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神社SHRINE

古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院TEMPLE

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

史跡MONUMENT

時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

今治タオル物語

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07

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TEMPLE寺院の歴史を知る

東光寺(今治市・今治中央地区)

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京都から受け継がれた、剣豪・柳生十兵衛を育んだ柳生一族の祈り

今治には、あの柳生十兵衛で知られる柳生一族と深い関係をもつ寺院があります。

それが、しまなみ温泉 喜助の湯の裏手にひっそりと佇む、臨済宗の寺院「東光寺(とうこうじ)」です。

柳生一族と共に歩んだ東光寺の歴史

東光寺は、元々はこの地ではなく、別峯園光国師(別峰国師)よって、応永九年(1402年)に京都府相楽郡大河原村に創建されたと伝えられる寺院です。

創建当初は浄土宗に属し、病を癒し安寧をもたらす薬師如来をご本尊として安置していました。

この創建を大きく支えたのが、柳生十兵衛(やぎゅう じゅうべえ)の名で広く知られる、大和国柳生郷を本拠とする柳生一族でした。

東光寺を開いた別峯園光国師(明元)は柳生一族の出身であったとも伝えられ、ここからも東光寺が柳生家と深い縁を持つ寺院であったことが分かります。

本尊の薬師如来は、柳生家や郷士たちの守り本尊として信仰され、武芸の精進と心身の安寧を祈るための拠りどころとなっていました。

剣の道に生きた柳生家にとって、病を癒し災厄を除く薬師信仰は欠かすことのできない精神的支柱であり、こうした背景が東光寺を柳生一族の信仰圏の中心に位置づけたと考えられます。

江戸時代に蘇った東光寺の衰えと消失

東光寺はいったん衰退したのち、江戸時代はじめの寛永年間(1624〜1644年)に中興されました。

この頃、宗派は浄土宗から禅宗へと改められ、臨済宗東福寺派の大本山である東福寺の末寺となり、以後は臨済宗の寺院としての歩みを続けていきました。

しかし、江戸時代末期の天保十二年(1841年)には大きな火災に遭い、堂宇のほか多くの宝物が焼失してしまいました。

五年後には本堂が再建されたものの、 明治に入ると世の中の宗教制度は大きく変わり、神仏分離令や廃仏毀釈の影響で、多くの寺院が経済的・人的に立ち行かなくなりました。

東光寺もその荒波を避けることはできなかったのか、無住となって寺勢は再び衰え、ついには廃寺となってしまいました。

武士の世の終焉と、今治に甦った東光寺

廃寺からおよそ八十年以上が過ぎる間に、時代は大きく変わりました。

江戸の太平の世で刀は次第に実戦の場を失い、明治の廃刀令によって武士という制度そのものが姿を消しました。

武器の主流は、完全に銃火器へと移り変わり、剣術が権威であった時代はすでに遠い彼方となっていました。

そんな中で、東光寺の法灯は思わぬ形で再び息を吹き返します。

廃寺となってからおよそ八十年が過ぎた昭和三年(1928年)。

精洲和尚が、大和国・大河原村の旧東光寺に伝わっていた十一面観音菩薩立像をむかえ、
寺号「東光寺」とともに今治のこの地で再興しました。

こうして、遠く大和から伝わった柳生一族の歴史の一端が、この今治の地で静かに受け継がれることになったのです。

昭和二十一年(1946年)からは風快洲が住持となり、その後は風心一(博洲)が後を継いで現在に至ります。

住職が静かに暮らし祈りを続ける隠居所として設けられていたため、檀家は置かれませんでしたが、その法灯は今もこの地で静かに受け継がれています。

東光寺に伝わる寺宝

今治の東光寺には、歴史的にも文化的にもきわめて貴重な寺宝が伝えられています。

それが、「達磨大師像(だるまだいしぞう)」と「兼好法師歌切軸装(けんこうほうしうたぎれじくそう)」 です。

「達磨大師」

東光寺に伝わる達磨大師像は、禅宗の開祖として知られる達磨(菩提達磨)の姿を描いた水墨画で、長い歴史をもつ寺宝の中でもひときわ重要な存在です。

寺伝によれば、この一幅は中国・宋代(960〜1279)に活躍したとされる画僧・石䃹(せきらん)の筆によるものと伝えられています。

菩提達磨は、インド南部の南天竺に生まれたとされ、中国に禅を伝えた人物として広く知られています。

その名が最初に文献に現れるのは六世紀の『洛陽伽藍記』で、波斯(ペルシア)系の胡僧として描かれています。

のちに禅宗の正史とされる『景徳伝燈録』や諸伝承が整えられる中で、達磨は中国禅宗の「初祖」とされ、嵩山少林寺での九年の面壁禅や、梁の武帝との思想的対立など、多くの象徴的な逸話が語り継がれました。

禅における達磨の像は、ただの肖像画ではなく、禅の核心を象徴する精神像として尊ばれてきました。

鋭い眼光、簡潔な筆の運び、余白を生かした緊張感などは、禅画特有の表現であり、とくに宋代以来の禅林では、達磨像は禅の“精神そのもの”を示すものと理解されてきました。

東光寺の達磨大師像も、まさにその系譜に連なる作品であり、墨線のみで達磨の激しい精神性を表現する姿には、禅の深い内面的世界が息づいています。

筆者として伝えられる石䃹という画僧は、中国美術史上で確実に実在した人物としては確認されていないものの、禅画において達磨図を描いた名僧として寺院伝承にしばしば名前が残る存在であり、いわば“達磨図の典型を象徴する画僧”として扱われてきました。

宋元期の禅画が日本の禅宗に大きな影響を与えたことを踏まえると、この伝承は作品の格式と歴史的価値を物語る上で重要な意味をもちます。

また、達磨は日本文化にも深く影響を与えました。武士の精神文化と結びついた「不動心」の象徴として、禅僧や武家から強い支持を受けたほか、江戸時代には浮世絵の題材となり、さらに「だるま人形」という民間信仰の文化にも姿を変えて広く親しまれる存在となりました。

「兼好法師歌切軸装」

東光寺に伝わるもう一つの重要な寺宝が、兼好法師歌切軸装です。

この作品は、鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した随筆家・歌人、兼好法師(かねよしほうし)こと、卜部兼好(うらべかねよし)の和歌を記した断簡(歌切)を軸装としてまとめたものです。

兼好は『徒然草』の作者として知られ、日本文化の中でも際立った文学的存在であり、その筆跡や和歌が伝来する資料は極めて貴重です。

兼好法師は卜部氏(うらべうじ)に生まれ、後に出家して「兼好」を名乗りました。

随筆『徒然草』は、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならぶ日本三大随筆の一つとされ、その思想は「無常観」「簡素な暮らし」「美意識」「人間洞察」など、日本の精神文化に深い影響を与えてきました。

また、兼好は能書家としても知られ、和歌の世界では二条派の有力歌人として多くの秀歌を残しました。

この軸装に使われている歌切は、兼好法師の家集『兼好法師家集』に見られる和歌の一部である可能性が高く、書風は簡素でありながら品格があり、兼好特有の明晰な筆致をよく伝えています。

中世の歌切は当時の文人や宗教者の精神性を映すものとして非常に重んじられ、武家や寺院の間で珍重されました。東光寺の歌切軸装も、そうした文化の流れのなかで伝わったものと見られます。

新陰流とともに歩んだ柳生六百年の歴史

東光寺に深く関わる柳生一族とは、どのような歴史を歩んだ名家だったのでしょうか。

柳生家と言えば、剣豪として名高い柳生十兵衛(柳生三厳)の名が真っ先に思い浮かぶかもしれません。

しかしその歴史を紐解くと、柳生家は単なる「剣の達人の家」ではなく、南北朝期から南山城一帯に勢力を持つ土豪武士であり、のちに徳川将軍家の剣法指南役として政治・軍事・文化の側面でも大きな存在感を示した名家であったことが分かります。

南北朝期から続く南山城の土豪

柳生家の歴史は、現在の奈良市東部に広がる大和国柳生郷を拠点とした中世武士団に始まります。

柳生郷は険しい谷と山間に集落が点在する土地で、南山城と大和を結ぶ街道が貫き、戦略上きわめて重要な位置にありました。

柳生氏は南北朝時代にこの地域で力を伸ばし、地侍・郷士を広く束ねる地域武士団の中心的存在として成長していきました。

この頃の柳生家は、領地の保全や街道の防衛、周辺村落の調整などを担ういわゆる土豪武士であり、のちに描かれる剣豪一家のイメージとは異なり、地域社会と密接に結びついた武士団としての性格が強く表れていました。

柳生家の運命を変えた新陰流との出会い

柳生家が大きな転機を迎えるのは戦国末期、当主・柳生宗厳(石舟斎)が天下に名を轟かせた剣豪・上泉信綱と出会ったことに始まります。

信綱は当時の剣術の常識を根底から覆す新理論「新陰流」を広めていた人物で、宗厳はその才能を見出され、最も難解とされる「無刀取り」の公案を課されました。

これを宗厳が見事に会得したことにより、新陰流の奥義が柳生家に伝えられることになります。

新陰流は後世「柳生新陰流」と呼ばれますが、柳生家が独自に分派したものではありません。

本来の流派名は新陰流のままで、柳生家以外にも多くの伝系が存在します。ただし柳生家がその教えを武家社会の中心・徳川将軍家にまで広めたため、「柳生新陰流」という名が世に浸透したにすぎません。

柳生新陰流はただの剣術ではなく、理法・体術・戦略・心法が高度に融合した兵法体系であり、素手で相手の刀を制する「無刀取り」の技理は後に柔術諸流派にも多大な影響を与えています。

柳生家の門下からは起倒流、柳生心眼流、小栗流などが生まれ、明治以降には新陰流を学んだ武芸者が合気道開祖・植芝盛平にも影響を与えたとも語られています。

徳川将軍家との結びつき

柳生家を幕府中枢へ押し上げたのは、宗厳の子である柳生宗矩です。

宗矩は家康・秀忠・家光の三代に仕え、将軍家の剣法指南役として重用されただけではなく、文教・政務にも通じた稀有な武士でした。

宗矩が将軍家に帯同して鷹狩に参加したことは、武術の腕のみならず、人格と見識が信頼を得ていた証とされています。

鷹狩は単なる遊猟ではなく将軍の威勢を示す政治儀礼であり、随行を許される武士はごく少数に限られていました。

その後、宗矩は大和国柳生藩の藩主に取り立てられ、柳生家は政治的にも大きな地位を確立していきます。

柳生新陰流と精神文化への影響

柳生家の遺産で最も重要な思想的成果が、宗矩による名著『兵法家伝書』です。

この書は剣術の秘伝書ではなく、武士がどう生き、どう心を整え、どう世を治めるべきかを説く武士道の根幹に触れる思想書であり、「活人剣」の哲学は後世の武士に大きな影響を与えました。

宗矩の思想は江戸中期以降の武士道形成に影響を与え、勝海舟・山岡鉄舟ら明治の思想家にも読み継がれています。

柳生一族が生んだ剣豪・柳生十兵衛

柳生家の精神文化を体現した人物として最も知られるのが、宗矩の子・柳生十兵衛三厳(やぎゅうじゅうべいみつよし)です。

十兵衛は十三歳で将軍家光の小姓として仕え、その非凡な剣才によって早くから注目を浴びました。

後に諸国修行に出て実戦経験を重ねたことで、柳生新陰流の心法と技法をより深め、理想的な武士像として後世の伝承に多く登場します。

豪放磊落な剣豪として語られることが多い十兵衛ですが、実際には文才にも長け、兵法の心をまとめた『月之抄』を著した教養人でもありました。

その最期は弓ヶ淵(現・南山城村北大河原)での鷹狩りの際に急死したと伝わり、急死の背景には毒殺説も残されるなど、多くの謎と伝承が今も語り継がれています。遺骸は奈良市柳生の中宮寺に葬られました。

受け継がれる柳生新陰流の系譜

十兵衛の活躍は、柳生新陰流がさらに広く伝わる基盤となりました。

柳生宗厳・宗矩の系統はやがて二つの大きな流れに分かれます。

宗矩が将軍家に仕えて発展させた「江戸柳生」と、宗厳の嫡流である柳生厳勝の子・柳生利厳が尾張藩に伝えた「尾張柳生」です。

両系統は新陰流の理念を保ちつつ、それぞれの武家社会で独自の発展を遂げ、江戸では将軍家の公式兵法として武家教育の中心を担い、尾張では藩校・武芸所で学ばれる主流の兵法として根付いていきました。

この結果、柳生新陰流は単なる一剣術流派ではなく、江戸時代の武家社会そのものを支える精神文化として機能するようになったのです。

時代が明治となり武士階級が消えても、新陰流は途絶えることはありませんでした。

尾張柳生の流れは正統意識を守りながら厳粛に継承され、大正期には皇宮警察で正式に伝習されるなど、近代武道にも強い影響を残しました。

戦災で道場が失われる苦難の時代もありましたが、弟子たちが再び立ち上がり、昭和期には「新陰流兵法転会」「柳生会」「春風館」など複数の系統が活動を再開しました。

現在も新陰流は国内外の研究者や武道家によって脈々と継承され続けています。

大河原村の旧東光寺跡には、倉山氏の歴代墓碑のほか、柳生宗矩・友矩・十兵衛光巌など柳生藩主ゆかりの供養碑が静かに残り、かつて人々が寄せた祈りと、受け継がれた歴史の重みを今に伝えています。

そして、柳生家の縁は遠く離れた今治にも受け継がれ、今も静かに息づき続けているのです。

寺院名

東光寺(とうこうじ)

所在地

愛媛県今治市中日吉町1丁目2

宗派

臨済宗

本尊

十一面観世音菩

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