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神社SHINTO

古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院TEMPLE

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

史跡MONUMENT

時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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石風呂薬師堂・桜井石風呂(今治市・桜井地区)

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「石風呂薬師堂(いしぶろやくしどう)」は、桜井地区の海辺・石風呂と呼ばれる地域に建つ小堂で、病気平癒を祈る薬師如来を本尊としています。

この薬師堂の起源は、すぐそばにあった「桜井石風呂」と深く結びついています。

「石風呂」とは

「石風呂(いしぶろ)」とは、自然の岩窟や花崗岩を掘り抜いた横穴を利用し、その内部でシダや松葉を焚き、熱気を充満させたのち、海水に浸した莚(むしろ)を敷いて蒸気を発生させ、体を温める日本古来の蒸気浴です。

いわば「天然のサウナ」ともいえる存在で、通常のサウナよりも高温で発汗作用が強いとされます。

入浴者は、暗く熱気に満ちた洞窟内に座ったり伏せたりして汗を流し、外に出て海に浸かり体を冷やし、再び入浴するということを繰り返しました。

これにより神経痛や腰痛、疲労回復に効果があると信じられ、地域住民の癒しと社交の場として親しまれてきました。

石風呂は瀬戸内海沿岸を中心に広く分布し、山口・広島・愛媛・香川・徳島など中国・四国地方に多く存在しました。

また岡山や京都、三重、九州の福岡・熊本・大分などにも点在していたことが確認されています。

石風呂の名は、地名や文化財としても各地に痕跡を残しています。

愛媛県松山市の「石風呂町」、山口県岩国市の「野谷石風呂」、周防大島町の「地家室の石風呂」などがその代表例です。

これらはいずれもかつての蒸気浴文化の名残であり、瀬戸内一帯に石風呂が広く受け入れられていたことを示しています。

今治市内でも、大西町九王、大浜、菊間浦、そして桜井といった地域に伝承があり、昭和の時代まで利用されていましたが、時代の変化とともに利用者は減少。

九王の石風呂は昭和20年代初期に、大浜の石風呂も昭和34年頃に姿を消し最終的には桜井の石風呂のみがその伝統を伝える存在となっていました。

桜井石風呂

桜井石風呂は、今治市桜井海岸にある、自然の波によって削られた洞窟をそのまま利用した横穴風呂で、広さはおよそ50㎡。

畳にすれば30畳ほど、ちょうど学校の教室をひとまわり小さくしたくらいの空間にあたります。

岩窟の内部でシダを焚き、高温の熱気をこもらせたのち、海水に浸した莚(むしろ)を敷いて蒸気を発生させる「天然のサウナ」として、古くから広く知られてきました。

その効能は神経痛や腰痛、疲労回復に効果があると信じられ、夏の開設期間には近郷近在から多くの人々が訪れました。

そこは心身を癒す湯治の場であると同時に、人々が集い語らう社交の場、さらには薬師如来に病気平癒を祈る信仰の場としても大切にされ、瀬戸内の生活文化を象徴する存在となってきました。

燃料としてのシダの確保

石風呂を開設するにあたり、最も重要であり、かつ最大の労力を必要とするのが燃料となるシダの確保でした。

シダは単なる草木ではなく、火力の持続性や灰の少なさ、蒸気の発生に適した性質を備えた特別な燃料とされていました。

なかでも利用されたのはウラジロとるコシダです。

どちらもウラジロ科に属するシダの仲間ですが、ウラジロは神事や正月のしめ飾りに欠かせない清浄・長寿の象徴とされ、コシダは実用燃料として重宝されました。

開設に向けては、冬の間に裏山や周辺の山で刈り取りが始まりました。

斜面や雑木の多い山道での作業は重労働で、切り出したシダを一束ずつまとめ、背負子や荷車で運び下ろすのに多くの人手を要しました。

刈り取られたシダはその場で束(把)にまとめられ、倉庫に運び入れられて乾燥されます。

束が倉庫に山のように積まれていく光景は、夏の石風呂開設を待ちわびる人々にとって季節を告げる風物詩でした。

開設中に必要なシダの量は膨大で、一月半ほどで約1500束を消費したと伝えられています。

しかも同じ場所では4年間隔をあけなければ再び刈り取ることができないため、朝倉村や玉川町に刈り取りを依頼したり、新居浜市から取り寄せるなど、広範囲で調達が行われました。

このように、地域全体の協力体制があってこそ、毎年の開設が成り立っていたのです。

コシダの役割

燃料の中でもとりわけ重要視されたのがコシダでした。

コシダはウラジロと同じシダ植物の仲間でありながら、火力において格段の優位性を持っていました。

燃やした際に燃え残りがほとんど出ず、勢いのある火力を長時間維持できるうえ、残る灰も非常に細かく、舞い散ることが少ないため、洞窟内を清浄に保つことができました。

こうした特性が、蒸気を充満させるための燃料として理想的であり、「蒸しの効き目が違う」と評判を呼んだ理由でもあったのです。

さらに燃焼を安定させる工夫として、コシダに小指大ほどの雑木を少量混ぜて焚く方法も用いられていました。

こうして火力を繊細に調整しながら焚き上げることで、洞窟全体を一気に高温の蒸し風呂へと変えることができました。

燃え終わった後の灰の上には海水に浸した莚(むしろ)が敷かれ、さらにその上から海水を打ちかけると、一気に蒸気が立ち込めました。

焚き上げ直後の内部温度は100度を超える高温に達し、入浴に適した60度前後に下がるまでおよそ1時間を要しました。

こうして出来上がった蒸気環境は、まさに「天然のサウナ」と呼ぶにふさわしいもので、人々はその熱気と蒸気に包まれながら、汗を流し、体を癒し、信仰と社交のひとときを過ごしたのです。

利用の仕方と体験
  1. 入浴前の準備:入浴者はまず更衣室で Tシャツとズボン(水着でも可) に着替え、頭からバスタオルをかぶりました。洞窟の内部は暗いため、入口付近でしばらく目を慣らし、できるだけ姿勢を低くして、座る場所を探しながら入ります。
  2. 石風呂の内部:内部はコシダの燃え跡による熱気と蒸気が充満し、まさに「天然の蒸し風呂」。座ったり伏せたりしながら10分ほど滞在し、大量の汗を流します。体には灰が付着し、独特の匂いと熱気に包まれるのが特徴でした。
  3. 海での清め:石風呂を出ると、すぐ前の海に飛び込み、体についた灰を洗い流しながら体を冷やしました。さらに入口脇に設けられた 潮風呂(海水風呂) に浸かり、再び石風呂へと戻ります。
  4. 入浴の繰り返し:この「入浴 → 海へ → 潮風呂 → 再び入浴」という流れを 2〜3回繰り返すのが基本で、健康効果が高いとされました。熱心な人は1日に5〜6回、多い時には10回以上も入浴を繰り返したといいます。
  5. 入浴後:最後には石風呂前の浴場で温水シャワーを浴び、体を清めて着替えました。
開設期間と賑わい

開設は毎年7月10日から8月の最終日曜日までの約二か月間に限られ、夏の風物詩として親しまれていました。

入浴料は大人500円、子供200円で、午前と午後に二度焚かれる洞窟の前には、開門を待ちかねた人々が列をなし、蒸気が満ちるのを今か今かと待ち構えていました。

昭和中期の全盛期には、延べ1万人近い入浴客が訪れたといわれます。

今治市内はもとより、松山や新居浜、さらには広島県など県外からも湯治や物見遊山を兼ねてやって来る人が後を絶ちませんでした。

需要に応じて一日に三度焚かれることもあり、当時は7月1日から9月20日までと長期間にわたり開設されていました。

なかでも8月2日の薬師堂の縁日は年間を通じて最も賑わいを見せる日でした。

薬師如来に病気平癒を祈願する参拝者と石風呂を楽しむ人々が一度に押し寄せ、海辺には露店や屋台が並び、あたりは市場さながらの熱気に包まれました。

この時期には、施設内に整えられた簡易宿泊所や売店を利用し、数日間滞在する客も少なくありませんでした。

農繁期を終えた農家の人々が「骨休め」に身を預け、昼間は海水浴、夕方には蒸し風呂と、心身を癒やすひとときを過ごしたのです。

運営の仕組み

石風呂を支えていたのが桜井・郷桜井・沖浦の三つの地域に人々の協力

運営には「財産区」と「運営委員会」が関わり、協議員は三地区から6:3:1の割合 で選出されました。

資金繰りや施設の維持、燃料であるシダの調達、倉庫管理など多岐にわたる業務が分担され、地域全体の協力体制によって毎夏の開設が成り立っていたのです。

衰退と休止

しかし、昭和以降の社会変化により利用者は減少し、かつては各地に存在した石風呂も次々と姿を消していきました。

九王や大浜の石風呂が廃止された後も、桜井のものだけは地域の協力により命脈を保ちましたが、平成16年には一度休止を余儀なくされました。

それでも人々の強い思いに支えられ、平成18年には「石風呂開き」と呼ばれる行事を経て復活を果たし、再び多くの入浴客を迎えることができました。

再開時には、法華寺での安全祈願や焚き始め式が執り行われ、NHKによる生中継もあって広く注目を集めました。

しかしながら近年は再び再開の見通しが立たず、2025年現在、休止したままとなっています。

【起源①】法華寺の寺伝

桜井石風呂の起源については、古くから法華寺(旧・伊予国分尼寺)の寺伝『法華寺縁起』に語り継がれています。

法華寺の創建と役割

法華寺の起源は奈良時代の天平13年(741年)にさかのぼります。

当時の日本は度重なる地震や飢饉、そして天然痘をはじめとする疫病の流行に見舞われ、社会不安が広がっていました。

特に天然痘の大流行は人々を恐怖に陥れ、国家の根幹を揺るがす深刻な危機とされました。

こうした状況に対し、聖武天皇と光明皇后は「鎮護国家」の思想を掲げ、仏法の力によって国を安定させようと考え、全国に「国分寺」と「国分尼寺」を建立することを命じました。

その政策の一環として、全国に「国分寺」と「国分尼寺」を建立することを命じました。

伊予国では、かつて国府が置かれていた桜井の地に、国家鎮護のための寺院が整えられました。

国分寺(伊予国分寺)は、本性上人(ほんしょうしょうにん)によって、伊予国分尼寺(現:法華寺)は尼僧・證爾尼(しょうじに、證爾大尼公)によって建立されました。

宗派と役割

当初の法華寺は「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」と呼ばれ、華厳宗東大寺に属する寺院でした。

ここでは女性僧侶たちが国家と民衆の安泰を祈るとともに、疫病平癒を願う修行と祈りが日々行われました。

法華寺はまさに国と人々の健康を支える「祈りの拠点」であったといえます。

石風呂と薬師堂の起源

さらに證爾尼は、庶民の病苦を癒すために桜井海岸の自然の洞窟を「石風呂」として整備し、そのそばに宿坊「法徳院」を建立し、薬師如来を本尊として祀りました。

こうして石風呂は、病を癒す場であると同時に、仏の加護を願う祈りと修行の場としても位置づけられるようになったのです。

また、石風呂の上に広がる岩場にも薬師如来が祀られたと伝えられています。

現在その場所には「石風呂薬師堂」が建っており、この伝承が同堂の起源と考えられます。

日本最古級のサウナの可能性

日本最古のサウナは、奈良時代(710~794年)に高僧・行基が創建したと伝わる香川県さぬき市の「塚原のから風呂」であるとされています。

もし桜井石風呂の伝承が事実であれば、それに並ぶほどの古さを持つ、日本最古級のサウナであるといえるでしょう。

【起源②】弘法大師と桜井石風呂

法華寺(国分尼寺)に法華寺縁起「 温石窟縁起(いしぶろえんぎ)にはさらなる説が伝わっています。

弘法大師の来訪と法華寺の改宗

平安時代に入ると、法華寺の歴史に大きな転換点が訪れました。そのきっかけをつくったのが、真言宗の開祖であり、日本仏教史において極めて重要な人物である弘法大師(空海)です。

弘仁6年(815年)、全国を巡って真言密教を広めていた弘法大師(空海)は、伊予国を訪れる道中で桜井の地に立ち寄り、「伊予国分尼寺」を訪問しました。

空海はこの地で真言密教を説き、修法を伝えたといいます。

その影響によって、法華寺は華厳宗から真言宗へと改宗し、以後は真言宗の道場として地域に根づいていきました。

空海と石風呂の伝承

法華寺の寺伝によれば、この時期に弘法大師(空海)は桜井の石風呂を訪れ、その霊験を深く称賛し「除病延寿の霊地にまさるものなし」と語ったと伝えられています。

また、空海は手足のしびれで行き倒れていた旅人を見つけ、石風呂での入浴法を教えました。

すると旅人はたちまち回復し、この出来事が桜井やその周辺に石風呂が広まるきっかけになったともいわれます。

さらに、空海は石風呂の霊力に感銘を受け、自ら薬師如来の木像を刻んで祀ったと伝承されています。

その評判は遠く京にも届き、やがて近郷の人々のみならず、公家や高僧までもが業病や難病の治療を願って桜井を訪れるようになりました。

こうした伝承から、「桜井石風呂」は単なる療養の場にとどまらず、弘法大師の加護を受けた霊地として広く信仰を集め、四国遍路における番外霊場のひとつに数えられるようになったのです。

現在、この石風呂は郷桜井の法華寺によって守られています。

今日に至るまで石風呂は法華寺の所有地であり、薬師堂の祭祀も同寺が執り行うのが慣例となっています。

【起源③】うつぼ舟伝説

一方、桜井石風呂には、法華寺や弘法大師の伝承とは別に、もうひとつの「うつぼ舟伝説」が語り継がれています。

うつぼ舟とは

「うつぼ舟」とは、虚舟(うつろぶね)、空穂舟(うつぼぶね)とも呼ばれる漂流舟の伝承で、日本各地の民俗に広く登場します。

外見は「蓋付きの丼のような舟」とされ、江戸時代には「正体不明の漂着物」として語られ、のちに「謎の乗り物=UFO」と重ねて紹介されることもあります。

こうした全国的な「うつろ舟」の伝説が、桜井石風呂にも残されています。

桜井石風呂のうつぼ船伝説

江戸時代初期の寛永から承応年間(1624〜1655年)。

当時の都では、天然痘や麻疹といった感染症が流行するたびに多くの命が奪われ、人々は病を「穢れ」と見なして恐れていました。

まだ医術が十分に発達していなかったこの時代、人々ができることは神仏に祈りを捧げることや、御霊会・祇園祭といった疫神を鎮める祭礼を行うことでした。

さらに、病や災いを人形に託して水へ流すことで浄化を願う風習も広く行われていました。

  • 形代流し(かたしろながし)
    紙や草木で作った人形(形代)に自らの罪や災厄を託し、川や海に流すことで身を清める行事。平安時代の『源氏物語』にも描かれており、現在でも「夏越の祓(なごしのはらえ)」の際などに形代を用いる習わしが残っています。
  • 雛流し(ひなながし)
    雛人形に子どもの病や不幸を移し、それを水に流すことで健やかな成長を祈る行事。古代の形代流しから発展し、やがて「雛祭り(桃の節句)」の由来にもなりました。現在も京都・下鴨神社の「流し雛」や鳥取県用瀬町の「流しびな」として伝承されています。

こうした「穢れを水に託して遠ざける」という思想が、ときに人そのものに及ぶこともありました。

桜井石風呂の伝承によれば、不治の病にかかった高貴な人を「櫓も櫂もない小舟=うつぼ舟」に乗せ、夜陰に紛れて海へ流すという、非情な風習があったといいます。

姫を救った長野孫兵衛

ある年、重い病にかかった一人の高貴な姫君が、家族と涙ながらに別れを告げ、うつぼ舟に乗せられて都を離れました。

舟は幾日も波間に漂い、やがて伊予国(現在の愛媛県)桜井の浦へと流れ着きました。

浜辺に打ち上げられ、衰弱していた姫を救ったのは、この地で新田開発に力を注いでいた長野孫兵衛(ながのまごべえ・本名:長野孫兵衛通永)でした。

孫兵衛は戦国末期に河野氏に仕えた長野通秀の子で、父が「天正の陣」で敗れて武士の身分を失ったのち、一族は別名村で農業に従事していました。

その後、福島正則との縁を得て匡王山(別名・猪追山)の山麓を開拓し、やがて現在の「孫兵衛作」地域の基礎を築き、その功績から没後に神格化され、細埜神社に祀られています。

その人柄と働きぶりから、孫兵衛は人々の信頼を集め、困っている者を決して見過ごすことはなかったのでしょう。

孫兵衛は、弱り果てた姫を介抱し、療養のために桜井海岸の自然の洞窟へと導きました。

洞窟の奥ではシダが焚かれ、燃え残りの熱に潮水を注ぐことで蒸気が立ち込め、洞内はむせ返るような熱気に満たされました。

姫はその蒸気に身を包み、潮水を含ませた石の上に腰を下ろして汗を流しながら療養に励みました。

やがて日ごとに病は快方へと向かい、数か月ののちにはついに全快。

奇跡の回復を遂げた姫は孫兵衛の徳を慕い、その後の生涯を側近として仕えました。

これが「桜井石風呂」の起源とされる伝承になります。

綱式天満神社との関係

この伝承を裏付けるように、桜井石風呂はもともとは長野孫兵衛の開拓地である、孫兵衛作村の人々が管理していました。

しかし、一村だけでは維持が難しくなりました。

そこで、それに変わって同じ桜井地区で綱敷天満宮(綱敷天満神社・新天神)の氏子であった「浜」「郷桜井」「沖浦」の三地域が、共同で経営・管理を担うようになったと伝えられています。

南明禅師の伝承

桜井石風呂の起源については、前述の法華寺や弘法大師、うつぼ舟伝説のほかにも、鎌倉時代に平家の落武者がこの地で石風呂に入り、療養したことに始まるという説も残されています。

いずれにしても、桜井石風呂は古代から近世に至るまで、人々の病を癒やし、心を支える霊場として語り継がれてきました。

この石風呂を一層有名にしたのは、天和元年(1681年)。

「嘯月院(しょうげついん)」を創建した禅僧・南明(なんめい)禅師がここを訪れ、石風呂に入浴したことで、長年の持病であった「しびれ」がたちまち治まり、体調が回復したと伝えられています。

この時、その喜びを詩に託し、薬師如来の功徳を讃えて次の漢詩を残しました。

巌洞焼柴敷海藻 平治萬病一方浜
医王善逝如来徳 遊泳浴餘幾計人

この漢詩の原本は、別宮村の村人の家に大切に保管されていたもので、文化7年(1810年)、桜井石風呂のそば石碑とし刻まれて建立されました。

しかし、時を経て風化が進んだため、昭和63年(1988年)に桜井石風呂運営委員会によって再建され、現在もその詩は「桜井石風呂碑」として伝えられています。

以下がその碑文です。

桜井石風呂碑

桜井の頻(浜)竈欲する者有り柴を其内に燃し炎気を今む而して海蘋(海藻)を布き人は其上に臥す。

以て温和なれば則と遍身(体全体)汗を発す。

其気体中に浹洽(あまねくゆきわたる)すれば則ち、病の癒えざるは靡ず。

其の最輻する(洽客の多いことは)立面にして其験(入浴のききめ)を見る。

側に醫王仏の石像(薬師如来像)有り。

浴するも之を信ずれば益~奇得(尊いおかげ)がある。

兹に竈浴の濫觴(はじめ)を原ぬるに、何年に昉まったか里人と雖ども焉を知らざるなり。

蓋し延宝粘稠(一六三年〜一六六〇年)より熾に行いしは既に明らかなり。

同年辛酉の(一六八六年 天和元年)春、無住軒南明大禅師不遂の患有り乃ち此に浴すれば、則ち、痿痺(しびれ)忽ち霍毅然(たちどころ)として常に復す。

和尚歓喜の餘一詩を賦して焉を遺す所なり。

今、既に一百三十年を歴るも、此詩の本書は遺逸(紛失)せずして郷の家に在り。

之に依りて村上氏は此の詩を石に刻し、以て後人に貽さん(貼さん?)と欲して予に諜る

予曰く「哿き哉、此擧(くわだて)、石に上せて伝うれば朽ちず。顧うに君子市井の人(偉い人も一般人も)此詩を看て南明を知り南明に依りて竈浴を知る。而して来り浴する者猶、賈(店)の市に肆ごとし。則ち四方の人、豈不幸ならん哉。」

村上氏遂に諾す(承諾する)以て、石を此所に建つ。

予從いて之の記を為り、併せて、此詩にだいして、昆後(今後)貼す(示す)。

村上氏は承諾し、ここに石碑を建てた。
私はこの記録を記し、併せて南明禅師の詩をここに示す。


巌洞、柴を焼いて海瀕を敷き
萬病を平治する一方の浜
醫王善逝如来の徳(薬師如来像のおかげ)
遊泳溢餘幾計人(溢れ餘るほどお多ぜいの人が遊泳しているよ)


文化七年(一八七〇年)歳在庚午
冬十一月 穀旦(吉日)

膳藩後学 中川安世浾美撰
皇硯寿堂常陸掾井阪平英一書

桜井石風呂運営委員会
昭和六十三年 十二月吉日

桜井石風呂碑(現代文)

桜井の浜には昔から石風呂がありました。

中で薪を燃やして熱気をため、その上に海藻を敷いて横になると、体がじんわり温まり、全身から汗が吹き出します。

熱気が体の隅々まで行き渡ると、治らない病はないと伝えられています。

実際に多くの人が訪れ、その効き目を体験してきました。

そばには薬師如来の石像があり、これを信じて湯浴みすれば、さらに尊いご利益を授かると信じられています。まさに如来の大いなる慈悲のあらわれです。

この石風呂がいつ始まったのか、地元の人でも正確には分かりません。

ただ、延宝年間(1670年後半)にはすでに盛んに利用されていたことは確かです。

天和元年(1681年)の春、無住軒南明という禅僧が病にかかりました。

そこでこの石風呂に入ったところ、手足のしびれがたちまち治って元の体に戻ったのです。

和尚は大いに喜び、その記念に一首の詩を残しました。

それから百三十年以上が過ぎても、その詩は失われず、村上家に大切に伝えられていました。

やがて村上氏は、この詩を石に刻んで後世に伝えたいと考え、私に相談しました。

私は答えました。

「なんとすばらしいことか。この詩を石に刻めば、永遠に残ります。
人々はこの詩を読んで南明和尚を知り、そして石風呂を知るでしょう。
やがて石風呂を訪れる人は、市場に店が並ぶように多く集まるにちがいありません。
四方の人々にとって、これ以上の幸せはないでしょう。」

こうして村上氏は石碑を建てることを決め、私はその経緯を記しました。
そしてあわせて、南明和尚の詩を刻み、後の世に伝えることにしました。


岩屋の洞で薪を焚き、海藻を敷いたこの浜は、
あらゆる病を治す場所である。
ここに祀られる薬師如来のご加護によって、
あふれるほど多くの人が集まり、湯浴みをしている。


文化七年(1819年)十一月吉日
膳藩後学 中川安世浾美 撰
皇硯寿堂常陸掾 井阪平英一 書

桜井石風呂運営委員会
昭和63年(1988年)12月吉日

祈りと暮らしが息づく桜井の石風呂

このように桜井の石風呂は、単なる湯治場にとどまらず、瀬戸内の生活文化と深く結びついた信仰と社交の場として、長い歴史を歩んできました。

そこには、力を合わせた地域の営みがあり、汗を流して心身を癒す人々の姿があり、病を癒すことを願って薬師如来に手を合わせる信仰の心が息づいていました。

現在は休止していますが、石風呂薬師堂と「桜井石風呂碑」が静かにその歴史を伝えています。

桜井の石風呂は、そして薬師堂は、地域の人々が紡いできた祈りと暮らしの記憶を今に映す、かけがえのない文化遺産なのです。

寺院名

石風呂薬師堂(いしぶろやくしどう)

所在地

愛媛県今治市桜井1184-3

本尊

薬師如来像

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