玉川地域は、蒼社川とその支流に沿って集落や田畑が広がり、古くから豊かな自然の恵みを受けながら人々の暮らしが営まれてきた地域です。
その一角に位置する與和木(よわぎ・与和木)は、山々に囲まれた谷あいに形成された集落で、周辺には中世の山城跡である「重茂城跡」も残されています。また、伊予国で勢力を築いた河野氏とも歴史的なつながりを持つ場所です。
そんな與和木の地で、古くから人々の信仰を集め、地域の歴史とともに歩んできたのが「三嶋神社・與和木(みしまじんじゃ)」です。
大山積神の神格と信仰
三嶋神社・與和木の主祭神である大山積神(おおやまつみのかみ)は、古くから山々を司る神として崇められてきました。
その信仰は山にとどまらず、海を守る神としても広がり、農業や林業、漁業、航海の安全、さらには武運を守る神としても篤い崇敬を集めてきました。
日本神話にも登場する古い神であり、『古事記』では「大山津見神」、『日本書紀』では「大山祇神」と記されています。
また、『釈日本紀』に引用された『伊予国風土記』の逸文には「大山積神」として登場するなど、古い文献によって神名の表記に違いが見られます。
こうした大山積神への信仰は、古くから伊予国の人々の暮らしと深く結びつき、山間部では山林や農耕を守る神として、沿岸部や島々では漁業や航海の安全を守る神として広く受け継がれてきました。
なかでも今治地方には、大三島の大山祇神社から御分霊を勧請したと伝わる「三嶋神社」や「大山積神社」などが各地に鎮座しており、その土地の自然や歴史、人々の暮らしと結びつきながら、地域に根づいてきました。
與和木の三嶋神社もまた、こうした三島信仰を受け継ぐ神社の一つなのです。
三嶋神社・與和木の創建史
奈良時代、聖武天皇の治世。
律令制度のもと、平城京を中心とした中央集権的な国家体制が整えられ、その仕組みは地方にも広がり、全国各地で政治や行政の基盤が築かれていきました。
一方で、全国的な疫病の流行や飢饉、政治的な混乱が相次ぎ、人々の暮らしは大きな不安に包まれていました。
こうした社会情勢のなか、聖武天皇は仏教の力によって国家の安泰を図ろうとし、天平13年(741年)には全国に国分寺と国分尼寺の建立を命じました。
伊予国においても、現在の今治市周辺を含む越智郡に国府が置かれ、政治や行政、文化の中心地として重要な役割を担っていました。
また、越智郡では古代豪族の越智氏が郡司を務め、地域の行政に深く関わっていたとされています。
天平13年の詔を受け、伊予国でも国分寺の造営が進められ、現在の今治市国分には、その歴史を伝える「伊予国分寺塔跡」が残されています。
越智氏と河野氏が受け継いだ三島信仰
奈良時代の伊予国では、越智郡を中心に古代豪族の越智氏が勢力を持ち、地域の行政や祭祀に深く関わっていました。
なかでも越智氏と深いつながりを持っていたのが、大三島に鎮座する大山祇神社です。

大山祇神社では、越智氏の一族が代々祭祀を担い、最高位の神職である「大祝(おおほうり)」が神社の祭祀全体を統括していました。
また、和銅5年(712年)には、越智玉澄(おちのたまずみ)によって現在の今治市別宮町に「別宮大山祇神社」が創建されたと伝えられています。
こうして大三島を中心とする大山積神への信仰は、越智氏やその後裔を称する一族との関わりのなかで、伊予国の各地へと広がっていきました。

越智玉澄から河野氏へ
晩年の越智玉澄は、伊予国風早郡の河野郷に館を構え、その地名にちなんで「河野玉澄(こうの たまずみ)」とも名乗り、河野氏の祖となったと伝えられています。
やがて玉澄は、嫡男である河野益男(こうの ますお・越智益男)に一族の家督を譲り、ここから後に伊予国を代表する武家へと発展する河野氏の系譜が受け継がれていきました。
天平19年(747年)、玉澄はその生涯を閉じたと伝えられていますが、大切にしてきた大山積神への信仰は、その後も一族によって守り継がれていきました。
そして、越智玉澄を祖とする河野氏も、大山祇神社を一族の氏神として篤く崇敬しながら、伊予国における勢力の基盤を築いていったのです。
三嶋神社の創建と古城山の由緒
與和木の三嶋神社も、こうした越智氏・河野氏による大山積神への信仰と深い関わりを持ち、奈良時代の天平年間(729〜749年)に河野氏によって神を祀る社が建立されたと伝えられています。
創建に関わった河野氏の人物が誰であったのかは明らかになっていませんが、古くは現在の「三嶋神社」という社名ではなく、「四郎大明神」「城大明神」と称されていたといいます。
また、当初から現在の場所に鎮座していたわけではありませんでした。
かつて隣接する鍋地村の「古城山」に大山祇大明神が祀られていたとあり、三嶋神社の起源は、この古くからの信仰にあるとされています。
江戸時代初めの慶長9年(1604年)には、こうした大山祇大明神を祀っていた由緒にちなみ、社名を「三嶋神社」へと改めたといます。
また、後に現在の與和木へ奉遷され、「河野四郎為世(こうの しろう ためよ・河野為世)」の神霊を合殿に祀ったことで、與和木村の鎮守となったと伝えられています。
隣り合う二つの神社に残る「四郎」の謎
実は、隣接する鍋地村にも、同じく「四郎」の名がつく「四郎明神社(しろうみょうじんじゃ)」が鎮座しており、こちらにも河野四郎為世にまつわる伝承が残されています。
さらに、與和木の三嶋神社が古くは別の社名で称されていたように、鍋地の四郎明神社も創建当初の社名が明らかになっておらず、二つの神社には、その名前の由来や変遷にも興味深い謎が残されているのです。

鍋地村の四郎明神社と古城山
四郎明神社は、大三島の大山祇神社から主祭神・大山積神(おおやまづみのかみ)の御分霊を勧請し、鍋地の地に祀ったことに始まると伝えられています。
その創建については、大宝元年(701年)とする伝承もありますが、詳しい年代や創建当初の社名は明らかになっていません。
後の時代には、地域の殖産に功績を残したとされる河野四郎為世の神霊が合祀され、現在の「四郎明神社」または「四良神社」という名で信仰されるようになったといいます。
古城山がつなぐ二つの神社の伝承
さらに、この二つの神社の由緒を重ね合わせると、もう一つ興味深い謎が浮かび上がってきます。
それが、四郎明神社は創建当初、どのような名で呼ばれていたのかという謎です。
その手がかりとなるのが、與和木の三嶋神社の由緒にある、鍋地村の「古城山」に祀られていた大山祇大明神の存在です。
同じく大山積神を祀る四郎明神社の由緒と照らし合わせると、古城山で大山祇大明神を祀っていた神社こそ、現在の四郎明神社の前身だったのではないかとも考えられます。
もちろん、これを裏付ける確かな記録は確認されておらず、四郎明神社の創建当初の社名についても、詳しいことはわかっていません。
しかし、隣接する二つの村に鎮座し、ともに「四郎」の名を伝える神社に、これほど共通する由緒が残されていることは、単なる偶然として片づけられないものがあります。
では、二つの神社に共通して名を残す、河野四郎為世とは一体どのような人物だったのでしょうか
河野四郎為世と伊予国に残る伝承
河野為世は、河野氏の第15代当主として、また、同族とされる越智氏の第40代当主・越智為世(おち ためよ)としても、一族を率いたと伝えられる人物です。
実際の生涯や出自には不明な点が少なくありませんが、その人物像をめぐっては、さまざまな伝承が語り継がれています。
「伊予親王の変」と河野為世の出自
河野為世は、皇族の血を引く人物として伝えられており、その出自については、桓武天皇の皇子・伊予親王の子として誕生したとする説があります。
伊予親王は、桓武天皇から深い寵愛を受けた皇子の一人で、政治的にも高い地位にありました。
母は藤原氏の出身である藤原吉子(ふじわら の よしこ)で、その親族にあたる藤原雄友(ふじわら の おとも)も、大納言などを歴任した有力貴族でした。
しかし、大同2年(807年)、伊予親王をめぐる大きな政変が起こります。
この事件は、藤原宗成(ふじわら の むねなり)が伊予親王に謀反を勧めたとする情報を、藤原雄友が右大臣・藤原内麻呂に報告したことに始まります。
伊予親王も宗成からの進言を朝廷に報告しましたが、尋問を受けた宗成が、今度は伊予親王こそ謀反の首謀者であると供述したことで、事態は一変しました。
平城天皇の命により、伊予親王と母の藤原吉子は大和国の川原寺に幽閉されました。
親王母子は無実を訴えましたが、聞き入れられることなく、同年11月12日、二人は毒を仰いで自害したと伝えられています。
この事件は「伊予親王の変」と呼ばれ、藤原宗成は流罪となり、藤原雄友も伊予国へ配流されました。
また、伊予親王の子どもたちも処罰を受け、その後の生涯に大きな影響を受けました。
こうした歴史上の事件が、後世に伝わる河野為世の出自の物語とも結びついていったと考えられます。
河野家時に保護されたという伝承
河野氏に伝わる系譜のなかには、伊予親王の変によって父を失った幼い為世が、伊予国の豪族・河野家時(こうの いえとき・越智家時)に保護されたというものがあります。
家時は、為世をわが子のように育て、河野氏の一族として迎え入れたと伝えられています。
また、家時を河野氏第14代当主とし、女性であったとする異説も残されています。
これらの伝承には確かな裏付けが確認されていない部分もありますが、河野氏と皇族とのつながりを語るうえで、古くから重要な物語として伝えられてきました。
「藤原為世」都で藤原姓を賜る
為世の幼少期には、さらに興味深い伝承が残されています。
その後、為世は都へ上り、嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(たちばな の かちこ)の庇護を受けたといいます。
橘嘉智子は、後に即位する仁明天皇(にんみょうてんのう)の母であり、仏教への篤い信仰から「檀林皇后(だんりんこうごう)」とも呼ばれた人物です。
伝承によれば、為世は皇子に準ずる特別な待遇を受け、やがて朝廷から藤原姓を賜って「藤原為世」と名乗るようになったとされています。
もっとも、こうした宮廷での養育や改姓については、史実として確定できるものではなく、河野氏の系譜に伝えられた物語として考える必要があります。
「河野為世」伊予の河野氏の当主へ
やがて成長した為世は、再び伊予に戻り、かつて自らを保護してくれた河野家時の娘と結婚したと伝えられています。
その後、河野氏の家督を継ぎ、河野為世(越智為世)として第15代当主になったというのです。
一方で、為世の出自については、伊予親王と家時の娘との間に生まれたとする説や、嵯峨天皇の第10皇子として伊予に下向し、河野氏に迎えられたとする説も残されています。
このように、為世の出生や河野氏との関係には複数の異なる伝承があり、実際の人物像を明らかにすることは容易ではありません。
それでも、河野氏の系譜において為世は、皇室とのつながりを持ち、一族の発展を支えた重要な人物として語り継がれてきました。
「浮穴四郎」河野為世の別称
為世は、伊予国内での拠点として浮穴郡高井里(現在の松山市高井周辺)に館を構え、「浮穴四郎(うけなしろう)」とも称したと伝えられています。
『越智氏系図』にも「浮穴四郎為世」の名が見られ、浮穴の地にゆかりのある人物として、その名を残しています。
浮穴郡は伊予国の中央部に位置し、周辺地域を結ぶ交通上の重要な場所でもありました。
後世に伝わる系譜では、為世の子孫は伊予各地へと広がり、さまざまな地方豪族の系統につながったとされています。
その一族に関わる名前として、次のような氏族が挙げられています。
- 別宮氏
- 大野氏
- 井門氏
- 井上氏
- 寺町氏
- 北条氏
- 浮穴氏
- 高市氏
- 拝志氏
- 新居氏
- 今井氏
ただし、これらすべての氏族が実際に為世の子孫であったかについては、系譜上の伝承と史実を分けて考える必要があります。
また、為世には律令制度における「伊予権守(いよごんのかみ)」や、「浮穴御館(うけなのおやかた)」といった官職名・呼称も伝えられています。
こうした伝承のなかで、為世は伊予国の地域経営や開発に関わり、一族の勢力を広げた人物として描かれているのです。
笠松山城に伝わる河野為世の晩年
為世の晩年については、現在の今治市朝倉に位置する笠松山との関わりが伝えられています。
笠松山は、朝倉地域の歴史を語るうえで欠かせない山の一つで、山頂には笠松山城跡が残されています。

この城は、古くは河野為世の隠居城であったと伝えられ、為世はここで余生を過ごしたのち、浮穴郡浮穴里に戻って生涯を終えたといいます。
笠松山城は後に、為世の子孫とされる岡氏の居城となり、南北朝時代には南朝方と北朝方の激しい戦いの舞台となりました。
その後も室町時代から戦国時代にかけて、伊予国の動乱と深く関わる山城として歴史に名を残しています。
現在も山頂には観音堂(笠松観音堂)が残され、地域の信仰の場として大切に守られています。

河野為世の一族と大山祇神社の祭祀
伊予国の歴史に深く関わったと伝えられる河野為世。
為世に連なる一族は、政治や地域の開発だけでなく、大山祇神社の祭祀や寺院組織においても重要な役割を担っていたと伝えられています。
大山祇神社の祭祀を支えた神宮寺についても、為世の娘の病気平癒の願いがかなったことへの感謝から建立されたという伝承が残されています。
さらに、為世の三男とされる河野為澄(越智為澄)は、大三島の社司(しゃじ)となり、神社の祭祀に深く関わったと伝えられています。
また、次男・河野為頼(越智為頼)は、二十四坊の一つである東円坊(とうえんぼう)に入り、供僧として神社に仕えたとされ、その子孫は別宮大山祇神社の社務を担う別宮氏へとつながっていったと伝えられています。
こうした伝承は、河野氏と大山祇神社との関係が、武家としての崇敬にとどまらず、神社の祭祀や神仏習合の営みにまで及んでいたことを伝えています。
三嶋神社の主祭神・大山積命
やがて、人々の崇敬を受け、大山積神への信仰は伊予国の各地へと広がっていきました。
現在も今治市内だけでなく、愛媛県各地には、大山積神を祀る「三島神社」や「大山積神社」などが数多く鎮座しています。
同じ大山積神を祀りながらも、その土地の自然や人々の暮らし、地域の歴史と結びつくことで、三島信仰は長い年月をかけて各地に根づいていったのです。
そして、山々に囲まれた與和木もまた、そうした信仰が根づいた土地の一つでした。
古くから河野氏とのつながりを持ち、山の恵みとともに人々の暮らしが営まれてきたこの地でも、大山積神は地域を守る神として崇められてきました。
三嶋神社には、五穀豊穣と開運出世の御神徳が伝えられています。
山々がもたらす水や木々の恵み、田畑の実りは、古くから與和木の人々の暮らしを支えてきました。
自然の恵みに感謝し、豊かな収穫や家々の安泰を願う祈りは、長い年月のなかで地域の信仰として受け継がれてきたのでしょう。
また、境内には「広鉾神社」「山之神」「重義神社」の三つの境内社も祀られています。
それぞれの詳しい由緒は明らかになっていませんが、山々に囲まれた與和木の地で、さまざまな信仰が大切に守られてきたことを示しています。
古くからの大山積神への信仰に、越智氏や河野氏の歴史、そして河野四郎為世にまつわる伝承が重なり合う三嶋神社。
長い歴史のなかで積み重ねられてきた人々の祈りと、郷土に受け継がれてきた信仰。
與和木の三嶋神社は、今もなお、その歴史と人々の想いを静かに伝え続けています。



