三本の線が語る、海の都・今治の誇りと系譜
愛媛県今治市を拠点に活動するプロサッカークラブ、FC今治。
その歩みは、1976年に誕生した「大西サッカークラブ」から始まります。
その後、2012年に現在のクラブ名となり、2014年には元日本代表監督の岡田武史氏がオーナーに就任。
「次世代のため、物の豊かさより心の豊かさを大切にする社会創りに貢献する」という壮大な理念のもと、2024年にはクラブ史上初となるJ2昇格を果たすなど、目覚ましい成長を遂げています。
FC今治は、単なる一サッカーチームではありません。
2023年に誕生した「アシックス里山スタジアム」を拠点に、教育や地域活性化、さらにはFC今治高校の設立など、まちづくりの中心として新たな地域モデルの創出に挑んでいます。

その挑戦を象徴するのが、黄色と蒼のエンブレムです。
中央に描かれた「3本の線」は、一見すると現代的なデザインに見えますが、実はこの今治の地で1000年以上にわたり受け継がれてきた、歴史と信仰の象徴でもあるのです。

これからご紹介するのは、かつて瀬戸内の荒波を統べた豪族・越智氏が掲げ、今なお今治の至る所に刻まれている「三文字」のルーツ。
FC今治がなぜこの紋章を胸に戦うのか、その背景にある神秘的な伝承と、海を渡った兄弟たちの絆の物語を紐解いてみましょう。
「三文字紋」と大山祇神社
三文字の紋は、単なる装飾ではなく「大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)」の神紋として、伊予国(現:愛媛県)の歴史とともに受け継がれてきました。

では、そのルーツとなった大山祇神社とは、いったいどのような存在なのでしょうか。
瀬戸内海の中央、愛媛県今治市大三島に鎮座する大山祇神社は、「日本総鎮守」や「伊予国一宮」とも称され、古来より海と山を司る神として篤い信仰を集めてきました。
特に、瀬戸内海を行き交う海人や水軍たちにとっては、航海安全と武運長久を祈る重要な聖地でもありました。
大山祇神社は、日本全国に一万社以上あるとされる三島神社(三嶋神社)の総本社として知られており、その長い歴史の中で、主祭神・大山祇神は地域や時代によってさまざまな名で呼ばれてきました。
- 大山積神(おおやまづみのかみ)
- 大山津見神(おおやまつみのかみ)
- 三島大神(みしまのおおかみ)
- 三島大明神(みしまだいみょうじん)
- 酒解神(さけとけのかみ)
こうした多様な呼び名は、大山祇神が山・海・農業・航海・酒造など、人々の暮らしと密接に関わりながら信仰されてきたことを物語っています。
「三島信仰」海を越えて広がった信仰
こうした大山祇神への信仰は、「三島信仰」として今治や愛媛だけではなく、日本全国へと広がっていきました。
ただ、三島信仰には大きな特徴があります。それは、信仰の中心が一社だけではないという点です。
西日本では、瀬戸内海の海上信仰の中心として、愛媛県今治市大三島に鎮座する大山祇神社が篤く崇敬されてきました。
一方、東日本では、伊豆国一宮として知られる三嶋大社が信仰の中心として広く人々の崇敬を集めてきました。
つまり三島信仰とは、「西の大山祇神社」「東の三嶋大社」という二つの大きな拠点によって、日本各地へ広がっていった広大な信仰なのです。
今治に広がる三島信仰
大山祇神を中心とする「三島信仰」は、伊予の地に深く根付き、特に今治地域を中心に数多くの三島神社(三嶋神社)が創建されてきました。
諸島部を除く今治市内だけでも、現在までに多くの三島信仰に関わる神社が点在しています。
- 三島神社・旦(今治市・桜井地区)
- 三島神社・登畑(今治市・桜井地区)
- 三島神社・新谷(今治市・清水地区)
- 三島神社・四村(今治市・清水地区)
- 三嶋神社・祇園神社(今治市・立花・鳥生地区)
- 三島神社・郷本(今治市・立花・鳥生地区)
- 三島神社・小泉(今治市・日高地区)
- 三島神社・馬越(今治市・日高地区)
- 大山積神社・石井町(今治市・近見地区)
- 大山積神社・別所(今治市・玉川地区)
- 別宮大山祇神社(今治市・今治中央地区)
さらに、これら以外にも、地域の神社の境内社として三島神社が合祀されている例は数多く存在しており、伊予国において三島信仰がいかに広範囲に浸透していたかが分かります。
そして、これらの神社に共通しているのが、あの「三文字」の神紋です。

波打つような“三本線”の紋章は、今も神社の瓦や幕、提灯などに刻まれ、地域の人々に受け継がれています。
つまり今治において「三文字の紋」は、単なる家紋や装飾ではなく、この土地を守り続けてきた神々の象徴そのものなのです。
「折敷に揺れ三文字・隅切折敷縮三文字」
この波打つ“三本線”の紋章は、「折敷に揺れ三文字(おしきにゆれさんもじ)」、正式には「隅切折敷縮三文字(すみきりおしきちぢみさんもじ)」と呼ばれています。
その特徴は、四隅を切り落とした「折敷(おしき)」と呼ばれる台の中に、波打つような“三”の文字が描かれている点にあります。
「折敷」とは、神事の際に供物を載せるために使われた白木の台のことで、古来より神聖な場を象徴する道具として用いられてきました。
特に大山祇神社では、四隅を切った八角形の「隅切折敷」が使われており、この形が紋章にも反映されています。
そして中央に描かれた波打つ“三文字”は、瀬戸内海の穏やかな波や潮流を表しているとも言われています。

暮らしと海を繋ぐ「三本線」と家紋としての広がり
神聖な神の印であったこの紋章は、やがて人々の誇りを示す「家紋」としても用いられるようになりました。
今治の街を歩き、ふと民家や蔵の屋根を見上げれば、瓦に刻まれたあの“三本線”を至る所で見つけることができます。
それほどまでに、この紋章は地域の暮らしの中へ深く溶け込んでいるのです。
そして、この大山祇神社の神紋を家紋として用いた最初の一族が、越智氏でした。
信仰と統治の三位一体
越智氏は、大山祇神(おおやまづみのかみ)を祖神として仰ぎ、古代より大山祇神社の祭祀を司ってきた伊予国屈指の有力豪族です。
その関わりは単なる宗教的信仰にとどまりませんでした。
越智氏にとって大山祇神社は、「政治・軍事・宗教」が結びついた統治体制の中心でもあったのです。
一族の勢力を拡大する中で、越智氏は祖神を祀る大山祇神社の「三島信仰」を伊予各地へ広めていきました。
伊予国内に数多くの三島神社や大山積神社を勧請(かんじょう:神の分霊を迎えること)し、地域の安寧を祈るとともに、神の加護のもとで一族の結束を強めていったのです。
こうして今治を中心に各地へ分社が築かれていく中で、大山祇神社の神紋である「三文字の紋」もまた、一族の誇りと信仰の象徴として広く浸透していきました。
海上の覇者「伊予水軍」の源流へ
さらに越智氏は、単なる地方豪族ではなく、大山祇神社の祭司者として、また大山祇神社を精神的支柱とする「伊予水軍(三島水軍)」の棟梁として、瀬戸内海航路の安全確保や海上交易の管理、さらには地域統治まで担う存在でもありました。
14世紀後半に成立した歴史文学書『太平記』には、越智一族が鎧の印として「折敷に三文字」を用いていたという記述が残されています。
海と信仰を掌握した越智氏にとって、「三文字の紋」は単なる家紋ではなく、一族の権威と海上統治を象徴する旗印でもあったのです。
そして伊予の武士団・河野氏の家譜や歴史書『予章記』には、水軍の戦いとともに、この“三文字の紋”の次のように由来が記されています。
越智氏五代目の小千三並(おちのみなみ)は、神功皇后による新羅遠征に従軍した将軍の一人でした。
当時、皇后は大陸遠征にあたり各地の有力な海上勢力を動員しましたが、瀬戸内海の航路を熟知し、強大な船団を操る越智氏は、渡海と海戦を担う極めて重要な存在でした。
三並はこの遠征軍において「第三番目の大将」として三番目に船団を率いて出航したため、その軍船には「三」の字を記した旗印を掲げていたと伝えられています。
ところが、異国の戦地へ到着すると、敵方にもよく似た印が存在していました。
混戦となる海上で敵味方の識別が難しくなることを危惧した三並は、自軍を明確に区別するため、神事で供物を載せる「折敷(おしき)」を船首へ角違いに立て、船印としたのです。
しばらく航海を続ける中、ある時、その折敷の影が海面へ映りました。
波に揺れる海の上では、影の形もゆがみ、本来は一本線のように見える形が、まるで縮んだ“三”の字のように見えたといいます。
これを見た三並は、「これは吉兆に違いない」と感じ、その形を新たな紋章として定めました。
もう一つの説、削ぎ落とされた文字
「隅切折敷縮三文字」には、その形状の由来についてもう一つの興味深い説があります。
もともとの紋は、「三ツ※」という、現代では目にすることのない非常に複雑で神秘的な意匠であったと伝えられています。
(※この部分は特殊な漢字であるため表示できませんが、構成を分解すると、左側に「粦」、その右側に波を意味する「巛」を組み合わせた「粦巛」という字になります)
しかし後に、「三嶋」の“嶋”という字を略し、現在の「三文字紋」に改めたといわれています。
越智・河野氏が繋いだ「正統性の証明」
この紋章は、単に一族の誇りを示すものではなく、地域を統治する正統な支配者であることを示す象徴でもありました。
その影響力は、越智氏の流れを汲む多くの分家や支族へと受け継がれていきます。
なかでも、伊予の国守として知られる河野一族は、祖先である越智氏と同じく、大山祇神社を深く崇敬していました。
大きな戦の前には大山祇神社へ戦勝祈願を行い、戦から凱旋すれば再び神前へ集う。
そうした強い信仰心のもとで、「折敷に揺れ三文字」の紋章を掲げ続けていたのです。
つまり、この“三文字の紋”は、単なる家紋ではありませんでした。
それは、神への信仰と地域支配の正統性を示す象徴であり、海を治め、人々を束ねてきた一族の精神そのものでもあったのです。
民家の屋根瓦や蔵に刻まれている“三文字の家紋”には、歴史的に越智氏・河野氏の流れを汲む家系や大山祇神社の氏子として三島信仰と深く結びついてきた家々との関係があり、その歴史を今に伝えているのです。
「折敷に三文字」もうひとつの“三文字”
実は、“三本線の紋”には、波打つ形だけではなく、まっすぐな線で描かれたものも存在します。
この直線的な紋章は、「折敷に三文字(おしきにさんもじ)」、あるいは「隅切折敷三文字(すみきりおしきさんもんじ)」と呼ばれています。
この紋が用いられるようになったのは、伊予の名門・河野氏第23代当主、河野通信(こうの みちのぶ)の時代であったと伝えられています。

源平合戦の英雄が受け継いだ家紋
保元元年(1156年)、東禅寺(とうぜんじ)で生まれた河野通信は、源平合戦において瀬戸内海の三島水軍を率い、壇ノ浦の戦い(1185年)で源氏の勝利に貢献しました。
この戦いでの功績は、源平合戦の最終局面を決するものであり、通信の指揮能力と瀬戸内海の地形を熟知した戦術が重要な役割を果たしました。
この功績を通じて、通信は源頼朝の厚い信任を得る存在となります。
源頼朝から「源、北条に次ぐのは河野よ」とまで讃えられ、河野氏は伊予国の統治を正式に認められ、通信自身も頼朝の重臣として鎌倉幕府の創設期において重要な地位を占めることとなりました。
一説には、鎌倉幕府の開府に際して、源頼朝が征夷大将軍に就任した際、河野通信は頼朝の側近として特別な待遇を受け、酒宴に招かれたと伝えられています。
そして、この酒宴の席での出来事が、河野家が「折敷に三文字」を家紋とするきっかけとなったという逸話があります。
この席では、源頼朝は自らを上座の中央に据え、「一」と書かれた紙を折敷の上に置きました。
次いで北条時政が2番目に座し、「二」の紙が折敷に置かれました。
そして、河野通信が3番目の席に着き、その膳には「三」と書かれた紙が置かれたとされています。
この「三」の文字は、河野通信が幕府の中枢において重きをなす存在であり、源氏の支柱の一人であることを象徴していたとされます。
また、河野氏が鎌倉幕府の統治において重要な役割を果たしていたことを示す象徴的な出来事でした。
この出来事を契機に、河野氏は従来の家紋「折敷に揺れ三文字」から、より簡潔で明快な「折敷に三文字」へと変更したと伝えられています。
村上水軍・来島村上氏への継承
来島村上氏は、村上水軍の御三家(因島村上氏・来島村上氏・能島村上氏)の一つであり、来島を拠点に海上交通の管理や交易、軍事活動を通じて、瀬戸内海地域で大きな影響力を持っていました。
特に来島村上氏は、伊予側の航路を掌握し、河野水軍(来島水軍)として河野氏を支えながら、日本三大急潮の一つである来島海峡の潮流を活用した巧みな海戦術を駆使し、瀬戸内海での勢力を強化しました。
この潮流を利用した独自の戦術により、来島水軍は敵の侵攻を阻み、河野氏の領国防衛にも大きく貢献しました。
その中でも、来島氏の代表的な人物である村上通康(むらかみ みちやす・来島通康)は、河野氏第26代当主・河野通直の娘婿として、河野家と強い結びつきを持つようになりました。
天文11年(1542年)、河野氏の内部で家督争いが発生した「天文の内訌(伊予の乱)」において、村上通康は義父である河野通直(こうの みちなお)を支援し、忠誠を尽くしました。
この内紛は、河野氏の家中で家督を巡る対立が激化し、伊予国内を大きく揺るがす戦乱となりました。
この戦で、通康は河野通直を自身の拠点である来島の「来島城」に迎え入れ、全面的に支えました。

来島城は、日本三大急潮の一つである来島海峡の潮流を利用した天然の海上要塞であり、自然の防御力を最大限に活かした鉄壁の城でした。
潮流が激しく、船の出入りが容易ではなかったため、敵の侵攻を阻む絶好の立地となっていました。
この条件下での水軍の戦術は非常に強力なものとなりました。
来島水軍は、この潮の流れを熟知し、流れを利用して機動力を発揮し、戦闘や防衛において圧倒的な優位を築き、戦局を有利に導いていきました。
これらの功績により、河野通直は村上通康を後継者に指名し、「諱字および側折敷三文字の紋章ならびに河野家の系図と記を付与す」と宣言しました。
これにより、来島氏には河野氏の象徴とも言える家紋「折敷に三文字」が与えられ、河野一族と同等の扱いを受けることとなりました。
また、来島氏には、「折敷に三文字」の家紋が与えられる一方で、大山祇神社の神紋をルーツとする「折敷に揺れ三文字」の家紋も使用されました。
これは、来島氏が河野氏の庇護を受けつつも、大山祇神社を篤く信仰していたことを示しています。

人々へ受け継がれた「三文字の紋」
三文字の紋は、神社だけに用いられたものではありません。
この紋章は、三島神社だけではなく、越智氏・河野氏ゆかりの神社、関係する寺院、さらには一族を支えた家臣たちの家々へも広がり、今治の暮らしの中へ深く溶け込んでいきました。
至る所に刻まれた「三文字」は、時代や立場を超えて人々を繋ぎ、この地を愛する者たちの絆として、長い歴史を刻み続けてきたのです。

「一遍上人」時宗に受け継がれた紋章
この紋章は、浄土教の一宗派「時宗(じしゅう)」を開いた「一遍上人(いっぺんしょうにん)」とも深い関係があります。
一遍上人は、愛媛県松山市道後にある宝厳寺(ほうごんじ)で、河野氏の一族として生まれました。
その誕生を記念して「一遍上人産湯の井戸」と呼ばれる井戸が現存しています。
この井戸は、一遍上人が生まれた際に産湯として使われたとされ、歴史的にも貴重な遺跡の一つとなっています。
また、河野氏との深いつながりを示す「折敷に揺れ三文字(隅切折敷縮三文字)」が寺紋として使用されています。
一遍上人は武家である河野の一族の出身でありながら、武士としての道ではなく仏門に入り、鎌倉幕府の有力御家人・北条氏とも関係の深い浄土宗の学問を学ぶようになります。
そして、修行を続ける中で「阿弥陀仏の救いはすでに万人に及んでおり、すべての人が南無阿弥陀仏を称えれば極楽往生できる」という確信を得ました。
一遍上人はこの教えを広め、全国を巡りながら布教活動を行いました。
この全国行脚(遊行)の中で、多くの人々が一遍上人の教えに共感し、時宗が急速に広まりました。
同時に、開祖・一遍上人の出自である河野氏の家紋に由来する「折敷に三文字」の紋章が、時宗の寺紋として使用されるようになりました。
現在、時宗の本山である神奈川県藤沢市の清浄光寺(遊行寺)をはじめ、全国の時宗の寺院でもこの紋章を見ることができます。
ただし、時宗の「折敷に三文字」は、河野氏の家紋とは異なり、中央の線がやや短いデザインとなっています。
それでも、「三文字の紋」に込められた人々の結束と信仰の心は変わることなく、形を変えながら時代を超えて受け継がれていったのです。

東明寺(川越) 撮影:Mr.アルプ(写真AC)
現代につなぐFC今治のエンブレム
そして現在。
かつて瀬戸内海を駆けた越智氏、河野氏、そして村上水軍が掲げた「三文字の紋」は、時代を超え、今ではFC今治のエンブレムへと受け継がれています。
かつて戦場では、「折敷に揺れ三文字」の旗印が掲げられ、瀬戸内を生きた人々の結束を象徴していました。
そして現代では、その“三本線”が、サッカーという新たな舞台で今治の誇りを背負っています。
FC今治のエンブレムに刻まれた「3本の線」。
それは単なるクラブのエンブレムではなく、この土地で受け継がれてきた信仰と歴史、そして人々の絆そのものなのかもしれません。
