海と共に生き続ける湊町の守り神
来島海峡に面したこの地域は、古くから瀬戸内海の海上交通と深い関わりを持ってきた土地です。
古代には伊予国府を支える港があったと伝えられ、中世には村上海賊などの海上勢力も活動していました。
その歴史を今に伝えるのが、湊町に鎮座する「楠神社(くすのきじんじゃ)」です。
熊野信仰の広まりと熊野久須毘命の祭祀
楠神社の正確な創建年代はわかっていませんが、その由緒によると、熊野権現(くまのごんげん)への信仰が盛んだった時代に、神名の響きが通じることから、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)が祭神として祀られたと伝えられています。
熊野権現とは|神仏習合によって広まった信仰
熊野権現とは、現在の和歌山県にある熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社を中心に信仰されてきた神々を指す呼び名です。
これらの三社は「熊野三山」と呼ばれ、古くから神道と仏教が結びついた神仏習合の信仰が発展してきました。
神仏習合とは、日本古来の神々への信仰と仏教が結びつき、神と仏を深い関係にある存在として崇拝する考え方です。
特に熊野では、神々は仏が人々を救うために仮の姿で現れた存在と考えられ、「権現」と呼ばれるようになりました。
熊野三山では、家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)、熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)の三柱を中心に、さまざまな神々が祀られています。
これらの神々は、仏教の阿弥陀如来や薬師如来、千手観音などとも結びつけられ、人々の幸福や災厄からの救い、死後の極楽往生を願う信仰の対象となってきました。
平安時代から全国へ広まった熊野信仰
熊野信仰は平安時代後期から盛んになり、寛治4年(1090年)に白河上皇が熊野を参詣して以降、歴代上皇や貴族の間で広く崇敬されるようになりました。
上皇や法皇による熊野三山への参詣は「熊野御幸(くまのごこう)」と呼ばれ、特に後白河法皇は生涯に30回以上も参詣したことで知られています。
鎌倉時代になると武士にも信仰が広まり、さらに中世には庶民の間でも熊野参詣が盛んになりました。
大勢の参詣者が列をなして熊野へ向かう様子は、「蟻の熊野詣(ありのくまのもうで)」と呼ばれるほどでした。
また、熊野比丘尼(くまのびくに)と呼ばれる女性の宗教者たちも、絵を用いて熊野の信仰を各地に伝えていました。
こうして熊野の神々は全国各地に勧請され、各地に熊野神社や熊野権現を祀る社が建立されていきました。
勧請(かんじょう)とは、ある神社に祀られている神の神霊を分けてもらい、別の場所でも祀ることです。
熊野久須毘命とは?
では、楠神社の祭神である熊野久須毘命は、どのような神なのでしょうか。
熊野久須毘命は、日本最古の歴史書の一つである『古事記』に登場する神で、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)が行った「誓約(うけい)」によって誕生した五柱の男神の一柱です。
誓約とは、神々が誓いを立て、その結果によって互いの心を確かめる神事のことです。
『古事記』によると、須佐之男命が高天原を訪れた際、天照大御神は弟が自分の国を奪いに来たのではないかと疑い、武装して迎えました。
そこで須佐之男命は、自分に悪意がないことを示すため、天照大御神と誓約を行いました。
このとき、天照大御神は須佐之男命の剣から三柱の女神を生み、須佐之男命は天照大御神の勾玉を噛み砕き、吹き出した息から五柱の男神を生み出したとされています。
熊野久須毘命は、その五柱のうち最後に誕生した神で、天照大御神の右手に巻かれていた勾玉から生まれました。
実際に生み出したのは須佐之男命ですが、天照大御神の持ち物から誕生したため、天照大御神の子とされています。
熊野久須毘命の別名と神名の意味
熊野久須毘命は『日本書紀』にも登場しますが、『古事記』とは異なる神名で記されています。
『日本書紀』の本文や異なる伝承を記した「一書」には、「熊野櫲樟日命」「熊野忍蹈命」「熊野忍隅命」「熊野大角命」という名称が見られます。
これらのうち、どの名称が本来の神名に近いのかは明らかになっていません。
また、「熊野久須毘」という名前の意味についても、いくつかの説があります。
「久須」は神秘的で不思議な力を意味する「奇(くす)し」に由来し、「毘」は神霊を表すという解釈です。
これらを合わせて、「神秘的な力を持つ神霊」という意味に捉える考え方があります。
一方、「久須毘」を火と結びつける解釈もありますが、『古事記』や『日本書紀』には、熊野久須毘命が火を司る神であるという明確な記述はありません。
出雲と紀伊|「熊野」という名前の由来
熊野久須毘命の名前に含まれる「熊野」についても、その由来は明らかになっていません。
地名に由来すると考える説では、出雲国(現在の島根県)の熊野と、紀伊国(現在の和歌山県)の熊野が候補として挙げられています。
出雲の熊野には、現在の島根県松江市に鎮座する熊野大社があります。
熊野大社は、古くから火に関わる信仰を持ち、「日本火出初神社(ひのもとひでぞめのやしろ)」とも呼ばれてきました。
現在の主祭神は櫛御気野命(くしみけぬのみこと)で、須佐之男命と同一の神とされています。
この櫛御気野命と熊野久須毘命を同じ神と考える説もありますが、神名や神話に記された系譜が異なるため、別の神とする見解もあります。
一方、紀伊の熊野との関係では、熊野那智大社の祭神である熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を、熊野久須毘命と同一視する説があります。
ただし、熊野夫須美大神は一般に伊弉冉尊(いざなみのみこと)と同一視されており、両者が同じ神であると断定することはできません。
このように、熊野久須毘命は『古事記』や『日本書紀』に登場する神でありながら、その名前の意味や他の神々との関係については、さまざまな説が存在します。
熊野久須毘命と海上安全の信仰
楠神社では「海上安全」と「郷土繁栄」が御神徳として伝えられています。
熊野久須毘命は、鹿児島県の枚聞神社や神奈川県茅ヶ崎市の熊野神社などにも祀られており、これらの神社でも海上安全や豊漁を願う信仰が受け継がれています。
しかし、『古事記』や『日本書紀』には、熊野久須毘命がもともと航海を司る神であったことを示す明確な記述はありません。
では、なぜ楠神社では海上安全が御神徳として伝えられてきたのでしょうか。
その背景を考えるうえで重要なのが、楠神社が鎮座する湊町の歴史です。
海上安全の信仰を育んだ湊町の歴史
湊町の歴史は古く、周辺の丘陵には、4世紀末頃に築かれたと推定される相の谷古墳群(あいのたにこふんぐん)が残されています。
なかでも、全長約82メートルを誇る相の谷1号墳は、愛媛県最大の前方後円墳として知られ、銅鏡や鉄剣、鉄直刀などの副葬品が発見されています。
来島海峡を見下ろす丘陵上に築かれていることから、その被葬者は瀬戸内海の海上交通に関わった有力な首長だった可能性も指摘されています。
古代の越智郡|現在の今治市周辺に広がった行政区画
古墳時代を経て、律令制度が整えられた奈良時代には、現在の今治市を中心とする地域は、伊予国を構成する越智郡(おちぐん)に属していました。
当時の越智郡は、現在の今治市中心部や朝倉・玉川方面などを含む広い地域で、伊予国に設けられた郡の一つでした。
郡とは、古代日本の地方行政において、国の下に置かれた行政区画のことです。
伊予国府|越智郡に置かれた政治と行政の中心地
奈良時代には、越智郡の今治平野(現在の今治市中心部を含み、蒼社川などによって形成された平野)に、伊予国府(いよこくふ)が置かれていたと考えられています。
国府とは、古代日本の各国に設けられた政治や行政の中心地で、現在の県庁に近い役割を果たしていた場所です。
ここでは、都から派遣された国司(こくし)と呼ばれる役人たちが政務を執り、税の徴収や土地の管理、地域の統治などを行っていました。
ただし、伊予国府が今治平野のどこに置かれていたのかは、現在も特定されていません。
古代の港と海上交通
古代の瀬戸内海は、畿内と西日本各地を結ぶ重要な交通路であり、人々の移動や物資の輸送には船が欠かせませんでした。
伊予国府の運営においても、都や各地との連絡、税として集められた物資の輸送などに、海上交通が重要な役割を果たしていたと考えられています。
楠神社の由緒にも、現在の湊町にあたる地域が「越智国府の要港」であったという伝承が残されており、伊予国府を支える重要な港として利用されていたと伝えられています。
小湊浦と村上海賊
その後も湊町周辺は海上交通と深い関わりを持ち、中世には小湊浦(こみなとうら)と呼ばれる港が利用されていたとされています。
当時の瀬戸内海では、能島・因島・来島を拠点とする村上海賊が大きな勢力を持ち、船の警固や海上交通の管理などに関わっていました。
享禄4年(1531年)には、伊予国守護の河野通直(こうのみちなお)が村上山城守(むらかみやましろのかみ)を伴い、小湊浦から京都へ向けて出港したことが『大山祇神社文書』に記録されています。
また、小湊浦の近くには、村上海賊の拠点の一つとされる小湊城(こみなとじょう)が築かれていました。
こうした記録や史跡から、この一帯が戦国時代の海上交通や軍事において重要な場所だったことがわかります。
江戸時代も続いた港の暮らし
江戸時代になっても、湊町周辺では海と深く結びついた暮らしが続いていました。
当時、現在の湊町にあたる地域は伊予今治藩領の大浜村に属しており、村内には砂場(さば)・大浜・湊(みなと)という三つの港がありました。
これらの港では漁業が営まれ、船の往来も続いており、海は地域の人々の暮らしを支える重要な存在でした。
来島海峡の危険と海上安全への祈り
一方、海とともに生きる人々の暮らしは、その恵みだけでなく、常に命の危険とも隣り合わせでした。
特に、湊町の沖合に広がる来島海峡は、潮の満ち引きによって潮流の速さや向きが大きく変化する海域であり、古くから瀬戸内海有数の航海の難所として知られてきました。
船の性能や航海技術が現在ほど発達していなかった時代には、天候の急変や激しい潮流によって、航海の安全が大きく左右されていました。
船乗りや漁師たちにとって、無事に航海を終えて港へ帰ることは何よりも大切な願いでした。その帰りを待つ家族にとっても、航海の安全は切実な願いだったことでしょう。
熊野久須毘命を祀る楠神社に、「海上安全」と「郷土繁栄」の願いが託されてきたのも、こうした海とともに生きる人々の切実な思いがあったからかもしれません。



