矢田に語り継がれる蛇池伝説と、村を救った「三女さん」
愛媛県今治市矢田。
近くには日本食研の「シェーンブルン宮殿工場」があるほか、FC今治のホームスタジアム「アシックス里山スタジアム」や「イオンモール今治新都市」へと向かう道路も通り、多くの車が行き交っています。
そんな現在の街並みから少し外れた場所に、「蛇池(じゃいけ)」と呼ばれる一つのため池があります。

そのほとりにある矢田蛇池集会所のそばには、「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」とともに、「三社之宮(さんしゃのみや)」と呼ばれる小さな社が建てられています。
宝篋印塔は、かつてこの地域に暮らしていた夫婦とその三女を供養するために建てられたものと伝えられています。
そして三社之宮にも三人が祀られ、地元では「三女さん」と呼ばれながら、現在まで大切に守り継がれてきました。

今では鳥の声が響く、のどかな田園風景が広がるこの場所。
しかし、ここにはこの地域が「矢田村」と呼ばれていた頃から語り継がれてきた、大旱魃のさなかに「水」をめぐって起きた、一人の娘の伝承が残されています。
人々の暮らしと「水」
古くから、人々の暮らしと深く結びついてきた「水」。
飲み水としてはもちろん、田畑を潤し、作物を育てる水は、人々が生きていくうえで欠かすことのできない存在でした。
その一方で、長く雨が降らなければ旱魃となり、ひとたび大雨が降れば川が氾濫し、ときには人々の暮らしや命さえ奪っていきます。
恵みをもたらしながら、ときに人の力ではどうすることもできない脅威ともなる「水」。
そのため日本各地には、川や池、沼、泉などを舞台として、水にまつわる数多くの信仰や伝説が生まれ、今日まで語り継がれてきました。
そして、そうした水の伝承にたびたび登場する存在が「蛇」です。
水辺に棲む蛇は、古くから水と深く結びついた存在として捉えられ、とりわけ巨大な「大蛇」は、やがて龍とも重ねられながら、川や池、雨を司る水神として信仰されてきました。
各地には、池の底に大蛇が棲んでいたという話や、大蛇や龍を「池の主」として畏れ敬った伝承、旱魃の際に水神や龍神へ雨を願ったという話などが残されています。
全国各地に残る「蛇池」
こうした水と蛇との深い結びつきを思わせる池の一つが、「蛇池(じゃいけ)」です。
「蛇池」と呼ばれる池は日本各地に存在し、島根県出雲市をはじめ、愛知県名古屋市、三重県伊賀市などにも同じ名を持つ池が残されています。
その由来や伝承は地域によって異なりますが、池の底に大蛇が棲んでいたというものや、大蛇や龍を「池の主」として伝えるものなど、水と蛇をめぐるさまざまな伝説や伝承が残されている場所があります。
そして、ここ愛媛県今治市にも、「蛇池」と呼ばれてきた池があります。
その一つが、今治市桜井地区の孫兵衛作にある「医王池(いおういけ)」です。

医王池は、地元では「蛇池(じゃいけ)」や「蛇越池(じゃごしいけ)」とも呼ばれ、ここにもまた、大蛇や龍と水をめぐる伝説が残されています。
かつてこの池には一匹の大蛇が棲み、ときおり美しい女性へ姿を変えて村へ現れたことから、人々はその姿を「龍女様」と呼んで崇めていたといいます。
ところが、ある年に大旱魃が起こりました。
村人たちは龍女の住む池であることを畏れ、最後まで池の水を残していましたが、それを知った龍女は自ら池を去ることを決意します。
そして山を越え、海へと去っていったことから、「蛇越池」と呼ばれるようになったと伝えられています。
さらに、この池には、近くの世田山にある栴檀寺(世田薬師)の奥之院の向拝に祀られていた龍の彫刻が、夜になると山を下り、池の水を飲みに来ていたという「水呑龍伝説」も残されています。

そして今治には、もう一つ、旱魃と大蛇をめぐる悲しい伝説が語り継がれてきた池があります。
それが、今治市矢田の「蛇池」です。

矢田に語り継がれる「蛇池伝説」
その昔、矢田村一帯が大旱魃に見舞われたことがありました。
雨の降らない日が続き、田畑は次第に干上がり、農作物も日に日に弱っていきます。
なかでも田んぼの被害は深刻で、このまま日照りが続けば、稲がすべて枯れてしまいかねない状況にまで追い込まれていました。
困り果てた村人たちは話し合い、池にわずかに残されていた水を田畑へ流すことを決めます。
ところが、この池には主である「大蛇」が棲んでおり、水を流そうとする村人たちを阻むように、水門の入口に立ちはだかりました。
池には水が残っているにもかかわらず、大蛇に阻まれ、その水を田畑へ引くことができません。
村人たちは、日に日に干上がっていく田んぼと雨の気配すらない空を眺めては、どうしたものかと、ただため息をつくばかりでした。
人々の暮らしを支えていた「米」
当時の農村において、米は単なる食べ物ではありませんでした。
日々の食を支える大切な作物であると同時に、年貢として納められるなど、人々の暮らしや村の営みを支える重要な存在でもありました。
田植えから収穫まで、長い時間と多くの手間をかけて育ててきた稲。
もしこのまま田んぼが干上がり、稲が枯れてしまえば、それまでの苦労が水の泡になるだけではありません。
その年の収穫を失い、人々の食べるものにも事欠き、暮らしそのものが立ち行かなくなるおそれがありました。
まして、いつ雨が降るのかも分からない大旱魃のさなかです。
大蛇との交渉に向かった「井戸源左衛門」
もはや村人たちに残された望みは、池の主である大蛇に水を流してもらうことでした。
そこで、その望みを託され大蛇と直接交渉することになったのが、蛇池の水門のすぐそばに田を持っていた農民「井戸源左衛門」です。
源左衛門は大蛇のもとへ向かい、どうか池の水を田畑へ流してほしいと懇願します。
しかし、ただ頼むだけでは、大蛇は願いを聞き入れてくれません。
そこで源左衛門は、村を救うため、ある約束を持ちかけました。
「大蛇様、どうか水をお流しください。この願いを聞いてくださるなら、私の娘のうち誰か一人を、あなたの嫁として差し上げましょう」
源左衛門には三人の娘がおり、三人とも村で評判になるほど美しい娘だったと伝えられています。
その申し出を聞いた大蛇は喜び、源左衛門の願いを受け入れました。
一夜にして水で満たされた田んぼ
そして翌朝。
村人たちが目にしたのは、前日までとはまるで違う光景でした。
干上がりかけていた田んぼという田んぼに、あふれんばかりの水が満ちていたのです。
弱っていた稲も見違えるように生き生きとし、その葉には水玉さえついていました。
村人たちは小躍りして喜び、源左衛門に礼を言いました。
これで稲を救うことができる。
村人たちが喜びに沸く一方で、源左衛門の心には、次第に大きな苦しみがのしかかっていきました。
大蛇に水を流してもらう代わりに、自分の娘の一人を嫁として差し出す。
自ら口にしたその約束が、今度は源左衛門を苦しめることになったのです。
父を苦しめた大蛇との約束
源左衛門は、大蛇との約束が頭から離れなくなりました。
食事ものどを通らなくなり、毎日のようにもだえ苦しみ、ついには病の床についてしまいます。
そんな父のあまりのやつれようを見て、三人の娘たちも心配しました。
そして長女が父に尋ねます。
「何か心配事があるのでしたら、打ち明けてください。私たちにできることなら、何でもいたしましょう」
娘たちの言葉を聞いた源左衛門は、これまで胸の内に抱えていた大蛇との約束を、ついにすべて打ち明けました。
村を旱魃から救うため、蛇池の水を流してほしいと大蛇に頼んだこと。
そしてその代わりに、三人の娘のうち誰か一人を、大蛇の嫁として差し出すと約束してしまったこと。
父からすべてを聞かされた長女と次女は、それだけはできないと断りました。
しかし、三女の「玉菊(たまぎく)」だけは違いました。
「村の人のためならば、私が大蛇のお嫁になりましょう」
そう言って、自ら大蛇の嫁となることを受け入れたのです。
大蛇のもとへ嫁いだ「玉菊」
それから数日後。
吉日を選び、玉菊が大蛇のもとへ嫁ぐ日がやってきました。
悲しむ家族や村人たちに見送られながら、玉菊は籠に乗ります。
その胸には、母親の形見である一枚の鏡が、しっかりと抱えられていました。
そして玉菊は、鏡を胸に抱いたまま、籠とともに蛇池の深い水の底へと消えていったと伝えられています。
娘を失った源左衛門は、自らの軽率な約束を深く悔やみ、その後は悲しみの涙に暮れる日々を送りました。
しかし、それからというもの、矢田村では水に不自由することがなくなり、豊作が続くようになったといいます。
蛇池の伝承から生まれた信仰
玉菊が大蛇のもとへ嫁ぎ、村に水が戻った後も、その出来事は村人たちの記憶に深く刻まれ続けました。
やがて、池の主である大蛇や、村を救った人々への思いは、それぞれの形で信仰として受け継がれていきます。す。
大蛇と、「百姓の神様」となった三人
村人たちは蛇池の堤に祠を建て、池の主であった大蛇を「蛇神さん」、あるいは「池神さん」と呼んで祀るようになったと伝えられています。
さらに、井戸源左衛門が亡くなった後、源左衛門夫婦と三女・玉菊の三人を供養する宝篋印塔が建てられ、あわせて三人を「百姓の神様」として祀る社も建てられたといいます。
そして、その社は「三社之宮」と呼ばれ、なかでも村を救った三女・玉菊が祀られていることから、地元では親しみを込めて「三女さん」とも呼ばれ、大切に守り継がれてきました。
「三女さんの日」と地域に伝わる「三社講」
また、村人たちは、玉菊が大蛇のもとへ嫁いだとされる旧暦九月二日を「三女さんの日」と定め、その恩を忘れないように供養を続けてきたと伝えられています。
その日には、大人たちが「三社講」を開き、子どもたちは宝篋印塔の前で「三女さん相撲」を奉納し、三人を供養するようになりました。
相撲は古くから、神前などで力や技を捧げる奉納行事として、各地の神社や祭礼で行われてきました。
矢田でも、大人たちによる「三社講」と、子どもたちによる「三女さん相撲」という形で、三人への供養が受け継がれてきたのです。
蛇池から見つかった「鏡」
それから長い年月が流れた昭和8年(1933年)。
この年、日本各地が厳しい旱魃に見舞われるなか、矢田の蛇池でも池ざらえが行われました。
すると、池の底から一枚の古い鏡が見つかったと伝えられています。
それは円形の鏡で、「籬(まがき)に小鳥」の文様が描かれたものでした。
その形などから、鎌倉時代末期から室町時代初期頃のものではないかと考えられています。
大蛇のもとへ嫁いだ玉菊が、その胸に母の形見の鏡を抱いていたという蛇池の伝承。
その伝承を語り継いできた村人たちにとって、池の底から現れた古い鏡は、まさにこの伝承を思い起こさせるものでした。
村人たちは、この鏡を玉菊が池へ入る際に胸に抱いていたものではないかと考え、祀ったといいます。
その後、鏡は再び蛇池の中へと戻され、池ざらえが行われる際には、そのたびに取り出して祀り、再び池へ戻すことが続けられてきました。
遠い昔から語り継がれてきた伝承と、池の底から見つかった一枚の鏡。
二つはこうして結びつき、鏡そのものも蛇池伝説の一部として大切に扱われるようになったのです。
また、蛇池の伝承を記した資料には、池の堤に沿って「御鏡公園(みかがみこうえん)」がつくられ、その名称もこの鏡にちなんで付けられたものではないかと記されています。
現在へと受け継がれた鏡と三女さん
現在、蛇池のほとりに並んで建てられている三社之宮と宝篋印塔。
しかし、もともとこの場所に建っていたものではありません。
かつて三社之宮と宝篋印塔は、蛇池から約200メートル離れた「矢田上一」と呼ばれる地域の、小高い丘の上に建てられていました。
長い年月にわたり、そこで地域の人々によって大切に守られてきましたが、風雨にさらされたことで次第に傾き、やがて危険な状態となっていきます。
一方、伝承の舞台となった蛇池そのものにも、時代の流れとともに大きな変化が訪れました。
平成に入ると、周辺では「今治新都市」の開発が進められ、その過程で蛇池も以前より深くなったといいます。
その際、池の中に沈められていた、玉菊のものと伝えられる鏡もいったん取り出されました。
そして工事が終わると、鏡は再び蛇池の中へと戻されたといいます。
ただし、その頃には池は以前よりも深くなっていました。
そこで、いつの日か再び鏡を取り出すことになったとき、その場所が分からなくならないよう、鏡を沈めた地点がさまざまな角度から写真に収められ、記録として残されました。
昭和8年(1933年)の大旱魃の際、池の底から姿を現したと伝えられる一枚の鏡。
玉菊が大蛇のもとへ嫁ぐ際、母の形見として胸に抱いていたものではないかと語り継がれてきたその鏡は、蛇池を取り巻く風景が大きく変わった後も、再び伝承の舞台となった池の中へと戻されたのです。
そして平成21年(2009年)11月。
「矢田上一」に祀られていた三社之宮と宝篋印塔も、長年の風雨によって傾き、危険な状態となったことから、伝承の舞台である蛇池のほとりへと移されました。
この移設にあわせて三社之宮は新調され、現在の姿へと整えられました。


「三女さん供養塔跡」伝承を伝える石碑
三社之宮と宝篋印塔があった旧地には現在、「三女さん供養塔跡」と刻まれた石碑が建てられています。
その側面には、平成21年(2009年)に供養塔が蛇池へ移されたことが刻まれており、かつてこの場所が「三女さん」を祀り、供養してきた場所であったことを今に伝えています。

かつて「三女さん相撲」が行われていた相撲場の土俵は一時的に残されていましたが、現在ではその姿を見ることはできません。
それでも、村を救ったと伝えられる「三女さん」の伝承は、時代を越えて、今も矢田の地で大切に受け継がれています。



