古代伊予の豪族と山岳信仰の歴史を伝える、鈍川の須賀神社
今治市玉川町鈍川(にぶかわ)。
高縄山系の山々に囲まれたこの地は、豊かな森林と清らかな渓流に恵まれ、四季折々の美しい自然が広がっています。
なかでも、奥道後玉川県立自然公園に属する鈍川渓谷は、緑深い山々と美しい渓流が織りなす景勝地として知られ、その一角には古くから人々に親しまれてきた「鈍川温泉」があります。
道後温泉・本谷温泉とともに「伊予の三湯」に数えられる歴史ある温泉で、江戸時代には今治藩の湯治場として栄えました。
現在も「美人の湯」として知られ、温泉や渓谷の景観を楽しむために多くの人々が訪れています。
一方、鈍川には古代伊予の有力氏族である越智氏や、修験道へとつながる山岳信仰にまつわる伝承も残されています。
そうした伝承を今に伝える神社の一つが、「須賀神社・鈍川(すがじんじゃ)」です。

鈍川に祀られた二柱の神
須賀神社・鈍川には、須佐之男神(すさのをのかみ)と大市比賣神(おほいちひめのかみ)の二柱が主祭神として祀られています。
この二柱は、日本最古の歴史書の一つである『古事記(こじき)』にも登場し、夫婦として結ばれた神々として伝えられています。
「須佐之男神」八岐大蛇を退治した神
須佐之男神は、『古事記』では「建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」とも記される神で、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)の禊によって生まれたとされています。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)や月読命(つくよみのみこと)とともに「三貴子(さんきし)」に数えられ、日本神話の中でも重要な位置を占める神です。
『古事記』によれば、須佐之男命は高天原での乱暴な振る舞いによって追放され、出雲国へと降り立ちました。
そこで出会ったのが、八つの頭と八つの尾を持つ巨大な大蛇「八岐大蛇(やまたのおろち)」に苦しめられていた人々でした。
須佐之男命は、娘の櫛名田比売(くしなだひめ)を救うために八岐大蛇を退治し、その尾から現れた神剣を天照大御神へ献上したと伝えられています。
この剣が、後に三種の神器の一つとなる「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」です。
こうした神話から、須佐之男神は強大な力によって災いを退け、人々を守る神として知られるようになりました。
また、後世には神仏習合の中で牛頭天王(ごずてんのう)と結びつき、祇園信仰を通じて疫病除けや厄除けの神としても広く崇敬されてきました。
「大市比賣神」山の神・大山津見神の娘
一方、大市比賣神は、『古事記』では「神大市比売(かむおおいちひめ)」の名で登場する女神です。
山々を司る大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘であり、須佐之男命の妻となった神として、その系譜に名が記されています。
須佐之男命の妻としては、八岐大蛇から救われた櫛名田比売がよく知られていますが、大市比賣神はそれとは別の女神です。
『古事記』によれば、須佐之男命と神大市比売との間には、大年神(おおとしのかみ)と宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の二柱が生まれたとされています。
大年神は、稲の実りや農作物の収穫に関わる神です。
また、宇迦之御魂神は、穀物や食物の霊を神格化した神と考えられ、後には稲荷信仰の中心となる神としても広く祀られるようになりました。
このように、大市比賣神は、人々の暮らしを支える穀物や豊かな実りに関わる神々の母として、日本神話の系譜にその名を残しています。
また、「大市」という神名の意味については、市場との関わりを指摘する説のほか、河川沿いの平地や水田の耕作に結びつける説など、さまざまな解釈があります。
特に、山や水源に関わる大山津見神を父とし、稲の実りに関わる大年神を子とする系譜から、大市比賣神を水田や農耕に関わる女神として捉える考え方もあります。
人々が願った安寧と豊かな実り
八岐大蛇を退治し、後世には災厄を退ける神として崇敬されてきた須佐之男神。
山の神・大山津見神の娘であり、穀物や農耕に関わる神々の母として伝えられる大市比賣神。
須賀神社・鈍川に祀られる二柱の神々からは、自然とともに暮らしてきた鈍川の人々が、山や水の恵みに感謝し、日々の暮らしの安寧と豊かな実りを願ってきた思いを感じることができます。
飛鳥時代にさかのぼる須賀神社の創建伝承
須賀神社・鈍川の創建は、今から1300年以上前の飛鳥時代にまでさかのぼると伝えられています。
当時の日本は、天武天皇の後を継いだ持統天皇の治世にあり、天皇を中心とする律令国家の形成が進められていました。
持統天皇3年(689年)には「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」が施行され、翌4年(690年)には全国的な戸籍である「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」が作成されるなど、朝廷は地方の人々を把握し、統治の仕組みを整えていきました。
こうした国家体制の整備に伴い、地方には朝廷から任命されて一国の行政を担う「国司(こくし)」が置かれ、各郡では地元の有力豪族などが「郡司(ぐんじ)」として行政を担う仕組みが整えられていきました。
古代伊予の有力豪族・越智氏の歴史
一方、伊予国(現在の愛媛県)の越智郡(現在の今治市周辺)では、古くからこの地に勢力を持つ豪族・越智氏が、有力な一族として存在していました。
越智氏の起源は、律令制度が整う以前、ヤマト王権が各地の有力豪族に地域の統治を任せた「国造(くにのみやつこ)」の時代にさかのぼるとされています。
『国造本紀』によれば、古代の伊予には五つの国造が置かれたと伝えられ、その一つが現在の今治市周辺を治めた「小市国造(おちのくにのみやつこ)」でした。
越智氏は、その初代国造とされる乎致命(おちのみこと)を祖先とする一族で、後に律令制度が整えられると、越智郡の郡司として地域の行政を担うなど、伊予国の歴史に深く関わっていきました。
そして、後世に伝わる越智氏の系譜によれば、天智天皇の時代には越智守興(おちのもりおき)が一族を率い、その後、長男の越智玉興(おちのたまおき)が第25代当主として家督を受け継いだとされています。
伊予各地に名を残す越智玉興
玉興は、越智郡だけでなく、伊予国の広い地域に影響力を持った人物として伝えられ、「伊予大領」「伊予太夫」とも称されています。
「大領」とは、古代の郡の行政を取りまとめる長官を指し、「太夫」は高い位の官人などに用いられた呼び名です。
こうした称号からも、玉興が後世の伝承において、伊予の有力者として位置づけられていたことがわかります。
ただし、「伊予大領」は伊予国全体を治める正式な官職名ではなく、玉興にまつわる後世の伝承に見られる呼称です。
さらに、玉興は伊予国の「国司(こくし)」を務めた人物としても伝えられています。
国司とは、朝廷から任命されて一国の行政を担う地方官のことで、郡の行政を取りまとめる大領とは異なり、国全体の行政に関わる役職です。
伊予国司であれば、現在の愛媛県にあたる伊予国の行政を担う立場にあり、当時の地方統治において重要な役割を果たす存在でした。
ただし、玉興が実際に伊予国司を務めたことについては、同時代の史料による裏付けが確認されておらず、神社の由緒などに残る伝承として捉える必要があります。
また、玉興の名は、古い系譜や神社の由緒によって「小千宿禰玉興(おちのすくねたまおき)」「乎致宿禰玉興」「越智玉興」など、さまざまな表記で伝えられています。
「小千」「乎致」「越智」は、いずれも「おち」と読む氏族名の表記であり、「宿禰(すくね)」は古代の有力氏族に与えられた姓(かばね)の一つです。
こうした玉興の名は、伊予各地の神社や寺院の由緒にも登場し、土地の開拓や神々の祭祀、社寺の創建に関わった人物として、数多くの伝承にその足跡を残しています。
鈍川に鎮座する須賀神社にも、玉興にまつわる創建伝承が残されています。
その由緒によれば、持統天皇4年(690年)3月、「国司小千宿禰玉興」が大和国の葛城山から優婆塞役小角(うばそく えんのおづぬ)を迎え、この地を開いた際に、須佐之男神と大市比賣神の二柱を奉斎したと伝えられています。
ここに登場する「国司小千宿禰玉興」とは、先に紹介した越智玉興のことで、神社の由緒には国司としてその名が記されています。
また、大和国とは現在の奈良県にあたる地域で、葛城山は奈良県と大阪府の境に連なる山地に位置し、古くから山岳信仰の場として知られてきました。
この葛城山で山岳修行を重ねたと伝えられる人物こそ、後に修験道の開祖として崇められ、「役行者(えんのぎょうじゃ)」の名でも広く知られるようになった役小角です。
修験道の開祖・役小角とは
役小角は、7世紀後半の飛鳥時代に活動した宗教者で、呪術や祈祷に優れた人物として知られています。
延暦16年(797年)に完成した歴史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、須賀神社・鈍川が創建されたと伝えられる持統天皇4年(690年)から9年後の文武天皇3年(699年)、役小角が呪術によって人々を惑わせたとして、伊豆島へ流されたことが記されています。

Shimo-sagawa En-no-gyoja and Zenki stone statues 撮影:MirokunomichiProject(Wikimedia Commons) CC BY-SA 4.0
一方、平安時代初期に成立した仏教説話集『日本霊異記(にほんりょういき)』では、「役優婆塞(えのうばそく)」と呼ばれ、仏教に深く帰依し、山中で厳しい修行を重ねた人物として描かれています。
そこには、孔雀王(くじゃくおう)の呪法を修め、不思議な力を身につけたという説話も残されています。
また、須賀神社の創建由緒にも、役小角は「優婆塞(うばそく)」と記されています。
優婆塞とは、本来、出家せずに仏教を信仰する男性を意味する言葉で、古代日本では山林で修行する宗教者を指す場合もありました。
こうした役小角の修行や説話は、時代が下るにつれて、日本各地の山岳信仰と結びついていきました。
古来、日本には山々を神聖な場所として崇める信仰があり、そこに仏教の教えや、平安時代に広まった密教の修行・祈祷などが結びつくことで、次第に「修験道(しゅげんどう)」が発展していきました。
修験道とは、山々を神仏が宿る神聖な場所と捉え、厳しい修行を通じて霊的な力を身につけ、人々の災厄を払い、安寧を願う日本独自の宗教です。
その修行者は「修験者(しゅげんじゃ)」や「山伏(やまぶし)」と呼ばれ、各地の霊山を修行の場としてきました。
修験道の発展とともに、役小角が吉野の金峯山や大峯山などを修行の霊場として開いたという伝承も広がっていきました。
そして、鎌倉時代初期には「役行者(えんのぎょうじゃ)」の名で知られ、修験道の開祖として崇められるようになったのです。
こうした役小角にまつわる伝承は、葛城山や吉野・大峯の山々だけでなく、遠く離れた伊予国にも残されています。
鈍川の須賀神社に伝わる創建由緒も、その一つです。
越智玉興と役小角を結ぶ記録
越智玉興と役小角の関わりは、須賀神社の創建伝承だけではありません。
越智氏の歴史や伝承を記した『予章記(よしょうき)』には、役小角が伊豆島へ流されることになった際、玉興がその旅を助けたと記されています。
では、役小角はなぜ「呪術によって人々を惑わせた」とされ、伊豆島へ流されることになったのでしょうか。
弟子の讒言によって伊豆島へ
文武天皇3年(699年)5月24日。
葛城山で修行を重ねていた役小角は、優れた呪術を使う人物として、広くその名を知られていました。
そんな役小角のもとで教えを受けていたのが、韓国連広足(からくにのむらじひろたり)という弟子でした。
ところが、広足はやがて師の優れた能力を妬むようになり、役小角が妖しい術を使って人々を惑わせていると朝廷に訴えたといいます。
この訴えがきっかけとなり、役小角は伊豆島へ流されることになりました。
役小角をかばった越智玉興
こうして役小角が伊豆島へ流されることになったとき、その境遇を哀れみ、救いの手を差し伸べようとしたのが越智玉興でした。
玉興は、かつて役小角を大和国の葛城山から伊予へ迎え、ともに信仰の場を開いたと伝えられる人物です。
それだけに、役小角が罪に問われたという知らせは、玉興にとって決して他人事ではありませんでした。
当時、朝廷に仕えていた玉興は、役小角には罪がないと訴えました。
ところが、その行動がかえって朝廷の怒りを買い、玉興自身も罪を問われることになってしまったのです。
こうして二人はともに摂津国へ向かい、難波(現在の大阪市周辺)にたどり着きました。

大阪港(Adobe Stock)
そんななか、役小角は玉興に一つの願いを打ち明けました。
それは、伊豆へ向かう前に、三島大明神を祀る伊予国の大三島へ参詣したいというものでした。
実は、役小角が深く信仰していたとされる三島明神(大山祇神・大山積神)は、越智氏が古くから崇敬してきた神でもありました。
こうした共通の信仰もまた、玉興と役小角を結ぶ大切な縁となっていたのです。
役小角の願いを知った玉興は、何とかその思いをかなえようと、難波津(なにわづ)で大三島へ向かう船を探し始めました。
しかし、朝廷から罪を問われた二人に船を貸そうとする者は、なかなか現れませんでした。
そんな折、玉興が出会ったのが、難波津に停泊していた一隻の唐船でした。
玉興は船に乗っていた人々に事情を伝え、大三島まで船を出してもらえるよう協力を求めました。
やがてその願いが受け入れられ、玉興は役小角とともに、三島大明神が鎮座する大三島を目指して海へと乗り出したといいます。
ところが、その航海は決して順調なものではありませんでした。
航海の途中、一行は飲み水が尽きるという危機に見舞われ、命の危険にさらされることになったのです。
この窮地に際し、玉興は一族の氏神である三島大明神に、一心に祈りを捧げました。
すると、不思議なことに清水を得ることができ、一行は危機を脱したと伝えられています。
こうして無事に大三島へたどり着いた役小角は、長く信仰してきた三島大明神を祀る大山祇神社への参詣を果たしました。
そして、念願をかなえた役小角は、玉興と別れ、流罪の地である伊豆へと向かったといいます。

歴史書と伝承に残された二人の足跡
ここまで紹介してきた役小角と越智玉興の物語には、歴史書に記された出来事と、後世に語り継がれてきた伝承が含まれています。
役小角の配流については、延暦16年(797年)に完成した歴史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記録されています。
文武天皇3年(699年)5月24日の条には、役小角が弟子の韓国連広足による「讒言(ざんげん)」によって、伊豆島へ流されたことが記されています。
讒言とは、他人を陥れるために事実を偽ったり、悪く言い立てたりすることです。
つまり、『続日本紀』は役小角が実際に人々を惑わせていたと断定しているのではなく、弟子による讒言が配流の原因になったと記しているのです。
また、同書には、役小角が鬼神を使役して水を汲ませたり、薪を集めさせたりし、命令に従わない鬼神を呪術で縛りつけたという話も残されています。
ただし、これらは当時の世間に伝わっていた噂として記されたもので、実際に起こった出来事と確認されているわけではありません。
一方、越智玉興が役小角をかばい、大三島への参詣を助けたという物語は、越智氏の歴史や伝承を記した『予章記(よしょうき)』に残されています。
『予章記』は、伊予国の有力武士であった河野氏の系譜や事績などを記した書物ですが、古い時代の記述には、後世に形成されたと考えられる伝承も含まれています。
役小角の配流については『続日本紀』に記録されているものの、越智玉興が朝廷に訴えたり、二人がともに難波から大三島へ渡ったりしたことを裏付ける同時代の史料は確認されていません。
そのため、実際に越智玉興が役小角を助けたのかどうかは、史実として確認されていません。
しかし、この伝承は、越智氏が古くから信仰してきた三島大明神への崇敬とともに、玉興と役小角の深い縁を今に伝えています。
関連記事はこちら:【越智氏の系譜】戦国の終わりまで続く伊予の歴史はここから始まった。河野氏の祖・越智玉澄
玉川地区に広がる二人の伝承
こうした越智玉興と役小角の関わりは、須賀神社だけでなく、玉川地区の鈍川から楢原山にかけて鎮座する神社の創建由緒にも残されています。
例えば、同じ鈍川地域に鎮座する「石拆神社・鈍川(いわさくじんじゃ)」には、須賀神社と同じ持統天皇4年(690年)3月、玉興が大和国葛城山から役小角を迎えて当地を開き、石拆神・根拆神・石筒男神などの神々を奉斎したという由緒が伝えられています。

さらに、鈍川渓谷の奥にそびえる楢原山(標高1,041メートル)の山頂に鎮座する「奈良原神社(ならばらじんじゃ)」にも、二人にまつわる創建伝承が残されています。
奈良原神社では同年4月、玉興が役小角を迎えて楢原山の地を開き、伊佐奈伎命や宇気母知命、大山積神などを奉斎したことが、神社の始まりと伝えられています。

須賀神社・鈍川と石拆神社は同年3月、奈良原神社は翌4月。
これらの神社の由緒をたどると、越智玉興と役小角が鈍川から楢原山へと足を延ばし、各地で神々を祀りながら信仰の場を開いていった二人の姿を思い描くことができます。
これらの伝承が実際にどのような経緯で生まれたのかは明らかではありません。
それでも、玉川地区には、古代伊予の越智氏にまつわる伝承と、山々を神聖な場所として敬い、神々に祈りを捧げてきた人々の信仰が、今も大切に受け継がれているのです。



