塩田を失った伯方島から始まる、新たな塩づくりの物語
「伯方の塩」の誕生。
しかし、それは伯方島と塩の歴史にとって、新たな挑戦の幕開けでもありました。
塩田を失った島で、どのように塩づくりを受け継いでいくのか。
「伯方の塩」はどのように全国へ広がり、現在まで続くブランドへと成長していったのか。
そして、塩専売制度の廃止によって日本の塩づくりが自由化された後、一度は失われた塩田の技術は、どのような形でよみがえることになったのでしょうか。
後編では、「伯方の塩」の誕生から現在までの歩みを追いながら、時代とともに形を変え、それでも途切れることなく受け継がれてきた、伯方島と塩の歴史を紐解いていきます。
前回の記事はこちら:《伯方の塩・前編》塩田がつくった「海運と造船の島」。海とともに歩んだ島の製塩史
「伯方の塩」が歩み始めた新たな時代
昭和49年(1974年)1月、いよいよ「伯方の塩」の販売が始まりました。
しかし、この新しい塩づくりは、かつて伯方島で行われていた塩田製塩をそのまま復活させたものではありませんでした。
伯方島の塩田はすでにすべて廃止され、さらに当時は塩専売制度が続いていたため、伯方島の海水を自由にくみ上げ、それを原料として塩をつくることも認められていませんでした。
そこで「伯方の塩」の原料として使われたのが、海外の塩田でつくられ、日本へ輸入されていた「天日塩(てんぴえん)」でした。

海外の天日塩を原料とした理由
「伯方の塩」という名前から、伯方島の海水をそのまま煮詰めてつくられた塩を想像する人もいるかもしれません。
しかし、誕生当時の「伯方の塩」はそうではありませんでした。
当時の日本では、国内で使用する塩の原料として、メキシコやオーストラリアなどから大量の天日塩が輸入されていました。
天日塩とは、海水を広大な塩田へ導き、太陽の熱と風によって長い時間をかけて水分を蒸発させ、塩を結晶させたものです。
雨が比較的多く、湿度も高い日本では、塩田で海水を濃縮した後、最後は釜で煮詰めて塩をつくる方法が発達しました。
一方、乾燥した気候に恵まれた海外の大規模な天日塩田では、太陽と風の力だけで海水をさらに濃縮し、塩の結晶を得ることができます。
伯方塩業では、こうして海水からつくられた輸入天日塩を原料として、新たな塩づくりを始めることになりました。
ただし、輸入された天日塩をそのまま袋に詰めて「伯方の塩」として販売したわけではありません。
ここからが、伯方島で行われる製造工程でした。
天日塩をもう一度溶かす
伯方島へ運ばれてきた天日塩は、まず水に溶かされます。
一度結晶となった塩を、あえてもう一度溶かして濃い塩水へ戻すのです。
そして、その濃い塩水を釜で煮詰め、水分を蒸発させながら再び塩を結晶させていきました。
こうした方法は「再製」と呼ばれます。
ここで、前編で見てきた日本の伝統的な塩づくりを思い出してみましょう。
かつて伯方島の塩田では、まず海水を濃縮して鹹水(かんすい)をつくる「採鹹(さいかん)」が行われ、その鹹水を釜で煮詰めて塩を結晶させる「煎熬(せんごう)」が行われていました。
もちろん、「伯方の塩」の製造方法と昔の塩田製塩は同じものではありません。
原料も、その濃い塩水をつくるまでの工程も異なります。
それでも、濃い塩水をつくり、それを煮詰めて塩を結晶させるという工程には、かつての塩づくりとの共通点がありました。
塩田をそのまま取り戻すことはできなくても、与えられた条件の中で、自分たちが求める塩をつくる。
こうして、伯方島の新しい塩づくりが始まったのです。
平釜でつくられた「伯方の塩」
その製造に使われたのが「平釜」でした。
濃い塩水を平釜へ入れて加熱すると、水分が蒸発し、やがて塩の結晶が現れ始めます。
しかし、塩は単に水分をすべて飛ばせば完成するものではありません。
塩水の濃度や加熱の状態を見ながら結晶を育て、取り出した塩から余分なにがりを落とし、製品として仕上げていく必要があります。
こうしてつくられた「伯方の塩」は、昭和49年(1974年)から人々のもとへ届けられるようになりました。
一度は伯方島から消えた塩づくりが、かつてとは異なる方法で再び動き始めたのです。

「伯方の塩」はどのように全国へ広がったのか
しかし、塩をつくることができたからといって、それだけで全国に知られる商品になるわけではありません。
昭和49年(1974年)に販売が始まった「伯方の塩」は、ここから少しずつ販路を広げていくことになります。
その背景にあったのは、この塩を求めた消費者たちの存在でした。
そもそも伯方塩業の誕生そのものが、従来の塩を残したいという消費者運動と深く結びついていました。
そのため「伯方の塩」は、単に企業が開発して市場へ投入した新商品とは、少し異なる出発点を持っていました。
求める人々がいて、その声から会社が生まれ、その会社が塩をつくる。
そうした珍しい経緯を持って誕生した商品だったのです。
そして販売が続けられるなかで、「伯方の塩」の名前は次第に各地へ知られるようになっていきました。
大相撲の土俵にまかれる「伯方の塩」
その「伯方の塩」が使われている意外な場所の一つが、日本の伝統文化を代表する「大相撲」です。
力士が取組を前に土俵へ上がり、大きな手で塩をつかんで勢いよくまく。
大相撲ではおなじみの光景ですが、そもそも、なぜ相撲では塩をまくのでしょうか。
その背景には、相撲と神事との深い結びつきがあります。
相撲の歴史は非常に古く、『古事記』や『日本書紀』にも力比べや相撲に関わる説話が登場します。
その後、相撲は宮中行事として行われる一方、神社の祭礼などとも結びつき、五穀豊穣や豊漁を願う奉納相撲として各地に受け継がれていきました。
こうした歴史のなかで、相撲を行う場所は神聖な空間と考えられるようになり、取組の前に土俵を清めるための「清めの塩」がまかれるようになったとされています。
現在の大相撲にも、この伝統は受け継がれています。
そして、その土俵を清める塩として使われているのが、「伯方の塩」です。

土俵 手桶塩(PIXTA)
大相撲で「伯方の塩」が採用されたのは、昭和62年(1987年)の五月場所からでした。
当時の伯方塩業の社長が「伯方の塩」を広く知ってもらいたいと考え、つてをたどって日本相撲協会へ売り込んだことがきっかけだったといいます。
しかも、大相撲で使われているのは、相撲用に特別につくられた塩ではありません。
私たちが普段、店頭で購入するものと同じ「伯方の塩」です。
「伯方の塩」は、さらさらとした細かな塩とは異なり、粒が比較的大きく、適度な水分を含んだしっとりとした粗塩です。
そのため手のひらでつかみやすく、指の間からこぼれにくいうえ、まとまりやすいという特徴があります。
大量の塩を手につかみ、一気に土俵へまく大相撲の塩まきにも適しているのです。
さらに粒が大きいため、力士が勢いよくまくと、白い塩の粒が土俵の上へ大きく広がります。
大相撲で使われる塩の量も、決して少なくありません。
一日に用意される量は約45キログラム、一場所では約650キログラムにもなるといいます。
そして興味深いことに、「伯方の塩」が大相撲で採用された昭和62年(1987年)は、この商品にとってもう一つの大きな転機となった年でもありました。
「は・か・た・の・しお!」
「伯方の塩」と聞いて、多くの人が思い浮かべるのが、「は・か・た・の・しお♪」という、あの力強いフレーズではないでしょうか。
伯方塩業のテレビCMが放送されるようになったのは、昭和55年(1980年)のことです。
そして昭和62年(1987年)、現在まで広く知られる「は・か・た・の・しお♪」というサウンドロゴが登場しました。
わずか数秒の短いフレーズでありながら、その力強い歌声と一度聞けば耳に残る独特の響きによって、「伯方の塩」の名は幅広い世代へ知られていくことになります。
奇しくもこの昭和62年(1987年)は、「伯方の塩」が大相撲の五月場所で使われ始めた年でもありました。
大相撲の土俵では「清めの塩」として使われ、テレビからは「は・か・た・の・しお♪」というフレーズが流れる。
昭和62年(1987年)は、「伯方の塩」が全国へその名を広げていくうえで、一つの大きな節目となった年だったのです。
しかし、これほど広く知られるようになったサウンドロゴでありながら、長い間、その作曲者や最初に歌った人物は伯方塩業でも分からなくなっていました。
当時のCM制作は広告代理店へ依頼しており、社内には詳しい資料が残されていませんでした。
さらに調査を始めた頃には、その広告代理店もすでに閉鎖されていたため、手掛かりをたどることも難しくなっていたといいます。
その謎が解けたのは、サウンドロゴ誕生から36年後。
伯方塩業が創業50周年を迎えた令和5年(2023年)のことでした。
新たに生まれた音楽関係者とのつながりから、当時のCM制作に関わった人々へ確認することができ、作曲を手掛けたのが浦田博信氏、最初にあの力強い声を吹き込んだのが音楽家の塩谷信廣氏であったことが明らかになりました。
当時、制作側が求めていたのは「シャウトができる人」だったといいます。
実際、放送が始まった頃には、そのあまりに力強い歌声に対して驚きの声もあったとされています。
しかし、その強烈な印象こそが人々の記憶に残り、長年にわたって繰り返し放送されるなかで、やがて「伯方の塩」を象徴する音となっていきました。
平成9年(1997年)から平成17年(2005年)には、演歌歌手の髙城靖雄氏もCMで歌唱しましたが、塩谷氏による力強いサウンドロゴそのものは、誕生当初から現在まで受け継がれています。
そして、このわずか数秒のフレーズは、誕生から40年近くを経て、さらに思いがけない広がりを見せることになります。
令和8年(2026年)、「伯方の塩」のサウンドロゴが通信カラオケ「JOYSOUND」で配信されると、SNSなどを通じて大きな話題となりました。
もともと多くの人が知っていた「は・か・た・の・しお♪」を、今度は自分で歌うことができる。
その意外性から、カラオケの歌唱履歴を「伯方の塩」で埋め尽くした画面がSNSで拡散されるなど、新たな楽しみ方が広がっていきました。
その反響は大きく、JOYSOUNDで配信されている44万曲以上のなかで、令和8年(2026年)6月には週間ランキング4位、デイリーランキングでは最高2位を記録したといいます。
昭和62年(1987年)、テレビCMから聞こえてきた、わずか数秒の「は・か・た・の・しお♪」。
それは長い年月を経て、単なる商品の宣伝を超え、世代を越えて多くの人が知り、口ずさむ「伯方の塩」の象徴となりました。
そして現在では、聞くだけのサウンドロゴから、自ら歌って楽しむものへと、その広がりはさらに新しい形を見せています。
塩田が姿を消した伯方島から、新たな塩づくりを目指して生まれた「伯方の塩」。
その名は商品とともに全国へ広がり、大相撲の土俵、そして誰もが一度は耳にしたことのあるサウンドロゴを通して、日本の暮らしや文化の中へ深く浸透していったのです。
「伯方の塩」が歩んだ、塩田復活への道
ここまで見てきたように、「伯方の塩」は、メキシコやオーストラリアなどの天日塩を原料として、伯方島で新たな塩へとつくり直すことから始まりました。
そして、その基本的な製法は現在の「伯方の塩」にも受け継がれています。
しかし、かつて塩田が広がり、長いあいだ塩づくりが行われてきた伯方島には、すぐ目の前に瀬戸内海があります。
それならば、なぜ創業当時、伯方島の海水を使って塩をつくることが認められなかったのでしょうか。
「伯方の塩」に課せられた製造条件
その背景には、「伯方の塩」が誕生するわずか2年前、日本の塩づくりを大きく変えた制度の転換がありました。
昭和46年(1971年)、塩業近代化臨時措置法の成立によって、それまで続いてきた塩田による製塩は廃止され、国内の製塩はイオン交換膜法を中心とする新しい体制へと移行しました。
ただし、ここで重要なのは、単に新しい製塩技術へ切り替わったということではありません。
当時、塩は国の専売品でした。
そのため、誰でも自由に海水を汲み上げ、好きな方法で塩をつくって販売できたわけではありません。
どのような原料を使い、どのような方法で塩をつくるのかについても、国の管理を受けていたのです。
そのため、昭和48年(1973年)に伯方塩業が「伯方の塩」の製造を始める際にも、伯方島の海水を汲み上げ、それを原料として直接塩をつくることは認められなかったのです。
では、伯方塩業はどのような条件のもとで、塩をつくることを認められたのでしょうか。
伯方塩業が国から塩の製造を認められるにあたっては、いくつもの条件が設けられました。
その一つが、国がメキシコやオーストラリアから輸入していた「原塩(天日塩田塩)」を利用すること。
そしてもう一つが、「海水から直接塩をつくってはいけない」というものでした。
さらに、塩を煮詰める際には平釜を使用すること、専売塩を誹謗しないこと、商品の袋のデザインや文言を変更する場合にも専売公社の確認を受けることなどが求められていました。
つまり「伯方の塩」は、伯方島の塩田を残したいという運動から生まれながら、創業当時は伯方島の海水から直接塩をつくることができなかったのです。
そして「伯方の塩」という名前そのものにも、人々の「伯方島の塩田を復活させたい」という願いが込められていました。
自由になった日本の塩づくりと「塩田復活」への挑戦
それから20年以上。
その状況を大きく変えることになったのが、平成9年(1997年)の塩専売制度廃止でした。
これまで認められていなかった方法でも、日本の海水から直接塩をつくることができるようになったのです。
伯方塩業にとって、それは創業以来の願いへとつながる大きな転換でもありました。
再び、地元・瀬戸内の海から塩をつくる。
創業当時にはかなえることのできなかった塩づくりへの道が、ここでようやく開かれたのです。
ただし、塩専売制度が廃止されたことで、日本の塩が一度に完全自由化されたわけではありませんでした。
新たに施行された塩事業法のもとで制度の移行が進められ、5年後の平成14年(2002年)には経過措置も終了。
塩の製造・輸入・流通をめぐる規制が大幅に緩和され、日本の塩は「完全自由化」の時代を迎えます。
明治38年(1905年)に始まった塩専売制度から、およそ一世紀。
日本の塩づくりを取り巻く環境は、大きく変わりました。
そして、伯方塩業にとっても、新たな可能性が開かれることになります。
自由化後も受け継がれた「伯方の塩」の製法
しかし、ここで一つ重要なのは、塩づくりが自由になったからといって、主力商品である「伯方の塩」が、日本の海水だけを原料とする塩へ変更されたわけではないということです。
現在の「伯方の塩」も、輸入天日塩田塩と瀬戸内海の海水を原料としてつくられています。
現在の商品表示では、輸入天日塩田塩が93%、日本の海水が7%。
輸入天日塩田塩を瀬戸内の海水に完全に溶かして濃い塩水をつくり、それを煮詰めて再び結晶させるという、創業以来の基本的な考え方が受け継がれています。
では、海水から直接塩をつくれるようになった後も、なぜ海外の天日塩田塩を利用しているのでしょうか。
その理由の一つが、製塩に必要となるエネルギーです。
海水に含まれる塩分は、わずか3%ほど。
その海水から直接塩をつくるためには、大量の水分を蒸発させなければならず、多くのエネルギーを必要とします。
そこで伯方塩業では、太陽熱や風などの自然エネルギーを利用して、あらかじめ海水を蒸発・結晶させた天日塩田塩を原料の一つとして利用しています。
同社によれば、この方法によって、海水から直接塩をつくる場合と比較して、製造時の二酸化炭素排出量を抑えることができるといいます。
つまり、塩専売制度が終わった後も、「伯方の塩」そのものは、それまで培ってきた製法を受け継いでいったのです。
失われた「塩田」を再び自分たちの手で
その一方で、制度の廃止によって新たに開かれた道もありました。
それが、「瀬戸内海の海水から直接塩をつくる」という道です。
そして伯方塩業は、その先で、自らの原点ともいえる製塩方法へと目を向けることになります。
昭和46年(1971年)、日本から姿を消した「塩田」です。
平成9年(1997年)の制度変更によって、日本の海水を使い、かつてのような方法で塩をつくることが可能になると、伯方塩業は「流下式枝条架併用塩田」の再現を目指すようになります。
その目的の一つは、失われつつあった塩田製塩の技術を次の世代へ受け継ぐことでした。

流下式枝条架併用塩田 撮影: santama(写真AC)
そしてもう一つ、伯方塩業には創業以来抱き続けてきた思いがありました。
それは、自ら塩田を利用して塩をつくることです。
昭和46年(1971年)の塩田全廃をきっかけとして自然塩存続運動が起こり、その運動の中から誕生した伯方塩業にとって、「塩田」は会社の原点ともいえる存在でした。
かつて残すことのできなかった塩田を、今度は自分たちの手でよみがえらせる。
そこで平成17年(2005年)、伯方塩業は「流下式枝条架併用塩田」を再現するためのプロジェクトを発足させたのです。
「流下式枝条架併用塩田」とは
伯方塩業が再現しようとした「流下式枝条架併用塩田」は、昭和28年(1953年)から昭和46年(1971年)にかけて、瀬戸内海沿岸に広く見られた製塩施設です。
それ以前の入浜式塩田とは、海水を濃縮する仕組みが大きく異なっていました。
流下式では、まず瀬戸内海から海水をポンプでくみ上げます。
その海水を、緩やかな傾斜をつけた「流下盤」と呼ばれる場所へ流し、循環させながら太陽の熱によって水分を蒸発させていきます。
続いて使用するのが、「枝条架」です。
枝条架とは、竹の枝などを組み上げた巨大な装置で、その上から海水を滴り落とします。
細かな水滴となった海水が無数の枝を伝って落ちていく間に風にさらされ、さらに水分が蒸発します。
流下盤では「太陽」。
枝条架では「風」。
この二つの自然の力を利用しながら海水を繰り返し循環させ、次第に塩分濃度の高い鹹水へと変えていく仕組みです。
つまり、この記事の冒頭で紹介した「採鹹」を、昭和の技術によって効率的に行うための施設だったのです。
伯方塩業によれば、この方式によってつくられていた塩こそ、後に誕生する「伯方の塩」の「お手本」となった塩でした。
しかし昭和46年(1971年)、塩田による製塩は終わりを迎えます。
流下式枝条架併用塩田も、瀬戸内海沿岸から次々と姿を消していきました。
それから30年以上。
伯方塩業は、失われた製塩施設を自分たちの手で再現しようとしたのです。
残されていた伯方島の塩田資料
しかし、すでに失われた塩田を再現することは、簡単ではありませんでした。
そこでプロジェクトが最初に行ったのが、社内に残されていた塩田関係の資料を調べることでした。
実は、この資料が失われずに残されたのには、理由がありました。
伯方塩業が創業してまだ間もない頃、伯方島にあった塩業組合では、かつての塩田に関する資料が処分されようとしていました。
それを知った当時の伯方塩業の工場長が資料を譲り受け、その後、大切に保管していたのです。
昭和46年(1971年)の塩田全廃によって実際の塩田は失われました。
しかし、その構造や技術を伝える記録までは失われていませんでした。
平成17年(2005年)に始まった再現プロジェクトでは、この資料を手掛かりとして、流下式枝条架併用塩田の構造を調べていきます。
さらに、兵庫県赤穂市の海浜公園に設置されていた流下式枝条架併用塩田も参考にしました。
そして、そこで得た情報をもとに、塩田の設計図をつくったのも伯方塩業の従業員たちでした。
伯方島の元技術者から受け継がれた塩田の技
設計図だけではありません。
建設に必要となる材木や竹笹についても、従業員たち自身が選定し、調達していきました。
そして、とりわけ重要だったのが「枝条架」です。
昭和46年(1971年)に伯方島から塩田そのものは姿を消しました。
しかし、その塩田を実際に知る人々の中には、製塩の技術と経験が残されていたのです。
伯方塩業の従業員たちは、元技術者から先人たちの知恵を学びながら、枝条架を組み上げていきました。
資料として残されていた「記録」。
そして、人々の中に残されていた「技術」。
その二つを手掛かりとして、失われた塩田が少しずつ形を取り戻していったのです。
大三島に塩田がよみがえる
プロジェクト発足から5年。
平成22年(2010年)10月。
伯方塩業大三島工場の敷地内に、ついに「流下式枝条架併用塩田」が完成しました。
その規模は、敷地面積約2,000平方メートル、およそ600坪。
枝条架は高さ5.5メートル、幅8メートル、長さ35メートルのものが15列並び、さらに幅10メートル、長さ20メートルの流下盤が4面設けられました。
昭和46年(1971年)に伯方島から塩田が姿を消してから、およそ40年。
場所は伯方島ではなく、隣の大三島でしたが、かつて伯方島の塩田で培われた技術が、実際にその時代を知る人々から新しい世代へと受け継がれ、再び瀬戸内海の島に形となって現れたのです。
しかも、この塩田は昔の風景を伝えるためだけの展示施設ではありません。
実際に瀬戸内海の海水をくみ上げ、流下盤を循環させて太陽の熱で水分を蒸発させ、さらに枝条架から滴下させて風の力で濃縮する。
こうしてつくられた濃い塩水を、実際の製塩に利用しています。
そして、塩田を再現したことで得られたものは、新しい商品だけではありませんでした。
伯方塩業によれば、流下式枝条架併用塩田を使って塩をつくることで、それまで以上に海水の性質を知ることができ、その経験は「伯方の塩」をはじめとする塩製品の成分安定化など、品質向上にも生かされているといいます。
つまり、約40年ぶりによみがえった塩田は、過去の製塩技術を保存するだけのものではありませんでした。
かつての技術を現代の塩づくりへとつなぐ、新たな製造の場にもなったのです。
よみがえった塩田から生まれた「されど塩」
そして、平成26年(2014年)5月。
この流下式枝条架併用塩田から、伯方塩業にとって特別な意味を持つ、新しい塩が生まれます。
それが「されど塩」です。
この塩は、瀬戸内海の海水を100%使用してつくられたものでした。
大三島工場の沖合からくみ上げた海水を流下式枝条架併用塩田へ送り、太陽の熱と自然の風によって水分を蒸発させ、塩分濃度の高い鹹水へと濃縮していきます。
そして、その鹹水を平釜でじっくりと煮詰め、塩の結晶を取り出します。
つまり「されど塩」は、海外の天日塩田塩を原料として始まった「伯方の塩」とは異なり、瀬戸内海の海水そのものからつくられる塩だったのです。
昭和46年(1971年)に日本から塩田が姿を消してから43年。
そして「伯方の塩」が誕生した昭和48年(1973年)から41年。
創業当時にはできなかった、瀬戸内海の海水を原料として、自らの塩田で塩をつくるという願いがついに実現したのです。
伯方塩業では、「されど塩」を、会社誕生のきっかけとなった「自然塩(塩田塩)存続運動」の思いを受け継ぎ、自ら再現した流下式枝条架併用塩田によってつくる塩と位置づけています。
そして、その思いは商品名にも表れています。
「たかが塩、されど塩」。
塩は普段の暮らしの中では当たり前のように存在しています。
しかし、人が生きていくうえで欠かすことのできない、大切なものでもあります。
そうした塩への思いを込めて、この塩は「されど塩」と名付けられました。
一度は失われた塩田をもう一度つくり、その塩田へ瀬戸内海の海水を取り込み、太陽と風によって濃縮し、再び塩をつくる。
「されど塩」の誕生は、昭和46年(1971年)の塩田廃止から続いてきた伯方塩業の歩みにとって、一つの大きな節目となったのです。
瀬戸内海の海藻から生まれた「されど塩 藻塩」
そして、このよみがえった塩田からは、さらにもう一つ、瀬戸内海ならではの塩が生まれることになります。
海水だけではなく、瀬戸内海で育った「海藻」を利用した塩。
それが、平成28年(2016年)に誕生した「されど塩 藻塩」です。
「されど塩 藻塩」もまた、大三島工場に再現された流下式枝条架併用塩田を利用してつくられています。
原料となるのは、瀬戸内海の海水と海藻。
そのすべてが瀬戸内海で採れたもので、原材料の内訳は海水99%、海藻1%となっています。
そして、使用されている海藻が「ホンダワラ」です。
実は、海水と海藻を結びつけた塩づくりは、現代になって初めて生まれたものではありません。
「藻塩」という言葉そのものが古くから知られているように、日本では古くから、海藻と塩が深く結びついた塩づくりの文化が伝えられてきました。
海に囲まれた日本では、海水から塩を得るためにさまざまな工夫が重ねられ、その長い製塩の歴史のなかで、海藻も利用されてきたと考えられています。
ただし、「されど塩 藻塩」は、古代に行われていたと考えられる藻塩づくりを、そのまま再現したものではありません。
その製法に使われているのは、伯方塩業が大三島によみがえらせた、昭和期の「流下式枝条架併用塩田」です。
まず、大三島工場の沖合からくみ上げた瀬戸内海の海水を塩田へ送り、太陽の熱と自然の風を利用しながら水分を蒸発させ、塩分濃度の高い鹹水へと濃縮していきます。
ここまでは「されど塩」と同じです。
しかし、「されど塩 藻塩」では、ここからさらに一つの工程が加わります。
塩田でつくられた鹹水に、瀬戸内海で採れたホンダワラを浸け込むのです。
そして、ホンダワラを浸け込んだ鹹水を平釜で煮詰め、塩を結晶させていきます。
伯方塩業が示す製法は、「天日、浸漬、平釜」。
太陽と風の力を利用して海水を濃縮し、そこへホンダワラを浸け込み、最後は平釜で塩へと仕上げていく製法です。
こうして生まれる「されど塩 藻塩」は、ホンダワラによるまろやかなうま味と香りを感じられることが特徴とされています。
つまり、「されど塩」が、よみがえった塩田で瀬戸内海の海水からつくられる塩であるのに対し、「されど塩 藻塩」は、そこへさらに瀬戸内海の海藻を加えることで生まれた塩なのです。
かつての藻塩づくりを、そのまま現代によみがえらせたわけではありません。
しかし、古くから日本の塩づくりと結びついてきた海藻と、一度は姿を消しながら大三島によみがえった塩田の技術が、ここで新しい形で結びつきました。
海水をくみ上げ、太陽と風の力を借り、人の手を加えて塩をつくる。
古くから続いてきた日本の塩づくりの知恵と、昭和の時代まで瀬戸内海の製塩を支えた塩田の技術。
それらは時代に合わせて形を変えながら受け継がれ、「されど塩 藻塩」という新たな塩へとつながっているのです。
「伯方の塩」の塩づくりを実際に見てみよう
しまなみ海道の大三島にある「伯方の塩 大三島工場」では、「伯方の塩」の塩づくりを実際に見て、体験することができます。
工場には無料の見学コースが設けられており、輸入天日塩田塩を瀬戸内海の海水に溶かすところから、釜で煮詰め、乾燥させ、選別・袋詰めを行うまで、「伯方の塩」が完成していく製造工程を見ることができます。
そして、大三島工場を訪れたなら、ぜひ見ておきたいのが「流下式枝条架併用塩田」です。
平成22年(2010年)、伯方島の元塩田技術者の協力を得ながら再現されたもので、高さ5.5メートルにもなる枝条架が何列も並ぶ光景は迫力があります。
しかも、これは昔の塩田を再現しただけの展示施設ではありません。
現在も瀬戸内海の海水を取り込み、太陽と風の力で濃縮する「現役の塩田」として使われており、ここで濃縮された海水から、先ほど紹介した「されど塩」や「されど塩 藻塩」がつくられています。
さらに、完全予約制の「塩つくり体験」では、濃い塩水を土鍋で煮詰め、白い塩の結晶が生まれていく様子を自分の手で体験することができます。完成した塩は持ち帰ることもできます。
そして、見学のあとの楽しみが「伯方の塩ソフトクリーム」です。
ソフトクリームには塩が練り込まれ、さらに大粒の塩「フルール・ド・セル」がトッピングされており、ほどよい塩味が甘さを引き立てます。
ショップでは「伯方の塩」をはじめ、「されど塩」などの商品を購入することもできます。
塩がつくられるところを見て、よみがえった塩田を訪ね、自分で塩をつくり、最後にはその味を楽しむ。
伯方島から始まった塩の歴史をたどってきた最後に、しまなみ海道を巡る際には、その塩づくりが受け継がれている大三島工場を実際に訪ねてみてはいかがでしょうか。