語り継がれる不屈の精神 石丸忠兵衛の新田開発
桜井地区には、開拓者の名をそのまま地名として残した場所があります。
その一つが、長野孫兵衛が開いた「孫兵衛作村(現:孫兵衛作)」です。
そして桜井にはもう一つ、かつて開拓者の名が村名として残されていた場所がありました。
それが現在の伊予桜井駅を含む周囲の地域に広がっていた 石丸忠兵衛(いしまる ちゅうべえ、1585年〜1658年)が開いた村「忠兵衛作村」です。

現在ではその名を残す地名や村は姿を消してしまいましたが、忠兵衛が切り開いた田畑は今もこの土地に残り、地域の歴史を静かに伝えています。
今回は、忠兵衛作村を開いた人物・石丸忠兵衛の歩みをたどりながら、その功績と地域の歴史を見ていきます。
戦国時代の終わりと江戸時代初期の新田開発
忠兵衛の話を進める前に、まずこの時代がどのような時代であったのかを見てみましょう。
忠兵衛が生まれた頃の日本は、長く続いた戦国時代の争いがようやく終わりへと向かう時期でした。
16世紀後半になると、織田信長が各地の戦国大名を次々と打ち破り、天下統一へ向けた動きを進めました。
信長の死後、その事業を引き継いだ豊臣秀吉は、天正18年(1590年)の小田原攻めによって全国の大名を従え、日本の統一をほぼ完成させます。
さらに秀吉は「太閤検地」や「刀狩令」などの政策を行い、武士と農民の身分を分けるなど、社会の秩序を整えていきました。
こうした政策は、長く続いた戦乱の時代から安定した社会へ移るための基盤となりました。
その後、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いによって徳川家康が天下の実権を握り、慶長8年(1603年)には江戸幕府が開かれます。
こうして日本は約260年にわたる平和な時代へと入っていきました。
しかし、戦乱が終わったとはいえ、各地の農村では長い戦争によって荒れた土地も多く、農地の整備や新しい田畑の開発が大きな課題となっていました。
米が支えた江戸時代の社会
江戸時代の社会において、米は単なる食料ではありませんでした。米は藩の財政を支える基本であり、武士の俸禄も石高によって定められていました。
そのため、米の生産量を増やすことは各地の藩にとって極めて重要な政策となりました。
こうした背景のもとで、荒れ地の開墾や湿地の干拓などによる新田開発が全国各地で進められるようになります。
とくに江戸時代初期には、領主だけでなく地域の有力農民や庄屋などが中心となって新しい田畑を開く例も多く見られました。
各地で進んだ荒地開発と新田開発
こうした社会の変化の中で、日本各地では新しい農地を生み出すための新田開発が盛んに行われるようになりました。
日本における新田開発は、大きく二つの時期に分けて考えられます。
第一の時期は戦国時代末期から寛文年間(1670年代頃)までの時期です。
この時期には領主や地方の有力農民(土豪)が中心となって新田開発が行われました。
全国的に耕地面積は大きく拡大し、日本の農業生産はこの時期に大きく成長したといわれています。
第二の時期は享保7年(1722年)以降で、幕府が財政再建のために農地開発を奨励した時期です。
このころになると幕府や藩の政策として新田開発が進められ、多くの農地が造成されました。
石丸忠兵衛の開拓は、こうした新田開発のうち、前者の地方主導型の開発に属します。
地域の有力農民が中心となって土地を開発することで、農業生産の拡大が進められました。
今治地方の新田開発と地域の地形
こうした新田開発の動きは、伊予国・今治地方でも同じように見られました。
代表的なものとして、今治城周辺の湿地を開発した「大新田」、鳥生地区の「将監新田」、慶長14年(1609年)に開発が始まった「孫兵衛新田(孫兵衛作村)」、そして寛永年間に開かれた「忠兵衛新田(忠兵衛作村)」などがあります。
これらはいずれも、地域の有力者が中心となって進めた新田開発でした。
その後、元禄時代以降になると、川原新田や喜田村の新田など、藩の政策と関係する新田開発も次第に増えていきます。
今治地域には、古代の土地制度である条里制の区画がよく残っています。
条里制とは、田畑を碁盤目状に整然と区画する古代の土地制度です。
そのため、この条里制の区画が見られない場所は、後の時代に開発された新田であることが多いと考えられています。
また今治平野では、川の氾濫や湿地の地形を利用した新田開発が多く行われました。
蒼社川流域では、氾濫を繰り返す川沿いの低地を開発した「川筋新田」が多く見られます。
市内上流部には実入新田や川原新田があり、中下流域にも上河原・下河原・煙草畑・萩畑など、多くの新田が広がっています。
さらに浅川下流から北部の大新田村・石井村にかけては、潮害や湿地の多い土地を開拓することで新田村が形成されました。
特に大新田村は石井村から分かれて成立した新田村で、九市郎新開や鞆屋新田、湊新田など多くの新田地名が残っています。
また蒼社川下流右岸から鳥生の低湿地帯にかけても広い範囲で新田開発が進められました。
この地域では、現在の国道196号付近を境に、古代の条里地割と新田地帯が比較的はっきりと区別されることが知られています。
特に龍登川周辺には、弥右衛門新開・殿様新開・六兵衛新開・大新開・浜新開など、多くの低湿地開拓の新田が並び、近年まで四国有数の蓮根の産地としても知られていました。
さらに頓田川流域でも、川が増水した際に水が広がる川沿いの低地を利用した新田開発が行われました。
高市村の新田や東村の向新田・平助新田、また国分村の岸井新田や助兵衛新田などがその例です。
このように、今治平野の新田は川の氾濫や湿地などの自然条件と深く関わりながら広がっていきました。
そして、その中でも早い時期に開かれた新田として知られるのが、慶長14年(1609)頃から開発が始まった孫兵衛新田と、寛永年間に開かれた忠兵衛新田でした。
これらの新田は、開拓が進むにつれて人々が住み着き、やがてそれぞれ孫兵衛作村、忠兵衛作村という村として成立していきます。
こうした開発は、地域の有力者が中心となって進めた典型的な土豪主導型の新田開発であり、今治地方の開発史の中でも重要な事例とされています。
そして、この忠兵衛作村を開いた人物こそが、石丸忠兵衛でした。
朝倉に根を下ろした一族。忠兵衛を生んだ石丸家
忠兵衛が新田開発を行うことができた背景には、石丸家が村の中で一定の地位と影響力を持っていたことが関係していると考えられます。
石丸家は、伊予国越智郡朝倉下村に古くから住んでいた一族で、庄屋を務めるなど地域社会の中で重要な役割を担ってきた家でした。
今治に伝わる石丸家の由来によれば、その祖先は周防国(現在の山口県)を本拠とした守護大名・大内氏の第十代当主、大内義弘(おおうち よしひろ)に連なるとされています。

大内義弘公の銅像 撮影: マーシー@窓際社員(写真AC)
西国の守護大名・大内義弘
大内義弘(おおうち よしひろ)は、南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将であり、西国を代表する守護大名の一人です。
周防国(現在の山口県)を本拠とする大内氏の第10代当主で、周防・長門を中心に勢力を広げ、大内氏最初の全盛期を築いた人物として知られています。
義弘は大内氏第24代当主・大内弘世の嫡子として生まれました。
幼名は孫太郎といい、元服の際には室町幕府第2代将軍足利義詮から一字を与えられて「義弘」と名乗るようになりました。
これは当時の武家社会において将軍家から特別に認められた証でもあり、大内氏が幕府の有力守護として重視されていたことを示しています。
当時の大内氏は周防・長門を中心に勢力を持つ守護大名でしたが、義弘の時代になるとその勢力はさらに拡大しました。
義弘は室町幕府に従って各地の戦いに参加し、九州の南朝勢力との戦いなどで多くの功績を挙げました。
応安年間(1370年代)には九州へ出兵し、南朝方の勢力と戦って勝利を収めるなど活躍しました。
これらの功績によって、長門国や豊前国などの守護職を与えられ、大内氏の勢力は次第に拡大していきました。
その後、父が亡くなると家督争いが起こりましたが、将軍足利義満の支持を得て家督を継ぎ、大内氏の当主となりました。
義弘は幕府の有力守護として各地の戦いに参加し、特に明徳2年(1391年)の明徳の乱では山名氏討伐に功績を挙げました。
この功績によって、山名氏の旧領である和泉国や紀伊国の守護職を与えられ、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の六か国に勢力を持つ大大名となりました。
この頃、大内氏は西国でも屈指の勢力を持つ守護大名へと成長し、義弘の時代に最初の全盛期を迎えました。
また義弘は政治だけでなく外交にも関わり、朝鮮半島の高麗や中国の明との貿易にも関与しました。
倭寇の取り締まりなどにも関わり、西日本の対外関係においても重要な役割を果たしました。
しかし勢力が大きくなりすぎたことで、将軍足利義満との関係は次第に悪化していきます。
義満は守護大名の力を弱めて将軍権力を強めようとしており、強大な勢力を持つ大内義弘を警戒していました。
義満が北山殿(後の金閣寺)を造営する際、諸大名に労働力の提供を求めましたが、義弘は「武士は弓矢をもって奉公するもの」としてこれに応じませんでした。
このことも両者の対立を深める原因となりました。
やがて義弘は将軍との関係が悪化し、応永6年(1399年)に和泉国堺で兵を挙げます。
これが応永の乱です。
義弘は約五千の兵を率いて堺に籠城し、幕府軍と戦いましたが、幕府側は三万ともいわれる大軍を動員して攻撃し、激しい戦いの末、応永6年12月21日に義弘は討ち取られました。
この戦いは、室町幕府が有力守護大名の勢力を抑えるために行った大きな事件として知られています。
朝倉へと逃れた大内氏一族の伝承
伝承によると、応永の乱によって大内氏の一族が動乱に巻き込まれた後、その家臣や一族の中には各地へ離散していった者もあったと伝えられています。
その中で、大内義弘は息子の一人である大内吉国(甚左衛門吉国)を、家臣の鬼原与三兵衛秀宗、荻野太郎元茂、冷泉右衛門宗定ら二十余人とともに、応永7年(1400年)1月6日に伊予国越智郡朝倉下村(愛媛県今治市朝倉下)へ落ち延びさせたと伝えられています。
その後、吉国は武士の身分を離れて帰農し、石丸姓を名乗るようになりました。
こうして朝倉の地における石丸一族の歩みが始まったとされています。
大内氏に関する伝承には、戦乱の中で落武者や生き残った子どもが各地へ逃れ、名を変えてその土地に定着したという話が多く残されています。
「石丸」という姓も、当時の身分や出自を隠すために用いられた名前であったのかもしれません。
朝倉に根付いた石丸家と忠兵衛の誕生
その後も石丸家は、二代目・石丸甚左衛門吉房(石丸吉房)、三代目・石丸甚左衛門吉春(石丸吉春)、四代目・石丸甚左衛門吉富(石丸吉富)と代を重ね、朝倉の地に根を下ろしていきました。
こうした歩みの中で、やがて戦乱の時代は終わりを迎えます。
豊臣政権から徳川政権へと時代が移り、全国的に社会の秩序が整いはじめると、日本各地では農業の発展が重要な課題となりました。
荒れ地の開墾や新田の開発が盛んに行われ、米の生産を増やすことは各地の領主にとっても重要な政策となっていきました。
また、このころの農村では、戦国時代の動乱の中で武士の身分を離れた人々が農村に定着し、有力農民として地域社会の中心的な役割を担うようになる例が多く見られました。
石丸家は、そうした動きに先んじるかのように、朝倉下村においてすでに有力農民として地域社会の中で重要な役割を担っていました。
そして天正13年(1585年)、石丸家に五代目を継ぐことになる男子が生まれました。
甚蔵(じんぞう)と名付けられたこの子は、成長すると忠兵衛吉久と名乗るようになります。
この人物こそが、後に新田開発によって名を残すことになる石丸忠兵衛です。
笠松山のふもと、野々瀬ヶ原の開墾計画
忠兵衛は、朝倉下村の背後にそびえる笠松山の笠松観音堂に祀られている観音を深く信仰していました。
笠松観音堂は、古くから地域の人々の信仰を集めてきた古い霊場であり、その由緒は南北朝時代にまでさかのぼると伝えられています。

笠松山そのものも、古くから信仰の山として人々に崇められてきました。
そのような笠松山を日々仰ぎ見ながら暮らしていた忠兵衛は、地域と一族の繁栄を願い、農業の発展に力を尽くしました。
そしてやがて、その笠松山のふもとに広がる野々瀬ヶ原に目を向けることになります。
この一帯は当時、原野が広がる土地で、まだ農地として利用されていませんでした。
しかし忠兵衛は、この地を水田として開くことができれば、多くの米を生み出す豊かな田畑になるのではないかと考えました。
やがて忠兵衛は、この土地を開墾する決意を固め、松山藩に対して開墾の許可を願い出ました。
複雑に入り組んでいた朝倉地域の領地関係
当時の朝倉地域は、藩の統治関係が非常に複雑に入り組んでいました。
江戸時代初期には、朝倉上・朝倉中・朝倉下・古谷(こや)の四か村がありましたが、その後、朝倉郷はさらに細かく分かれ、それぞれの村が同じ領主の統治下にあったわけではありませんでした。
古谷・山口・朝倉上・朝倉南・朝倉北は今治藩領、朝倉上之村は松山藩領、朝倉下村は松山藩領と一部天領が混在するなど、統治体制は複雑に入り組んでいました。
このような状況の背景には、伊予国における藩の成り立ちがあります。
松山藩と今治藩はともに徳川幕府の親藩である久松松平家によって治められた藩でした。
寛永12年(1635年)、松平定行が桑名から十五万石で松山に入封し松山藩が成立し、その弟の松平定房が今治三万石を与えられて今治藩主となりました。
つまり両藩は同じ一族によって治められた藩でしたが、伊予国内の領地は細かく分割されていたため、朝倉地域のように領地が複雑に入り組む状態となっていたのです。
さらに、松山藩と今治藩の知行制度は共通して「蔵米知行」と呼ばれるものでした。
これは家臣に特定の土地を与えるのではなく、石高に応じて藩の蔵から米を支給する制度です。
そのため家臣が村を直接統治することはなく、村の統治は郡奉行・代官・大庄屋・庄屋といった役職によって行われていました。
このような制度のもとでは、庄屋や有力農民が村の運営や農地の開発を担う重要な存在でした。
忠兵衛もまた、そのような立場にあった人物でした。
松山藩に願い出た野々瀬ヶ原の開墾
当時、新しい田畑を開くためには領主の許可が必要であり、勝手に土地を開くことはできませんでした。
松山藩領と天領が混在する地域、朝倉下村の住人であった忠兵衛は、野々瀬の原の開墾について松山藩に許可を願い出ました。
寛永6年(1629年)、松山藩庁の許可を得た忠兵衛は、一族を率いて鍬を手に取り、荒れ地の開墾を始めました。
そして、ついに十二町歩(約12ヘクタール)の新田を開くことに成功しました。
新田を支えた井堰工事
しかし、新しく開いた田畑には大きな問題がありました。
それが水不足でした。
そこで忠兵衛は、山越川の水を野々瀬の田へ引くため、下天皇の地に井堰(いせき)を築くことを考えました。

井堰とは、川の流れをせき止めて水位を上げ、用水路へ水を取り入れるための堰(せき)のことです。
当時の山越川は原野の中を幾筋にも分かれて流れており、地形には複雑な起伏がありました。
特に下天皇の地は、頓田川の本流と山越川が合流する地点にあたり、落差も大きく、工事は非常に困難なものでした。
それでも忠兵衛は工事を進め、開墾から三年の歳月を経た寛永9年(1632年)5月、ついに井堰と水路を完成させました。
堰によって取り入れられた豊富な水は水路を通って野々瀬の田を潤し、新しく開かれた水田は安定した稲作ができるようになりました。
忠兵衛は工事の完成を記念して、下天皇橋付近の河岸の岩に次の文字を刻みました。
「此井寛永九年壬申 従仲春 到夏上旬 成就畢 石丸甚蔵」
(この井堰は寛永九年、春から初夏にかけて完成した。石丸甚蔵)
現在も忠兵衛が刻んだと伝わる岩は、天皇堰付近に残されています。
昭和62年(1987年)11月には、朝倉村教育委員会によってその場所に石碑が建立され、井堰工事を成し遂げた忠兵衛の功績を今に伝えています。

野々瀬新田をめぐる領地争い
このように野々瀬の開墾を成し遂げた忠兵衛は、一族とともにこの地で田畑を耕し、新田の発展に力を尽くしていくはずでした。
ところが、あろうことか野々瀬の新田は、領地争いに巻き込まれることになったのです。
実は野々瀬の地は、今治藩の領地に属していました。
そのため、「野々瀬は今治藩の領地である。朝倉下村の天領側の住民である忠兵衛がこれを開墾するのはおかしい」という不満の声が上がったのです。
この問題は、当時今治藩から出張して藩領内を巡検していた朝倉北の郷宅(現在の岡氏宅)から今治藩へと差し出されました。
今治藩ではこの訴えについて事情を調べ、松山藩側とも関係を整理したうえで領地の区分について検討が行われることになります。
その結果、村の区域が整理され、朝倉中村のうち字岡・榾などの地域は朝倉下村へと編入されることになり、さらに松山藩の許可を得て忠兵衛が苦労の末に開いた野々瀬の新田は、今治藩領である朝倉中村の土地と定められてしまいました。
こうして水利権も今治藩に移り、朝倉下村の住人であった忠兵衛は、自ら開いた土地でありながらそれを耕すことなく手放さざるを得なくなったのです。
当時の農民にとって、藩の裁定に逆らうことはできず、忠兵衛が長い年月と労力をかけて開いた新田は、こうして失われることになりました。
「忠兵衛作村」桜井・長沢の湿地に生まれた村
しかし忠兵衛は、この困難に屈することはありませんでした。
忠兵衛は、天領の民は天領の土地を開くほかないと考え、新たな開墾の地を探しました。
そして目を向けたのが、桜井郷と長沢郷の間に広がる低湿地でした。
当時この一帯は海水が入り込む沼沢地で、湿地が広がる未開の土地でした。そのため農地として利用されることはほとんどありませんでした。
しかし忠兵衛は、この土地を干拓すれば広い水田を開くことができると考えたのです。
そこで忠兵衛は再び松山藩に願い出て、新たな開発に取り組む決意を固めました。
寛永11年(1634年)5月、松山藩の許可を得た忠兵衛は、一族や協力する人々とともにこの湿地の干拓に取りかかりました。
干拓工事は容易なものではなく、水を排し、溝を掘り、土地を整える作業が昼夜を問わず続けられました。
忠兵衛たちは日夜苦労を重ね、七年の歳月をかけてついに広大な新田を完成させました。
その面積は十五町七反余(約15.7ヘクタール)に及び、開かれた土地には次第に農民が移り住み、家数も四十軒余りに増えていきました。
収穫高は八十三石七斗九升一合(米にして約12トン余り)に達したと伝えられています。
寛永17年(1640年)、松山藩はその功績を認め、この地に「忠兵衛作村」を立て、忠兵衛を初代の里正(庄屋)に任命しました。
このとき、忠兵衛は55歳でした。
忠兵衛の最期と忠兵衛作村の消滅
こうして再び大規模な新田開発を成し遂げた忠兵衛は、その後も忠兵衛作村の庄屋として村の発展に尽くしました。
そして万治元年(1658年)9月4日、73歳でその生涯を閉じました。
忠兵衛作村はその後も、忠兵衛の子孫や村人たちによって農村として受け継がれ、開かれた田畑は地域の重要な耕地として利用され続けました。
しかし、時代の流れの中でこの村にも大きな転機が訪れます。
松山藩を揺るがした後継問題
きっかけとなったのは、宝暦13年(1763年)、松山藩七代藩主・松平定功の死去でした。
定功が急死すると、松山藩は深刻な後継問題に直面します。
定功には男子がなく、しかも後継者の届けも出されていませんでした。このままでは松山藩そのものが絶家となり、改易される可能性もあるという危機的な状況でした。
そこで藩では急ぎ対策を講じ、別家筋にあたる松平定静を養子として迎えることを幕府に願い出ます。
定静は、松山藩四代藩主・松平定直の四男である松平定章の家を継いでいた人物でした。
幕府の許可が下りると、定静は本家の養子となり、明和2年(1765)に松山藩八代藩主として家督を継ぐことになります。
こうして松山藩は、絶家の危機を辛うじて免れることになりました。
しかし、この問題の背景には、さらにさかのぼる事情がありました。
松山藩四代藩主の松平定直は、今治藩主久松家の出身で、延宝2年(1674)に松山藩へ養子として入り、四代藩主となった人物です。
当時の大名家では、領地や身分は個人ではなく「家」に属するものと考えられており、家を絶やさないことが何より重要でした。
そのため後継者問題に備え、分家を立てて家の血筋を守ろうとすることは珍しいことではありませんでした。
定直もまたそのような備えとして、三男の定英を本家の後継とし、四男の定章に一万石を与えて分家を立てることを幕府に願い出ました。
このときの計画は巧妙なものでした。松山藩十五万石の領内では新田開発が進み、実際の収穫高が増えていたため、その増収分を分家の一万石に充てるという形をとったのです。
つまり本家の石高十五万石を減らすことなく、増収分で分家を成立させるというものでした。
この願いは幕府に認められ、享保5年(1720)、定章は従五位下備前守に任じられ、一万石の大名として松山藩の分家が成立しました。
ところが、その後の家督相続によって思わぬ事態が起こります。
定章の子である定静が本家の養子となり、松山藩の藩主となったことで、分家の扱いが問題となったのです。
分家の当主が本家の藩主となった場合、分家は存続することができません。
分家といえども大名は幕府の直臣であり、その領地は本家に戻るのではなく、幕府へ返上しなければならない決まりでした。
幕府は松山藩に対し、この一万石を返納するよう命じます。
しかし松山藩にとって、この一万石は実際の領地として分けられていたものではありませんでした。
分家の定章には、十五万石の年貢米の一部を藩の蔵から支給する「蔵米知行(くらまいちぎょう)」という形で与えられていたため、どの土地がその一万石に当たるのかが決まっていなかったのです。
そのため幕府の命令に従うためには、新たに領地を選んで差し出す必要がありました。
最終的に松山藩は、周桑郡西部九か村と越智郡の一部の村を合わせ、合計一万石分の土地を幕府へ上地することになります。
越智郡では、朝倉上村・朝倉下村・宮崎村・登畑村・旦村・桜井村・長沢村・孫兵衛作などの村がその対象となりました。
こうしてこれらの地域は松山藩領から外され、天領(幕府直轄の領地)として再編されることになったのです。
忠兵衛作村の消滅
この領地整理の影響は、石丸忠兵衛が開いた忠兵衛作村にも及びました。
忠兵衛作村の村高(その村の米の生産高)は、十六石余が長沢村へ、六十七石余が桜井村へと編入されました。
江戸時代の村は石高を基準に成立していたため、村高が他の村へ組み込まれると独立した村として存続することはできません。
こうして「忠兵衛作村」という村名は歴史の中から姿を消すことになり、現在ではその名を知る人も少なくなりました。
しかし、村名が消えたからといって、その土地の歴史や営みまで失われたわけではありません。
石丸忠兵衛の遺したもの
忠兵衛が干拓して開いた田畑は、その後も農地として利用され続け、現在でも当時の耕地の多くが残されています。
桜井駅の裏手、伊予国分尼寺塔跡のそばの畑の中には、忠兵衛の功績を伝える開墾記念碑が建てられています。
碑文には「開此新田主下村住人石丸忠兵衛尉吉久、寛永第十七庚辰天」と刻まれており、この地の新田を開いた人物が朝倉下村の住人であった石丸忠兵衛吉久であることを今に伝えています。


忠兵衛の墓は現在、今治市朝倉にある満願寺にあり、絵馬殿の後ろに続く墓地の入り口に五輪塔が残されています。
そこには忠兵衛の戒名「雲晴院秘月道円居士」と没年月日が刻まれており、地域の開拓に尽くした忠兵衛の生涯を今に伝えています。


忠兵衛の五輪塔の隣には、妻の五輪塔が並ぶように建てられており、その塔は忠兵衛のものよりわずかに小さく造られています。

周囲には石丸家一族の墓も並び、さらに右端には六代目・四郎右衛門吉次の墓石も残されています。

また、忠兵衛以前の一族の墓も満願寺にあったと伝えられていますが、土砂崩れなどの影響によって失われてしまいました。
しかし、後に子孫によって合同記念墓碑が建立され、現在も境内に残されています。

七代目から十代目までの石丸家の当主や一族の墓石は、長く開墾記念碑の裏山の墓所に残されていましたが、
昭和51年(1976年)、これらの墓石は浜桜井墓地(今治市桜井二丁目甲1563番)にある石丸家の墓所へと移されました。
場所は戦没者英霊合祀碑の裏手にあたり、現在も十七基の墓石が並び、石丸家の歴史を静かに伝え続けています。

浜桜井墓地にある石丸家の墓石には、家紋の「大内菱(おおうちびし)」が刻まれています。
大内菱は、大内氏を由緒とする一族の象徴として伝えられてきた家紋であり、石丸家が受け継いできた歴史と系譜を今に伝えています。

今もこの土地に生きる忠兵衛の志
このように、石丸忠兵衛は幾度もの困難に直面しながらも、新しい土地を切り開き、地域の発展に大きな足跡を残しました。
忠兵衛が干拓して開いた田畑は、時代を経た現在も農地として利用され、桜井と朝倉の風景の中に残されています。
満願寺の墓や開墾記念碑、そして石丸家に伝わる大内菱の家紋は、忠兵衛の歩みと一族の歴史を今に伝えています。
荒れ地に鍬を入れ、新しい土地を生み出した開拓者・石丸忠兵衛。
その志と功績は、三百年以上の時を越え、今もこの土地とともに生き続けているのです。