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神社SHRINE

古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院TEMPLE

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

史跡MONUMENT

時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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四十八人塚(今治市・菊間地区)
MONUMENT 史跡と遺跡を辿る

四十八人塚(今治市・菊間地区)

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「塚が伝える名なき人々」記録に残らなかった隠れキリシタン

菊間町種地域、JR伊予亀岡駅からほど近い苗瀬(びょうせ)と呼ばれる丘の墓地に、「四十八人塚 (よんじゅうはちにんづか)」と伝えられる塚があります。

自然石を積み上げて作られたこの塚は、江戸時代のキリシタン禁制のもとで、この地域に隠れキリシタンが存在した可能性を今に伝えるものとして、長く語り継がれてきました。

地域に伝わる禁教の記憶

昔、この一帯はまだ種川の川原であったとされています。現在は田畑や集落が広がるこの場所も、当時は人目につきにくい河原であり、処刑や埋葬といった出来事が行われやすい場所であったと考えられます。

江戸時代初期、全国的にキリシタン禁制が徹底される中で、伊予の地にも各地から逃れてきた信徒たちが潜伏していました。

慶長十九年(一六一四)の徳川幕府による禁教令以降、宣教師は追放され、信徒は改宗を迫られ、拒めば処刑されるという厳しい時代に入ります。

踏み絵制度や密告制度が整えられたことで、信仰はもはや個人の問題ではなく、村全体を巻き込む危険な存在となっていきました。

処刑された四十八人のキリシタン

言い伝えでは、禁制下にあったキリシタン四十八人が、村人の訴えによって捕らえられ、野間から派遣された役人によって斬首されたとされています。

処刑後、庄屋の計らいにより、斬首された人々の胴体は一か所にまとめて埋葬され、その場所に塚が築かれたと伝えられています。

石地蔵に刻まれた「四十八人」

塚の上には、地蔵が彫られた石地蔵が据えられています。背面は舟形に近い形をしており、装飾をほとんど持たない素朴な造りながら、他の墓石とは異なる特徴的な姿を見せています。

石地蔵の碑文には「四十八人」とだけ刻まれており、個人名や年号、建立の経緯などを示す文字は見られません。

これは、庄屋が役人への遠慮から、処刑された人々の実名を刻むことを避けたためであろうと伝えられています。

当時、キリシタンとして処刑された者の名前を公に残すことは、さらなる追及や責任問題を招くおそれがあり、名を伏せることが現実的な判断であったと考えられます。

名を刻むことすら許されなかった点に、当時の厳しい弾圧の実態がうかがえます。

また、この石地蔵は、周囲の墓石がすべて西向きに配置されているのに対し、ただ一基だけが反対の向きを向いています。

この点について明確な記録は残されていませんが、処刑された人々の故郷の方角を向いているとする説や、キリシタン信仰において救い主が東から来ると信じられていたことと関係するのではないかとする説があります。

一方で、必ずしも信仰的な意味だけによるものではなく、墓地が造成された時期や地形的な制約、設置当時の状況によって、結果的にこの向きになった可能性も否定できません。

地域の名前に残された十字架

塚の上には笹が植えられ、人々はこれを「ヒトクロザサ」と呼んだといいます。

「ヒトクロ」とは、クロス(cross)、すなわち十字架を意味する言葉であったとも考えられており、表立って語ることのできなかった信仰を、地名や呼び名の中にひそかに残したものとも受け取れます。

やがて時代が下り、種川の川原は開墾されて田となりましたが、塚の存在は忘れられることなく、その場所は「ヒトクロ田」と呼ばれるようになったといいます。

今も祈りが続く四十八人塚

現在も四十八人塚の石地蔵の前には榊や湯のみが供えられ、訪れる人々が静かに手を合わせています。

公的な記録にはほとんど残されなかった人々の信仰とその最期を、この塚は土地とともに記憶し続けてきました。

四十八人塚は、歴史の表舞台から消された人々の存在を、今に伝える貴重な証言の場であるといえます。

【別説】合戦の戦死者を祀った塚

一方で、このような大きな出来事が公的記録にほとんど残されていないことから、別の説も唱えられてきました。

それが、豊臣秀吉による四国攻めの際に落城した高仙山城の戦死者を祀ったものではないかとする説です。

天正十三年(1515年)、豊臣秀吉は小早川隆景を総大将とし、宇喜多秀家、黒田官兵衛、仙石秀久らを副将とする水陸あわせて十万ともいわれる大軍を四国へ派遣しました。

豊臣軍は讃岐・阿波・伊予の三方面から同時に進撃し、各地で長宗我部方や河野氏方の城を攻略していきます。

伊予方面では、小早川隆景率いる毛利勢が新居浜に上陸し、東伊予の城砦群を制圧しながら西進しました。

その過程で高仙山城も攻撃を受けることとなります。

当時の高仙山城主・池原兵部通成は籠城ではなく出撃を選び、二百余騎を率いて大門大松山付近で毛利軍を迎え撃ちましたが、多勢に押され敗走します。

その後、高仙山城へ退却し、わずか十九名の残兵とともに籠城戦を続けましたが、天正十三年七月十三日、十九歳の若さで自刃し、高仙山城は落城したと伝えられています。

この戦いで討ち死にした城兵や城主通成の霊は、その後、高仙山山頂に鎮座する高仙神社境内に池原神社が創建され、正式に祀られました。

現在も池原神社は、戦国の悲劇と武士たちの忠義を伝える鎮魂の場として地域の人々に崇敬されています。

戦死者供養か、隠れキリシタン処刑か

そして、この戦いの中で敗軍となった地元の兵が、この四十八人塚に祀られたとする見方もあります。

しかし、敗軍であったとはいえ、地元の兵であれば名を残し、菩提寺や神社などで供養されるのが一般的です。

実際、高仙山城の戦死者については、山頂の高仙神社境内に池原神社が創建され、城主通成や城兵の霊は正式に祀られています。

このように、戦死者を弔うための供養の場が別に設けられている以上、地元兵があらためて苗瀬の地に、人数のみを刻んだ匿名的な塚として祀られたとは考えにくいといえます。

一方で、これほどの人数が処刑されたにもかかわらず、公的な記録がほとんど残されていないことから、地元の村人がキリシタンであったという理由だけで処刑されたとは考えにくいとする見方もあります。

土地と伝承が伝える、名なき人々の歴史

四十八人塚は、公的な記録として語られることのなかった出来事を、土地と伝承によって今に伝えてきました。

現在も四十八人塚の石地蔵の前には榊や湯のみが供えられ、訪れる人々が手を合わせ、今もなお静かに受け継がれています。

史跡名

四十八人塚 (よんじゅうはちにんづか)

所在地

愛媛県今治市菊間町種3380

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