“三島”の名の由来を伝え、紙のまちとともに歩んできた伊予三島の総氏神
愛媛県四国中央市(しこくちゅうおうし)。
瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)に面し、南には法皇山脈が連なるこの地域は、古くから製紙業が盛んな「紙のまち」として知られています。
江戸時代から続く手漉き和紙の生産は、明治時代以降の機械製紙へと発展し、昭和18年(1943年)には、四国紙業株式会社など14社が合同し、大王製紙株式会社が設立されました。
ティッシュペーパーの「エリエール」で知られる大王製紙の三島工場をはじめ、多くの製紙関連企業が集積する、日本有数の紙の生産地となっています。
かつては伊予三島市、川之江市、宇摩郡土居町、新宮村に分かれていましたが、平成16年(2004年)4月1日に合併し、四国中央市が誕生しました。
合併後は、それぞれの地域が培ってきた歴史や文化、産業を受け継ぎながら、一つの都市としてまちづくりが進められてきました。
なかでも旧伊予三島市の中心部にあたる伊予三島地区は、市役所本庁舎が置かれるなど、四国中央市の行政や市民生活を支える中心市街地の一つとなっています。
そんな伊予三島地区の歴史は古く、江戸時代には今治藩の陣屋が置かれ、宇摩郡における藩政の拠点として重要な役割を担っていました。
また、瀬戸内海に面した三島港を利用した商業活動も盛んになり、川之江と並ぶ宇摩地方の中心地の一つとして発展してきました。
こうした地域の発展とともに、人々の暮らしには氏神への信仰が深く根づき、祭礼や伝統が大切に受け継がれてきました。
なかでも、毎年10月に行われる伊予三島秋祭りでは、豪華な刺繍幕で飾られた太鼓台が町を練り歩き、地域の人々によって伝統が受け継がれています。
その祭礼の中心となり、「三島」という地名の由来にもなったと伝えられるのが、三島宮川に鎮座する三島神社です。

全国に広がる三島信仰と宇摩の三島神社
三島神社・三島の主祭神である大山祇神(おおやまづみのかみ)は、全国各地の「三島神社」「三嶋神社」「大山祇神社」「大山積神社」など、さまざまな社名の神社で広く信仰されています。
全国に広がる三島信仰には、大きく分けて二つの系統があり、一つは愛媛県今治市の大三島に鎮座する大山祇神社、もう一つは静岡県三島市に鎮座する三嶋大社を中心とする信仰です。


三嶋大社(photolibrary)
大三島の大山祇神社は、古くから伊予国一宮として篤い崇敬を集め、「日本総鎮守」とも称される、極めて高い格式を持つ神社です。

伊予国(現在の愛媛県)では、その長い歴史のなかで大山祇神社への信仰が各地に広がり、神霊を勧請(かんじょう)して新たな神社を創建したという由緒が数多く残されています。
こうした信仰は、瀬戸内海の燧灘に面した伊予国東部の宇摩郡にも伝わりました。
古くから海を通じて大三島ともつながりを持ってきた宇摩地方には、大山祇神社から神霊を迎え、この地の守り神として祀ったという伝承が受け継がれています。
その由緒を今に伝えているのが、四国中央市三島宮川に鎮座する三島神社です。

三島神社に祀られる神々
三島神社では、大山祇神を主祭神として、大三島に伝わる信仰とも深い関わりを持つ、次の五柱の神々が祀られています。
- 大山祇神(おおやまづみのかみ)『古事記』や『日本書紀』に登場する山の神で、山林や農耕を守護する神として広く信仰されています。また、鎌倉時代後期の『釈日本紀』に伝わる『伊予国風土記』の逸文には、「和多志大神(わたしのおおかみ)」という別名が記され、海や渡航を守護する神としての性格も持っています。
- 上津比咩神(かみつひめのかみ)大山祇神とともに祀られる姫神で、大三島の大山祇神社にある上津社(かみつやしろ)の姫神との関わりが考えられます。下津比咩神と対になる神名ですが、具体的にどの神話上の女神にあたるかは明らかになっていません。
- 下津比咩神(しもつひめのかみ)上津比咩神と対になる姫神で、大三島の下津社(しもつやしろ)に祀られる姫神との関わりが考えられます。上津比咩神とともに、三島信仰において大切にされてきた姫神です。
- 高龗神(たかおかみのかみ)『日本書紀』にも登場する水や雨をつかさどる神で、龍神としても信仰されています。古くから雨乞いや水の恵みを願う信仰と結びつき、農耕に欠かせない水をもたらす神として崇敬されてきました。
- 雷神(いかづちのかみ)雷の力を神格化した神で、大三島の上津社に祀られる大雷神(おおいかづちのかみ)とも関わる神です。雷は激しい雨や嵐をもたらす恐ろしい自然現象である一方、農作物の成長に欠かせない雨とも結びつくことから、古くから人々の畏敬と信仰の対象となってきました。
大山祇神社では、本社に大山積神、上津社に大雷神と姫神、下津社に高龗神と姫神が祀られ、三社を一体として崇敬する信仰が受け継がれてきました。

三島神社・三島の五柱の神々にも、こうした大三島の信仰との深いつながりを見ることができます。
南には法皇山脈が連なり、北には瀬戸内海の燧灘が広がる宇摩地方。
山から流れる水は農耕や人々の生活を支え、雨や天候の変化は海上交通にも大きな影響を与えてきました。
大三島から受け継がれた三島信仰は、こうした山と海に囲まれた宇摩地方の風土とも結びつき、人々の暮らしのなかに深く根づいてきたのです。
三島神社・三島の創建史
その信仰が宇摩の地に伝えられたとされるのは、今からおよそ1300年前。
和銅3年(710年)、元明天皇のもとで都が藤原京から平城京へ移され、奈良時代が始まりました。
現在の奈良市に築かれた平城京は、中国の都城制度を参考に整備された都で、政治や文化の中心として発展していきました。
朝廷では天皇を中心とする律令制度に基づいた政治が行われ、その仕組みは全国各地にも広がっていきました。
地方には朝廷から派遣された国司が置かれ、郡の行政は、その土地に古くから勢力を持つ有力氏族が郡司として担っていました。
また、この時代には、日本の成り立ちや各地に伝わる歴史を記録する動きも進められました。
和銅5年(712年)には、神々の物語や歴代天皇の事績をまとめた『古事記』が完成しました。
翌和銅6年(713年)には、朝廷から諸国に対して、土地の地名や産物、山川の様子、古くから伝わる伝承などを記録するよう命令が出され、各地で『風土記』の編纂が進められました。
さらに養老4年(720年)には、舎人親王(とねりしんのう)らによって編纂された『日本書紀』が完成し、神々の時代から続く日本の歴史が、国家の正式な記録としてまとめられました。
こうして朝廷による政治体制の整備が進められるなか、瀬戸内海に面した伊予国でも、古くから地域に根づいた有力氏族が地方行政を担っていました。
それが、越智(おち)氏です。
古代伊予の豪族・越智氏と大山祇神社の信仰
越智氏は、現在の愛媛県今治市を中心とする越智郡を本拠としていた、古代伊予国の有力豪族です。
大山祇神社と深い関わりを持ち、祭神である大山積神(おおやまづみのかみ)を一族の氏神として厚く崇敬してきました。
また、大山祇神社の祭祀にも深く関わり、その祭祀を統括する「大祝(おおほうり)」の職は、越智氏の一族によって代々受け継がれ、後の三島氏や大祝氏へとつながっていきました。
その越智氏の祖と伝えられているのが、乎致命(おちのみこと)です。
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乎致命は、律令制度が整えられる以前に、越智地方の統治を担った小市国造(おちのくにのみやつこ)に任じられたと伝えられています。
大山祇神社の境内には、乎致命が大山積神を祀った際に自ら植えたと伝わる、推定樹齢約2,600年の御神木「乎知命御手植の楠(おちのみことおてうえのくす)」が今もそびえ立っています。

その子孫は「小市直(おちのあたい)」を称したとされ、律令制度が整えられると、越智郡の郡司を務めるなど、古代伊予国の地方行政において重要な役割を担うようになりました。
当主・越智玉澄
越智玉澄(おちのたまずみ)は、飛鳥時代の終わりから奈良時代初期にかけて伊予国で活動し、越智氏の祖・乎致命から数えて第二十六代目当主となったと伝えられる人物です。
一族が代々受け継いできた大山積神への信仰を大切にし、大三島の大山祇神社の遷座や、今治の別宮大山祇神社の創建に関わったと伝えられるほか、伊予各地の神社や寺院の由緒にその名を残しています。
そんな玉澄の生涯には、異国から海を渡ってきた兄弟との出会いに始まる、不思議な伝承が残されています。
異国から海を渡ってきた兄弟
文武天皇3年(699年)ごろ、越智氏の当主であった越智玉興(おちのたまおき)は、伊予国への帰国の途上、異国から日本へ渡ってきた二人の兄弟と出会ったと伝えられています。
二人は、かつて玉興の父・越智守興(おちのもりおき)が異国に滞在していた際にもうけた子であり、父を探すため、はるばる海を渡って日本へやってきたといいます。
しかし、父の守興はすでに亡くなっていました。
兄弟の話を聞いた玉興は、二人が自分と同じ父を持つ異母弟であることを知ります。
玉興には跡を継ぐ子がいなかったため、二人を養子として迎え、自らの名前から「玉」の一字を与えて、兄を玉守(たまもり)、弟を玉澄と名付けたとされています。
こうして、異国から渡ってきた二人の兄弟は、伊予国の有力豪族であった越智氏の一族に迎えられることになりました。
宇摩郡の大領から越智氏当主へ
大宝元年(701年)ごろ、玉澄は伊予国東部の宇摩郡において、律令制度のもとで郡の行政を担う郡司のなかでも、最も高い地位にあたる大領(だいりょう)に任じられたと伝えられています。
そして、現在の四国中央市上柏町御所の地に館を構え、そこを拠点として宇摩郡の統治にあたったとされています。
その後、養父である玉興の跡を継ぎ、越智宗家の家督を受け継いだ玉澄は、第二十六代目当主として一族を率いる立場となりました。
さらに、越智郡の大領も務め、宇摩郡だけでなく、伊予各地の行政や神社の祭祀にも深く関わっていきました。
なかでも、大山祇神社への崇敬は厚く、毎月のように海を渡って大三島を訪れ、神社にこもって祈りを捧げる「参籠(さんろう)」を続けていたといいます。
越智玉澄が願った宇摩の地への勧請
しかし、年齢を重ねるにつれて、海を渡って大三島まで参詣することが難しくなっていきました。
そこで玉澄は、大山祇神社から大山積神の神霊を迎え、宇摩郡に新たな社を建立することを決意しました。
そして、養老4年(720年)旧暦8月23日。
玉澄は大山祇神社から迎えた神霊を、「八綱浦三津名岬加茂川上冠岡」と呼ばれる地に奉斎しました。
これが、現在の三島神社・三島の始まりと伝えられています。
関連記事はこちら:【越智氏の系譜】戦国の終わりまで続く伊予の歴史はここから始まった。河野氏の祖・越智玉澄
神霊が上陸したと伝わる御旅所
三島神社・三島の創建には、大三島から海を渡ってきた神霊が、この地に上陸したという伝承も残されています。
大山祇神社から迎えられた神霊は、海路を経て宇摩郡へ運ばれ、現在の三島神社・三島の御旅所にあたる場所へ到着したといいます。
御旅所(おたびしょ)とは、神社の祭礼で神輿が巡行する際、神様が一時的に滞在する場所のことです。
三島神社・三島の御旅所は、現在の社殿から北東へ約200メートルの場所にあり、大三島から迎えられた神霊が最初に上陸した地として伝えられています。
そして、この由緒は現在の祭礼にも受け継がれ、毎年10月の神幸祭では、神輿が御旅所へ渡御する神事が行われています。
かつて玉澄が大三島から神霊を迎えたという物語は、こうした祭礼を通じて、今も地域の人々に語り継がれているのです。
「三島」という地名の始まり
大山祇神社から神霊を迎えて祀ったことにより、この土地は「三島」と呼ばれるようになったと伝えられています。
こうして創建された三島神社・三島は、宇摩地方の人々から広く崇敬を集め、地域の信仰の中心として大切にされてきました。
また、「三島」という地名も長い年月を経て受け継がれ、明治時代の三島村、三島町、そして昭和29年(1954年)に誕生した伊予三島市の名称へとつながっていきました。
平成16年(2004年)の市町村合併によって伊予三島市という自治体名はなくなりましたが、三島宮川をはじめ、現在の四国中央市にもその地名が残されています。
この「三島」という名には、大三島の神を迎えて祀ったという古い伝承と、地域の人々が受け継いできた信仰の歴史が込められているのです。

伊予三島駅(photo library)
境内に残る歴史と文化財
境内には、長い歴史のなかで受け継がれてきた数多くの境内社が祀られ、室町時代の旧本殿や江戸時代の随神門をはじめ、歴史的な建造物や石造物が残されています。
また、神社の創建以前から続くとされる信仰の場所や、地域に伝わる民話にまつわる石もあり、境内の各所に三島神社・三島と人々との関わりを伝える文化財が大切に守られています。

「磐座遺跡」創建以前の信仰を伝える磐座
三島神社・三島には、養老4年(720年)の創建よりもさらに古い信仰の歴史を伝えるとされる場所があります。
それが、境内に残る「磐座(いわくら)」です。
磐座とは、神が宿る、あるいは神を迎えて祭祀を行う場所として、古くから神聖視されてきた岩や岩石群のことです。
三島神社・三島の磐座は、社殿が建立される以前の祭祀に関わる場所と考えられており、現在は大石神社として祀られています。

「石灯籠伝福島正則奉献」福島正則が奉納したと伝わる灯籠
磐座の石囲いの中には、「福島灯籠」と呼ばれる一対の石灯籠が残されています。
この石灯籠は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将・福島正則(ふくしままさのり)が奉納したものと伝えられています。
福島正則は尾張国(現在の愛知県西部)の出身で、幼い頃から豊臣秀吉に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは「賤ヶ岳の七本槍」の一人として名を知られるようになりました。
その後、天正15年(1587年)の九州平定で功績を挙げた正則は、秀吉から伊予国東部の宇摩郡・新居郡・周敷郡・桑村郡・越智郡の五郡、約11万3,200石を与えられました。
初めは道後の湯築城に入り、後に現在の今治市にあたる越智郡の国分山城へと居城を移し、文禄4年(1595年)に尾張国清洲へ移るまで、伊予国東部の統治にあたりました。
その間には領内の検地を進めるなど、戦国時代から近世へと移り変わる伊予国の歴史にも深く関わっています。
三島神社・三島の『社記』には、元亀2年(1571年)に正則が一対の石灯籠を寄進したという記録が残されています。
ただし、正則が伊予国東部の領主となったのは天正15年(1587年)であり、伝承にある奉納年とは16年の隔たりがあります。そのため、実際の奉納年代や詳しい経緯については明らかになっていません。
石灯籠は花崗岩製で、笠の反りが少なく、先端部がやや平らになっているのが特徴です。
笠には家紋のようなものが刻まれていた痕跡があり、円筒形の竿は中央部がわずかに膨らみ、凸帯(とったい)と呼ばれる帯状の装飾が施されています。
また、火袋を支える中台には唐草文様が刻まれ、寄進者の名前や年月日を記した銘文も残されていますが、長年の風化によって文字は磨滅しています。
一対のうち西側の一基は、市指定有形文化財となっており、桃山様式の特徴を伝える石造物として大切に保存されています。

「旧本殿」延徳2年(1490年)
延徳2年(1490年)の旧本殿
現在の本殿は明治35年(1902年)に造営されましたが、境内にはそれ以前に使用されていた旧本殿も残されています。
旧本殿は、室町時代後期の延徳2年(1490年)に再建されたと伝わる建物で、四国中央市に現存する最古の木造建築物として知られています。
長い年月のなかで幾度も修理や屋根の葺き替えが行われ、現在は「諸山祇神社(もろやまづみじんじゃ)」として、十六社の神々が祀られています。
昭和37年(1962年)4月1日には市の有形文化財に指定され、中世の神社建築を今に伝える貴重な建造物として、大切に保存されています。

「三島神社随神門」文政4年(1821年)の随神門
南側の参道に建つ随神門(ずいじんもん)は、江戸時代後期の文政4年(1821年)2月に完成したもので、二層二階の重厚な造りが特徴です。
門内には、神域の入口を守護する門守神(かどもりのかみ)として、豊石窓神(とよいわまどのかみ)と櫛石窓神(くしいわまどのかみ)の二柱が祀られています。
随神門は、昭和37年(1962年)4月1日に市の有形文化財に指定され、江戸時代の神社建築の姿を今に伝える貴重な建造物として、大切に保存されています。

「龍宝石(鯛寄せ石)」不思議な石の伝説
瀬戸内海の漁師と中曽根の庄屋にまつわる伝説を今に伝えるのが、「龍宝石(りゅうほうせき)」「鯛寄せ石(たいよせいし)」と呼ばれる大きな石です。
現在は三島神社・三島の本殿の東側に祀られていますが、もともとは瀬戸内海の海底にあったとされ、そこには一人の庄屋にまつわる不思議な物語が残されています。

海底から引き揚げられた不思議な石
昔々、中曽根の庄屋の家に、毎日のように立派な鯛を売りに来る漁師がいました。
不思議に思った庄屋がその理由を尋ねると、漁師は海底に白く輝く珍しい石があり、その周囲には多くの鯛が集まってくるのだと話しました。
その話を聞いた庄屋は、どうしても石を手に入れたくなり、多くの人手を使って海底から引き揚げ、自分の屋敷の庭へ運ばせました。
ところが、それ以来、庄屋の家では不幸な出来事が続くようになったといいます。
不安に思った庄屋が占ってもらったところ、それは海の神の怒りに触れたためであり、毎日海水を汲んで石に注ぎ、海の神を祀るようにとのお告げがありました。
そこで庄屋は、雨の日も風の日も海へ通い、汲んできた海水を石に注いで、祈りを捧げ続けたと伝えられています。
庄屋が通った「汐汲み道」
こうして庄屋が海水を運ぶために通った道は、「汐汲み道(しおくみみち)」と呼ばれ、後に「しょうこ道」と呼ばれるようになりました。
現在も三島宮川から中曽根にかけて、この伝説にゆかりのある道が残されています。
また、庄屋の屋敷に置かれていた鯛寄せ石は、後に三島神社・三島へ奉納され、現在の場所に祀られるようになったといいます。
令和8年(2026年)には、四国中央市に伝わるこの民話が、日本財団が推進する「海ノ民話のまちプロジェクト」によってアニメ化され、地域に残る物語が新たな形で紹介されました。
海底から引き揚げられた不思議な石と、海の神の怒りを鎮めるために海水を汲み続けた庄屋。
鯛寄せ石と汐汲み道に残るこの伝説は、海の恵みへの感謝と、自然を畏れ敬う心を今に伝えています。

江戸時代の三島神社と地域の発展
三島神社・三島は中世以降も地域の有力者や住民から崇敬され、江戸時代には宇摩地方の重要な信仰の場となっていました。
寛政9年(1797年)の『三嶋村明細帳』には、大山積大明神を祀る三島宮の記録があり、別当として善法寺と興願寺の名が記されています。
神社と寺院が結びついて祭祀を行っていた神仏習合の時代には、三島神社・三島も仏教寺院との関係を持ちながら信仰を受け継いでいました。
明治時代になると神社制度の整備によって郷社に列格され、その後、県社へと昇格しました。
現在も境内入口に残る「縣社」の文字は、近代の三島神社・三島の歴史を伝えています。

紙のまちと信仰
古くから製紙業が盛んな宇摩地方では、紙づくりに携わる人々の暮らしとともに、産業の繁栄を願う信仰も受け継がれてきました。
三島神社・三島に祀られる春日神社も、そうした地域の製紙業と深い関わりを持つ神社の一つです。

製紙業者が崇敬してきた春日神社
春日神社の創建年代は明らかになっていませんが、江戸時代には地元の製紙業者によって「春日講」が組織され、春日の神々への信仰が広まっていきました。
その後、製紙業の発展とともに、原料商や紙販売業、紙加工業などに携わる人々も信仰に加わり、紙業の繁栄を願う神社として広く崇敬されるようになりました。
現在も毎年5月1日には春日神社の例祭が行われ、製紙業に携わる人々の信仰が受け継がれています。

石柱に刻まれた「井川伊勢吉」の名
こうした地域の製紙業との関わりは、三島神社・三島に奉納された玉垣(たまがき)にも見ることができます。
境内には、四国中央市を代表する製紙企業・大王製紙の創業者として知られる「井川伊勢吉(いかわいせきち)」の名を刻んだ玉垣が数多く並び、井川家による寄進と、三島神社・三島への厚い崇敬を今に伝えています。

明治42年(1909年)、宇摩郡三島町に生まれた井川伊勢吉は、高等小学校を卒業すると家業の製紙原料商を手伝い、若い頃から紙の原料となる古紙などを扱っていました。
昭和3年(1928年)には自ら製紙原料商を始め、昭和15年(1940年)には丸菱製紙所の経営を引き継いで製紙業へと進出しました。
翌昭和16年(1941年)には四国紙業株式会社を設立し、製紙工場の整備を進めていきました。
そして昭和18年(1943年)、戦時下の企業合同によって四国の製紙工場14社が合併し、大王製紙株式会社が誕生しました。
伊勢吉は初代社長に就任し、その後の大王製紙の発展を支えていくことになります。
製紙業の発展と銅山川分水
戦後、井川伊勢吉は従来の手漉き和紙を中心とした製紙業から、機械による洋紙生産への転換を進め、パルプから紙までを一貫して製造する体制の整備に取り組みました。
また、昭和22年(1947年)には宇摩商工会議所の会頭に就任し、地域の産業発展にも力を注ぎました。
なかでも重要だったのが、製紙工場に欠かせない大量の工業用水を確保するための、銅山川分水事業への取り組みです。
法皇山脈を挟んで南側を流れる銅山川の水を、瀬戸内海側の宇摩地方へ導くこの事業では、昭和28年(1953年)に柳瀬ダム、昭和50年(1975年)には新宮ダムが完成しました。
こうした水資源の確保は、宇摩地方が全国有数の製紙産地へと発展するうえで、大きな役割を果たしました。
井川伊勢吉も地域産業の発展に尽力した功績が認められ、昭和59年(1984年)には伊予三島市の名誉市民となっています。
江戸時代の手漉き和紙から始まり、近代的な製紙工場が立ち並ぶ「紙のまち」へと発展してきた宇摩地方。
三島神社に祀られる春日神社と、境内に刻まれた寄進者の名前は、地域の産業を築いてきた人々と、神々への信仰が深く結びついてきた歴史を今に伝えています。
伊予三島秋祭りと三島神社の秋季例大祭
四国中央市では、毎年秋になると「伊予三島祭り」「川之江祭り」「土居祭り」が行われ、豪華絢爛な太鼓台が各地区を練り歩きます。
その一つである「伊予三島秋祭り」は、三島・寒川・豊岡地区の神社を中心に行われる、200年以上の歴史を持つ伝統的な祭礼です。
三島神社・三島でも毎年10月21日から23日にかけて秋祭りが行われ、23日には例大祭が執り行われます。
祭礼期間中には、龍を描いた金糸の刺繍や精巧な木彫りで飾られた太鼓台が町を練り歩き、担ぎ手である「かき夫」たちの威勢のよい掛け声と、力強い太鼓の音が響き渡ります。
また、各地区の太鼓台が一堂に集まる「三島太鼓台統一寄せ」では、太鼓台を高く差し上げる勇壮な「かき比べ」が披露され、多くの見物客で賑わいます。
御座船「明神丸」
三島神社・三島の秋祭りには、一般的な太鼓台とは異なる「明神丸(みょうじんまる)」と呼ばれる船形の太鼓台も登場します。
「御座船(ござぶね)」とも呼ばれる明神丸は、神霊を奉じ、奉納歌を歌いながら太鼓台の列の先頭を進む、神社の祭礼に欠かせない存在です。
この明神丸は、長く運行が途絶えた時期もありましたが、地域の人々によって修復や整備が重ねられ、平成28年(2016年)には本格的な復活を遂げました。
船形の屋台に受け継がれてきた祭礼文化は、瀬戸内海に面した三島の歴史と、海に関わる人々の信仰を感じさせます。
氏子初詣祭(ウジミセ)
三島神社・三島には、「氏子初詣祭(ウジミセ)」と呼ばれる特徴的な神事も受け継がれています。
これは、新しく生まれた子どもが氏神に初めて参拝し、誕生を報告するとともに、健やかな成長や長寿を祈願する行事です。
毎年10月21日の夕方から夜にかけて行われ、参拝した家族は絵馬を奉納し、神前で氏子入りを報告します。
その際には、産土神(うぶすながみ)の守護を願う神札や御幣(ごへい)などが授けられます。
さらに、10月23日の神幸祭では、氏子初詣祭に参拝した子どもたちも御幣を持ち、神輿の渡御に合わせて御旅所(おたびしょ)まで参列する習わしがあります。
この御旅所は、三島神社・三島の創建に際して、大三島から迎えられた神霊が初めて上陸したと伝わる場所で、神事では宮川上流の琵琶の谷の水が神前に供えられます。
こうした祭礼を通じて、地域の人々は氏神のもとに集い、子どもの誕生と成長を祝い、見守ってきました。その伝統は今も受け継がれています。
三島の歴史とともに歩んできた神社
奈良時代、越智玉澄によって創建されたと伝わる三島神社・三島は、古くから宇摩地方の人々の信仰を集め、地域の歴史とともに歩んできました。
境内には、室町時代の旧本殿や江戸時代の随神門をはじめ、長い年月のなかで受け継がれてきた歴史や伝承が残されています。
また、宇摩地方が「紙のまち」として発展するなかで、製紙業に携わる人々からも篤く崇敬され、そのつながりは春日神社への信仰や奉納された玉垣にも見ることができます。
そして現在も、秋祭りには豪華な太鼓台が町を練り歩き、氏子初詣祭では新しく生まれた子どもたちの健やかな成長が祈られています。
大三島から神を迎えたという古い伝承とともに、「三島」の名を受け継いできたこの地域。
三島神社・三島は、時代とともに移り変わる人々の暮らしに寄り添いながら、地域の氏神として大切に守り続けられています。



