藤山健康文化公園に眠る古代・怒麻国の記憶
藤山健康文化公園は、大西町だけでなく、今治市民、さらに多くの人々に親しまれている自然豊かな公園です。
春には桜が園内を彩り、秋にはメタセコイア並木が美しく色づき、四季折々の風景を楽しむことができます。
レトロなレンガ造りのアーチをくぐると、今治の伝統芸能・継獅子の像が立ち、その先には緑豊かな芝生と穏やかな公園風景が広がります。


しかし、この場所は単なる憩いの場ではありません。
実はこの公園は、古墳群の中に築かれた公園なのです。
周辺には、現在は団地として開発され姿を変えましたが、かつて十基ほどの古墳が広がっていた衣黒山古墳群がありました。
現在も「衣黒団地」の名にその記憶が残され、この地域が古墳時代の重要な拠点であったことを静かに伝えています。
藤山健康文化公園は、今も古代の記憶をとどめる場所であり、ひっそりと藤山古墳がたたずんでいます。

さらに南北朝時代には、建武の新政で知られ、南朝を率いた後醍醐天皇の皇子と伝わる尊真親王の墓(大井陵墓参考地)も所在します。

古墳時代から中世へと連なる幾重もの歴史が刻まれているこの公園。
そのなかでも、ひときわ大きな存在が、公園を見下ろす丘陵上に築かれた3基からなる妙見山古墳群(みょうけんさんこふんぐん)です。
この古墳の物語は、この地域がかつて「怒麻国(ぬまこく)」と呼ばれていた約1700年前にまでさかのぼります。
古代伊予を支えた五つの国と若弥尾命
古墳時代、大和政権は各地に国造(くにのみやつこ)と呼ばれる地方の統治者(首長)を任命しており、『国造本紀』によると、当時の伊予国には次の五つの「国」が存在していたとされています。
- 伊余国(いよこく) — 伊予郡を中心とする地域
国造:速後上命(はやのちあがりのみこと) - 怒麻国(ぬまこく) — 野間郡を中心とする地域
国造:若弥尾命(わかみおのみこと) - 久味国(くみこく) — 久米郡を中心とする地域
国造:伊予主命(いよぬしのみこと) - 小市国(おちこく) — 越智郡を中心とする地域
国造:子致命(こちのみこと) - 風早国(かざはやこく) — 風早郡を中心とする地域
国造:阿佐利(あさり)
現在の行政区分とは異なりますが、現在の今治市域は、怒麻国と小市国を含む地域にあたると考えられています。
小市国の国造・子致命は史料によっては、小致命、子到命、乎致命(おちのみこと)などとも記されます。
大山祇神社の社伝では、神武東征に先立って伊豫之二名島(四国島)に渡った乎致命(小致命)が、大三島を神域として祖神・大山積大神を祀ったことが始まりとされ、境内には今も「小千命御手植の楠」と呼ばれる御神木が伝えられています

さらに子致命は、物部氏の系譜に連なる人物とも伝えられています。
物部氏は、天磐船に乗って天降ったとされる饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖とする有力氏族で、古代大和政権の軍事と地方統治を支えた中央豪族でした。
その系譜は「饒速日命―宇摩志痲遅命―物部氏―乎致命(子致命)」へと連なるとも伝えられています。
そして、その後裔は小市直を称し、やがて越智氏として発展したとされます。
越智氏は伊予を代表する有力豪族となり、律令制のもとでも越智郡司などを担いながら、長く地域社会に大きな影響を及ぼしました。
さらにその流れをくむとされる河野氏は、中世には伊予を代表する武家として台頭し、河野水軍を率い、村上水軍とも連携しながら瀬戸内海で勢力を築き、伊予守護として活躍するなど、伊予の歴史に大きな足跡を残しました。
このように小市国の系譜は、物部氏という古代中央氏族に始まり、越智氏、河野氏へと連なりながら、今治の歴史を貫くもう一つの大きな流れを形づくったのです。
そして、もうひとつ今治の古代を支えた重要な地域勢力、それが「怒麻国(ぬまこく)」です。
古代今治にあったもうひとつの地域国家「怒麻国」
「怒麻」という名は、この一帯が古く湿地や沼地を含む土地であったことに由来するともいわれ、古代の地形や環境を今に伝える地名とも考えられています。
その範囲は旧乃万村や波止浜から、西は菊間付近にまで及んでいたともされ、妙見山古墳がある大西町宮脇・大井一帯は、そのほぼ中心部に位置していました。
瀬戸内海に面した怒麻の地は、古代において海上交通と陸上交通の結節点でもあり、大和政権にとっても重要な拠点だったとみられています。
怒麻国の初代国造・若弥尾命
怒麻国の初代国造・若弥尾命(わかみおのみこと)は、『国造本紀』に「飽速玉命三世孫若弥尾命定賜国造」と記され、伊予国・怒麻における統治の基盤を築いた人物として、その名が伝えられています。
ここに見える飽速玉命(あきはやたまのみこと)は、古代安芸国(現在の広島県西部)を治めた阿岐国造の祖とされる人物です。
さらに若弥尾命は、乎致命(おちのみこと)と同じく物部氏の系譜に連なる人物とされています。
このような由緒ある系譜を持つ若弥尾命は、大和政権からその手腕と資質を高く評価されていたとも考えられています。
そうした若弥尾命が怒麻国造に任命される契機となったのが、神功皇后の三韓征伐です。
三韓征伐は『日本書紀』において仲哀天皇9年(西暦200年頃、あるいは4世紀前後とも推定)に行われたと記され、神功皇后は新羅・百済・高句麗に遠征し、大和朝廷の威勢を広く知らしめました。
この戦役において、若弥尾命は軍事的功績を挙げ、皇后の遠征を支える重要な役割を果たしたと伝えられています。
その功労が認められ、大和朝廷から伊予の要衝である怒麻の地を任され、初代国造に任命されたのです。
若弥尾命の妻・野間姫命と受け継がれた祖神信仰
伝承によれば、若弥尾命の妻は野間姫命(のまひめのみこと)とされています。
この婚姻は、怒麻の地における豪族同士の結びつきを象徴するものであり、若弥尾命の統治基盤を一層強固にしたと考えられます。
「野間」という地名そのものも、野間姫命に由来する可能性があるともいわれ、若弥尾命と野間姫命の記憶は、野間郡の地名や野間神社の伝承のなかに今も息づいています。
野間神社の正確な創建年代は明らかではありませんが、『野間神社誌』によれば、若弥尾命が祖神である飽速玉命を奉斎したことが起源とされています。

さらに若弥尾命は、素鵞神社・紺原に伝わる社伝においても、その創建や祭祀に関わったと伝えられ、この地域の信仰の基盤を築いた存在とも考えられています。

また若弥尾命は、没後も地域の祖神として崇敬され、大宝2年(702年)創建の大井宮(現・大井八幡大神社)に、同じく物部氏の系譜に連なるとされる阿佐利命とともに祀られたと伝えられています。

その記憶は後世の祭祀のなかに受け継がれ、若弥尾命は怒麻国の国造であると同時に、この地域の祖神としても語り継がれていったのです。
このように、海上交通と陸上交通の結節点でもあった怒麻国は重要な拠点であり、その統治を担った若弥尾命は、この地域の歴史を語るうえで欠かせない存在といえるでしょう。
そして、その怒麻国の中心に築かれたと考えられるのが、3基からなる妙見山古墳(妙見山古墳群)です。
怒麻国の中心に築かれた妙見山古墳群
妙見山古墳群は、藤山健康文化公園の丘陵上、標高約80メートルの高所に築かれた3基からなる古墳群です。
このうち中心となる1号墳(妙見山1号墳)は、全長約55.2メートルを測る前方後円墳で、古墳時代初期(3世紀後半〜4世紀前半)に築造されたと考えられています。
特に注目されるのは、その形です。
発掘調査によって、前方部が三味線のバチ形に開く「分銅形」という古い特徴を持つことが明らかとなり、全国的にも珍しい初期前方後円墳として高く評価されています。
さらに墳丘は二段築成で築かれ、周囲には二段の石列(根石)がめぐり、築造当初の姿をよくとどめていることから、初期古墳の原形を伝える貴重な遺跡とされています。
出土品が語る妙見山古墳の性格
妙見山古墳の価値をさらに高めているのが、1990年から1994年にかけて行われた発掘調査で明らかになった出土品です。
墳丘からは、小型土器、二重口縁壺、伊予型特殊器台などが出土しています。
これらは、墳頂で祭祀が営まれていたことを考えさせる資料として注目されています。
とりわけ大型土器の存在は、埋葬時だけでなく、その後も一定期間にわたり祭祀が続けられていたことを想像させます。
もしそうであれば、妙見山古墳は単なる墓ではなく、被葬者を祀る場としての性格も持っていたことになります。
また埋葬施設からは、鉄剣、刀子、袋状鉄斧、青銅鏡、斜縁四獣鏡なども確認されています。
とくに斜縁四獣鏡は、有力首長墓に伴う重要な副葬品として知られ、被葬者の格の高さを感じさせます。
さらに、二重口縁壺は畿内とのつながりを、伊予型特殊器台は西部瀬戸内との関係を思わせ、この古墳が広い交流の中にあったことも見えてきます。
首長墓域としての妙見山古墳群
さらに重要なのは、妙見山古墳が単独の古墳ではなく、2号墳・3号墳とともに古墳群を形成していることです。

2号墳・3号墳はいずれも1号墳に隣接して築かれており、中心墳を取り巻くように配置された構成は、この丘陵一帯が単なる墓地ではなく、特別な一族が埋葬された墓所であった可能性を感じさせます。

弓杖島の石で築かれた石槨
妙見山古墳を特徴づける大きな特徴のひとつが、石槨(せっかく)です。
石槨とは、棺を納めるために石で造られた埋葬施設のことで、古墳の内部に設けられる重要な構造です。
妙見山古墳では、この石槨に近隣の石ではなく、沖合に浮かぶ弓杖島(ゆづえしま・弓津恵島)の流紋岩(りゅうもんがん)が用いられていました。

流紋岩とは、火山活動によってできた硬く緻密な岩石で、加工にも運搬にも手間のかかる石材です。
こうした特徴は、妙見山古墳の性格を考えるうえで、きわめて重要な特徴です。
今のような機械のない古代に、石を切り出し、丘の上に築かれた古墳まで運び上げるだけでも、大変な労力が必要でした。
さらに、それを船で海を越えて運んできたとなれば、その労力は計り知れません。
このことから、妙見山古墳は、この地域で相当な権力を持った人物によって築かれた古墳であったと考えられるのです。
そして、この時代に大きな力を持った人物とは。
もしかしたらその被葬者こそ、怒麻国の初代国造・若弥尾命なのかもしれません。
妙見山古墳が望む「神の島」弓杖島
妙見山古墳からは、現在も弓杖島を望むことができ、眼下に瀬戸内海と島々を見渡す絶景が広がっています。
この立地は、単なる眺望の良さではなく、古墳そのものが海と島を意識して築かれた可能性を感じさせます。
そして、弓杖島そのものが特別な意味を持つ場所、いわば「神の島」として意識されていた可能性も想像させます。
注目されるのは、わざわざ弓杖島の石を石槨に用いていること、そしてその弓杖島を古墳から望むことができることです。

実際に、研究者の間では妙見山古墳は、「海浜型前方後円墳」のひとつに数えられています。
海浜型前方後円墳とは、海上交通を強く意識して海辺や海を望む場所に意図的に築かれた前方後円墳を指します。
そこには、海上ルートを押さえる政治的意味や、海を介した交流・支配を示す意味が込められていたとも考えられています。
さらに興味深いのは、弓杖島が後世においても重要な島として伝えられていることです。
貞観元年(859年)、八幡神の神託を受けた行教上人が、山城国・男山に新たな社を創建しようと瀬戸内海を往来していた際、弓杖島(弓津恵島)に船を停泊させたと伝えられています。
するとその夜、八幡神の御神託が下され、この神託を受けた伊予国司・越智深躬が、大井浜に仮神殿を建立し、八幡神(現:正八幡神社)を奉祀したとされています。

これが、後に大井宮と合祀され、大井八幡大神社へと繋がっていきます。

さらに時代は下り、延元元年(1336年)。
後醍醐天皇の皇子・尊真親王、満良親王、懐良親王らが伊予に下向した際、一行は弓杖島や景島に船を寄せ、大井の浜に上陸したと伝えられています。
さらに中世には、来島村上氏が拠点とした来島城の支城として、野間の姓をもつ野間左衛門大夫が弓杖島城を構えており、弓杖島は海上交通と防衛の重要拠点でもありました。
また、弓杖島の名の由来についても、この島をめぐる興味深い伝説が残されています。
むかし沖合の小さな島が重茂山に引っぱられそうになりました。
島は引かれまいとして、「弓」を「杖」にして海に突き立て、なんとかその場所に踏みとどまったといいます。
このことから、「弓」を「杖」にした島、すなわち「弓杖島」と呼ばれるようになったとも伝えられています。
このように、弓杖島は単なる沖の小島ではなく、この地域の歴史と信仰を貫いてきた特別な島として、今なお妙見山古墳とともに古代の記憶を伝えているのです。

国の史跡に指定された古墳
妙見山古墳群は、その学術的価値から2010年に国の史跡に指定され、地域史のみならず、日本の古墳時代を考えるうえでも重要な遺跡として評価されています。
現在も墳丘は良好に保存され、発掘調査の成果をもとに復元整備が行われたことで、築造当初の姿を想像しながら歩くことができます。
そして古墳上には、竪穴式石槨見学施設も設けられており、資料館開館日の水・土・日・祝日(天候状況により中止も)には、古墳説明とともに石槨内部を見学できる機会も設けられています。
現地に立てば、墳丘の規模や構造だけではなく、瀬戸内海を望む眺望、弓杖島との位置関係、そしてなぜこの地に古墳が築かれたのかという意味まで、肌で感じることができます。

また、古墳から出土した資料や発掘成果は、藤山歴史資料館で見ることができ、妙見山古墳の歴史と価値をより深く知ることができます。
資料館では、古墳時代初期に造られた妙見山古墳の出土品を中心に、調査成果や古墳群の構造についても紹介されています。

さらに、西駐車場の山側には、1号墳で確認された竪穴式石槨の天井石が移設展示されており、実際に古墳内部に用いられていた石材を間近に見ることができます。

悠久の歴史をつなぐ神域
藤山健康文化公園は、単なる公園や史跡にとどまらず、古墳郡と弓杖島、そして古代怒麻国の記憶がつながる特別な場所です。
そして今、その記憶は国にとっても重要な史跡として守られながら、訪れる人々に古代怒麻国の物語を語りかけ続けているのです。



