳥生屋敷跡)のそばに河上安固の墓所が残されています。
静かな住宅地の一角に佇むその墓は、大祝家から河上家へと受け継がれた血脈と、地域に尽くした人々の歴史を今に伝える貴重な痕跡となっています。
鶴姫生誕の地・別名村
鶴姫伝説で知られる大山祇神社の巫女・鶴姫。
その戦いの舞台といえば大三島を思い浮かべる人も多いと思いますが、実は鶴姫は別名村で生まれ育ちました。
鶴姫は、戦国時代の大永6年(1526年)、大祝氏が別名村塔本に居住していた頃、大祝三十一代・兵庫介安用(ひょうごのすけ やすもち)とその妻・妙林(みょうりん)とのあいだに生まれました。
幼いころから武芸に励む一方、琴や笛といった雅やかな芸事にも親しみ、武家の気風と社家の教養を併せ持つ女性として育てられたと伝えられています。
天文12年(1543年)、中国地方の大大名・大内義隆が家臣・陶隆房(のちの陶晴賢)に命じて河野領への侵攻を開始すると、大祝氏も戦火に巻き込まれ、大三島の三島水軍は劣勢に立たされました。
陣代であった兄や、恋仲とも伝わる同族の越智安成までもが戦死し、指導者を失った水軍は危機に陥りました。
この窮地に立ち上がったのが、当時18歳の鶴姫です。
甲冑を身にまとい、大薙刀を振るって敵将を討ち取ると、名乗りを上げて出陣し、「われこそは三島大明神の使いなり」と高らかに叫びながら奇襲をかけ、大内軍を撃退することに成功しました。
その後も鶴姫は大三島を守るために再び出陣し、死闘の末に大内軍の進攻を再び食い止めますが、最愛の安成を失った深い悲しみに耐えきれず、ある夜、ひとり舟を漕いで海へと消えたといわれます。
この最期の情景は、大三島の人々の心に深い衝撃と哀惜を残し、島の歴史とともに語り継がれ「鶴姫伝説」として長い時を越えて広く知られる存在となりました。
今日、大山祇神社には鶴姫が着用したと伝わる女性用の甲冑が残されており、「瀬戸内のジャンヌ・ダルク」として、その勇敢な生涯は今なお語り継がれています。
そして、鶴姫が生まれ育った別名に残る端谷五輪塔群は、古代から中世、そして戦国へと続く伊予の長い記憶が息づく特別な場所として、今も大切に守り継がれています。



