南北朝時代に創建された諏訪信仰の古社
今治市大西地区に鎮座する「諏訪大明神社(すわだいみょうじんしゃ・以下諏訪神社)」は、南北朝時代に創建されたと伝えられる長い歴史を持つ神社です。
延元5年(1340年)、信濃国の諏訪大明神を勧請して創建されたといわれ、武士の戦勝祈願や地域の五穀豊穣を願う神として信仰されてきました。
諏訪信仰の中心となる神社・諏訪大社
諏訪大明神の本社にあたる諏訪大社は、長野県の諏訪湖周辺に鎮座する古社です。
諏訪湖の南岸には上社(かみしゃ)の本宮と前宮、北岸には下社(しもしゃ)の秋宮と春宮があり、これら四つの宮によって構成されています。
創建の年代ははっきりしていませんが、日本でも特に古い神社の一つとされ、古代から信仰を集めてきました。
また、古代の神社制度である『延喜式』にも記載される名神大社であり、信濃国の一宮として大きな地位を占めていました。
現在では神社本庁の別表神社に列し、全国にある諏訪神社の総本社として知られています。
諏訪大社の祭神と信仰
諏訪大社の主祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)です。
諏訪地方では古くから「諏訪の神」や「諏訪大明神」と呼ばれ、広く信仰されてきました。
建御名方神は『古事記』に登場する神で、大国主神の子とされています。
神話では、天照大神側の神である建御雷神と力比べを行い、敗れて諏訪の地に退いた神として語られています。
以後、諏訪の地にとどまり、この地域を守る神となったとされています。
建御名方神は武勇の神として知られ、古くから武士たちの信仰を集めました。
中世には軍神として崇敬され、多くの武士が戦勝祈願を行ったと伝えられています。
一方で、水や風などの自然を司る神とも考えられており、農耕や漁業を守る神としても信仰されてきました。
諏訪湖や豊かな水に恵まれた地域で信仰されたことから、雨や風をもたらす自然の力を象徴する神として崇められてきたと考えられています。
また、諏訪地方の伝承では、建御名方神がもともとこの地に祀られていた洩矢神(もりやのかみ)という神と争い、勝利してこの地に鎮まったとも伝えられています。
このことから、古くからの土地の信仰と外から伝わった神の信仰が結びついて成立した神ではないかとも考えられています。
なお、建御名方神の名前の意味や由来についてはさまざまな説があり、現在も研究が続けられています。
しかし、いずれにしても諏訪大社の神として古くから信仰されてきた神であり、その信仰は中世以降全国へ広がり、多くの諏訪神社が各地に祀られるようになりました。
諏訪信仰の広がりと大西の諏訪神社に祀られる神々
鎌倉時代には武士たちが諏訪大明神を守護神として祀るようになり、各地に諏訪神社が建立されました。
現在では全国に約二万五千社もの諏訪神社があるといわれています。これは稲荷神社や八幡神社などと並び、日本でも特に数の多い神社の一つです。
大西地区の諏訪神社も、このような諏訪信仰の広がりの中で勧請された神社の一つで、諏訪大社と同じく建御名方神(たけみなかたのかみ)を祭神として、武運長久や五穀豊穣を守護する神として地域の人々から信仰されてきました。
また、諏訪神社では建御名方神の父神とされる大己貴命、そして神武天皇の皇后とされる冨登多々良伊須々岐比売命(ふとたたらいすすきひめのみこと)の二柱もあわせて祀られています。
「大己貴命」建御名方神の父神
大己貴命(おおなむちのみこと)は、日本神話に登場する神で、大国主神(おおくにぬしのかみ)とも呼ばれています。
国土を開き、人々の生活を整えた神として知られ、日本神話の中でも重要な神の一柱です。
神話によれば、大己貴命は須佐之男命の系統に属する神で、『古事記』では天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)と刺国若比売(さしくにわかひめ)の子とされています。
一方、『日本書紀』では須佐之男命の子とする説も伝えられています。
大己貴命は、多くの苦難を乗り越えながら成長した神として語られています。
兄神たちに迫害されながらも生き延び、須佐之男命の娘である須勢理毘売命と結ばれました。
その後、少彦名神(すくなびこなのかみ)と協力して国づくりを行い、農業や医療、まじないなど人々の生活に役立つ知恵を授けたとされています。
このため大己貴命は、国造りの神、農耕の神、医薬の神など、さまざまな性格を持つ神として信仰されるようになりました。
また『古事記』には因幡の白兎の神話が伝えられており、兎を助けた心優しい神としても知られています。
しかし神話では、高天原の神々から国を譲るよう求められ、最終的にはこれを受け入れて国譲りを行います。
その際、大きな宮殿を建てることを条件として示したとされ、これが現在の出雲大社の起源と伝えられています。
また、大己貴命は多くの別名を持つ神としても知られています。
大国主神、大穴牟遅神、八千矛神、大物主神などさまざまな名前で呼ばれています。
これは、この神が日本各地の信仰と結びつきながら広く崇敬されてきたことを示しています。
諏訪信仰においては建御名方神の父神としても知られており、そのため諏訪神社では建御名方神とともに祀られることが多く、大西地区の諏訪神社でも重要な祭神の一柱となっています。
「冨登多々良伊須々岐比売命」神武天皇の皇后
冨登多々良伊須々岐比売命(ふとたたらいすすきひめのみこと)は、日本を建国した初代天皇・神武天皇の皇后とされる神です。
日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命(のちの第二代・綏靖天皇)の母と伝えられています。
神話によれば、神武天皇が橿原宮で即位された後、新たに皇后となる女性を探していた際、大久米命がこの姫をすすめたとされています。
この姫の母は三島溝咋(みしまのみぞくひ)の娘である勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)です。
勢夜陀多良比売は大変美しい姫であったため、三輪山の神である大物主神が心を寄せたと伝えられています。
神話では、大物主神が丹塗矢(赤く塗られた矢)に姿を変えて姫のもとへ現れ、その後生まれた子が冨登多々良伊須々岐比売命であったとされています。
冨登多々良伊須々岐比売命は、後に神武天皇の皇后となり、皇室の祖につながる神として古くから尊ばれてきました。
なお、『日本書紀』ではこの神は媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)とも記され、同じく神武天皇の皇后として登場します。
南北朝の戦乱と河野氏の戦勝祈願
このように諏訪神社には、日本神話にゆかりの深い神々が祀られています。
そして、この神社は中世の伊予国の歴史と密接に関わりながら、地域の信仰を集めてきました。
由緒によると、南北朝時代の正平14年(1359年)に、南朝方に属していた伊予国の有力武士である河野氏の軍勢が、この神社に参籠して戦勝を祈願したと伝えられています。
南北朝時代は、京都の北朝と吉野の南朝が対立し、日本各地で戦いが続いた動乱の時代です。
伊予国でも南朝方と北朝方の勢力が対立し、各地で戦いが繰り広げられ、この地域もその影響を強く受けていました。
延元元年(1336年)には、後醍醐天皇の皇子である尊真親王・満良親王・懐良親王が伊予へ渡り、瀬戸内海に面した大井の浜に上陸したと伝えられています。
三親王はこの地域を拠点の一つとして、大井寺や法隆寺、清林寺などを仮宮としながら南朝方の活動を行ったとされています。
また、今治周辺では南朝方の武将である脇屋義助も活動していました。
脇屋義助は新田義貞の弟で、南朝方の有力な武将の一人として各地で戦いを続けた人物です。
やがて西国方面の南朝軍を率いて瀬戸内海を渡り、伊予国府のあった現在の今治地域を拠点として勢力をまとめようとしましたが、興国3年(1342年)に国分寺で病に倒れ、この地で生涯を終えたと伝えられています。
その後、北朝方の武将である細川頼春が大軍を率いて伊予へ侵攻し、世田山合戦などの大きな戦いが起こりました。
この戦いでは、南朝方の拠点であった世田山城が激しい攻撃を受け、城主であった大館氏明が自害し、城は落城しました。
さらに周辺の城や拠点も次々と攻め落とされ、伊予における南朝方の勢力は大きく弱まることとなりました。
この結果、伊予国の情勢は次第に北朝方が優勢となり、南朝方の勢力は各地へ退いていきました。
しかし、その後も戦いが完全に終わったわけではなく、各地で争いが続き、伊予でも長く動乱の時代が続きました。
このように当時の伊予地方は戦乱の只中にあり、武士たちは戦に臨む前に神仏へ祈りを捧げ、武運長久や戦勝を願っていました。
そのような時代背景の中で、河野氏の軍勢もこの諏訪神社に参籠し、戦勝を祈願したと考えられます。
そして、神社の由緒によると、その後河野氏は戦で大勝利を収めたことから、諏訪神社は軍神として信仰されるとともに、五穀豊穣や地域の安泰を祈る神としても広く崇敬されるようになったとされています。
明治から現在までの諏訪神社の歴史
その後も諏訪神社は長い年月にわたり地域の人々の信仰を集め続けてきました。
しかし時代が下り明治時代になると、日本の社会制度の大きな変化の中で、神社のあり方にも大きな影響が及ぶことになります。
1868年の明治維新によって、江戸時代まで続いていた幕府中心の政治体制は終わり、新しい近代国家を目指す明治政府が誕生しました。
政府は国家の統一と中央集権化を進めるため、政治や行政だけでなく、宗教や社会制度についても大きな改革を行っていきました。
その中で重要な政策の一つが、神社制度の再編です。
江戸時代までの日本では、神社と寺院が密接に結びついた「神仏習合」の信仰が広く行われていました。
多くの神社では寺院が祭祀を管理し、神と仏が同じ場所で祀られることも珍しくありませんでした。
しかし明治政府は、新しい国家体制のもとで神道を国家の精神的基盤とする方針をとり、1868年(明治元年)に「神仏分離令」を出しました。
これによって神社と寺院を明確に分ける政策が進められ、日本各地で神社の制度や祭祀の形が大きく見直されることになります。
さらに政府は、全国の神社を国家の管理下に置き、体系的に整理することを目指しました。
当時の村や地域には、小さな祠や社も含めると多くの神社が存在しており、その数は非常に多いものでした。
そこで政府は、地域ごとに中心となる神社を定め、その周辺にある神社を統合することで、神社制度を整理しようとしました。
明治の神社整理と大井八幡大神社への合祀
こうして進められた政策が「神社整理」です。
明治4年(1871年)には神社制度の整備が進められ、神社は国家の管理のもとで社格を定められ、地域の中心となる神社へ周辺の神社を合祀することが各地で行われるようになりました。
この政策は全国的に行われ、多くの地域で小規模な神社が近隣の大きな神社へ合祀されることになりました。
この地域において中心的な神社であったのが、大井八幡大神社です。
大井八幡大神社は古くから地域の総鎮守として広く崇敬を集め、野間郡を代表する神社の一つとして位置づけられていました。
そのため、明治4年(1871年)の神社整理の際には、周辺の神社を大井八幡大神社へ合祀することが定められ、諏訪神社も官命によって大井八幡大神社へ合祀されることとなりました。
地域の願いで旧地へ戻った諏訪神社
しかし、これは行政による制度整理という側面が強いものであり、地域の人々にとっては古くから守ってきた神社が失われることでもありました。
そのため各地では、合祀された神社を再び元の場所に戻す動きが起こることもありました。
諏訪神社もまた、長い間この地域の守り神として人々に親しまれてきた神社でした。
そのため氏子や村民の間では、「神様を元の場所に戻したい」という強い願いが起こりました。
こうした地域の人々の願いと働きかけによって、明治10年(1877年)、官許を得て諏訪神社は旧地へ還座することとなり、再び社殿が整えられ、地域の神社として祀られるようになったのです。
受け継がれる地域の信仰
その後も祭礼や地域行事を通して、人々の生活と深く結びつきながら大切に守られてきました。
時代が移り変わる中でも、諏訪神社は地域の歴史や信仰を今に伝える存在として、氏子や地域の人々によって受け継がれています。
長い歴史の中で幾度もの時代の変化を経験しながらも、諏訪神社はこれからも地域の人々の心のよりどころとして、静かにこの地を見守り続けていくことでしょう。



