奈良時代に創建と伝わる英多郷一宮
愛媛県今治市矢田。
今治平野の西部に位置するこの地域は、周囲をなだらかな丘陵に囲まれ、古くから農業が営まれてきた土地です。
周辺の丘陵地では弥生時代の集落跡や古墳が発見されており、この一帯では古代から人々の暮らしが営まれていたことが明らかになっています。
現在も東西に細長く延びる谷間には水田が広がり、地域には農業用水を確保するためのため池が点在しています。
近年は今治新都市の開発によって道路や商業施設などの整備が進み、周辺の景観も大きく変化してきました。
それでも、矢田には昔ながらの集落や田園風景が今なお残されており、新しい街並みと古くからの農村風景が共存する、穏やかで静かな時間が今も流れています。
こうした矢田の地で、古くから地域の人々の暮らしを見守り、信仰を集めてきたのが「三島神社・矢田(みしまじんじゃ)」です。
英多郷一宮としての三島神社
現在の今治市矢田を含む一帯は、古代の伊予国野間郡に置かれた「英多郷(あがたごう)」と呼ばれる地域に属していたと考えられています。
郷とは、飛鳥時代後期から奈良時代初期にかけて整えられた、朝廷が全国を統治するための政治・法律の仕組みである「律令制度」のもとで設けられた地方行政の単位です。
この制度では、全国が国・郡・郷などに区分され、郷は郡の下に置かれていました。
当時の英多郷がどこまで広がっていたのか、正確な境界は分かっていませんが、現在の今治市波方町から波止浜、阿方、山路、矢田にかけての一帯だったと考えられています。
平安時代中期に編纂された『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には、野間郡の郷の一つとして「英多」の名が記されています。
同書の高山寺本では「英多」を「阿加多(あがた)」と読んでおり、この「あがた」という古代の地名は、現在の今治市に残る「阿方(あがた)」という地名へと受け継がれています。
三島神社・矢田は、この英多郷の一宮。
すなわち、郷を代表する中心的な神社として、奈良時代の神亀5年(728年)8月23日、大三島の大山祇神社から御祭神である大山積神(おおやまつみのかみ)を勧請し、創建されたと伝えられています。
勧請とは、神社に祀られている神の御霊を分け、別の場所へ迎えて祀ることを意味します。
三島神社の創建に関わった伊予国司・越智玉純
この三島神社の創建に中心的な役割を果たしたと伝えられているのが、古代伊予国の有力氏族・越智氏の系譜に登場する越智玉純(おちのたまずみ)です。
越智氏は古代伊予を代表する有力氏族の一つで、後世の系譜や伝承では、瀬戸内海の海上交通や伊予各地の統治に深く関わった一族として語られています。
また、越智氏は古くは「小千氏」とも表記され、史料によっては「小市」「乎知」「乎致」など、さまざまな表記でその名が記されています。
こうした表記の違いは越智玉純の名前にも見られ、「越智玉澄」あるいは「小千玉澄」とも記されています。
三島神社の由緒によると、玉純は当時の伊予国司として創建を取り仕切り、大三島から大山積神を勧請したとされています。
その越智氏が古くから深い信仰を寄せてきたのが、瀬戸内海に浮かぶ大三島の大山祇神社です。
越智氏は、大山祇神社に祀られる大山積神を一族の氏神として崇敬したと伝えられ、その信仰は、後に伊予で勢力を広げた河野氏にも受け継がれていきました。
越智氏の歴史や系譜を伝える『予章記(よしょうき)』には、越智守興、玉興、玉澄といった人物が登場します。
同書には、玉興が玉澄を養子として迎え、後に両者の間に不和が生じたという伝承も記されています。
ただし、これらは後世に成立した系譜や伝承に基づくものであり、玉純の出自や具体的な事績については、史実として確認できない部分もあります。
一方、大山祇神社の社伝によれば、大宝年間(701〜704年)に玉澄が朝廷の許可を受けて社殿の造営に携わり、霊亀2年(716年)に完成したとされています。
このように、越智玉純は大山祇神社の歴史や三島信仰と深い関わりを持つ人物として伝えられており、三島神社・矢田の創建伝承も、こうした越智氏と大山積神への信仰のつながりの中に位置づけることができます。
聖武天皇の治世と国家安泰への祈り
三島神社が創建されたと伝えられる神亀5年(728年)は、第45代・聖武天皇の治世にあたり、日本が律令制度による国家体制を整え、中央から地方に至る統治の仕組みを築いていた時代でした。
飛鳥時代の大宝元年(701年)には大宝律令が制定され、奈良時代の和銅3年(710年)には平城京へ都が移されています。
この制度のもと、朝廷は各地に国司を派遣し、地方の有力者から任じられた郡司とともに行政を行わせることで、全国を統治する体制を整えていきました。
神亀元年(724年)には聖武天皇が即位し、こうした律令国家による地方統治が続けられていました。
しかし、聖武天皇の治世は、政治的な混乱や災害にも見舞われました。
神亀5年(728年)の翌年には長屋王の変が起こり、朝廷内の政治情勢が大きく変化しました。
さらに天平7年(735年)頃から疫病が広がり、天平9年(737年)には天然痘の大流行によって、政権の中心にいた藤原四兄弟をはじめ、多くの人々が命を落としました。
こうした社会不安の中で、聖武天皇は仏教による国家の安泰を強く願うようになり、天平13年(741年)には諸国に国分寺・国分尼寺を建立する詔を発しています。
これは、仏教の力によって国を守り、災厄を鎮めようとする「鎮護国家(ちんごこっか)」の思想に基づくものでした。
ただし、長屋王の変や天然痘の流行、国分寺建立の詔はいずれも三島神社の伝承上の創建年より後の出来事であり、これらを直接の創建理由とすることはできません。
一方、当時の人々にとって、国家や地域の安泰を願う祈りは仏教だけによるものではありませんでした。
古くから山や川、海などの自然には神々が宿ると考えられ、人々は五穀豊穣や災厄からの守護、地域の安寧を願い、各地の神々を祀ってきました。
こうした神々への信仰は、国家においても重要な位置を占めていました。
律令制度のもとでは、朝廷に神祇官(じんぎかん)という役所が設けられ、国家の安泰や豊穣を祈る祭祀が行われるなど、神々への信仰も国家の統治と深く結びついていたのです。
大山積神とは?山と海を守護する神への信仰
こうした神々への信仰が人々の暮らしに深く根づいていた時代に、英多郷の一宮として創建されたと伝えられるのが、矢田の三島神社です。
その御祭神である大山積神(おおやまつみのかみ)は、日本神話に登場する山の神です。
『古事記』では、日本の国土や多くの神々を生み出した伊邪那岐神(いざなぎのかみ)と伊邪那美神(いざなみのかみ)の間に生まれた神として記されています。
また、天照大御神の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妻となった木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)の父としても知られ、日本神話の神々の系譜において重要な位置を占めています。
大山積神は山々を司る神であるとともに、山林や農業、国土の恵みに関わる神として信仰されてきました。
さらに、古代伊予の地誌『伊予国風土記』の逸文には、大山積神の別名として「和多志の大神(わたしのおおかみ)」が記されており、山の神でありながら、大海原や航海を守護する神としての性格も伝えられています。
そのため、大山祇神社は山林や農業に携わる人々だけでなく、瀬戸内海を航行する人々からも篤い崇敬を集め、後の時代には武運を守護する神としても広く信仰されるようになりました。
なぜ大山積神は英多郷に勧請されたのか
では、なぜこの大山積神を大三島から迎え、英多郷の地に祀ったのでしょうか。
その具体的な理由は明らかになっていませんが、英多郷を含む今治地方では、山々から流れる水や土地の恵みが農業を支え、瀬戸内海の海上交通が人々の暮らしや交流を支えていました。
こうした地域の自然環境を考えると、山と海の双方を守護する大山積神を迎えることには、五穀豊穣や地域の平穏、人々の暮らしを守りたいという願いが込められていた可能性があります。
また、三島神社の創建由緒に伊予国司とされる越智玉純が登場することも、当時の地方統治と地域の信仰との関係を考えるうえで興味深い点です。
古代伊予の有力氏族であった越智氏と、大三島の大山祇神社との深い結びつきは、伊予各地へと広がった三島信仰を考えるうえでも重要な手がかりとなっています。
大三島の大山祇神社を中心とする三島信仰が伊予各地へと広がる中で、英多郷の一宮として祀られたと伝わる三島神社も、地域の人々の信仰を集める存在として受け継がれてきました。
その創建由緒は、古代伊予の人々が神々に寄せた祈りと、大山祇神社との歴史的なつながりを今に伝えています。
そして、長い年月を経た現在も、三島神社は矢田の人々の暮らしを見守るように静かに鎮座しているのです。



