神社に並ぶ酒樽、今治に残る神酒の風景
神社の境内に、ずらりと並ぶ酒樽を目にしたことがある人は多いでしょう。
白地に蔵元の名が記された酒樽は装飾のようにも見えますが、単なる飾りではありません。
その一つ一つが、神へ捧げられたお酒である奉献酒(ほうけんしゅ)です。
そこには、この土地で醸された酒が祈りとともに神前へ捧げられてきた歴史が、静かに刻まれています。
今治で酒造りの営みを今に伝えているのが、代表銘柄「山丹正宗」を醸す今治市唯一の酒蔵、八木酒造部(愛媛県今治市旭町3丁目3−8)です。
今回は、神道と酒の関係、稲作と祈りの文化、そして大三島の大山祇神社へと受け継がれてきた酒の物語をたどりながら、八木酒造部が守り続ける今治の風景を見つめていきます。

「神道とお酒」私たちの暮らしに溶け込むお酒
私たち日本人は、特に意識することなく、日本酒と神道が結びついた暮らしの中で生活しています。
正月には初詣で訪れた神社で御神酒をいただき、神道の結婚式では新郎新婦が御神酒を酌み交わします。こうした場面は、ごく自然に私たちの生活の中に溶け込んでいます。
これらの酒は「御神酒(おみき)」と呼ばれ、神様にお供えするお酒のことです。
御神酒は、神社や神棚に供えられる神饌(しんせん)の一つです。
神社の拝殿や家庭の神棚に、小さな瓶や徳利のお酒、その横に白いお米や塩、水などが並んでいるのを見たことがある方も多いかもしれません。
あれが神饌と呼ばれる供え物です。
これらは神前に捧げられた後、「お下がり」として人々がいただきます。
お供えした御神酒やお米を口にすることで、神の力や加護を分けていただくという意味が込められています。

神棚 撮影:beauty-box(写真AC)
「献酒」神様に酒を捧げる
一方、献酒(けんしゅ)とは、神前にお酒を納める行為そのものを指します。
御神酒が「供えられた酒」であるのに対し、献酒は「酒を捧げる」という祈りの所作です。
献酒には、五穀豊穣や無病息災、家内安全などを願う気持ちが込められており、神に酒を捧げることで、その恵みを受け、またお下がりとして酒をいただくことで、神の力を身に受けると考えられてきました。
神様から授かった命の恵み“お米”
日本酒の原料であるお米は、単なる農作物ではありません。
日本では古くから、稲は神様から授かった神聖な恵みとして受け止められてきました。こうした米への特別な意識は、日本神話の中にも静かに語り継がれています。
高天原に坐す天照大御神(あまてらすおおみかみ) 、地上の世界を治めるため、孫である邇邇芸命(ににぎのみこと、瓊瓊杵尊)を遣わしました。
その際、三種の神器とともに授けられたのが、高天原で育てていた稲穂です。
これが天孫降臨の神話であり、稲は天上界から地上にもたらされた神聖な存在であるとされています。
この神話に由来し、日本は「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれてきました。
これは「稲穂が豊かに実る国」という意味で、日本という国そのものが、古くから稲作と深く結びついてきたことを表しています。
つつまり、日本人にとってお米とは暮らしの中に深く根付いた、かけがえのない存在なのです。

稲作は祈りの営みだった
古来より日本人は、稲作を単なる生産活動ではなく、祈りと感謝を伴う神聖な営みとして受け継いできました。
田を耕し、苗を植え、成長を見守り、実った稲を刈り取るまでの一連の過程は、自然と向き合い、神の働きに身を委ねる時間でもありました。
稲作は人の力だけでは成り立ちません。
日照や雨、風、土の状態など、あらゆる自然の条件がそろって、はじめて収穫日を迎えます。
そのため農作業の節目節目には祈りが捧げられるようになりました。
春には田植えを前に、その年の五穀豊穣を願う祈年祭(きねんさい)が全国各地の神社で行われてきました。
苗が育つ夏には、台風や長雨などの風水害を鎮めるための祈願や、地域ごとの例祭が営まれ、自然災害から田畑を守る祈りが捧げられてきました。
土地によっては風を鎮める神事や雨乞いの祭りも行われ、刻々と変わる自然と向き合いながら稲の成長が見守られてきました。
そして秋には、新嘗祭(にいなめさい)が行われ、その年に実った新米を最初に神前へ供え、恵みに感謝し、再び来年の実りへと願いが込められます。
こうした年中行事は、日本人の精神性を体現しています。
日本人は神への感謝を通して命の循環の中に身を置き、自然の恵みを一方的に受け取る存在ではなく、自然に敬意を持って寄り添いながら生きてきました。
お米を育てる稲作とは、日本人にとって単に食べるため、稼ぐための手段ではありません。
それは自然への畏敬と神への感謝を形にする行為であり、人と自然、そして神とを結びつける祈りそのものなのです。
米は酒となり、再び神へ還る
その神聖なお米が姿を変えたもの、それが日本酒です。
米に清らかな水と人の技が加わり、さらに目に見えない発酵の力によって醸される酒は、人の力だけでは生み出せない領域を含んでいます。
そこには自然の働きと、長い年月の中で受け継がれてきた知恵が重なり合っています。
完成した酒は、再び神前に供えられ、献酒として御神酒となります。
神から授かった米は、人の手を経て酒となり、再び神へ返され、やがてお下がりとして人々のもとへ戻ってきます。
ここには、「神から授かり、神へ返し、再び人へ巡る」という、日本人が大切にしてきた命の循環が静かに息づいているのです。
大山祇神社と酒造りの神
各地の神社と同じく、大三島に鎮座する三島信仰の総本社大山祇神社も、こうした米と酒、そして祈りを今に伝えています。
拝殿前回廊には、全国各地の酒蔵から奉納された酒樽がずらりと並び、酒造関係者や参拝者の篤い信仰を今に伝えています。
大山祇神社は、平安時代の法令集である延喜式に名神大社として記載された式内社であり、神前に御神酒を供える習慣は古くから受け継がれてきました。
松山藩の領内であった江戸時代には、神社祭礼も藩政のもとで営まれ、藩主参拝などの公的行事に際しては、藩の指示によって選ばれた銘酒が調達され、神前に供えられていたと伝えられています。

陸と海に広がった信仰と、幾つもの神名
そして大山祇神社は、とくに「酒」と深く結びついた神社でもあります。
祭神である大山祇神(おおやまつみのかみ・おおやまづみのかみ)は、山の神であると同時に海の守護神としても信仰され、瀬戸内海の要衝に位置する大三島を中心に、人々の暮らしと深く結びついてきました。
その信仰の広がりを反映するように、古くから地域や時代によって、さまざまな名で呼ばれてきました。
- 大山積神(おおやまづみのかみ)
- 大山津見神(おおやまつみのかみ)
- 三島大神(みしまのおおかみ)
- 三島大明神(みしまだいみょうじん)
こうした多様な呼び名は、大山祇神が長い歴史の中で、陸と海の両方から人々の生活を支えてきたことを物語っています。
酒造りの祖神「酒解神」と天甜酒の神話
そして、さらにもう一つ、大山祇神には特別な呼び名があります。
それが「酒解神(さけとけのかみ)」です。
神話によれば、大山祇神の娘である木花咲耶姫命が、燃えさかる火の中で無事に御子を産んだ際、その安産を大山祇神が大いに喜び、狭名田の茂穂を用いて「天甜酒(あめのたむさけ)」を醸し、神々に供えたと伝えられています。
これが、日本における酒造りの始まりとされる物語です。
この出来事を通して、「神が初めて酒を醸した」と認識されるようになり、父である大山祇神は酒を造った神として「酒解神(さけとけのかみ)」、そのきっかけとなった娘の木花咲耶姫命は「酒解子神(さけとけこのかみ)」と呼ばれるようになりました。
そしてこの親子二柱は、ともに酒造りの起源を担う存在として信仰され、酒造の祖神とされています。
さらに酒解神は、娘の安産を喜んで酒を醸した神であることから、酒造りの祖神であると同時に、安産の神としても広く崇敬されてきました。
神社の斎田から生まれる御神酒「白鷺」
大山祇神社における神酒は、天甜酒の神話を背景に持ち、大山祇神が日本で初めて酒を醸したと伝えられる、きわめて象徴的な存在です。
その御神酒は、境内に守り継がれてきた斎田(さいでん)で育てられた米から造られています。

初夏、斎田では御田植祭が執り行われ、神輿が田の近くまで渡御します。
白装束の早乙女たちが苗を植え、一人角力などの古式神事芸能が奉納されるこの日、神と人は同じ場に集い、五穀豊穣への願いを一つにします。
田に踏み入る一歩一歩は、単なる作業ではなく、自然と神々への感謝を身体で表す祈りそのものです。
やがて秋を迎えると抜穂祭が営まれ、早乙女の手で刈り取られた稲穂は新穀として神前に供えられます。
一年をかけて育まれた斎田米は、もはや農作物の域を超え、清らかな供物として神に捧げられる存在となります。
この循環こそが、土地の信仰と暮らしを結びつけてきた根幹といえるでしょう。
さらに斎田米は御神酒へと姿を変え、酒殿の前で毎年旧暦の冬至に行われる酒口祭(みけぐちまつり)の際、再び神前に供えられます。
かつては神域内の酒殿において神酒が醸されていました。
祭りのおよそ一週間前から準備に入り、酒口祭を執行したのち、一夜酒を仕込んだと伝えられています。
しかし時代の変化とともに、御神酒は酒造所へ委託して醸造されるようになりました。
その役割を担っていたのが、1873年(明治6年)創業の老舗酒蔵・徳本酒造合名会社です。
酒殿の前には、同酒造が寄進した灯籠が立ち、神域で酒が醸されていた時代からの歩みを、今も静かに伝えています
八木酒造部が醸す御神酒
そして現在、その御神酒造りを受け継いでいるのが八木酒造部です。

八木酒造部ではもともと、愛媛県産の酒米「松山三井(まつやまみい)」を用いた代表銘柄「山丹正宗 純米酒 松山三井」を定番酒として醸しており、この土地の米の特性を生かした酒造りを続けてきました。
そうした積み重ねの中で、御神酒にも松山三井が用いられることになり、斎田でも同じ品種の稲が育てられています(2025年現在)。
そして、こうして造られた御神酒には特別な名前が授けられました。
それが「白鷺(しらさぎ)」です。

三嶋神の神使としての白鷺
今治で白鷺は、古くから人々の暮らしに溶け込み、ごく当たり前の田園風景として親しまれてきました。
一方で、大山祇神社を中心に広がる三島信仰(三嶋信仰)と、瀬戸内の武将たちの伝承が重なり合う、特別な鳥でもあります。
今からおよそ1300年前、古代伊予の豪族である越智益躬は、異国の武将「鉄人」との戦いに際し、大山積神(三嶋大神)に祈願を捧げ、神託を得て強敵を討ったと伝えられています。
この加護に感謝した益躬は、帰国後に一本の榊の大樹の枝に鏡を懸け、そのふもとに大山積大神を祀る社を創建しました。
この社は、木の下(樹下)という場所に建てられたことから「木の下三島宮(きのもとみしまぐう)」と称されました。
そしてこの社が、後に合祀されて三嶋神社・祇園神社へと発展していく、三嶋神社の起源であるとされています。
やがてその神木には白い鳥が集まり巣を作るようになり、人々はこの光景を神意の表れと受け止め、「鳥生(とりう)の宮」と呼ぶようになったと伝えられています。
この白い鳥こそが白鷺であり、清らかで神々しい姿から「三嶋神の神使」として崇敬されるようになりました。
時代が下り、鎌倉時代の元寇の際には、越智氏の血を引く武将である河野通有のもとに一羽の白鷺が舞い降り、矢をくわえて敵将のいる船の方角を示したと伝えられています。
この導きによって果敢な攻撃が成功し、日本側の士気は大いに高められたと語り継がれてきました。
現在も大山祇神社には、白鷺が勝利へと導いたとされる場面を描いた絵馬や破魔矢などに、その伝承が今も受け継がれています。


御神酒を醸す今治唯一の酒蔵「八木酒造部」
八木酒造部は、今治の酒造りを今に伝える唯一の酒蔵として、地域の歴史とともに歩みを重ねてきました。
天保二年(1831年)。
奈良県丹波出身の八木治兵衛が今治の地に移り住み、「丹波屋」の屋号で商いを始めました。
当初は醤油造りや木綿の卸を生業としていましたが、天保五年(1834年)には今治藩から酒造営業の許可を得て、本格的に酒造りへと歩みを進めました。
これが八木酒造部の歴史の始まりになります。
代表銘柄「山丹正宗」
代表銘柄である「山丹正宗」という酒名には、創業者・八木治兵衛の出身地である丹波に由来する「丹」と、屋号に用いられてきた山形紋、そして名刀正宗の切れ味になぞらえた「正宗」が重ねられています。
そこには、「刀のようにキレの良い酒を造りたい」という、きわめて職人気質な願いが込められていました。
実はこの時代、神戸の酒蔵・櫻正宗 が名付けた「正宗」が評判を呼び、それをきっかけに「正宗」という酒名は全国へと急速に広がっていきます。
命名については諸説ありますが、天保十一年(1840年)に櫻正宗六代目の太左衛門が京都の元政庵瑞光寺を訪れ、机上にあった「臨済正宗」と記された経典を目にしたことが発端になったとも伝えられています。
「正宗」の音読みである「セイシュウ」が「清酒(せいしゅ)」に近く、語感の良さや縁起の良さも後押ししたとされます。
当初は「せいしゅう」と読ませる意図だったともいわれますが、江戸の人々はこれを「まさむね」と読み、その呼び名が次第に定着していきました。
明治時代に入り商標条例が施行されると、櫻正宗を営む山邑酒造は、酒名をそのまま「正宗」で登録しようと試みます。
しかし当時すでに全国各地で「〇〇正宗」と名乗る銘柄が数多く存在していたため、「正宗」は固有の商品名ではなく普通名詞と判断され、単独での登録は認められませんでした。
そこでやむなく国花である「桜」を冠し、「櫻正宗」として正式登録したと伝えられています。この経緯は、「正宗」がすでに特定の蔵を超え、「良質な清酒そのもの」を象徴する言葉として全国に浸透していたことを物語っています。
山丹正宗という酒名もまた、そうした時代の空気を映し出しながら、自らの酒質と誇りを託して選ばれたものと考えられます。
八木商店が築いた酒蔵の礎
藩主への醤油納入を通じて信頼を築いた八木家は、やがて御用商人へと成長し、明治後期以降は醤油、酒造、木綿を柱とする八木本家商店として地域経済を支える存在となります。
明治三十七年(1904年)には酒造専業へ転じ、大正初期には「八木酒造部」の名が社名として用いられるようになりました。
昭和初期の記録によれば、当時の今治市と越智郡には三十もの酒蔵が存在していました。
その中で年産約二二〇〇石という最大規模を誇っていたのが八木酒造部で、清酒「山丹正宗」は四国では香川の金陵に次ぐ評価を得ていたと伝えられています。
昭和三年秋の全国酒類品評会では一等賞を受賞し、東京へも大量出荷されるなど、全国的にも名を知られる酒蔵でした。
現在の地へ移転
昭和十年(1935年)、より良い仕込み水を求めて蔵は現在の旭町へ移転します。
しかし昭和20年(1945年)の今治空襲により蔵は全焼し、長年積み重ねてきた設備や資料の多くを失いました。
それでも蔵人たちは立ち止まりませんでした。
戦争が終わった翌年、昭和21年(1946年)には酒造りを再開します。
米も資材も不足する戦後の混乱期にあって、酒を仕込むことは決して容易ではありませんでした。
道具をかき集め、残された技と記憶を頼りに、もう一度酒を醸す。
そこには、単なる商いの再開ではなく、地域の営みを取り戻そうとする強い意志がありました。
「越智杜氏」瀬戸内の島々に育まれた酒造りの系譜
八木酒造部の酒造りを語るうえで欠かせない存在が、越智杜氏(おちとうじ)の系譜です。
杜氏(とうじ)とは、酒蔵(さかぐら)で酒造り全体を統括し、品質と工程に最終責任を負う最高責任者です。
米の選び方、水の扱い、麹(こうじ)の育ち具合、醪(もろみ)の発酵の進み方までを見極め、日々判断を積み重ねながら一本の酒へと仕上げていきます。
現代的に言えば、職人であり現場監督であり、酒蔵という共同体を束ねる親方(おやかた)的存在です。
酒造りは一人の技では成り立たず、頭(かしら)、麹屋(こうじや)、酛屋(もとや)、蔵人(くらびと)といった役割が連なり、その頂点で全体を引き受けるのが杜氏です。
島から生まれた越智杜氏
かつて愛媛県内には二つの大きな杜氏集団がありました。
越智郡島しょ部を拠点とする越智杜氏と、佐田岬半島を拠点とする伊方杜氏です。
なかでも越智杜氏は、規模と技術の両面で際立ち、四国を代表する酒造労働者集団でした。
越智杜氏は現在の今治市周辺、とくに宮窪を中心とした島嶼部の出身者が多く、「宮窪杜氏」とも呼ばれていました。
彼らの多くは出稼ぎ型で、冬は酒蔵で酒造りに従事し、夏は塩田や漁、島の仕事で生計を立てるという生活を送っていました。
土地が限られ、農業だけでは暮らしが成り立ちにくい島という環境が、冬の酒造りと夏の島仕事を往復する循環を生み、その中で技が磨かれていったのです。
五感で酒を読む造り
越智杜氏の酒造りの特徴は、数値よりも五感を重んじる点にあります。麹の香り、蒸米の手触り、醪の泡の立ち方や音。
こうした微細な変化を身体で感じ取り、その日の状態に応じて工程を微調整していきます。
瀬戸内の島々で育った人々は、潮の流れや風の変化を読むことに長けていました。
その感覚は酒造りにも生かされ、「酒は生き物」という考えのもと、自然と向き合いながら造られる酒が生まれてきました。
「酒呑み坊さん」海南寺から始まる宮窪杜氏の起源
宮窪杜氏の起源として語られるのが、宮窪町の海南寺に残る「酒呑み坊さん」の逸話です。
寛政二年(1790年)、海南寺には圓乗(えんじょう・円乗)という僧が第十六代住職として迎えられました。

圓乗は若い頃に修行を重ね、各地で住職を務めた経験をもつ人物でした。
その一つが伊丹市です。
当時の伊丹は酒造技術の中心地で、ある年、小西酒造において、偶然にも澄み切った透明な酒が生まれました。
まだ濁り酒が主流だった時代、この酒は味も良かったものの、地元ではなかなか受け入れられず、売れ残ってしまいます。
そこで酒蔵は試みに江戸へ送ったところ評判は一変し、大きな人気を集め、注文が相次ぎました。
これを受け、蔵元は伊丹に滞在していた圓乗の存在を聞きつけ、酒を飲んでもらい、名前を付けてほしいと依頼します。
突然の頼みに思案した圓乗でしたが、ちょうど読んでいた経文の中に「正宗」「邪宗」という言葉を見つけ、「正宗」を取って「まさむね」と名付けました。
こうして仏教語から生まれた酒の名は、やがて銘酒として広く知られるようになります。
その後、圓乗はこの清酒の造り方を学び、大三島の高野山へ戻って僧たちに製法を伝えました。
さらに老年になってから海南寺へ帰り、郷土の人々にも酒造りの技術を教えます。
これをきっかけに宮窪では杜氏を志す者が次第に増え、酒造技術は旧越智郡一帯へと広がっていきました。
やがて宮窪の杜氏たちは腕を磨き、その技は他国にまで知れ渡り、讃岐や阿波へも出稼ぎに赴くようになります。
こうして形成された酒造集団は「越智杜氏」と呼ばれ、とくに宮窪出身者の活躍によって「宮窪杜氏」の名が知られるようになりました。
文化八年(1811)六月二日、圓乗は入寂します。
没後、その墓は海南寺裏に築かれ、やがて「日切り地蔵」として信仰を集めるようになりました。
日数を定めて願をかけると成就するとされ、七日、二十一日、四十九日、百八日といった仏教の吉祥数が用いられます。
諸病平癒に霊験があるとされ、とくにめぼやいぼに効くと信じられてきました。
一方、生前に酒を好んだことから人々は圓乗を「酒の坊さん」と呼び、やがて親しみを込めて「酒呑み坊さん」と称するようになります。
そこから酒を供えて願をかける独特の信仰が生まれ、墓の周囲には徳利や瓶が結び付けられるなど、酒呑み坊さんならではの参拝風景が形づくられていきました。
現在も墓前には賽銭や供え物が置かれ、静かな祈りの場として大切に守られています。

全国へ広がった越智杜氏の隆盛と終幕
越智杜氏は、大正十一年(1922年)には1308名を数え、全国四十八組合中六番目という規模に達しました。
越智の島々は、全国へ技能者を送り出す人材の産地となっていたのです。
香川、徳島、九州へと広がる活動範囲は、瀬戸内の交通と島の出稼ぎ文化が支えていました。
しかし昭和三十年代以降、ビール消費の拡大や酒蔵の減少、島の産業構造の変化により、越智杜氏は急速に姿を消していきます。
宮窪周辺では柑橘栽培や石材業、造船業が主な生業となり、冬だけ蔵へ入る生活は次第に選ばれなくなりました。
そして平成十五年(2003年)、越智郡杜氏組合は解散します。
それは単なる組織の終わりではなく、瀬戸内の島々で育まれてきた一つの生き方が役割を終えた瞬間でもありました。
伝統と歴史を繋ぐ八木酒造部
しかし、その歩みが完全に途絶えたわけではありません。
現在も八木酒造部では、「越智杜氏最後の一人」ともされる村上浩由氏を中心に、瀬戸内の島々で培われてきた杜氏の技が静かに受け継がれています。
越智杜氏の流れをくむその酒造りは、できる限り人の手を生かすことを大切にしたものです。
機械化が進む現代にあっても、麹の状態や醪の表情を毎日確かめ、微細な変化を感覚と経験で調整していく。
その積み重ねが、長くこの蔵の酒造りを支えてきました。
水と米がかたちづくる、今治の酒
八木酒造部の酒造りは、高縄山系を源とする蒼社川の伏流水と、主に愛媛県産の米、この二つを軸に成り立っています。
蒼社川の水は、花崗岩質の地層をゆっくりとくぐり抜けることで磨かれた、やわらかく澄んだ水です。
鉄分など酒質を損なう成分が少なく、発酵を穏やかに支えるこの水が、「山丹正宗」のすっきりとしたキレの土台になっています。
この水は、酒造りだけでなく、今治のもう一つの代表的な産業をも支えてきました。
今治タオルの製造に欠かせない晒しの工程でも、同じ蒼社川水系の水が使われています。
繊維を傷めず、白く、やわらかく仕上げるためには、水の清らかさが不可欠だからです。
酒とタオルという一見異なる産業が、同じ水脈によって育まれてきたことは、今治という土地の特性を象徴しています。
技が評価された節目と、四季醸造への転換
1981年には、国税庁主催の全国新酒鑑評会で金賞を受賞。
地方の小規模蔵でありながら、全国レベルの評価を得たこの出来事は、これまで積み重ねてきた技と姿勢が確かな形になって現れた瞬間でした。
続く1988年には蔵の増築を行い、温度管理を徹底できる四季醸造体制を整備します。
これにより、従来の寒造りに頼らず、一年を通じて安定した品質の酒を仕込める環境が整いました。
ただし設備が整っても、最終的な判断は人の感覚に委ねられています。
数字だけでは測れない発酵の機微を読み取るのは、今も現場の職人たちです。
八木酒造部にとっての近代化とは、人の仕事を置き換えることではありません。
酒造りにおける人の判断を、より確かなものとして積み重ねていくための土台として、設備や技術が取り入れられてきたのです。
デザインが開いた、新しい地酒のかたち
1990年代に入ると、酒の中身だけでなく「伝え方」にも大きな転機が訪れます。
1992年、「山丹正宗」のロゴおよびブランドイメージ刷新のため、日本を代表するグラフィックデザイナーである松井桂三さんが起用されました。
名刀正宗の鋭さを思わせる力強く簡潔な意匠は、長い歴史に培われた蔵の精神性と、現代的な感覚を同時に表現するものでした。

このデザイン思想はやがて商品ごとのパッケージ展開へと発展し、山丹正宗は味わいだけでなく、視覚的にも明確な個性を持つブランドへと進化していきます。
1997年には日本パッケージデザイン大賞・金賞を受賞。
その後、山丹正宗は百貨店や高級飲食店でも取り扱われるようになり、2014年にはANA国際線ファーストクラスにも採用されました。
今治の水と米で醸した酒が、空の上で世界の人々に注がれるようになったのです。
山丹正宗 受賞酒一覧
酒質を磨き続けてきた山丹正宗は数々の品評会で高い評価を受けてきました。
ここでは、その実績に裏打ちされた銘柄を少しご紹介します。
山丹正宗 純米酒 松山三井
受賞歴
・ロンドン酒チャレンジ2019 プラチナ賞(最高評価)
・全国燗酒コンテスト2023 金賞
・SAKE COMPETITION 2024 純米酒部門 全国6位
・ワイングラスでおいしい日本酒アワード2022・2025 金賞
・全国燗酒コンテスト2025(プレミアムぬる燗部門金賞)
山丹正宗 Jazz Brew
受賞歴
・SAKE COMPETITION 2024 純米酒部門金賞 全国8位
【日本酒】山丹正宗 MINAMOTO
受賞歴
・全国燗酒コンテスト2025(プレミアムぬる燗部門金賞)
山丹正宗 しずく媛 純米吟醸
受賞歴
・ワイングラスでおいしい日本酒アワード2020 最高金賞
山丹正宗 純米大吟醸 松山三井
受賞歴
・ロンドン酒チャレンジ2019 プラチナ賞(最高評価)
・ワイングラスでおいしい日本酒アワード2022金賞
山丹正宗 雫取り純米大吟醸
受賞歴
・全国新酒鑑評会 金賞(複数回)
焼鳥の町・今治のお酒
一方で、地元との結びつきも変わっていません。
今治市は「焼き鳥の町」としても知られ、市内にはおよそ60軒の焼鳥店が点在しています。
鉄板で焼き上げる脂の乗った独特のスタイルは「今治焼鳥」と呼ばれ、全国的にも知られる存在です。
そして、この今治焼鳥と「山丹正宗」のすっきりとしたキレの良さは、地元では定番の組み合わせ。
とくに熱燗にして合わせるのが今治流で、鶏の旨味をやさしく包み込み、後口を軽やかに整えてくれます。
こうした土地の食文化との深い結びつきから、八木酒造部では、今治焼鳥に合わせることを意識した酒づくりも行われています。
また、八木酒造部8代目蔵元の八木伸樹さんは、「今治やきとり盛り上げ隊」の一員として、市内の焼鳥店を巡りながら、それぞれの店の味わいや個性、今治という土地ならではの魅力を伝え続けています。
今治で受け継がれてきた酒のかたち
神話の時代に語られた「天甜酒」から、斎田で育てられる米、白鷺の伝承、瀬戸内の武将たちの祈り、そして現代の酒蔵へ。
大山祇神社をめぐる酒の物語は、特別な出来事だけで続いてきたものではありません。
その時代ごとに、この土地で暮らしてきた人たちが、それぞれの立場で酒と向き合い、祈り、働き、日々を重ねてきました。
田を耕す人がいて、米を育てる人がいて、酒を醸す人がいて、それを神に供える人がいる。
そして、その酒を囲んで語らい、喜び、明日へと気持ちをつないできた人たちがいました。
酒はいつもこの地の暮らしのすぐそばにあり、特別な日にも、何でもない一日にも寄り添ってきました。
そうして積み重ねられてきた時間が、今も今治の中に静かに息づいています。
そして八木酒造部は、酒とともにこの土地で生きてきた人々の営みや、受け継がれてきた時間を、今も一滴一滴に映し出しています。
今治の地酒「山丹正宗」を注ぎながら、この地に流れてきた長い歴史と、そこに生きた人々の想いに、そっと心を重ねてみてはいかがでしょうか。