梅の香りとともに歩く今治の時間
2月。
まだ空気には冬の冷たさが残りながら、ふとした瞬間にやわらかな陽射しを感じる季節です。
冬と春の境目。
木々は静かに芽吹きの準備を始め、人の心もまた、自然と外へ向かい始めます。
この頃になると、日本各地で梅の花がほころび始めます。
凛とした寒さの中で、いち早く咲く梅は、春の訪れを告げる存在。
ここ今治市でも、二月になると市内のあちこちで白や紅の梅が目に入るようになります。
神社やお寺、公園や街の一角。
控えめでありながら、どこか芯の強さを感じさせるその佇まいに、足を止めたことのある方も多いのではないでしょうか。
梅の花には、桜とはまた違った魅力があります。
華やかさよりも、静けさ。
派手さよりも、気高さ。

そして、この梅と深く結びついている人物がいます。
菅原道真(すがわら の みちざね)公です。
学問の神として知られる菅原道真ですが、その生涯と梅の花には、切っても切れない物語があります。
実は、ここ今治の地もまた、道真公と古くから縁を結んできました。
では、菅原道真とはどのような人物だったのでしょうか。
そして、なぜ今治にその面影が残されているのでしょう。
少し時代をさかのぼり、その歩みをたどってみましょう。
「菅原道真と今治」激動の生涯と天神信仰のはじまり
菅原道真は、承和12年(845年)、平安京に生まれました。
菅原家は代々学問を家業とする家柄ではありましたが、藤原氏のような巨大な権勢を持つ名門ではありません。
貴族社会の中では、決して恵まれた立場とは言えない出自でした。
しかし、幼い頃から道真は並外れた才能を示します。
文字を覚えるのは早く、漢詩や中国古典にも親しみ、わずか十一歳で詩を詠んだと伝えられています。
その文才は周囲を驚かせ、只者ではないと評判になりました。
青年期に入ると、その学識はいよいよ磨かれていきます。
二十代で当時最難関とされた官人登用試験に合格し、学者として正式に朝廷の道を歩み始めました。
家柄ではなく、学問だけを武器にのし上がる。
平安時代という血縁と門閥がすべての社会において、これは極めて異例のことでした。
道真は驕ることなく、常に誠実でした。
人の話に耳を傾け、記録を怠らず、与えられた職務を丁寧にこなしていきます。
その姿勢は次第に宮廷内で評価され、やがて宇多天皇の目に留まることになります。
ここから道真の人生は、大きく動き始めます。
学者として、そして政治家として。
一人の青年は、国家の中枢へと歩みを進めていくのです。
学者から政治家への転身
若き日の学才は、やがて宮廷の中で確かな評価へと変わっていきました。
菅原道真は、文章博士として朝廷に仕え、詔勅の起草や外交文書の作成を担います。
その文章は理路整然として格調高く、同時に温かみを帯びていました。
やがて宇多天皇の信任を得ると、道真は単なる学者ではなく、政治を担う実務家としても重用されていきます。
家柄ではなく、能力によって引き立てられる。
それは当時の貴族社会では異例のことでした。
周囲の羨望と警戒を受けながらも、道真は着実に昇進を重ねていきます。
やがて参議、そして右大臣へ。
学問で身を立てた一人の人物が、国家の頂点に近い地位へと上り詰めた瞬間でした。
讃岐守として地方へ…。伊予国巡視と今治との縁
しかしその道のりは、順風満帆だったわけではありません。
仁和2年(886年)、道真は讃岐国の国司「讃岐守」に任じられます。
都を離れ、瀬戸内海を望む地方へ赴任することになったのです。
地方政治は理想だけでは動きません。
税の滞納、治安の問題、寺社との関係。
道真は一つ一つに向き合い、誠実に職務を果たしていきました。
その姿勢は民衆からも信頼を集めます。
そして在任中、隣国である伊予国の巡視も行われました。
国司として、周辺諸国の様子を自ら確かめる必要があったのです。
その旅路の中で、道真が訪れたのが伊予国府の地。
現在の今治市です。
瀬戸内の穏やかな海。
潮の香りを運ぶ風。
その風景の中に、若き日の道真もまた立っていたのです。
こうして、今治と道真を結ぶ歴史の糸が生まれました。
無実の罪で追放された菅原道真
都へ戻った道真は、再び政界の中枢へと迎えられます。
学者としての才だけでなく、地方行政で培った実務能力も高く評価され、朝廷における信頼はますます厚くなっていきました。
やがて右大臣に任ぜられます。
学問だけを武器に、一人の人間が国家の要職へと上り詰める。
それは当時としては極めて異例であり、多くの人々に希望を与える出来事でもありました。
しかし、その栄光の陰で、静かに嫉妬と敵意が育っていたのです。
昌泰4年(901年)。
突然、無実の罪を着せられ、道真は九州太宰府への左遷を命じられます。
それは事実上の流刑でした。
都を離れ、家族とも引き離され、すべての官職を剥奪される。
長年仕えてきた朝廷から、一瞬にして切り離されたのです。
梅に託した最後の想い。太宰府で迎えた晩年
太宰府への道中、旅の費用はすべて自費。
到着後も俸給はなく、従者も与えられず、住まいは雨漏りのする粗末な小屋でした。
それでも道真は筆を取り、詩を書き続けました。
そして京を思い、梅を思い、こんな歌を詠んだと伝えられています。
東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花
主なしとて 春な忘れそ
この一首によって、梅は道真そのものを象徴する花となりました。
凛とした寒さの中で咲く梅。
その姿は、逆境の中でも誇りを失わなかった道真の生き方と重なります。
やがて延喜3年(903年)2月25日。
道真は太宰府の地で、都へ戻ることなく静かに息を引き取りました。
享年59。
天満宮と天神信仰の広がり
道真の死後、都では不可解な出来事が相次ぎます。
落雷、高官の急死、疫病、洪水。
人々はそれらを「道真の祟り」と恐れるようになり、朝廷はその霊を鎮めるため、太宰府の墓所に社殿を建立しました。
これが後の太宰府天満宮のはじまりです。
さらに天暦元年(947年)、平安京北西の地に北野天満宮が創建され、道真は正式に神として祀られることになりました。
怨霊として恐れられた存在は、やがて都を守護する神へと変わっていったのです。
そしてその卓越した学識と清廉な生涯から、次第に「学問の神さま」として全国に信仰されて、道真を祀った多くの天満神社や天神社が創建されていきました。
今治に広がった天神信仰
この信仰は、瀬戸内海沿岸にも広がり、かつて道真自身が巡った伊予の地、今治にも受け継がれました。
「道真公が巡視の折に立ち寄った」「太宰府への際に」という伝承が語り継がれ、現在も今治市には、以下のように数多くの天神社・天満神社が伝えられています。
- 綱敷天満神社・古天神(今治市・桜井地区)
- 綱敷天満神社・新天神(今治市・桜井地区)
- 客天神社(今治市・朝倉地区)
- 天満神社・片山(今治市・日高地区)
- 天満神社・小泉(今治市・日高地区)
- 阿方清水天満宮(今治市・乃万地区)
- 天満神社・桂(今治市・玉川地区)
- 天神社・紺原(今治市・大西地区)
- 天神社・山之内(今治市・大西地区)
- 天満宮・脇(今治市・大西地区)
- 碇掛天満宮(今治市・大西地区)
- 天満神社・葛谷(今治市・玉川地区)
- 天満神社・桂(今治市・玉川地区)
- 天満神社・高野(今治市・玉川地区)
- 天神社・龍岡(今治市・玉川地区)
- 天神社・種(今治市・菊間地区)
- 田井天満神社(今治市・大島)
- 天神社・宮浦(今治市・大三島)
確かな史料にすべてが残るわけではありません。
しかし、こうした記憶は人々の中に息づき、それぞれの地域に根付いていったのです。
「梅鉢紋」道真公を象徴するかたち
道真公を祀る神社に足を運ぶと、社殿や提灯、絵馬などに共通して描かれている紋があります。
それが「梅鉢紋(うめばちもん)」です。
五枚の花弁を円形に配したこの意匠は、菅原道真公を象徴する神紋として、全国の天満宮や天神社で用いられてきました。
梅鉢紋の由来は、道真公が生前、梅をこよなく愛していたことにあります。
太宰府左遷の折に詠まれた「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」の歌はあまりにも有名で、ここから梅は道真公そのものを表す花となりました。
やがて神として祀られるようになった道真公の象徴として梅は紋章化され、梅鉢紋となり、天神信仰とともに全国へと広がっていきます。
道真公終焉の地に建つ太宰府天満宮と、怨霊鎮魂のために創建された京都の北野天満宮は、その信仰の中心的存在となり、ここから各地へ天満宮や天神社が勧請され、梅鉢紋もまた広く定着していきました。

太宰府天満宮 撮影: るCha(写真AC)
今治でも綱敷天満神社や碇掛天満宮をはじめ、市内各地の天満神社や天神社で梅鉢紋を見ることができ、天神信仰がこの地にも確かに根づいていることを感じさせます。


菅原道真の血を引く今治藩主・久松松平家
そして、この「梅鉢紋(星梅鉢紋)」を家紋として受け継いだのが、江戸時代の今治藩主であった久松松平家です。
実は、久松松平家はその出自を菅原道真の後裔に持つとされる家系です。
道真の子孫・菅原資行(すがわら の すけゆき)の系統にあたると伝えられ、室町時代には三河国に勢力を有し、戦国期に「久松」を称しました。
後に徳川家康の生母・於大の方が再嫁したことで家康の異父弟・久松定勝が生まれ、以後、久松松平家は譜代大名として重きをなし、今治藩・桑名藩などを治める名門家として存続していきます。
その久松松平家が、学問と誠実の象徴である梅の紋「梅鉢紋(星梅鉢紋)」を家紋とした背景には、由緒ある血統への誇りと、祖先を敬う心があったと考えられます。
今治藩主の墓には、松平定房(初代藩主)、松平定陳(3代藩主)、松平定基(4代藩主)の三基の宝篋印塔が並び、いずれにも一族の象徴である梅鉢紋(星梅鉢紋)が刻まれています。
それは一族の系譜にとどまらず、道真公と今治を結ぶ長い歴史の記憶を、今も静かに私たちへ伝えているかのようです。

星梅鉢が刻まれた吹揚神社と今治城の記憶
今治市の中心部、今治城の本丸跡に鎮座する吹揚神社の境内にも、「梅鉢紋(星梅鉢紋)」が刻まれています。
※今治城の歴史はこちらから
今治城は、築城の名手として知られる藤堂高虎によって築かれ、その後は久松松平家が今治藩の拠点として治めてきました。
しかし明治維新という大きな時代の転換の中で、今治城は解体され、武家政権の象徴であった城郭は姿を消します。
そして明治5年(1872年)、失われた本丸跡に新たな祈りの場として創建されたのが吹揚神社でした。
この吹揚神社の創建にあたり、今治藩主・久松松平家の別荘「松之本花園」に鎮座していた松ノ本天満宮が境内へ遷座されます。
松ノ本天満宮の主祭神は、学問の神として知られる菅原道真。
久松松平家の遠祖とされる道真公は、藩にとっても特別な存在でした。
さらに明治4年(1871年)の廃藩置県によって今治藩は廃され、久松松平家も東京へと移り、この地から藩主の姿は消えます。
城が解かれ、藩が終わり、武家の時代が幕を閉じる中で、吹揚神社は「失われた城」と「去っていった藩主」の記憶を受け継ぐ、新たな精神的拠り所として生まれたのです。
現在の吹揚神社には、天照大神をはじめとする日本の主要な神々に加え、菅原道真、藤堂高虎、そして初代今治藩主・松平定房も祀られており、今治の歴史そのものを映し出す特別な神社として、市民に親しまれています。

「梅鉢紋(星梅鉢紋)」が刻まれているのは、境内左手に鎮座する住吉神社の脇にある手水舎です。
境内左手には境内社の住吉神社があり、その鳥居の左側には猿田彦神社の社号石が立っています。
右手には「住吉神社・猿田彦神社・海神社・天満宮」と刻まれた石碑が置かれ、かつて境内にそれぞれの社が鎮座し、後に合祀されたことを今に伝えています。

また、社殿には現在も「天満宮」の扁額が掲げられており、吹揚神社の中に天神信仰が組み込まれていることがうかがえます。

そして、そのすぐ脇にある手水舎に、「梅鉢紋(星梅鉢紋)」が静かに刻まれているのです。

今治城で天守展示と季節の花を楽しむ
今治城天守の展示室には、久松松平家に関わる意匠として梅鉢紋が付された甲冑や調度品が展示されており、当時の武家文化や藩主家の家格を今に伝える姿を見ることができます。
久松松平家が藩政を担った時代の格式を、具体的な実物資料として確認できる点は、城内展示の大きな見どころの一つです。
※館内には写真撮影が禁止されている展示区画もあるため、見学の際は現地の案内表示に従ってください。


また天守一階の観覧券売場では、今治城を築城した藤堂高虎公の家紋である「藤堂蔦」と、のちに今治藩主となった久松松平家の「梅鉢紋」という二つの家紋を配した御城印も販売されています。
城内展示とあわせて御城印を手に取ることで、今治城に刻まれた歴史の重なりをより身近に感じることができるでしょう。

今治城は桜の名所としても知られていますが、早春に咲く梅の花もまた美しく、城内の景色にやわらかな彩りを添えます。
まだ冷たい空気の残る季節、白や紅の梅が石垣や天守を背景にほころぶ姿は、春の訪れを静かに告げる光景です。
瀬戸内海を望む城ならではの澄んだ空と、凛とした梅の花の対比も印象的で、華やかな桜とはまた違った、静かで落ち着いた表情の今治城を楽しむことができます。
天守の展示で歴史に触れ、城内を歩きながら季節の花を愛でるひとときは、今治ならではの贅沢な時間といえるでしょう。
ぜひ実際に今治城を訪れ、天守の展示や城内の風景とともに、この地に刻まれてきた歩みを体感してみてください。


今治藩ゆかりの寺院と梅鉢紋
また、今治藩ゆかりの寺院にも梅鉢紋は見られ、光林寺をはじめ、海禅寺や大仙寺などでは、扁額や本堂まわり、屋根瓦(鬼瓦や軒丸瓦)といった建築の各所に、梅鉢紋の意匠が残されています。


中でも、かつて藤堂家の菩提寺でもあった大雄寺には、藤堂家の歴代先祖の五輪塔と並んで、今治藩筆頭家老家・久松長政(久松彦兵衛長政)の宝篋印塔、同家七代当主の久松清儀(久松彦兵衛清儀)の墓石が建立されています。
これらの墓塔は、戦国期に藤堂家が治めた時代から、江戸期における今治藩成立へと続く歴史の流れを映し出す存在として、現在も大切に守られています。


「観梅会」梅と天神信仰が息づく早春の風景
綱敷天満神社は、境内の梅園におよそ400本もの梅が植えられた、愛媛県内でも有数の梅の名所として知られています。
毎年2月下旬、梅の花が見頃を迎える頃になると「観梅会」が開かれ、今治市内はもちろん、県内外からも多くの参拝者や観光客が訪れます。
境内にはやわらかな梅の香りが漂い、早春の訪れを告げる穏やかな風景が広がります。
2月25日は、学問の神として広く信仰される菅原道真の命日にあたります。
道真公の誕生日が6月25日であることから、全国の天満宮では毎月25日を「天神の縁日」とし、とくに命日にあたる2月25日前後には、道真公を偲ぶ神事が各地で営まれてきました。
綱敷天満神社でも、観梅会当日にあわせて祈祷が行われ、あめ湯の振る舞いや、地元・桜井漁業組合婦人部による鯛飯の販売などが並び、訪れた人々を温かく迎えてくれます。

梅を愛した道真公の面影と、土地に根づいた天神信仰。
そして、そこに重なる人々の暮らしのぬくもり。
綱敷天満神社の観梅会は、ただ花を愛でるだけの行事ではなく、今治に受け継がれてきた信仰と歴史を静かに感じられる、早春ならではの大切な年中行事となっています。

梅の花に包まれた今治へ
梅の香りに包まれながら、道真公の面影と今治の歴史にそっと触れてみる。
城に残る梅鉢紋や、町に点在する天満の社、そして季節の花々が重なり合う風景は、この土地が歩んできた時間を静かに語りかけてくれます。
梅の花が咲く頃は今治市を訪れ、この地に刻まれてきた歴史の足跡をたどってみてください。