父子二代にわたる因縁、ついに決着の時。
河野通直(通堯)が伊予国で河野宗家の旧領を取り戻した頃、九州では征西府を中心とする南朝勢力と室町幕府方との戦いが、新たな局面を迎えていました。
当時の九州では、後醍醐天皇の皇子・懐良親王を征西将軍宮として擁する征西府が、菊池氏や阿蘇氏ら有力武士の支援を受けながら、南朝方最大の拠点を築いていました。
これに対し、北朝方の室町幕府では、管領・細川頼之が西国経営を担う中、征西府を打ち破って九州を幕府の支配下に置くべく、本格的な討伐へ乗り出そうとしていました。
建徳元年/応安三年(1370年)、頼之は今川了俊(いまがわ さだよ・貞世)を九州統治を担う役職・九州探題(きゅうしゅうたんだい)に任じ、大内氏・大友氏ら幕府方諸将とともに、征西府討伐へ向けた大規模な攻勢を開始したのです。
了俊は九州各地を転戦し、文中元年/応安五年(1372年)には征西府の本拠・太宰府を攻略しました。
懐良親王らは筑後から肥後へと後退を余儀なくされ、その後も幕府方の攻勢は続きます。
九州各地ではなお激しい攻防が繰り広げられましたが、南朝方は次第に守勢へと追い込まれていきました。
さらに文中二年/応安六年(1373年)には、征西府を長年支えてきた名将・菊池武光(きくち たけみつ)がこの世を去ります。
武光は懐良親王を奉じて九州各地を転戦し、多々良浜の戦いをはじめ数々の合戦で北朝方を破るなど、南朝勢力の再興に大きく貢献した武将でした。
その跡を継いだ実子・菊池武政(きくち たけまさ)も、肥前本折城や所隈城を攻撃し、阿蘇氏へたびたび援軍を要請するなど、懐良親王を支えながら最後まで南朝方の反攻を続けます。
しかし、文中三年/応安七年(1374年)5月に武政もまた病に倒れ、三十三歳の若さでこの世を去りました。
このことは征西府にとって極めて大きな痛手となりましたが、それでも南朝方は戦いを諦めませんでした。
一方、伊予では良成親王が下向し、河野通直は東予一帯を掌握して南朝方の勢力を固め、瀬戸内海を押さえることで西国反攻の重要な拠点を築いていました。
文中三年/応安七年(1374年)4月、征西府は通直に対し、周防国守護・大内弘世の討伐を命じるとともに、土佐国守護への推挙を約束し、土佐国内の幕府方勢力を攻略するよう命じます。
しかし、その後も九州の情勢は急速に悪化し、征西府には懐良親王を支え、その後継者となる皇族の存在が不可欠となりました。
こうして天授元年/永和元年(1375年)、良成親王は約六年に及ぶ伊予での活動を終え、九州へ渡ります。
その後、後を継いだ若き菊池武朝は、懐良親王や良成親王とともに苦しい戦いを続けることになりました。
さらに天授四年/永和四年(1378年)の託麻原の戦いでは、自ら陣頭に立って菊池軍を鼓舞し、今川了俊率いる北朝方を撃退します。
しかし、この勝利によっても北朝方の優勢を覆すことはできませんでした。西国の主導権はなお北朝方が握り続け、南朝方は次第に劣勢へと追い込まれていったのです。
前回の記事はこちら:《世田山合戦⑩》三年越しの祖国への帰還 ── 河野氏再興を懸けた伊予奪還戦年「河野通直の最後の戦い」
足利義満が警戒した河野氏の伊予国
九州で南朝勢力との戦いが続く中、北朝方の将軍・足利義満には、もう一つ見過ごすことのできない存在がありました。
それが、南朝方として伊予国を奪還した河野通直です。
当時の北朝方は、九州平定のため主力を西国へ集中させていました。
しかし、その背後には瀬戸内海の要衝・伊予を押さえる河野通直が控えており、幕府にとって河野氏の動向は常に警戒すべきものでした。
そこで幕府は、小笠原政長(おがさわら まさなが)と武田信春(たけだ のぶはる)に信濃・甲斐の兵七千余人を率いさせ、伊予近国へ駐屯させることで河野氏の動きを牽制しました。
- 信濃国守護・小笠原兵庫頭政長:小笠原政長(小笠原兵庫頭政長)は、信濃国守護を務めた小笠原氏の当主です。南北朝時代には足利尊氏に従って各地を転戦し、観応の擾乱では一時足利直義方に属したものの、のちに再び尊氏方へ復帰して信濃守護に返り咲きました。その後も信濃国内の南朝勢力や諏訪氏らとの戦いを指揮し、幕府方を代表する武将として活躍しました。
- 甲斐国守護・武田陸奥守信春:武田信春(武田陸奥守信春)は、甲斐源氏武田氏の当主であり、甲斐国守護を務めた武将です。祖父・武田信武、父・武田信成に続いて幕府方として南北朝の戦乱を戦い抜き、甲斐国内の南朝勢力を平定しました。足利尊氏・義詮・義満の三代に仕え、幕府から厚い信頼を受けた有力守護大名の一人でした。
結果的に河野氏が九州へ出兵することはなく、この時は双方が戦火を交えることもありませんでした。
しかし、この束の間の平穏は長くは続きませんでした。
それから数年後。
ついに河野通直は、長年の因縁の相手・細川頼之と再び相まみえることになるのです。
この運命の決戦を語る前に、まずは河野通直と細川頼之、二人の因縁を振り返ってみます。
「河野通直と細川頼之」運命の決戦
細川頼之は、河野通直が伊予奪還を目指すきっかけとなった細川頼有(よりあり)の実兄で、 1364年の世田山合戦では河野宗家を滅亡寸前にまで追い込んだ、通直にとって最大の宿敵でした。
父・河野通朝、そして母を失った徳王丸は、元服して「河野通堯」と名乗り、河野宗家再興を懸けて細川頼之率いる幕府軍に最後まで抗戦しました。
しかし、多勢に無勢で戦況を覆すことはできず、伊予水軍の助けを受けて九州の南朝方・征西府へ落ち延びることになります。
一方の頼之は、世田山合戦をはじめとする一連の戦いで伊予を平定し、阿波・讃岐・土佐三国の守護を兼ねる細川氏の当主として、四国経営を担う幕府方の中心人物となりました。
その活躍によって、頼之は幕府屈指の有力武将としての地位を確立しました。
そして正平二十二年/貞治六年(1367年)、第二代将軍・足利義詮が病没すると、わずか十歳で第三代将軍となった足利義満を補佐するため京都へ招かれ、室町幕府の管領に就任します。
幼い義満を支えた頼之は幕府の実権を握り、西国経営の中心人物として室町幕府を支えました。
その後、通堯は「通直」と名乗り、征西府のもと九州各地を転戦しながら力を蓄えました。
そして伊予へ戻ると、細川氏ら幕府方との戦いに勝利し、ついに伊予国を取り戻します。
しかし、この頃の頼之は京都で幕政を担っていたため、両者が直接刃を交えることはなかったのです。
ところが、長年交わることのなかった河野通直と細川頼之、二人の運命は再び大きく動き始めます。
「康暦の政変」細川頼之を失脚へ追い込んだ事件
そのきっかけとなったのが、室町幕府を揺るがした「康暦の政変(こうりゃくのせいへん)」です。
細川頼之は、その卓越した政治手腕によって北朝方の室町幕府を支え、西国経営の中心人物として活躍していました。
中国・四国では南朝勢力を次々と制圧し、応安四年(1371年)には今川了俊(貞世)を九州探題に任じて幕府方の勢力を盛り返すなど、西国経営においても大きな成果を挙げます。
しかし、その一方で頼之の権勢は年を追うごとに強まり、細川一門を重用するとともに、有力守護同士の争いにも積極的に介入したため、幕府内ではこれを快く思わない守護大名たちの不満も次第に高まっていきました。
特に、斯波義将(しば よしまさ)・土岐頼康(とき よりやす)・山名氏清(やまな うじきよ)ら有力守護との対立は深まり、幕府内部は頼之派と反頼之派に分かれて激しく対立するようになります。
さらに、弟・細川頼基による紀伊国での南朝征討が失敗に終わったことや、九州でも南朝勢力との戦いが長期化したことも重なり、頼之への批判は幕府内で一層強まっていきました。
一方、わずか十歳で将軍となった足利義満も、成長するにつれて自らの手で幕政を動かしたいという思いを強く抱くようになっていました。
こうして幕府内部の対立はついに限界へ達します。
斯波義将(しば よしゆき)・土岐頼康(とき よりやす)・山名氏清(やまな うじきよ)ら反頼之派の守護大名は軍勢を率いて京都へ進軍し、将軍御所・花の御所を取り囲んで、義満に細川頼之の罷免を迫ったのです。
京都は一触即発の緊張に包まれ、幕府は内乱寸前の危機に陥りました。
南朝方との戦いがなお各地で続く中、幕府内部で争っている余裕はありませんでした。
もしここで内乱が勃発すれば、幕府の威信は大きく揺らぎ、各地で勢いを盛り返しつつあった南朝方に反撃の機会を与えかねない状況だったのです。
幕府の分裂を避けるため、義満は苦渋の決断を下し、天授五年/康暦元年(1379年)4月、頼之を管領職から解任し、その後任に反頼之派の中心人物であった斯波義将を任じました。
都を追われ、四国での再起を図る細川頼之
都を追われた細川頼之は、出家して「常久(じょうきゅう)」と号し、領国である讃岐国高松へ退きました。
しかし、頼之はこのまま表舞台から姿を消える人物ではありませんでした。
長年にわたって四国経営を担ってきた頼之のもとには、なお阿波・讃岐・土佐三国の兵力と細川一門・被官たちの強固な基盤が残されていたのです。
頼之は、四国における細川氏の勢力を立て直すため、自ら伊予国の奪還を決意します。
そして阿波・讃岐・土佐三国から四万余騎の軍勢を集め、天授五年/康暦元年(1379年)5月5日、伊予国へ向けて出陣しました。
しかし、康暦の政変によって頼之はすでに伊予守護職を解任されており、この挙兵は幕府の命によるものではありませんでした。
頼之に対抗するため…。北朝方へ帰順した河野氏
一方、河野通直は伊予国を奪還していたものの、「いつ北朝方の幕府軍が攻め寄せてくるか分からない」という危機感を常に抱き、各地の城郭や要害を整備して有事に備えていました。
この頃、九州では今川了俊(貞世)が九州探題に就任して以来、南朝勢力は次第に劣勢へと追い込まれていました。
南朝方として河野宗家再興と伊予国奪還という悲願を成し遂げた通直でしたが、その南朝自体が西国で急速に勢力を失いつつありました。
もはや河野宗家を守るためには、これまでと同じ道を歩み続けることはできませんでした。
そして通直が選んだのは、長年支え続けてきた南朝方との決別でした。北朝方の室町幕府へ帰順し、本領安堵を受けることで、河野宗家の存続を図る道を選んだのです。
天授五年/康暦元年(1379年)7月、河野通直は足利義満から改めて北朝方の伊予国守護に任じられるとともに、細川頼之追討を命じる御教書を受けました。
さらに、反細川派の守護大名と連携するなど、頼之に対抗する態勢を整えていったのです。
しかし、頼之もまた幕府方の動きを静観していたわけではありませんでした。
この動きを察知した頼之は、幕府の追討軍が本格的に動き出す前に勝負を決しようと、先手を打って一気に東予へと侵攻したのです。
「生子山城陥落」四万余騎の細川軍、伊予へ侵攻
「細川頼之が、阿波・讃岐・土佐三国の兵四万余騎を率いて侵攻を開始した」
その報が通直のもとへ届くと、河野一族七千余騎は高外木城(高木戸城)へ立て籠もり、迫り来る細川軍を迎え撃つ構えを固めました。
一方、細川頼之は周到に作戦を練り、土佐国方面から伊予へ侵攻します。
そして阿波国の小笠原氏に三千余騎を預けて高外木城(高峠城)を任せる一方、自らは主力軍を率いて、河野氏が頼みとしていた一族・一条修理介俊村(いちじょう しゅりのすけ としむら)が守る生子山城へ兵を進めました。
頼之は一万余騎の大軍を率い、四方八方から総攻撃を開始します。
乱杭や逆茂木を次々と打ち破り、一斉に城内へ攻め込むと、生子山城は圧倒的な兵力の前についに支えきれず落城しました。
城主・一条修理介俊村以下、多くの城兵が討ち死にし、生子山城はついに細川軍の手に落ちます。
頼之は直ちに生子山城を前線基地と定め、堀を深く掘り、外郭を修築して守りを固めました。
「高外木城包囲戦」頼之の兵糧攻め
この知らせは高外木城にも届きます。
頼みとしていた最前線の拠点を失った通直は大きな衝撃を受けました。
それでも、「今や決死あるのみ」と覚悟を固め、高外木城へ籠もって最後まで抗戦する道を選びます。
一方、頼之はすぐに高外木城へ総攻撃を仕掛けることはしませんでした。
高外木城は切り立った山上に築かれた天然の要害であり、力攻めをすれば味方にも大きな損害が出ることを見抜いていたからです。
そこで頼之は戦法を兵糧攻めへ切り替えます。
東には小笠原氏、南には頼之自ら、西には香川氏、北には田村・安富・香西らを配置し、高外木城の四方に向城(むこうじろ)を築いて完全な包囲網を敷きました。
さらに城の周囲およそ三里にわたって竹木で柵を巡らせ、大石を積み上げて城兵の石弓(いしゆみ・弩)による攻撃を防ぐなど、徹底した包囲態勢を整えます。
兵糧や援軍は完全に断たれ、高外木城は孤立しました。
河野氏決死の夜襲、包囲網を突破
冬の気配が漂い始めた10月、高外木城では兵糧が尽きかけ、城内では餓死する者まで現れ、河野軍の士気も日に日に衰えていきました。
このまま籠城を続けても、先は見えていました。
そこで、河野通直は一族や重臣たちを集めて軍議を開き、「このまま朽ち果てるよりも、最後の一戦に望みを懸けるべき」と決断しました。
天授五年/康暦元年(1379年)10月16日の夜。
雲に覆われた暗闇に乗じ、荷馬三百頭に精兵を付けて敵陣へ突入させました。
さらに馬の尾へ松明を結び付けて放つと、敵陣の各所で火が燃え広がります。
折しも激しい西風が吹き荒れており、田村十郎の陣では篝火が営内へ燃え移りました。
炎は瞬く間に広がり、隣の香西軍では、「夜襲だ!油断するな!」と兵たちが飛び起き、細川軍の陣営は一時大混乱に陥ります。
通直は城上からその様子を見て、「天はまだ我らを見放してはいない。細川軍の中に混乱が生じた。今こそ突破の時だ」と決断しました。
河野軍七千余騎は一斉に城門を開き、敵陣を突破して北方へ脱出します。
しかし、細川軍も間もなく体勢を立て直し、「これは計略による夜襲である」と気づくと、各陣営から援軍が続々と駆けつけました。
それでも通直らは混乱に乗じて包囲網を突破し、七、八町ほど逃れることに成功しました。
河野通直、最後の反撃
やがて、夜は明けました。
頼之は高外木城がもぬけの殻となっていることを知ると、「敵は城を捨てて逃れた。一人たりとも討ち漏らすな。今ここで逃がせば、後々大きな災となる」と全軍へ追撃を命じました。
香川・安富・香西・神保らをはじめとする細川軍一万余騎(『予陽河野盛衰記』では二万余騎)は、我先にと河野軍を追撃し始めます。
追撃する細川軍を見るや、河野通直は、「追っ手が来ることなど、もとより承知の上である」と七千余騎を反転させると、得能新左衛門、白石左衛門、一柳五郎三郎、多賀谷八郎、大内九郎ら宗徒三千余騎とともに細川軍へ激しく斬り込みました。
両軍は入り乱れて激しく斬り結び、その戦いは軍記物に「天を動かし地を震わせる」と記されるほどの壮絶な激戦となり、双方に多くの死傷者を出します。
戦況を見極めた頼之は、「敵は疲れている。新手を入れ替え、一気に攻めよ」と命じました。
これに対し通直も、「今こそ好機である」として、弟・通昌をはじめ、東条・宮岳・稲葉・重見・得能ら三千余騎を新たに投入し、再び細川軍へ挑みます。
河野軍の新手は細川軍の先陣へ猛烈な攻撃を加え、香西・安富・香川・神保らの軍勢は大きく崩れ、多くの兵が討ち取られました。
しかし、多勢に無勢でした。
河野軍は死力を尽くして戦いましたが、ついに細川軍に討ち負け、七千余騎は思い思いに敗走します。
総大将である通直は、一族や家臣たちを無事に退却させるため、自ら殿(しんがり)となって最後尾に残りました。
そこへ芦田五郎三郎、油佐弥二郎、岡隼人、芥川兵庫、山田八郎ら、細川方屈指の勇将たちが息つく間もなく追撃します。
激しい追撃の中、芦田五郎三郎が通直の馬の脚を斬り払うと、通直は馬上から地面へ投げ出されました。
油佐弥二郎は好機と見て通直の首を挙げようと飛びかかります。
その瞬間、河野方の従者が主君を守るため身を挺して油佐弥二郎に組み付き、命懸けでその動きを食い止めました。
細川方は、「伏兵が潜んでいるのではないか」と警戒して一瞬足を止めます。
そのわずかな隙を逃さず、福角・中川・一柳・塩川らが引き返し、通直のもとへ駆けつけました。
「佐々久原の戦い」河野通直の最期
中川九郎は傷ついた通直を自らの馬へ乗せると、敵中を突破して佐々久原(ささくばら・佐志久原)へ落ち延びました。
そこで土居氏・得能氏・西園寺公俊(さいおんじ きんとし)ら七百余騎と合流した通直は、佐々久原に本陣(大陣)を構えます。
そして、本陣には百騎のみを残し、新居郡・宇摩郡方面へ諸軍を派遣して各地の守りを固めました。
一方、細川頼之も通直が本陣を置く佐々久原へ軍を進め、およそ一里(約四キロメートル)を隔てて陣を構えます。
しかし、河野方の内通者が「本陣は手薄である」と細川方へ密かに知らせてしまいました。
頼之はこの好機を逃さず、吉岡山へ兵を潜ませて本陣の様子を探らせます。
やがて、本陣に残る兵がわずかであることを確認すると、天授五年/康暦元年(1379年)11月5日の夕刻、七千余騎を率いて吉岡山西方の山陰を迂回し、夜陰に乗じて通直の本陣へ一斉に襲いかかりました。
突然の夜討ちに河野軍は完全に不意を突かれます。
そのまま翌日にかけて激戦が続きましたが、河野軍は細川軍の包囲の中で苦戦を強いられます。
懸命に防戦したものの、多勢に抗することはできず、一族や家臣ら百余人が次々と討ち死にしました。
「……もはやこれまで」
通直もついに最期を悟り、馬上で腹を十文字にかき切って自害します。
西園寺公俊もまた主君の後を追って自害し、河野方はついに力尽きました。
天授五年/康暦元年(1379年)11月6日。
河野通直(通堯)は、父・通朝の代から続く宿敵・細川頼之との戦いに敗れ、32歳という若さで、その波乱に満ちた生涯を閉じたのです。
父から子へ、さらに受け継がれる意思
世田山合戦で父・通朝が細川氏との戦いに敗れ、自ら命を絶ってから15年。
父の最期を見届けた幼い徳王丸は成長して通堯と名乗り、九州へ渡ると河野通直と改名しました。
父が果たせなかった河野宗家再興の悲願。そのすべてを背負った通直は、再び伊予へ戻り、河野宗家再興を懸けて宿敵・細川頼之との戦いに挑みます。
その結末もまた父と同じ、自ら命を絶つという壮絶な最期でした。
こうして、世田山合戦に始まった父子二代にわたる細川氏との戦いは、ひとつの幕を閉じます。
通直が命を懸けて守ろうとした河野宗家の灯火は、なお消えることはありませんでした。
その志は、幼い亀王丸と鬼王丸、そして河野一族へと受け継がれます。
やがて成長した亀王丸は河野宗家を率い、父の遺志を胸に、再び細川氏との戦いへ歩みを進めていくことになるのです。
佐々久原の戦い、その記憶をたどる
南北朝の激動期、多くの武将や兵たちが命を散らした佐々久原。
今ではのどかな田園風景が広がり、当時の激闘が嘘のように静かな時が流れています。
しかし、この地で刻まれた戦いの記憶が消え去ることはありません。
人々の手によって大切に受け継がれてきた平和への祈りは、今なおこの地に息づいています。
戦死者の冥福を祈った「千人塚」
戦いが終わると、この地の人々は敵味方の区別なく戦死者たちの亡骸を一つの塚へ葬り、「千人塚」としてその冥福を祈ったといわれています。
この塚は、二度とこのような悲惨な戦が繰り返されることなく、天下が四方とも太平であってほしいという人々の願いから、「四方塚」「大平塚」とも呼ばれるようになりました。

また、巨大な石を積み上げたその姿から、「これほどの石は鬼でなければ積むことはできない」と語り継がれたことにちなみ、「鬼塚」とも呼ばれています。
この塚には古墳時代の横穴式石室が残されていることから、もともとは古墳であり、中世になって佐々久原の戦いで命を落とした武将や兵たちが追葬されたとも考えられています。

河野通直(通堯)の五輪塔
千人塚からほど近く、見渡すかぎりの田園風景の中に佇む標高わずか五十六メートルの小さな丘陵、佐々久山。
南北朝時代、この山は河野通直(通堯)がその波乱に満ちた生涯に幕を閉じた地と伝えられています。
現在、山には佐々久神社が鎮座しています。

もともと佐々久神社は山の南端に鎮座していましたが、江戸時代の享保十二年(1727年)、現在の場所へ遷座したと伝えられています。
そして、この境内が河野通直(通堯)が最期を迎えた場所と伝えられており、佐々久山の北端には、河野通直(通堯)の墓と伝えられる一基の五輪塔があり、現在も地域の人々によって大切に守られています。


「青石さん」運命をともにした武将・西園寺公俊の墓
佐々久山には、河野通直(通堯)とともにこの地で最期を迎えたと伝えられる西園寺公俊の墓と伝わる供養塔も残されています。
西園寺公俊は、都の名門・西園寺家に連なる公卿・武将で、東宇和郡(現在の西予市)の松葉城を本拠とした人物です。
西園寺家の祖・西園寺公経から数えて六世の子孫にあたるとされ、河野通直の父・河野通朝の娘を妻に迎えていたことから、河野宗家とは深い姻戚関係にありました。
伊予へ下向した公俊は南予を中心に勢力を築き、河野氏と提携しながら伊予の国衙支配にも関わったと考えられています。
河野通直が九州から伊予へ帰国し、河野宗家再興へ動き始めると、公俊もこれを支援しました。
通直が大空城を攻略した際には西園寺氏の一党も加勢したとされており、公俊は単なる同盟者ではなく、河野宗家再興を支えた有力な協力者の一人だったのです。
そして天授五年/康暦元年(1379年)、通直が細川頼之との戦いに臨むと、公俊も河野方として佐々久原へ出陣しました。
通直が自害すると、公俊もまたその運命をともにしたと伝えられています。
そんな公俊を供養するために建てられたと伝えられているのが、「青石の塔」、地元では「青石さん」と呼ばれる供養塔です。

実は、この供養塔に祀られているのは公俊だけではありません。
伝承によれば、この地で主君と運命をともにした大沢忠兵衛・大西土野・大西典三兵衛・大西平内・青野三郎兵衛の五人の老臣も、ともに祀られているといいます。
五人はいずれも西園寺公俊の重臣で、主君・公俊とともに自害したと伝えられています。
その後、この供養塔は「青石の塔」、地元では「青石さん」として代々語り継がれ、昭和17年(1942年)11月6日には、大浪友吉らによって顕彰碑が建立され、現在も主君と運命をともにした五人の忠義を今に伝えています。

もう一つの墓所が伝える西園寺家の歴史
西条市丹原町田野にも、西園寺公俊の墓と伝えられる墓所が残されています。

公俊の子・竹王丸は、戦乱の中を家臣とともに周防国玖珂郡野口村へ落ち延び、成長後に野口左衛門重俊と名乗って再び伊予へ帰国しました。
その後、子孫は代々この地で地頭や庄屋を務めたとされ、祖・西園寺公俊を供養するため、この地にも墓が建立されたと伝えられています。
佐々久山と田野に伝わる二つの墓は、佐々久原で散った西園寺公俊の最期と、その血筋が戦乱を越えて受け継がれてきた歴史を今に伝えています。

両公の菩提を弔う「善光寺」
河野通直と西園寺公俊の菩提を弔うため、建立されたと伝えられるのが、佐々久山から約2キロメートル離れた安用山(やすもちやま)にある善光寺(ぜんこうじ)。
本尊の薬師如来像は、風早(現在の松山市北条地区)の恵良城内にあった薬師堂に祀られていたものが、戦火を避けるため、この地へ移されたと伝えられています。
本堂には現在も両公を弔う高さのある大きな位牌が安置されており、戦乱の中で散った二人への祈りが今日まで受け継がれています。


遠く風早の地に残る追悼の証「大通寺」
佐々久原の戦いで命を落とした伊予国の武将たちを弔う人々の祈りは、戦いの舞台となった西条市だけにとどまりませんでした。
通直(徳王丸)がかつて暮らした風早(現在の松山市北条地区)の大通寺には、父・河野通朝の五輪塔と並んで、河野通直らを供養する宝篋印塔が建立されています。

そこには河野通直の法名「桂峯道昌大禅定門」をはじめ、西園寺公俊、得能通定ら、戦いで命を落とした武将たちの法名が刻まれています。

激動の南北朝時代を駆け抜けた武将たちの記憶は、今もなお愛媛県各地に残され、人々の祈りとともに静かに受け継がれているのです。