偉大な父たちの時代を越え、再び伊予の命運を懸けた戦いへ
「心残りは伊予国のみ」との言葉を残し、都で壮絶な討死を遂げた北朝方の名将・細川頼春(ほそかわ よりはる)。
その意思を受け継いだのが、嫡男・細川頼之(ほそかわ よりゆき)でした。
頼之は父から阿波守護職を受け継ぐと、四国経営を担う若き武将として頭角を現します。
そして延文元年/正平11年(1356年)には、将軍・足利尊氏から中国方面の軍事を統括する中国管領(中国大将)に任じられ、備後守護にも補任されるなど、室町幕府を支える有力武将へと成長していきました。
頼春と河野通盛(こうの みちもり)が和睦してから、およそ二十年。
細川氏と河野氏宗家との対立はひとまず収まり、伊予は比較的安定した情勢を保っていました。
しかし、その平穏の裏で、都では新たな時代の幕開けを告げる大きな出来事が起ころうとしていたのです。
前回の記事はコチラ:《世田山合戦⑦》新伊予守護・細川頼春と河野通盛の対立──南朝との戦いの後に始まった、もう一つの戦い
「初代将軍・足利尊氏の死」南北朝が新たな時代へ
延文三年/正平十三年(1358年)。
鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政、そして室町幕府を開いた初代将軍・足利尊氏(あしかが たかうじ)は、観応の擾乱がようやく終息した後も、なお続く南朝方との戦いに心を砕いていました。
九州では、かつて伊予国大井浜(現在の今治市大西町)に上陸し、瀬戸内の水軍に守られながら九州へ渡った懐良親王(かねながしんのう)や、観応の擾乱で足利直義方として幕府に反旗を翻した足利直冬(あしかが ただふゆ)がなお勢力を保ち、尊氏にとって九州の平定はいまだ大きな課題となっていました。
そこで尊氏は、嫡男・足利義詮(あしかが よしあきら)とともに幕府の立て直しを進めながら、自ら九州へ出陣し、南朝勢力を平定しようと考えていました。
しかし、その矢先、思いもよらぬ出来事が尊氏を襲います。
同年4月、尊氏は背中に「癰(よう)」と呼ばれる腫れ物を患い、病状は急速に悪化します。
懸命な治療も実らず、延文三年/正平十三年(1358年)4月30日、京都でその波乱に満ちた生涯を閉じました。
享年五十四。
尊氏の死によって、北朝・室町幕府は二代将軍・足利義詮(あしかが よしあきら)の時代へと移ります。
一方、南朝では後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇(ごむらかみてんのう)がなお戦いを続けていました。
こうして、南北朝時代の幕を開けた二人の指導者が相次いでこの世を去った後も、その争いは終わることなく、新たな世代へと受け継がれていったのです。

Tomb of Ashikaga Takauji in Toujiin kyoto japan 撮影:PlusMinus(Wikimedia Commons) CC BY-SA 3.0
「細川清氏」幕府の実力者から南朝方へ
義詮を支える重臣として、幕府の中枢で大きな権勢を振るうようになったのが、細川頼春の実弟・細川清氏(ほそかわ きよし)でした。
清氏は観応の擾乱でも一貫して足利尊氏方として戦い、各地の戦場で数々の武功を挙げた歴戦の名将です。
その戦功は高く評価され、延文三年/正平十三年(1358年)、足利義詮が二代将軍に就くと、幕府の執事に抜擢されました。
執事は、将軍を補佐し、幕府の政務や軍事を統括する最高職の一つです。
こうして清氏は、将軍・義詮を支える幕府屈指の実力者として、中央政界の頂点へと上り詰めました。
しかし、その急速な台頭は幕府内の有力武将たちの反発を招きます。
とくに激しく対立したのが、近江守護・佐々木道誉(ささき どうよ)でした。道誉は卓越した政治力と巧みな駆け引きによって幕府内に絶大な影響力を築き、「天下の策士」とも称された当代屈指の実力者です。
やがて幕府の実権をめぐる両者の対立は、単なる個人同士の争いではなく、幕府中枢を揺るがす深刻な政争へと発展していきました。
そして康安元年/正平十六年(1361年)、清氏は道誉の讒言によって将軍・義詮から謀反の疑いをかけられ、京を追われることになります。
清氏は分国の若狭へ逃れ、再起を図りますが、国人たちの支持を得ることはできず、挙兵も失敗に終わりました。
もはや幕府に戻る道を断たれた清氏は、これまで命を懸けて守ってきた北朝を離れ、ついに宿敵であった南朝方へ身を投じる決断を下したのです。
「白峰合戦」細川一族、骨肉の戦い
細川清氏は勢力の立て直しを図るため、父・細川和氏ゆかりの阿波国へ渡りました。
しかし、阿波はすでに甥・細川頼之(よりゆき)の勢力下にあったため、さらに讃岐国へ移り、白峰山の麓で兵を募ります。
これに呼応して、淡路・讃岐・阿波の細川一族や地元武士たちが次々と参陣し、清氏の軍勢は五千騎余りにまで膨れ上がりました。
その後、清氏は白峰山西麓の高屋(現在の香川県坂出市林田町付近)へ本陣を移し、西長尾城に籠もる南朝方の中院雅平と連携して幕府軍に備えます。

香川県坂出市町並み 瀬戸内海 五色台(Adobe Stock)
一方、将軍・足利義詮は清氏追討を細川頼之に命じました。
当時の頼之は中国地方で南朝勢力の鎮圧にあたっていましたが、急ぎ備中から讃岐へ渡り、宇多津の青野山付近に陣を敷きます。
そして康安二年/正平十七年(1362年)7月23日、後に「白峰合戦(しらみねかっせん)」と呼ばれる決戦の火蓋が切られました。
この戦いは、頼之にとって圧倒的に不利な戦いでした。
海上交通は清氏方に押さえられ、兵力も十分ではなく、頼之の軍勢は苦しい戦いを強いられていたのです。
頼之は伊予守護・河野通盛にも援軍を求めましたが、河野氏はこれ以上細川氏の勢力が拡大することを警戒して、兵を動かしませんでした。
そこで頼之は時間を稼ぐため、実母・禅尼(ぜんに)を清氏のもとへ遣わし、和議による解決を図ったと伝えられています。
禅尼は清氏とも旧知の間柄であったことから、その交渉によって頼之は兵力を立て直す時間を得たといわれています。
やがて兵力を整えた頼之は、阿波守護代・新開真行(しんかい まさゆき)の進言を採用し、大胆な陽動作戦に打って出ました。
まず真行が一隊を率いて西長尾城へ攻め寄せる構えを見せると、清氏はこれを本隊の攻撃と判断し、高屋城の兵の大半を救援へ向かわせます。
その隙を突き、頼之と真行は二手に分かれて手薄となった高屋城を急襲しました。
不意を突かれた清氏は自ら城外へ討って出て奮戦しますが、激戦の末、三十六人の家臣とともに討死します。
この策略は、勇猛な清氏が自ら前線へ出る性格を見抜いた頼之の巧みな用兵であったとも伝えられています。
こうして同じ細川一族による悲劇の戦いは幕を閉じました。
戦場には現在も「細川将軍戦跡碑」が建ち、清氏に殉じた三十六人を葬ったと伝わる「三十六(さぶろく)」の塚が残されるなど、白峰合戦の記憶は今なお地域に語り継がれています。

白峰合戦古戦場三十六(photo library)
「河野通朝」若き当主と伊予の転機
一方、白峰合戦の後も北朝方を取り巻く情勢は決して安定していませんでした。
観応の擾乱や正平一統の混乱から立ち直らないまま、南朝との戦いはなお続き、京都では大火も発生します。
朝廷や幕府の政治も混乱し、人々は先行きの見えない時代を生きていました。
こうした混乱した世を改め、天下の安泰を願って、康安二年/正平十七年(1362年)9月23日、北朝では年号が康安から貞治へと改められました。
そして、新たな年号「貞治」が始まった頃、伊予国では河野氏の運命を大きく変える出来事が起こります。
河野氏の当主・河野通盛が病に倒れてしまったのです。
通盛には三人の子がいましたが、嫡男の道遠はすでに、わずか十六歳で討死していました。
そのため、河野氏の家督を継いだのが、次男の六郎通朝でした。
通朝は河野通朝(こうの みちとも)と名乗り、乱世の時代に河野氏を率いることになったのです。
しかし、この頃から細川頼之との関係は次第に疎遠になっていきます。
また、通朝は若年から伊予に在国していたため、父・通盛ほど幕府や都との結び付きは強くありませんでした。
そのため、中央との結び付きを背景に河野氏の家名と領国を守ることは難しく、自ら先頭に立ち、武力によって領国を守り抜くしかなかったのです。
そして、こうした状況が、伊予国を再び大きな戦乱へと巻き込んでいくことになるのです。
四国管領となった細川頼之の伊予侵攻
白峰合戦で細川清氏を破った頼之は、その後、父・頼春から受け継いだ阿波守護に加え、将軍・足利義詮から讃岐・土佐守護にも補任されました。
こうして四国全域に勢力を及ぼした頼之は、やがて「四国管領」と称される存在となっていきました。
そのもとには四国各地から多くの武士たちが集まり、細川氏の勢力はさらに飛躍的に拡大していきました。
しかし、その頼之の胸には、一つのわだかまりが残されていました。
それが、白峰合戦の際、河野氏が十分な協力をしなかったことでした。
さらに頼之は、かつて伊予進出を志半ばで断念した父・細川頼春の遺志を継ぎ、千丈ヶ原や北条吉岡で受けた敗北の雪辱を果たしたいという思いも胸に秘めていました。
その思いはやがて、幕府への河野氏追討の訴えという形で表れることになります。
「亡き父・頼春は四国総大将を命じられ、以来、南朝方を討ち従えてまいりました。しかし、伊予守護である河野氏は細川清氏と通じ、四国を乱しております。そこで伊予へ出兵し、これを鎮めたいと存じます」
貞治二年/正平十八年(1363年)正月、頼之は白峰合戦で河野氏が援軍を送らなかったことを大義名分として、幕府に河野氏追討を願い出たのです。
将軍・足利義詮は頼之の訴えを認め、四万騎の兵を与えて河野氏討伐を命じました。
そして翌年の貞治三年/正平十九年(1364年)、頼之は讃岐から大軍を率いて、ついに伊予国への進軍を開始したのです。
頼之の伊予侵攻の報は、ほどなくして伊予国にも届きました。
この報せを受けた河野通朝は、「建武以来、我らは足利氏に従い、数々の軍忠を尽くしてきた。それにもかかわらず、昨年七月の細川清氏の乱の際に兵を出さなかったことを理由に討伐されるとは」嘆いたといいます。
しかし、もはや戦いを避けることはできませんでした。
通朝は一族や国衆たちに命じて各地の城を固め、自らは細川軍を迎え撃つため、本拠・湯築城を出て世田山城へ入りました。
こうして、二十二年前に南朝方と北朝方が激突した世田山は、今度は北朝方同士が覇権を争う、伊予の命運を懸けた決戦の舞台となったのです。
「1364年 世田山合戦」河野氏を襲った悲劇
細川軍は、またたく間に新居郡(現在の愛媛県新居浜市・西条市周辺)へ侵攻し、各地を制圧しながら世田山まで兵を進めました。
これに対し、河野通朝は世田山城へ入り、攻め寄せる細川軍を迎え撃ちます。

両軍は激しく戦い、城方の必死の防戦によって攻め手は多くの兵を失い、いったん本陣へ退きました。
その後も日々激しい攻防が繰り返され、世田山城はおよそ二か月にわたって細川軍の猛攻に耐え続けます。
通朝は、まもなく伊予各地から援軍が駆けつけることを信じ、籠城を続けていました。
しかし、その望みは思いもよらぬ形で絶たれることになります。
貞治三年/正平十九年(1364年)11月6日、城内の斎藤某が細川方に寝返り、敵兵を城中へ引き入れたのです。
さらに城内に火の手が上がると、それを合図に細川軍は一斉に城へ攻め込みました。
炎と敵兵に包囲された世田山城は、もはや持ちこたえることができませんでした。
最期を悟った河野通朝は城内で自害し、ここに世田山城は落城したのです。
「カブラ谷の悲劇」戦乱に散った河野通朝夫人
さらに、この戦いのさなか、河野通朝の夫人もまた悲劇に見舞われました。
夫人は戦火を逃れるため、山麓のカブラ谷へ身を隠していました。
戦場から少し離れた静かな谷は、一時の避難所となるはずでしたが、細川軍の兵士に見つかり、無惨にも命を落としたと伝えられています。
二十日後に訪れた河野通盛の最期
そして、そのわずか二十日後の貞治三年・正平十九年(1364年)11月26日。
河野郷で療養していた通朝の父・河野通盛もまた、医薬の甲斐もなくその生涯を閉じました。
こうして河野氏は、わずか二十日の間に当主・通朝、その夫人、そして前当主・通盛を相次いで失うという未曾有の悲劇に見舞われます。
伊予の名門・河野氏を襲ったこの大きな痛手によって、伊予の戦局は次第に細川氏優勢へと傾いていくことになったのです。
今に伝わる世田山合戦の記憶
世田山合戦は、河野氏に大きな悲劇をもたらしました。
当主・河野通朝は世田山城で自害し、その夫人もまた戦乱の犠牲となり、さらに二十日後には父・河野通盛もこの世を去ります。
しかし、武将たちの生涯や人々の悲しみは歴史の中へ埋もれることはありませんでした。
六百年以上の時を経た今もなお、寺院や神社、そして地域に残る数々の伝承が、世田山合戦の記憶を静かに語り継いでいます。
「道場寺・大通寺」河野通朝が眠る寺
世田山城落城の後、自害した河野通朝の遺骸は道場寺(どうじょうじ)へ運ばれ、手厚く葬られたと伝えられています。
通朝の法号は「大通寺殿光山道恵大禅定門」と伝えられています。
道場寺は、天平八年(736年)に行基が開いたと伝わる古刹で、建武年間には河野氏によって再建されました。
しかし、世田山合戦の兵火によって焼失したといわれています。
また、当時の道場寺は現在地ではなく山際にあったとされ、通朝が葬られたとされる墓所も、今日ではその所在を確認することができません。

一方、その法号の名を今に伝える、河野通朝が開基したと伝わる河野氏ゆかりの古刹・大通寺(だいつうじ)には、河野通朝の墓と伝えられる五輪塔が残されています。


「姫宮神社」戦乱に散った夫人を祀る社
世田山城落城の混乱の中で命を落とした河野通朝夫人の悲惨な最期は、戦乱の非情さを象徴する出来事として地域の人々の心に深く刻まれました。
夫人の霊を弔うため、地元の有力な家柄である山越の庄屋・渡辺氏の一族と、山麓に暮らしていた越智氏の一族が協力して社を建立したと伝えられています。
この社は「姫宮神社(ひめみやじんじゃ)」と名付けられ、やがて人々から親しみを込めて「姫宮さん」と呼ばれるようになりました。
以後、地元の人々は毎年欠かすことなく供養を行い、今も戦乱の犠牲者の霊を静かに慰め続けています。


「善応寺」河野通盛、最後の言葉
世田山合戦から二十日後に病没した河野通盛は、法号を「善応寺殿日照恵公大禅定門」と号し、善応寺に葬られました。
最期の時を悟った通盛は、一族や子息を集め、「足利尊氏の恩と、南山和尚の戒めを、子々孫々まで忘れてはならない」と言い残したと伝えられています。
かつて自らを再び河野家の当主として立たせてくれた足利尊氏への恩義は、たとえ幕府から一族が追討を受ける立場となっても揺らぐことはなく、その思いを次の世代へと託して世を去ったのでした。
河野通盛の墓所は現在も善応寺の境内に残されており、「河野通盛公墓所」として、その生涯と河野氏再興の歩みを今に伝えています。


「竹林寺への潜行」受け継がれた河野氏再興の火種
河野氏に壊滅的な打撃を与えた世田山合戦。
誰もが、この戦いで河野宗家の歴史は終わったと思ったことでしょう。
しかし、河野氏の血脈は、なお絶えてはいませんでした。
この時、通朝の嫡子で、当時まだ十五歳だった徳王丸(とくおうまる)も、父とともに世田山城で戦っていました。
戦況が決定的に不利となり、河野氏の敗北が避けられないと悟った通朝は、一族再興の願いを幼い徳王丸に託します。
徳王丸は、陣僧(戦場で祈祷や伝令を担っていた僧侶)に護られながら、炎と敵兵に包囲された世田山城を密かに脱出しました。
そして高市郷の河野氏ゆかりの名刹・竹林寺(ちくりんじ)へ落ち延び、僧侶たちの命がけの庇護のもと、その身を守られたのです。


世田山で父を失い、一族の命運を背負うことになった十五歳の少年・徳王丸。
伊予の歴史は、この少年を中心に新たな時代へと歩み始めることになるのです。