喜田村に祀られる小さな社と、庄屋に愛された「柿の木狸」
愛媛県今治市喜田村。
住宅が建ち並ぶ本田地区の一角。
アオイハイツというアパートの隣、道路脇の一角に「若宮さん」と呼ばれる小さな社がひっそりと祀られています。

創建の年代や詳しい祭神については、現在のところ分かっていませんが、若宮さんはかつて喜田村の元庄屋の屋敷の中にあり、その守り神として大切に祀られていたと伝えられています。
そして、この若宮さんには、かつての庄屋屋敷を舞台に、庄屋の人々と一匹の狸をめぐる不思議な伝承が残されています。
柿の木に住みついた一匹の狸
今ではすぐそばを人や車が行き交い、周囲には住宅が立ち並んでいますが、かつてこのあたりは人家も少なく、木々の茂る静かな田舎道でした。
その一帯にあった庄屋屋敷の一角には若宮さんが祀られ、社のそばには一本の大きな柿の木が立っていたといいます。
いつの頃からか、その大きな柿の木に、一匹の狸が住みつくようになりました。
ある日、庄屋に仕えていた女中が若宮さんを拝みに行ったところ、柿の木につくられた巣の中に、雌狸がかわいらしい子狸を抱えているのを見つけました。
驚いた女中は、そのことを庄屋の主人に知らせます。
すると主人は、「誰にも話さぬように、そうっとしておいちゃれ。悪さをしたり騒ぐと、狸のやつがかわいそうじゃあ」と言い、家の者以外には知らせず、そっと見守ることにしたといいます。
「おいちゃれ」とは、この地方の言葉で「おいてやれ」という意味です。
それから庄屋の人々は、朝晩になると母狸のもとへ食べ物を運び、狸の親子をかわいがるようになりました。
庄屋の人々になついた「柿の木狸」
人から追い払われることもなく、大切にされた母狸。
やがて、庄屋の主人や女中たちにも、すっかりなつくようになったといいます。
なかでも主人には特によくなつき、主人が外出すると、その前を歩いたり、後ろをついて行ったりしながら、一緒について来ることもあったそうです。
柿の木の巣で生まれた子狸も、すくすくと成長していきました。
こうした狸の姿は、やがて屋敷の人々だけでなく、周囲の里人たちにも知られるようになります。
そして、いつ誰が呼び始めたともなく、この狸は「柿の木狸」と呼ばれるようになったと伝えられています。
庄屋の人々と狸の親子が同じ屋敷の中で暮らし、互いに親しんでいた。
どこか微笑ましい伝承です。
ところが、柿の木狸には、そんな姿とはまた違った一面もありました。
人を化かした「柿の木狸」
子狸がすくすくと成長していくなか、今度は柿の木狸がいたずらをして、人々を化かし、困らせることもあったといいます。
大きな柿の木がまだ残っていた頃。
庄屋屋敷のあたりでは、眠たそうな様子をしながら、同じ場所を何度も行ったり来たりしている人を、時折見かけることがありました。
歩いても、歩いても、なぜか同じあたりを行ったり来たりしてしまう。
そうした人は、「狸に化かされた」といわれたそうです。
狸は本来、夜になると活動することの多い動物です。
そして日本では古くから、夜道で人を迷わせたり、同じ場所を何度も歩かせたり、ときには人の姿に化けたりする不思議な存在として、数多くの昔話や伝承に登場してきました。
現在でこそ周囲には住宅が建ち並び、夜になれば街灯や家々の明かりが辺りを照らします。
しかし、当時のこの一帯は人家も少なく、木々の茂る寂しい田舎道でした。
日が沈めば、辺りは深い闇に包まれます。
そんな夜道で方向を見失い、気がつけば何度も同じ場所を歩いている。
昔の人々にとって、そうした出来事は「狸に化かされた」と思わせる、不思議な出来事だったのでしょう。
そして喜田村では、そんな人々を惑わせる狸として、「柿の木狸」の名が語り継がれていきました。
狸に取り憑かれた人を拝んだ「種さん」
さらに、このあたりには「種さん」と呼ばれる、信心深い男性がいました。
種さんは、狸に取り憑かれたとされた人がいると、その人を拝み、もとの正気へ戻るようにしていたといいます。
現代の感覚からすれば不思議に思える話ですが、かつては原因の分からない体調の変化や奇妙な行動を、狐や狸などに「憑かれた」ものとして捉えることがありました。
昔から狸は、人を化かすだけでなく、ときには人に取り憑く存在としても語られ、日本各地にさまざまな伝承が残されています。
喜田村でも、普段とは違う様子を見せたり、不思議な行動を繰り返したりする人がいると、「狸に取り憑かれた」と考えられることがあったのでしょう。
こうした人が現れると、種さんはその人を拝み、もとのとおり正気に返るよう治療していたと伝えられています。
人を化かしたと伝えられる「柿の木狸」。
そして、狸に取り憑かれたとされた人を拝んだ「種さん」。
こうした伝承からも、狸が当時の人々にとって、ただ身近に暮らす動物というだけではなく、ときには人の世界へ不思議な力を及ぼす存在として捉えられていたことが感じられます。
土地の神様として残された「若宮さん」
やがて時代が流れ、若宮さんを別の場所へ移してはどうかという話が持ち上がったこともあったといいます。
しかし、「土地の神様である以上、この地に祀っておくべきだ」ということになり、若宮さんはそのままこの地に残されることとなりました。
それから時代は流れ、若宮さんは窪田家の方々を中心に、この土地の神様として大切に祀られてきたと伝えられています。
かつて若宮さんのそばに立っていた大きな柿の木は、今ではその姿を残していません。
人家も少なく、木々の茂る静かな田舎道だった周囲にも住宅が建ち並び、かつての風景は大きく変わりました。
それでも、二つの小さな社は今もこの地に祀られています。
元庄屋の屋敷の守り神として祀られていた「若宮さん」。
そして、そのそばの柿の木に住みつき、庄屋の人々にかわいがられる一方、ときには人を化かしたとも伝えられる「柿の木狸」。
周囲の景色が大きく変わった現在も、若宮さんは、喜田村に残る柿の木狸の伝承とともに、この土地で大切に守り継がれています。



