脇地域に鎮座する水神信仰の古社
瀬戸内海に面した今治では、農業に必要な雨や生活用水、さらには海上の安全など、水は人々の暮らしに深く関わる重要な存在でした。
大西地区の脇に鎮座する「貴布禰神社・脇(きふねじんじゃ)」 も、水を司る神を祀る古社として、古くから脇地域の人々の信仰を集めてきた神社です。
現在も、農業に必要な雨をもたらす水神として、また海に生きる人々の安全を守る神として崇敬され、集落の守り神として長く祀られています。
貴布禰神社の名称の由来
貴布禰神社(きふねじんじゃ)は、古くから「貴布禰」「貴布祢」「貴船」など、さまざまな表記が用いられてきました。
これは時代ごとの用字や習慣の違いによるものですが、いずれも同じ神を祀る当社の名称として受け継がれてきたものです。
「貴布禰神」とは
「貴布禰神」とは、京都の貴布禰総本宮・貴船神社に祀られる水の神のことを指します。
- 高龗神(たかおかみのかみ)
山上に宿る龍神。雨を呼び、雲を動かす。 - 闇龗神(くらおかみのかみ)
谷底や深水に宿る龍神。水を蓄え、湧水を守る。
貴船神社の社記には「高龗神も闇龗神も、呼び名は違えど同じ神なり」とあり、両神は本来ひとつの水源・雨・龍神として理解されています。
水は古代社会において農耕・生活・航海の根幹をなす存在であり、そのため貴布禰神は雨乞い・豊穣祈願・海上安全の神として広く崇敬されてきました。
越智玉純による貴船神社・脇の勧請
貴船神社・脇の創建は聖武天皇の御代である奈良時代の神亀五年(728年)
このとき伊予国司であった越智玉純(おちのたまずみ)が勅命を奉じ、山城国(現在の京都府京都市)の貴船神社を勧請して社殿を建立したことが始まりとされています。
越智玉純とは?伊予に三島信仰を広めた越智氏の人物
越智玉純は、古代伊予に勢力を持った豪族・越智氏の人物であり、史料によっては玉澄あるいは小千玉澄とも記されています。
父は白村江の戦いに参加した伊予水軍の将として伝えられる越智守興とされ、越智氏の有力な一族に属していました。
越智氏は、大三島の大山祇神社の祭神・大山積命を祖神とする氏族で、古代伊予において政治・軍事・祭祀の中心的役割を担いました。
瀬戸内海の海上交通を支えた越智氏は、伊予各地で神社の創建や信仰の広がりに関わったと考えられており、貴船神社・脇の創建伝承もその一つとして伝えられています。
元寇と蒙古撃退祈願
弘安四年(1281年)の元寇の際には、貴布禰神社・脇でも蒙古撃退の祈願が行われたと伝えられています。
13世紀の東アジアでは、モンゴル帝国が広大な領土を支配し、その勢力は中国大陸から西方世界にまで及んでいました。
フビライ・ハンが建てた元は、日本に対しても服属を求めましたが、鎌倉幕府はこれに応じず、ついに文永十一年(1274年)の文永の役、さらに弘安四年(1281年)の弘安の役という二度にわたる大規模な侵攻を受けることになりました。
とくに弘安の役は、日本の歴史においても国家存亡の危機ともいえる未曾有の国難でした。
九州北部を主戦場として激しい戦いが繰り広げられ、各地では異国降伏、武運長久、国土安穏の祈願が行われました。
伊予国もまた、この戦いと無縁ではありませんでした。瀬戸内海は西国と九州を結ぶ海上交通の要衝であり、伊予の武士や水軍は海上防衛のうえで重要な役割を担っていました。
なかでも河野氏は伊予を代表する有力武士団として知られ、博多湾防備のため九州へ出陣したと伝えられています。
瀬戸内海の潮流や航路に通じた伊予の水軍力は、この国難に際して大きな期待を寄せられていたのです。
このような未曾有の国難に際して、伊予各地でも祈願が数多く行われました。
貴布禰神社・脇に伝わる蒙古撃退祈願の伝承も、こうした時代背景の中で行われた一つと考えられます。
南北朝の動乱と懐良親王の戦勝祈願
延元元年(1336年)になると、南北朝の動乱が広がりました。
この頃の日本は、後醍醐天皇による建武の新政が崩れ、京都の北朝と吉野の南朝が対立する南北朝の時代を迎えていました。
争乱は全国へと広がり、遠く四国の伊予国にもその影響が及びます。
伊予の有力豪族であった河野氏の一族もまた、南朝方と北朝方に分かれて争うこととなりました。
河野通盛は幕府方に属しましたが、土居通増や得能通綱などの河野氏の支族は後醍醐天皇を奉じて南朝方として戦い、伊予国は動乱の渦中へと巻き込まれていきました。
このような情勢の中、後醍醐天皇は西国における南朝勢力を強化するため、皇子たちを各地へ派遣します。
その一環として、延元元年(1336年)11月、次の三親王が伊予国へと派遣されました。
- 尊真親王(後醍醐天皇第六皇子)
- 満良親王(同第十一皇子)
- 懐良親王(同第十六皇子)
三親王は征西将軍として任じられ、南朝方の有力武将である篠塚重広や大館氏明などの精鋭武士を従えて瀬戸内海を渡り、伊予へと到着しました。
一行は野間郡大井浦の弓杖島や景島に船を寄せたのち、大井の浜に上陸します。
ここでは伊予国司であった河野通政がこれを迎え、大井寺・清林寺・法隆寺などを仮宮として南朝方の拠点が整えられました。
伝承によれば、この頃、征西将軍であった懐良親王がこの地域を訪れ、戦の勝利と武運長久を願って貴布禰神社で戦勝祈願を行ったと伝えられています。
この戦勝祈願の伝承は、南北朝時代の動乱が瀬戸内海沿岸にまで及んでいたことを物語るものといえるでしょう。
南北朝の動乱と三親王の危機
三親王が伊予の地に滞在したことは、南朝方の軍勢にとって大きな精神的支えとなり、伊予勤王の士気は大いに高まりました。
しかし、その存在は北朝方にとって重大な脅威でもありました。
延元元年(1336年)12月19日の夜、増援を募るため各地に散っていた家臣が留守の間を狙い、北朝方の兵三十余名が仮宮に急襲を仕掛けました。
清林寺の成戒法印、法隆寺の成道法印、大井寺の義泰法印らが僧兵さながらに奮戦しましたが、力及ばず多くが討死。
残っていた将兵たちも命を落とし、三親王の陣営は壊滅的な打撃を受けることとなったのです。
幸いにも三親王の命は守られたものの、尊真親王は深手を負い、拠点であった大井寺も全焼。
これ以上この地に留まり続けることは、あまりにも危険な状況となりました。
仮宮はすでに北朝方の目標となっており、再び襲撃があれば三親王の命運は尽きかねないと家臣団は強く危惧したのです。
そこで、三親王はそれぞれの将来と南朝再興の大義を考え、やむなくこの地を離れる決断を下しました。
懐良親王の伊予脱出
その後、懐良親王は瀬戸内海を拠点とする有力な海上勢力である村上水軍の大将・村上義弘に迎え入れられ、約一年にわたり厳重に警護されました。
さらに忽那水軍の大将・忽那義範が松山沖の忽那諸島に迎え入れ、数年間にわたり匿ったと伝えられています。
この両水軍は瀬戸内海に勢力を持つ強力な海上勢力であり、親王を守り抜くことは南朝方にとっても大きな意味を持っていました。
やがて興国3年(1342年)、成長した懐良親王は豊後水道を経て九州へと渡り、南朝勢力の拠点を築くことになります。
この伊予から九州への旅立ちは、後に九州南朝政権が成立する契機となりました。
加藤嘉明と貴布禰神社
時代は下り、戦国時代の争乱が終わりを迎えた慶長年間になると、伊予国の支配体制も大きく変化しました。
加藤嘉明(かとう よしあき)(1563〜1631年)は三河国幡豆郡永良郷(現在の愛知県西尾市)に生まれ、若い頃から羽柴秀吉に仕えました。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは「賤ヶ岳七本槍」の一人として勇名を馳せ、豊臣政権の有力武将として活躍します。
その後も九州征伐や小田原征伐、朝鮮出兵などに従軍して功績を重ね、文禄4年(1595年)には伊予正木(松前)六万石を与えられ、伊予に入部しました。
さらに関ヶ原の戦い(1600年)では徳川家康に味方して東軍として戦い、その功績により伊予二十万石を与えられ、伊予半国を治める大名となります。
当時の伊予国は藤堂高虎と加藤嘉明によって二分される形となり、藤堂高虎は今治城を、加藤嘉明は松山城を築いて、それぞれ城下町の整備を進めました。
嘉明は、もともと松前城を拠点としていましたが、伊予灘に近く風波の影響を受けやすかったため、新たに道後平野の中心にある勝山(現在の松山城)に築城することを決意します。
その際、家臣の足立重信に命じて石手川の流路改修を行い、城下町建設のための土地造成と灌漑整備を進めました。
この大規模な土木工事によって城下町の基盤が整えられ、慶長7年(1602年)から松山城の築城が始まり、慶長8年(1603年)には城下町の整備が進められました。
社殿修理
こうした加藤嘉明による領内整備の中で、寺社の修理や保護も行われたと伝えられています。
そして慶長9年(1604年)には貴布禰神社・脇の社殿も修理されたと伝えられています。
戦国の動乱が終わり、城下町の形成が進められるこの時代、寺社は地域の信仰の中心として整備されていきました。
貴布禰神社・脇の社殿修理の伝承も、こうした江戸時代初期の地域整備の一環として行われたものと考えられます。
加藤嘉明はその後、寛永4年(1627年)に会津四十万石へ転封となり伊予を去りますが、松山城と城下町の基礎はこの時代に築かれました。
嘉明の転封後、松山城には蒲生忠知が入り松山藩が成立し、寛永12年(1635年)には松平(久松)定行が入封し、松平氏が代々松山藩主としてこの地を治めました。
このような歴史の中で、貴布禰神社もまた地域の人々の信仰を集める神社として、その祭祀が受け継がれてきました。
そして明治4年(1871年)の廃藩置県によって松山藩が廃された後も、貴布禰神社・脇はこの地域の氏神として人々の信仰を集め、今日までその祭祀が守り伝えられています。
貴布禰神社の遷座
貴布禰神社・脇の社地は、もとは中脇の田中にあったと伝えられています。
しかしこの地域は低地で水害を受けやすく、社地が渋水の氾濫によってたびたび流失したため、現在の場所へ遷座されたと伝えられています。
愛媛県神社庁の資料によれば、慶長二年(1597年)に奉斎され、江戸時代の地誌『伊豫漫遊記』には、当社が賞多郷に鎮座する二十五社の一社として記されています。
このような史料の記録から、渋水の氾濫による流失の後、慶長二年頃に現在地へ遷座された可能性も考えられます。



