天神様に仕えた狸。港町・波止浜に残る不思議な伝承
愛媛県今治市波止浜。
来島海峡を望むこの町は、江戸時代に塩田の開発によって大きく発展し、その後も海運や造船とともに歩んできた港町です。
その波止浜の仲之町にある「円蔵寺(圓蔵寺・えんぞうじ)」の北側、山手へと入った一角。
来島ドックの事務所付近から波止浜公園へと上がっていく途中、竹や木々に覆われた山際に、小さなお堂が建てられています。
長い年月と風雨を受け、現在では倒壊が進んでいますが、古くからここでは一匹の狸が大切に祀られていました。
それが、「梅乃木大明神(うめのきだいみょうじん)」です。

円蔵寺の天神様に仕えた「梅の木狸」
その昔、波止浜の仲之町には、一匹の狸が住んでいました。
「梅の木狸」と呼ばれていた狸です。
とても頭がよく、知恵の働く狸で、近くの円蔵寺に出入りしていました。
波止浜の古刹「円蔵寺」
円蔵寺は、京都・宇治の萬福寺を本山とし、愛媛県内では数少ない黄檗宗の寺院の一つです。
その前身は、平安時代の嘉祥3年(850年)に創建されたと伝わる「円満如来蔵院」で、もとは現在とは異なる場所にありました。
大きな転機となったのが、江戸時代に行われた波止浜の塩田開発です。
元禄4年(1691年)、波止浜で塩田開発が進められるなか、松山藩主・松平定直の命によって、円満如来蔵院も現在の地へと移され、黄檗宗の寺院「円蔵寺」として新たな歴史を歩み始めました。

つまり円蔵寺は、波止浜が塩田の町へと姿を変えていく、その大きな転換期に現在地へ移された寺院でもあります。
その後、塩田とともに発展していく波止浜の町に根付き、人々の信仰を集めながら、その歴史を見守ってきました。
境内には、中国・明代の建築様式を思わせる山門や鐘楼などが残り、現在も波止浜の歴史を伝える寺院の一つとなっています。

そして、円蔵寺の境内には、もう一つ特徴的な場所があります。
それが菅原道真公を祀る「芭蕉天満宮」です。

菅原道真公は、死後「天神様」として信仰されるようになり、現在では学問の神様として広く知られています。
円蔵寺にもその道真公を祀る天満宮があり、古くから人々の信仰を集めてきました。
そして、この天神様こそ、梅の木狸と円蔵寺を深く結びつける存在でした。

天神様のお使いをしていた狸
梅の木狸は、円蔵寺の天神様の「お使い」をしていたのです。
古くから、神様に仕える動物や霊的な存在は、「神使(しんし)」や「眷属(けんぞく)」などと呼ばれてきました。
よく知られているのが、稲荷大神に仕える狐です。

一方、狸は一般的に天神様のお使いとはされていません。
そのため、狸が「天神様のお使い」として登場する梅の木狸の話は、全国的に見ても珍しい伝承といえます。
また、化けることもとても上手で、あるときは侍に、またあるときは娘に姿を変えて、人々の前に現れました。
なかでも、よく侍の姿となって円蔵寺の裏山の頂から現れたといいます。

讃岐の狸との「化けくらべ」
あるとき、梅の木狸とライバルであった讃岐の狸が、どちらが上手に化けられるか腕比べをすることになりました。
「それならば、大名行列に化けて見せよう」
近いうちに、本物の大名行列がその場所を通ることを知っていた梅の木狸は、讃岐の狸にそう勝負を持ちかけました。
そして、当日。
梅の木狸の言葉どおり、立派な大名行列が姿を現しました。
讃岐の狸は、それを梅の木狸が化けたものだとすっかり信じ込みます。
しかし、目の前を通っていたのは、梅の木狸が化けた大名行列ではありません。
本物の大名行列だったのです。
もちろん、そのことを讃岐の狸は知りません。
「それなら自分も」と、負けじと大名行列に化け、その前へ姿を現しました。
ところが、本物の大名行列の前でそんなことをしてしまえば、ただでは済みません。
たちまち狸の仕業であることを見破られ、讃岐の狸はその場で無礼打ちにされてしまいました。
梅の木狸は、自分では一度も化けることなく、本物の大名行列を利用してライバルを出し抜いたのです。
酒好きだった「梅の木狸」
そんな梅の木狸には、どこか人間らしい一面もありました。
実は、大の酒好きだったのです。
梅の木狸は、波止浜の料理屋や酒屋へたびたび姿を現しては、人間にまじって酒を楽しんでいました。
店を訪れるときには、いつも通帳を持っていたそうですが、不思議なことに掛けで飲むことはありません。
その日の酒代は、その場できちんと現金で支払って帰っていきました。
ところが、翌朝。
店の人が前の晩に受け取ったお金を確かめてみると、なんとそれがすっかり木の葉へと変わっていました。
当然、店の人たちも、やがてその正体に気づきます。
それでも、梅の木狸が店へやって来ることを嫌がる者はいませんでした。
なぜなら、梅の木狸が訪れた店は、不思議と商売が繁盛したからです。
酒代が翌朝には木の葉へ変わってしまう。
それが分かっていても、梅の木狸が顔を見せれば店の人たちは喜んで迎え入れました。
人を化かして酒を飲みながら、その一方で店には福をもたらす。
そんな少し不思議で憎めないところも、梅の木狸が波止浜の人々に親しまれていた理由の一つだったのかもしれません。
海を渡り、日露戦争へ向かった「梅の木狸」
そして梅の木狸には、明治時代に海を渡り、日本のために戦場へ向かったという驚くような伝承も残されています。
当時、日本とロシアは朝鮮半島や満洲をめぐって対立を深めていました。
日清戦争後、ロシアが満洲への進出を強めると、両国の緊張はさらに高まっていきます。
そして明治37年(1904年)。
日本とロシアとの間で「日露戦争」が始まりました。
戦いは朝鮮半島から遼東半島、満洲へと広がり、海上でも激しい戦闘が繰り広げられていきます。
愛媛県、そして今治と日露戦争
遠く大陸や海上で繰り広げられた日露戦争ですが、愛媛県の人々にとっても決して無関係な戦争ではありませんでした。
県内からも多くの兵士が戦地へ赴き、兵士の家族に対する援助をはじめ、県費の削減や土木工事の中止、勤倹貯蓄の奨励など、社会のさまざまな場面が戦争の影響を受けていきました。
また、愛媛県出身者では、後に「日本騎兵の父」と呼ばれる秋山好古や、連合艦隊の参謀として日本海海戦に臨んだ弟・秋山真之など、多くの人々が日露戦争に従軍しています。
そして今治にも、この戦争と深く結びついた場所がありました。
波止浜のすぐ沖、来島海峡に浮かぶ「小島」です。
小島には、日清戦争後に高まったロシアとの緊張を背景として、敵艦の来襲から瀬戸内海を守るための「芸予要塞」が築かれていました。
明治32年(1899年)から建設が進められ、島内には砲台や弾薬庫、兵舎、司令施設などが設けられました。
来島海峡を通って瀬戸内海へ侵入しようとする敵艦に備える、海の要塞だったのです。

さらに日露戦争が始まると、小島に備えられていた28センチ榴弾砲の一部が取り外され、遠く大陸の戦場へと送られました。
小島から送り出された6門のうち、2門が激戦となった旅順要塞の攻撃に用いられたとされています。

つまり波止浜の人々にとって日露戦争は、はるか遠い大陸だけで起こっていた戦争ではありませんでした。
すぐ目の前に浮かぶ小島からも、大砲が海を渡って戦場へ送られていたのです。
そして、そんな時代のなかで語られたのが、梅の木狸の出征でした。
一族を率いて海を渡った「梅の木狸」
日本軍がロシア軍に苦しめられ、戦況が不利になっていることを知った梅の木狸は、自分たちも日本軍の力になろうと立ち上がりました。
しかも、一匹だけで戦場へ向かったわけではありません。
梅の木狸は多くの仲間の狸たちを集めると、一族を引き連れて海を渡り、日本軍が戦う大陸へと出征したのです。
そして戦場へ到着した狸たちは、これまで人々を驚かせてきた「化ける力」を、今度は戦いのために使いました。
人間の兵士へと姿を変え、日本軍に加わってロシア軍と戦ったのです。
なかでも、不思議な存在として語り継がれたのが「赤い服を着た兵隊」でした。
戦場に現れた「赤い服の兵隊」
戦場に現れた梅の木狸たちは、赤い服を着た兵士の一隊となって戦いました。
ロシア兵は、戦場で目立つその赤い兵士たちを狙って何度も銃を撃ちます。
ところが、不思議なことに、いくら撃っても弾はまったく当たりません。
それどころか、赤い服の兵士たちが放つ弾は「百発百中」。
撃つたびに敵へ命中したといいます。
撃っても倒れず、逆に放つ弾はことごとく命中する。
ロシア軍にとっては、まさに正体の知れない兵士たちでした。
しかし、その正体は人間ではありません。
波止浜から海を渡ってきた、梅の木狸とその仲間たちだったのです。
こうして梅の木狸たちは、狸ならではの不思議な力を使って日本軍を助け、戦場で大きな働きをしたと語り継がれています。
「梅の木壇十郎」の名を授かった狸
そして戦争が終わると、その軍功を認められた梅の木狸には、「梅の木壇十郎」という姓名が授けられました。
さらに、勲章まで与えられたといいます。
こうして一族を率いて海を渡った梅の木狸は、「梅の木壇十郎」となって故郷の波止浜へ帰ってきたのです。
しかし、遠い大陸の戦場を生き抜いた壇十郎には、故郷で思いもよらない最期が待っていました。
戦場を生き抜いた壇十郎の最期
ある日、仲之町の広場には多くの人々が集まっていました。
壇十郎はその人々を前に、遠い大陸で経験した戦いの様子を語っていました。
そのときです。
どこからともなく一匹の野良犬が現れ、壇十郎に襲いかかりました。
大陸の戦場ではロシア軍の銃弾さえものともせず、無事に波止浜まで帰ってきた壇十郎でしたが、この犬に噛まれたことがもとで、あっけなく命を落としてしまったのです。
遠い戦場を生き抜いた梅の木壇十郎が、故郷へ帰った後、一匹の犬によって最期を迎える。
何とも意外な結末でした。
しかし、壇十郎の活躍は、その死とともに忘れ去られたわけではありませんでした。
「梅の木さんがいないなら負ける」太平洋戦争まで残った伝承
梅の木壇十郎の日露戦争での活躍は、その後も波止浜の人々の間で語り継がれていきました。
そして時代が下り、太平洋戦争が始まったころには、
「今度は梅の木さんが出征しないらしい」
「梅の木さんがいないのなら、この戦争には負けるかもしれない」
そんな噂まで人々の間で語られたといいます。
日露戦争では、一族を率いて海を渡り、赤い服の兵士となって日本軍を助けた梅の木狸。
その活躍は、「梅の木壇十郎」の名とともに語り継がれ、太平洋戦争の時代になっても、人々の記憶の中に残り続けていたのです。
小判や膳椀を貸してくれた「梅の木狸の巣」
梅乃木大明神が祀られている場所には、かつて一本の老杉があり、その根元近くに梅の木狸が住んでいたといいます。
そのため、この場所は地域の人々から「梅の木狸の巣」と呼ばれていました。
昔は、何か必要な物があるとこの巣を訪れ、梅の木狸に頭を下げてお願いをしたそうです。
すると梅の木狸は、その願いに応えるように、必要なものを貸してくれました。
小判や手形。
さらには、膳や椀といった道具まで貸してくれたといいます。
困ったときには、梅の木狸の巣へ行ってお願いする。
梅の木狸は、地域の人々にとって、そんな頼りになる不思議な存在でもあったのです。
約束を破った人々と、貸してくれなくなった狸
もちろん、物を借りれば約束の日にはきちんと返さなければなりません。
ところが、なかには返す日を守らなかった者や、借りた物をそのまま返さなかった者もいたといいます。
すると梅の木狸は、それ以降、人々に物を貸すことをやめてしまいました。
どれだけお願いしても、小判も手形も、膳も椀も、二度と貸してくれなくなったのです。
人々との約束が守られているあいだは、その願いに応えてくれた梅の木狸。
しかし、人間の不義理によって貸し借りは途絶えてしまいました。
こうした話は、日本各地に残る「椀貸し伝説」ともよく似ています。
椀貸し伝説とは、塚や淵、岩、洞穴などに願うと膳や椀などを貸してもらえるものの、借りた物を返さない者が現れると、それ以降は一切貸してもらえなくなるという言い伝えです。
梅の木狸にまつわる伝承のなかにも、互いの信用や約束を大切にしなければならないという、先人たちの暮らしの教訓が込められているのかもしれません。
神様として祀られた狸
数々の伝承を残した梅の木狸は、やがて神様として祀られるようになりました。
はじめは、稲垣さんという人物が個人で祀っていたと伝えられています。
その後、梅の木狸の巣があった場所の前にお堂が建てられ、梅の木狸は「梅乃木大明神」として祀られるようになりました。
さらに、そのお堂には梅乃木大明神だけではなく、「八股大明神」「禿金大明神」「八目大明神」などもともに祀られ、地域の人々によって毎年大祭も行われていたといいます。
ただし、これらの大明神がどのような存在で、なぜ梅乃木大明神とともに祀られるようになったのか、その詳しい由来は明らかになっていません。
竹林の中に残る信仰の跡
しかし、長い年月が流れた現在、そのお堂は大きく姿を変えています。
竹や木々に覆われた山際には今もお堂が残っていますが、屋根や壁は大きく崩れ、柱や朱塗りの木材も折れたり傾いたりするなど、倒壊が進んでいます。


かつて地域の人々が足を運び、梅乃木大明神へ手を合わせていた場所は、今では竹林のなかに埋もれるように残されています。

それでも、この場所には狸を神様として祀り、日々の暮らしの中で手を合わせた人々の記憶と足跡が、今もひそやかに息づいています。