別宮大山祇神社と南光坊に残る三姉妹の狸伝承
今治市街地の中心部に鎮座する「別宮大山祇神社(べっくおおやまずみじんじゃ)」。

「別宮」という名の通り、大三島に鎮座する大山祇神社を本宮とし、「三島地御前」として創建されたとされる神社で、古くから今治における大山祇信仰の重要な拠点となってきました。

そして、別宮大山祇神社の祭祀や信仰を長く支えてきたのが、すぐ隣にある四国八十八ヶ所霊場第55番札所「南光坊(なんこうぼう)」です。

南光坊は、もともと大山祇神社に関わる僧坊の一つとして、大三島に創建されました。

その後、南光坊を含む八坊が大三島を離れて今治へ移り、別宮大山祇神社の周辺に置かれることになります。
八坊は神仏習合の時代の中で、神社の管理や祭祀、地域の信仰を支える役割を担っていきましたが、戦国時代の兵火によってすべて焼失してしまいました。
その後、再建されたのは南光坊だけでした。
以後、南光坊は別宮大山祇神社と深く結びつき、明治元年(1868年)の神仏分離によって両者が制度上分けられるまで、その祭祀や信仰を支え続けました。

現在こそ両者は別々の寺社となっていますが、長い歴史のなかで育まれたその結びつきは、今もさまざまな信仰や伝承のなかに残されています。
その一つが、別宮大山祇神社と南光坊という二つの寺社を舞台にした、三姉妹の狸をめぐる不思議な伝承です。
三姉妹の狸が棲んだ「別宮の森」
三姉妹の狸をめぐる物語の舞台となったのが、現在の今治市別宮町です。
「別宮」という地名は、この地に鎮座する別宮大山祇神社に由来するとされています。
現在は住宅や商店が建ち並ぶ今治市街地の一角となっていますが、かつてこの一帯は「別宮村」と呼ばれ、その中心に別宮大山祇神社が鎮座していました。
境内にはクスノキやマツ、エノキなどの大木が生い茂り、木々に覆われた一帯は「別宮の森」と呼ばれていました。
現在の市街地に囲まれた境内からは想像しにくいほど、かつての別宮大山祇神社は豊かな木々に包まれていたのです。
そして、その「別宮の森」のなかでも、ひときわ大きな存在感を放っていたのが、一本の巨大なクスノキでした。
樹齢300年を超える「別宮の大楠」
この大楠は現在も境内に残り、目通り約3.7メートル、樹高約17メートル、樹齢300年以上とされる巨木です。
太い幹から伸びた枝は四方へ大きく広がり、かつてはその下が昼間でも薄暗くなるほどだったといいます。
現在は今治市の天然記念物にも指定されています。
今では周囲に市街地が広がっていますが、まだこの一帯が「別宮の森」と呼ばれ、多くの大木が生い茂っていたころ、その姿は現在以上に人々の目を引くものだったのでしょう。
大楠に棲みついた三姉妹の狸
そんな大楠には、「お袖(おそで)」「お奈遠(おなを)」「お佐遠(おさを)」と呼ばれる三姉妹の狸が、いつの頃からか棲みつくようになりました。
三姉妹は、ときには不思議なものへと姿を変え、別宮大山祇神社を訪れた人を化かしては、意地の悪いいたずらで困らせていました。
とくに古老たちの間では、このような「人を化かす狸」としての話を多く耳にしたといいます。
その一方で三匹はいずれも非常に賢く、気立ても穏やかで、さまざまなことをよく知る狸でもありました。
人々が困り事や願い事を持ちかけると、その話をよく聞いてくれたともいいます。
三姉妹と心を通わせた「快道和尚」
人を化かす一方で、人々から親しまれ、頼りにされる存在でもあった不思議な三姉妹の狸。
そんな三姉妹と深い縁を結んでいたのが、南光坊で住職を務めていた天野快道(あまの かいどう)こと、「快道和尚(かいどうおしょう)」でした。
快道和尚は、幕末から大正時代にかけて生きた僧侶(1846〜1923年)で、南光坊の中興に尽くした人物として知られています。
頭脳明晰で体格にも恵まれた傑物だったといいます。
ある日のこと。
快道和尚が別宮大山祇神社の境内で、何もない場所へ向かって突然声をかけました。
「これこれ、お奈遠や、そこで何をしているのかね」
しかし、そばにいた人には、そこに誰かがいるようには見えません。
不思議に思って尋ねると、快道和尚は「そこでお奈遠が日なたぼっこをしているのだよ」と答えたといいます。
普通の人には見えない三姉妹の姿を、快道和尚だけは見ることができたのです。
こうして三姉妹と不思議な縁を結んでいた快道和尚ですが、その関係を物語る出来事は、これだけではありませんでした。
向きを変えた大楠の枝
当時、大楠から伸びた太い枝の一本が、南光坊の「金毘羅堂」の屋根にまで覆いかぶさるように伸びていました。
風が吹くたびに枝が屋根へ当たり、ときには瓦を割ってしまうこともあったといいます。

このままでは堂を傷めてしまう。
そこで村人たちは相談し、問題の枝を切り落とすことにしました。
当日、人々はノコギリや斧を手に大楠のもとへ集まります。
ところが、いざ枝を切ろうとして木を見上げた村人たちは、思いもよらない光景を目にしました。
それまで金毘羅堂の屋根すれすれに伸びていたはずの枝が、いつの間にか屋根から離れ、日なたの方向へと向きを変えていたのです。
もちろん、誰かが枝を切ったわけではありません。
この不思議な出来事は、たちまち村人たちの間で話題となりました。
そして人々は、「快道和尚が三姉妹に頼み、大楠の枝を動かしてもらったのではないか」と噂するようになったといいます。
大楠のそばに建てられた祠
その後、村人たちの間から、三姉妹をきちんと祀ってはどうかという声が上がりました。
そこで快道和尚は別宮大山祇神社の神主と相談し、大楠の根元にあった大きな空洞のそばに、小さな祠を建てることにしました。
こうして三姉妹は、それぞれ「お袖大明神(おそでだいみょうじん)」「お奈遠大明神(おなをだいみょうじん)」「お佐遠大明神(おさをだいみょうじん)」として、丁重に祀られるようになりました。
そして不思議なことに、祠が建てられてからというもの、三姉妹が人を化かしたり、いたずらをしたりすることはなくなったともいいます。
やがて願い事を携えて三姉妹のもとを訪れる人も増え、三匹は「お狸さん」として親しまれるようになりました。
三姉妹と深く関わった快道和尚は、大正12年(1923年)に亡くなりましたが、その後も三姉妹への信仰が途絶えることはなく、別宮の人々によって大切に祀り継がれていきました。
しかし、その穏やかな風景の外で、時代は大きく動き始めていました。
今治を襲った三度の空襲
昭和12年(1937年)、中国大陸での戦闘が大きく拡大し、日本は長期にわたる戦争へと入っていきました。
今治でも多くの人々が戦地へ送り出され、戦争が長引くにつれて物資の統制や不足が進むなど、人々の暮らしにも次第にその影響が及ぶようになります。
さらに昭和16年(1941年)には太平洋戦争が始まり、戦場は中国大陸から東南アジア、太平洋の広い地域へと拡大していきました。
開戦当初は各地へ進出した日本軍でしたが、戦争が長期化するにつれて戦局は次第に悪化し、昭和19年(1944年)になると、戦火は日本本土へと近づいていきます。
やがてアメリカ軍による日本本土への航空攻撃が本格化し、翌昭和20年(1945年)には、東京をはじめ全国各地の都市が相次いで空襲を受けるようになりました。
それまで遠い戦場で続いていた戦争は、ついに日本の町と、そこで暮らす人々の日常そのものを直接襲う段階へと入ったのです。
そして、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)。
その戦火は、ついに今治にも及びました。
この年、今治市は三度にわたってアメリカ軍の空襲を受けることになります。
最初の空襲は4月26日。
15機のB-29が来襲し、市街地を中心に500ポンド爆弾264発を投下しました。
さらに5月8日には11機のB-29が再び今治を襲い、1000ポンド爆弾と2000ポンド爆弾、あわせて92発が投下されました。
そして、最も大きな被害をもたらしたのが、終戦までわずか十日ほどとなった8月5日深夜から6日にかけて行われた三度目の空襲でした。
この夜、今治市街地には焼夷弾2,449発、そのほかの爆弾93発が投下されました。
木造家屋が密集していた市街地では各所から火の手が上がり、炎は次々と町をのみ込んでいきます。
今治の町は壊滅的な被害を受け、人々が暮らしてきた家々や街並みの多くが失われることになりました。
しかし、炎にのみ込まれたのは、人々の住まいや暮らしだけではありません。
長い年月にわたって守り継がれてきた神社や寺院、その堂宇や仏像、文化財もまた、次々と戦火のなかで失われていきました。
別宮大山祇神社と南光坊を襲った炎
そして、それは別宮大山祇神社と南光坊も例外ではありませんでした。
別宮大山祇神社では、昭和12年(1937年)に新たな社殿が建立され、境内の整備が進められていました。
しかし、それからわずか8年後。
昭和20年(1945年)の今治空襲によって境内は炎に包まれ、新しく建てられた本殿をはじめ、社殿の多くが焼失してしまいます。
そして、すぐ隣にある南光坊もまた大きな被害を受けました。
本堂や庫裏をはじめ、長い年月にわたって受け継がれてきた伽藍のほとんどが焼失し、南光坊もその姿を大きく失うことになります。
しかし、この激しい空襲のなかでも、すべてが失われたわけではありませんでした。
別宮大山祇神社では、絵馬堂として境内の別の場所へ移されていた旧拝殿が焼失を免れました。
一方、南光坊でも、三姉妹の狸の伝承に登場した「金毘羅堂」と、快道和尚のもとで建立された「大師堂」が焼失を免れました。

かつて大楠の枝が屋根に触れ、村人たちが切り落とそうとしたという金毘羅堂。
三姉妹と快道和尚の不思議な物語の舞台となった堂は、周囲の多くの建物が失われるなか、戦火をくぐり抜けて残ったのです。
別宮大山祇神社の境内に立っていた三姉妹の大楠も炎に包まれ、「お奈遠大明神」と「お佐遠大明神」が祀られていた二本は失われました。
しかし、「お袖大明神」の大楠だけは、奇跡的に焼失を免れました。

戦後の復興を歩んだ別宮大山祇神社と南光坊
終戦後、焼け野原となった今治の町では、人々の暮らしとともに、空襲によって失われた神社や寺院の復興も少しずつ進められていきました。
別宮大山祇神社では、空襲を免れた旧拝殿が再び元の場所へ戻され、拝殿として使用されることになります。
その後、昭和37年(1962年)には解体修理と復元工事が行われ、昭和40年(1965年)3月29日には愛媛県指定有形文化財となりました。
さらに、昭和49年(1974年)7月6日には、空襲をくぐり抜けた「お袖大明神」の大楠が今治市の天然記念物に指定され、戦災の記憶を今に伝える大楠として、現在まで大切に守られてきました。
一方、南光坊でも失われた伽藍を取り戻すための復興が長い年月をかけて進められていきました。
昭和56年(1981年)には本堂が再建され、空襲によって失われた本尊・大通智勝如来も新たに造られ、四国八十八ヶ所霊場第55番札所としての姿を再び整えていきました。
さらに平成3年(1991年)には薬師堂、平成10年(1998年)には山門と鐘楼堂が完成し、南光坊は長い年月をかけて現在の姿へと近づいていきました。

受け継がれる三姉妹と快道和尚の伝承
そして、その復興のなかで、空襲によってクスノキを失った「お奈遠大明神」と「お佐遠大明神」には、それぞれ新たなクスノキが植えられ、その根元に祠が再建されました。
現在、二本のクスノキは長い年月を経て大きく育ち、戦火を免れた「お袖大明神」の大楠とともに、三つの祠を包み込むように枝葉を広げています。
「お袖大明神」

「お奈遠大明神」

「お佐遠大明神」

「快道和尚の五輪塔墓」
そして、南光坊の境内には、三姉妹と言葉を交わし、その姿を見ることができたと伝えられる快道和尚の五輪塔墓があり、現在も大切に守られています。

時代が移り変わり、かつて「別宮の森」と呼ばれた木々に覆われた風景は、市街地のなかに溶け込むようにその姿を変えました。
それでも、三姉妹の狸と一人の和尚をめぐる不思議な伝承は、別宮大山祇神社と南光坊という隣り合う二つの寺社にその面影を残しながら、今へと受け継がれているのです。