伯方島に広がった塩田。塩が島にもたらした新たな時代
「は・か・た・の・しお!」
このフレーズを、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
その名にある「はかた」とは、愛媛県今治市、瀬戸内海に浮かぶ「伯方島(はかたじま)」のことです。
数多くの船主や海運会社が拠点を構え、島内には造船所も立地するなど、現在では造船と海運の島として知られています。
現在は瀬戸内しまなみ海道によって本州・四国と結ばれ、美しい多島海の風景が広がり、国内外から多くのサイクリストも訪れる伯方島ですが、かつてその海辺には、一面を埋め尽くすほどの広大な塩田が広がっていました。
塩をつくり、それを船で運ぶ人々。
それが、伯方島の当たり前の風景でした。
そして、この塩づくりは単に島の一産業として栄えただけではありません。
大量につくられた塩を島外へ運ぶために船が必要となり、海運が発達し、さらにその船を建造し、修理する技術も育まれていきました。
現在の伯方島を特徴づける「海運」と「造船」。
その歴史をたどっていくと、島の海辺に広がっていた塩田へとつながっていくのです。
ところが、その長い歴史を重ねてきた伯方島の塩づくりは、時代の大きな変化の中で、消滅寸前まで追い込まれることになります。
そのとき、島に受け継がれてきた塩づくりを残そうと人々が声を上げ、その思いと行動は、やがて現在、私たちが知る「伯方の塩」の誕生へとつながっていったのです。
今回は、江戸時代からおよそ200年にわたって伯方島に受け継がれてきた製塩の歴史をたどっていきます。
日本人の暮らしを支えてきた「塩」
人が生きていくうえで、塩は欠かすことのできないものです。
現在ではスーパーなどで簡単に手に入りますが、冷蔵・冷凍技術が存在しなかった時代、塩は現在以上に人々の生活を支える重要な物資でした。
日々の食事に用いられるだけでなく、魚や野菜などを長期間保存するためにも大量の塩が必要とされました。
さらに味噌や醤油、漬物など、日本の食文化を支えてきた発酵食品にも塩は欠かせません。
しかし、日本では岩塩を大量に採掘できる地域がほとんどありません。
そのため、周囲を海に囲まれた日本では、古くから海水を利用して塩をつくる技術が発達してきました。
その代表的な生産地となったのが、瀬戸内海沿岸です。
しかし、海水から塩をつくることは、決して簡単なことではありません。
海水に含まれる塩分は、わずか3%ほどしかないからです。
海水をそのまま釜で煮詰めて塩をつくろうとすれば、大量の水分を蒸発させなければならず、そのためには大量の燃料と長い時間が必要になります。
そこで日本では、いかに効率よく海水から塩分を集め、濃い塩水をつくるかという工夫が重ねられ、時代とともにさまざまな製塩技術が発達していきました。
海水から塩ができるまで
日本の伝統的な塩づくりは、大きく分けて「採鹹(さいかん)」と「煎熬(せんごう)」という二つの工程によって行われていました。
「採鹹」とは、海水を濃縮して、通常の海水よりも塩分濃度の高い「鹹水(かんすい)」をつくる工程です。
海水をそのまま釜で煮詰めるのではなく、まず太陽の熱や風など自然の力を利用して水分を減らし、塩分を濃縮することで、煮詰める際に必要となる燃料や時間を少なくすることができました。
そして、こうしてつくられた鹹水を釜へ移し、火を焚いてさらに水分を蒸発させ、塩を結晶として取り出す工程が「煎熬」です。
つまり、まず海水を濃縮して鹹水をつくり、次にその鹹水を釜で煮詰めて塩を取り出す。
この「採鹹」と「煎熬」の二つが、日本の伝統的な塩づくりを支える基本的な工程だったのです。
そして、長い製塩の歴史の中で大きく変化していったのが、最初の「採鹹」の方法でした。
海水を汲み上げる「揚浜式」
伯方島で古く行われていたとされるのが、「揚浜式(あげはましき)」と呼ばれる製塩方法です。
揚浜式では、海面よりも高い場所につくられた塩浜へ、人の力で海水を汲み上げて運び、砂の上へ撒きました。
撒かれた海水の水分が太陽の熱や風によって蒸発すると、砂には海水に含まれていた塩分が残ります。
その塩分を含んだ砂を集め、そこへ海水を注いで砂に付着した塩分を溶かし出すことで、もとの海水よりも塩分濃度の高い鹹水をつくりました。
そして、その鹹水を釜へ運び、火を焚いて煮詰めることで塩を取り出します。
ただし、揚浜式には大きな負担がありました。
海面より高い塩浜まで海水を人の力で汲み上げ、運び、広い砂地へ繰り返し撒かなければならなかったため、塩をつくるには膨大な人手と労力が必要だったのです。
それでも伯方島では、こうした海水を利用した塩づくりが古くから営まれてきました。

室町時代にはすでに運ばれていた伯方島の塩
そのことを伝える貴重な史料が、室町時代の文安2年(1445年)に記された『兵庫北関入船納帳』です。
この史料には、兵庫北関へ入港した船の船籍地や積荷などが記録されており、その中には伯方島からやって来た船の記録も残されています。
文安2年には、伯方島の船4隻が塩を積んで兵庫北関へ入港していました。
さらに同じ史料には、伯方島だけでなく、弓削島、岩城島、瀬戸田、因島、竹原、忠海、三原など、現在の芸予諸島や瀬戸内海沿岸各地から、多くの船が塩を積んで兵庫へ入港していたことが記録されています。
つまり15世紀半ばには、瀬戸内海の島々や沿岸部と兵庫との間を塩を積んだ船が行き交い、塩が海上交通によって各地へ運ばれていたのです。
伯方島と塩との歴史は、江戸時代後期に大規模な塩田が開かれたことによって突然始まったものではありません。
それよりもはるか以前から、人々は海と向き合い、塩をつくり、そして船を使って島の外へと運んできたのです。
江戸時代に大きく発展した塩づくり
戦国時代が終わり、社会が安定すると、人口が増え、江戸や大坂をはじめ各地に大きな都市や城下町が形成されていきました。
塩は毎日の食事だけでなく、魚や野菜などの保存、味噌や醤油などの食品製造にも欠かすことのできないものです。
社会が発展するにつれ、大量の塩を安定して生産する必要性も高まっていきました。
その重要な生産地となったのが、瀬戸内海です。
瀬戸内海沿岸は比較的雨が少なく、日照にも恵まれ、さらに遠浅の海岸や潮の干満を利用できる場所も多く存在しました。
こうした自然条件を生かし、瀬戸内海各地には大規模な塩田が築かれていきます。
潮の満ち引きを利用した「入浜式塩田」
こうした瀬戸内海の製塩業を大きく発展させたものの一つが、「入浜式(いりはましき)塩田」です。
それまでの揚浜式では、人の力で海水を汲み上げなければなりませんでした。
これに対して入浜式では、海岸の遠浅の土地を堤防で囲い、その内側に砂を敷いた塩田を造成し、潮の満ち引きを利用して海水を取り込みました。
塩田には海水を出し入れするための水路や樋門が設けられ、満潮によって海面が高くなることを利用して海水を導きます。
塩田へ入った海水は砂に浸透し、太陽の熱や風を受けて水分が蒸発します。
その塩分を含んだ砂を集めて「沼井(ぬい)」へ入れ、海水を注いで塩分を溶かし出し、濃い鹹水をつくりました。
そして鹹水を釜屋へ運び、釜で煮詰めることで塩を取り出します。
人の力で海水を汲み上げる揚浜式から、潮の干満という自然の力を利用する入浜式へ。
この変化によって、より広い塩田で大量の海水を扱うことが可能となり、瀬戸内海沿岸では大規模な塩田が次々と開発されていったのです。

塩田をつくるという一大事業
しかし、入浜式塩田は、海岸に砂を敷けば完成するようなものではありませんでした。
まず海を堤防で締め切り、その内側を塩田として利用できるよう造成しなければなりません。
さらに海水を取り入れ、排水するための水路や樋門を整え、鹹水を集める設備を設け、その近くには鹹水を煮詰める釜屋も必要でした。
何より、相手は海です。
潮の満ち引きを見ながら堤防を築き、波や高潮にも耐えられる土地をつくらなければなりません。
大規模な塩田開発には、莫大な資金と労働力が必要でした。
それでも各地で開発が進められたのは、塩が人々の生活に欠かすことのできない商品であると同時に、地域や藩に大きな利益をもたらす重要な産物だったからです。
塩田で働く人々が集まり、燃料や道具が必要となり、完成した塩を運ぶ船も必要になる。
製塩業は、海運をはじめとするさまざまな仕事と結びつきながら、地域の経済そのものを動かしていったのです。
今治藩が乗り出した伯方島の塩田開発
伯方島では室町時代にはすでに塩を積んだ船が島外へ向かっていましたが、後に島を代表する産業となるほどの大規模な塩田が築かれていくのは、江戸時代後期になってからのことです。
そして文化3年(1806年)、今治藩によって伯方島で本格的な塩田開発が始められたとされています。
その最初の大きな開発となったのが、木浦の南側に築かれた「瀬戸浜塩田」でした。
海や干潟であった場所を堤防で締め切り、その内側を造成する。
伯方島の海岸そのものを、人々の手によって塩を生み出す土地へと変えていく大規模な開発事業の始まりでした。
島の海岸へ広がっていった塩田
瀬戸浜塩田の経営が順調に進むと、今治藩はさらに塩田を拡張しようと考えるようになります。
その後、伯方島の製塩を支えることになるのが、「瀬戸浜」「古江浜」「北浦浜」の三つの塩田です。
それまで海や干潟であった場所に堤防が築かれ、その内側には整然とした塩浜が広がりました。
海水を取り入れる水路が延び、その周囲には鹹水を煮詰める釜屋や製塩に関わる施設が設けられていきます。
島の海岸の風景そのものが、塩づくりによって大きく変わっていったのです。
今治藩の一大事業「古江浜塩田」
なかでも、幕末に今治藩が進めた「古江浜塩田」の築造は、長い年月と莫大な資金を必要とする大事業となりました。
先に完成していた瀬戸浜塩田の経営が順調であったことから、今治藩はその隣に位置する古江浜にも、新たな塩田を築くことを計画します。
しかし、大規模な塩田をつくるためには、何よりも資金が必要でした。
当時の今治藩は財政的に苦しく、塩田開発に必要となる莫大な資金をどのように確保するかが大きな問題となります。
そこで重要な役割を果たしたのが、今治の豪商「深見利兵衛」でした。
豪商・深見利兵衛による資金調達
弘化元年(1844年)4月3日、今治藩は古江浜の塩田開発に向けた土地見分のため、家老・服部外記正弘や岡部直記らを伯方島へ派遣しました。
現地では海面や潮の状態などが調べられ、塩田築造の可能性が検討されました。
しかし、実際に工事へ着手するためには莫大な資金が必要です。
そこで深見利兵衛らは資金調達のため大坂へ向かい、銀主たちとの交渉を重ねました。
交渉は容易にはまとまらなかったといいます。
それでも利兵衛の尽力によって、大坂の銀主3名と堺の2名、合わせて5名から1万3千両を借り入れることに成功したと伝えられています。
しかも、この大金は利兵衛の信用による代借であったともいわれています。
今治藩は、こうした利兵衛の功績に対する代償として、塩の販売や塩田経営に関わる大きな権限を与えることになります。
古江浜塩田は、藩の力だけによってつくられたものではありません。
そこには商人の信用、資金力、そして瀬戸内海から大坂へとつながる商業網も深く関わっていたのです。
古江浜塩田の「砂入れ」が始まる
弘化3年(1846年)4月27日。
古江浜塩田の築造に向けた「砂入れ」が始まりました。
海を締め切って塩田をつくるためには、大量の砂や土を運び込まなければなりません。
砂入れには多くの船と人々が動員され、島民も工事に協力しました。工事を指揮する役人たちは、後の伯方警察署構内にあたる場所に設けられた官舎に滞在したといいます。
この官舎は「御小屋」と呼ばれ、それが現在まで残る「おこや」という周辺の地名の由来になったとも伝えられています。
また、工事に協力した島民に対して、今治藩からさまざまな褒賞が与えられました。
庄屋には苗字帯刀が許されることもあり、米や酒、吸物、鯛などが下賜されたとも記録されています。
度重なる試練と、ついに迎えた「潮留め」
弘化3年(1846年)に砂入れが始まってから、工事は十年以上にわたって続けられていました。
海の中へ堤防を築き、大量の砂や土を運び込み、その内側を塩田として利用できる土地へと変えていく。
長い工事の末、万延元年(1860年)10月7日、ついに「潮留め(しおどめ)」が行われました。
潮留めとは、築いてきた堤防の最後の開口部を閉じ、海水の流入を止める重要な工程です。
それまで海の一部であった場所を海から切り離し、塩田となる土地をつくり出す、塩田築造における大きな節目でした。
ところが、このとき工事は一度では終わりませんでした。
10月7日に潮留めを行ったものの、西側の潮留めの一部が切れてしまったのです。
そこで補修工事が行われました。
そして4日後の万延元年(1860年)10月11日。
ついに潮留めが完成しました。
長年にわたって続けられてきた古江浜塩田の築造が、大きな節目を迎えた瞬間でした。
今治藩の重臣まで駆けつけた落成の日
落成に際しては、今治藩の家老をはじめ役人たちが伯方島へ渡り、近在からも大勢の見物人が集まって大いに賑わいました。
また、古江浜塩田の資金調達などに大きく貢献した深見利兵衛も、奉行や勘定目付らとともに落成見分に訪れたとされています。
海だった場所が、人々の力によって巨大な塩田へと変わる。その歴史的な瞬間を見ようと、藩の重臣から島の人々、近隣の人々までが大勢集まったのでした。
塩田から交易の拠点へ
万延元年(1860年)10月11日の潮留め完成によって大きな節目を迎え、その後も塩田としての整備が続けられ、翌文久元年(1861年)には23浜の落成をみました。
さらに同年には釜が設けられ、塩の入札場も整えられました。
12月上旬に初会が行われた際には若殿が内々に見分へ訪れ、瀬戸浜六番浜から上陸して三島宮へ参詣し、初穂を供えたとも伝えられています。
こうして古江浜には、塩田そのものだけでなく、塩を煮詰め、生産された塩を集め、取引するための仕組みまでがしっかりと整えられていきました。
それは、今治藩と島の人々が長い歳月をかけて成し遂げた、伯方島でも屈指の大造成事業だったのでした。
塩の島、伯方島へ
伯方島の塩田開発は、瀬戸浜や古江浜だけにとどまりませんでした。
島の北部に位置する北浦でも塩田の開発が進められ、「北浦塩田」が築かれていきます。
北浦は木浦、有津、伊方、叶浦とともに今治藩領に属しており、江戸時代の伯方島は、この五つの村によって構成されていました。
ただし、北浦塩田については詳しい記録がほとんど残されておらず、その築造過程には不明な部分が多くあります。
一度にすべての塩田が完成したのではなく、まず四番浜が築造され、その後、順次ほかの浜が整備されたと伝えられています。
そして元治元年(1864年)には、北浦塩田の全浜が完成しました。
こうして幕末には、瀬戸浜、古江浜、そして北浦浜へと塩田が広がり、伯方島の海岸には広大な製塩地帯が形成されていきました。
やがて製塩業は島を代表する産業へと成長し、伯方島は本格的な「塩の島」へと姿を変えていったのです。
塩田開発が生み出した新たな商い
塩田が広がれば、それだけ大量の塩が生産されます。
しかし、島の中だけですべてを消費することはできません。
生産された塩を商品として成立させるためには、それを必要とする地域まで運び、販売しなければなりませんでした。
そこで重要になったのが「船」です。
古江浜塩田で生産された塩は今治藩へ納められ、深見利兵衛の養子・藤兵衛らによって船で大坂方面へ運ばれ、販売されたと伝えられています。
深見家が使用した船の一つが「玉茂丸」でした。
その船名は、深見家が京都・伏見で祀っていたという「玉茂稲荷神社」に由来するとされています。
塩田で生み出された塩は船に積まれ、伯方島を離れ、瀬戸内海の海上交通網へと送り出されていきました。
ここから伯方島の産業は、塩を「つくる」だけではなく、塩を「運ぶ」世界へと大きく広がっていきます。
伯方島の塩田から、今治の綿織物へ
古江浜塩田の築造には莫大な費用が必要でした。
今治藩は、その費用を返済するために塩の販売を進める一方、一般の租税とは別に、領内の武家、商人、百姓に至るまで、一戸につき木綿三反を納めさせたと伝えられています。
原料となる綿は藩から交付され、それを織って木綿として納める仕組みでした。
武家や商人の多くは自ら木綿を織らず、農家に依頼したともいいます。
こうして集められた木綿も大坂方面へ送られ、売却されました。
そして、この仕組みによって領内で木綿を織る機会が増えたことが、後に今治で綿織物業が盛んになる一つの要因になったとも伝えられています。
後世、日本を代表するタオル産地へと発展していく今治。
その歴史の一端にも、伯方島で進められた巨大な塩田開発が関わっていたのです。
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塩田で働いた「浜子」たち
こうした伯方島の塩田を実際に支えていたのが、「浜子(はまこ)」と呼ばれた人々でした。
入浜式によって海水を汲み上げる負担は軽減されたものの、製塩そのものが楽な仕事になったわけではありません。
塩田の砂を整え、海水を管理し、塩分を含ませた砂を集め、鹹水をつくる。
強い日差しを受ける広大な塩田で、こうした作業が繰り返されました。
さらに製塩は天候にも左右されます。
人々は太陽、風、雨、そして潮の動きを見ながら働かなければなりませんでした。
そして伯方島の塩田を支えたのは、島の人々だけではありません。
隣接する大島では島外の塩田へ働きに出る人々が多く、「大島浜子」と呼ばれるほど知られていました。
大島から伯方島をはじめ各地の塩田へ渡り、浜子として働き、なかにはそこで得た資金を蓄えて、後に自ら塩田を所有する側へ成長した者もいたと伝えられています。
人が海を渡ってやって来る。
そして、そこでつくられた塩が、再び海を渡っていく。
伯方島の製塩業は、周囲の島々とも深く結びつきながら発展していったのです。
塩を運ぶ船から発展した伯方島の「海運」と「造船」
こうして伯方島では、塩田の発展とともに、生産された塩を島外へ運ぶ船の役割も大きくなっていきました。
伯方島の人々は単に塩を「つくる側」にとどまらず、自ら船を操り、商品を運び、次第にその活動の場を広げていきます。
その航路はやがて瀬戸内海だけにとどまらず、日本海沿岸へ、さらに北海道へと延びていきました。
塩田で生まれた塩が、船を必要とする。
船が増えれば、それを所有する船主や、船を動かす人々が育っていく。
そして船を維持し、新たな船をつくる技術も必要となる。
塩をつくり、それを船で運ぶ。
こうして培われた伯方島の海運の歴史は、時代とともに姿を変えながら受け継がれ、やがて現在の「海運と造船の島」へとつながっていくことになります。
明治時代、さらに発展する伯方島の製塩業
慶応4年/明治元年(1868年)、明治維新によって日本は新たな時代を迎えました。
明治4年(1871年)には廃藩置県が行われ、それまで伯方島を治めてきた藩による統治も終わります。
しかし、政治の仕組みが大きく変わっても、伯方島で育まれてきた塩づくりが途絶えることはありませんでした。
江戸時代後期に本格化した製塩業は明治時代にも受け継がれ、島を支える重要な産業として、さらに発展していきます。
その中心となったのが、「古江浜」「瀬戸浜」「北浦浜」の三つの塩田でした。
島の海岸には広大な塩浜が広がり、その周囲には海水を取り入れる水路や樋門、濃い鹹水を煮詰める釜屋などが設けられていました。
そこで働いていたのは、塩浜で作業する浜子だけではありません。
鹹水を煮詰める人、製塩に必要な燃料を運ぶ人、塩田や釜屋の設備を維持する人、出来上がった塩を扱う人、そして、その塩を船に積み、島の外へ運ぶ人々。
製塩業は塩田の中だけで完結する産業ではなく、島で暮らす多くの人々の仕事と結びつきながら、伯方島の経済そのものを支える一大産業へと成長していったのです。
より広い海へ進出した伯方島の船
そして、製塩業が発展し、生産される塩の量が増えるほど、それを島の外へ運ぶ海運の役割もまた大きくなっていきました。
江戸時代以来、塩をはじめとする物資を船で運んできた経験を背景に、島の人々はより広い海へと進出していきます。
瀬戸内海から関門海峡を抜け、日本海へ。
さらに北へ向かい、北海道へ。
伯方島の船は、広い海を舞台にさまざまな物資を運ぶようになりました。
こうした航海を重ねるなかで、伯方島には船を所有して海運を営む「船主」が育っていきます。
塩を運ぶなかで培われた海上輸送の経験は、やがて塩だけに依存しない本格的な海運業へと発展していったのです。
そして、船を所有する人々が増え、海運業が発展すれば、その船を建造し、修理する場所も必要になります。
こうして海運とともに伯方島で発展していったのが「造船」です。
当初は木造船が中心で、船大工たちは木材を加工し、瀬戸内海やその先の海を航海する船をつくっていました。
そして時代が進むと、帆船から機帆船へ、木造船から鋼船へと、船そのものも大きく変化していきます。
それに合わせて、島の造船技術も発展していきました。
海運業が船を必要とし、造船業がその船をつくる。
造船業が発展すれば、より大きな船を所有し、さらに遠くまで物資を運ぶことができる。
海運と造船は互いを支え合いながら、伯方島を代表する産業へと成長していったのです。

塩専売制度によって大きく変わる日本の製塩業
しかし、明治時代の製塩業は、ただ順調に発展を続けていたわけではありません。
瀬戸内海沿岸をはじめ全国各地で塩田の開発が進み、大量の塩が生産されるようになると、産地同士の競争も激しくなっていきました。
同じ広さの塩田でも、自然条件や設備、作業方法によって生産量や生産費には大きな差が生まれます。
さらに塩田製塩は、太陽や風によって海水を濃縮するため、天候にも左右されました。
日本の製塩業が大きくなるにつれ、「いかに多くつくるか」だけではなく、「いかに安く、効率よく、安定して塩をつくるか」が重要な課題となっていったのです。
そして明治38年(1905年)。
伯方島を含む全国の製塩地を大きく変える「塩専売制度」が始まりました。
それまで民間で生産・流通していた塩は、国の専売制度のもとで管理されることになります。
製塩業者が塩田で塩をつくること自体は続けられましたが、つくられた塩を自由に販売する仕組みではなくなりました。
塩は国によって買い上げられ、生産から流通、販売に至るまで、国家の強い管理を受ける商品となっていったのです。
これは、伯方島にとっても大きな転換でした。
江戸時代以来、島の人々は塩をつくり、自ら船へ積み、瀬戸内海を越えて各地へ運びながら製塩と海運を発展させてきました。
しかし、ここから伯方島の塩もまた、全国を一つの仕組みで管理する塩専売制度の中へ組み込まれていくことになります。
そして国は、全国の製塩地を比較し、生産費が高い地域や生産条件の悪い塩田を整理していきました。
明治43年(1910年)から翌44年(1911年)にかけて行われた「第一次塩業整備」を皮切りに、日本の製塩業は次第に生産性の高い地域へと集約されていきます。
幾度もの整理を乗り越えた伯方島の塩田
伯方島の塩田は、こうした全国的な製塩業再編の中でも生き残りました。
昭和4年(1929年)から翌5年(1930年)にかけて第二次塩業整備が行われ、さらに戦後になると、製塩業の合理化は一段と進められていきます。
そして昭和34年(1959年)。
「第三次塩業整備」が実施されました。
この整備によって、愛媛県内に残されていた塩田の多くが廃止されていきます。
島しょ部でも例外ではありませんでした。
そうしたなかで、なお製塩を続けることになったのが、伯方島と大三島の宗方でした。
つまり伯方島の塩田は、全国で製塩地の整理が繰り返されるなかでも最後まで生き残り、昭和40年代まで塩をつくり続けたのです。
しかし、そのためには製塩方法そのものも変えていかなければなりませんでした。
入浜式から「流下式塩田」へ
戦後、急速に普及したのが「流下式(りゅうかしき)塩田」でした。
それまでの入浜式では、広大な塩田で大量の砂を扱わなければならず、多くの労働力を必要としていました。
これに対して流下式では、海水をポンプで汲み上げ、緩やかな傾斜をつけた「流下盤」へ流します。
さらに、竹などの枝を組んだ「枝条架(しじょうか)」へ海水を滴り落とし、太陽の熱と風によって水分を蒸発させながら濃縮していきました。
この方式は、流下盤による濃縮と枝条架での水分蒸発を組み合わせていることから「流下式枝条架併用塩田(りゅうかしきしじょうかへいようえんでん)」とも呼ばれます。

流下式枝条架併用塩田 撮影: santama(写真AC)
つまり、流下式という仕組みの中で、枝条架は効率を最大化するための重要な装置として組み込まれたものであり、両者は密接な関係にあるのです。
それまでのように、広大な砂地を人の手で繰り返し耕し、砂を集めて鹹水をつくる必要はありません。
より少ない労働力で、効率よく濃い鹹水をつくることができるようになったのです。
揚浜式から入浜式へ。 入浜式から流下式枝条架併用塩田へ。 伯方島の塩づくりは、時代ごとに新しい技術を取り入れながら生き残ってきました。
しかし、この流下式への転換でさえ、その後に訪れる変化と比べれば、まだ「塩田」を利用する製塩方法の改良にすぎませんでした。
やがて日本では、その塩田そのものを必要としない新しい製塩方法が登場します。
塩田を必要としない「イオン交換膜法」
昭和30年代から40年代、日本では高度経済成長が進み、製塩業でも、より少ない土地と労働力で安定して塩を生産するための技術開発が進められていきました。
そこで実用化されたのが「イオン交換膜法」です。
従来の塩田では、太陽や風の力を利用して海水から水分を蒸発させ、塩分を濃縮して鹹水をつくっていました。
これに対してイオン交換膜法では、海水中のイオンを電気的に移動させ、膜を利用して濃い塩水をつくります。
つまり、広大な塩田へ海水を導き、何日もかけて太陽と風によって濃縮する必要そのものがなくなったのです。
その違いは、生産効率にも大きく表れました。
当時の資料によれば、流下式などによる製塩では1トンあたり約1万2500円の生産費を要したのに対し、新しい方式では約7500円まで低下したとされています。
さらに、同規模の塩を生産するために必要となる土地は従来の塩田と比べて大幅に少なくなり、必要な人員も大きく削減できるようになりました。
長い年月にわたり、太陽と風、広大な土地、そして多くの人々の労働によって支えられてきた塩田製塩。
その前提そのものが、ここで大きく崩れ始めたのです。
伯方島から塩田が消えた日
そして昭和46年(1971年)。
日本の製塩史を大きく変える決定が下されました。
国は「第四次塩業整備」を進め、国内の製塩をイオン交換膜法を中心とする新しい体制へと転換することになります。
それまで残されていた塩田による製塩は、原則として廃止されることになりました。
これは単に、古い設備を新しい設備へ取り替えるという話ではありません。
日本各地で何百年にもわたって受け継がれてきた「塩田」という製塩の風景そのものが、産業としての役割を終えることを意味していました。
そして昭和46年(1971年)12月。
伯方島に残されていた塩田も、ついにすべて廃止されました。
第三次塩業整備を乗り越え、愛媛県で最後まで大規模な製塩を続けてきた伯方島も、この大きな流れから逃れることはできませんでした。
古江浜。
瀬戸浜。
北浦浜。
江戸時代から島の海岸を形づくり、何世代にもわたって人々の暮らしを支えてきた広大な塩田が、ここでその役割を終えることになったのです。
しかし、伯方島の人々は、ただその日を迎えるのを待っていたわけではありませんでした。
塩田が完全に姿を消す以前から、従来の塩づくりを残そうとする人々の動きが始まっていたのです。
伯方塩田を残そうとした人々
昭和45年(1970年)頃。
日本の製塩がイオン交換膜法へ大きく転換しようとするなか、新しい製塩方法だけではなく、従来の塩田でつくられてきた塩も残してほしいと考える人々が現れました。
そして、その人々が注目したのが、当時、愛媛県で最後まで残されていた伯方島の塩田でした。
彼らは消費者の立場から、伯方塩田を存続させてほしいと日本専売公社などへ働きかけを続けました。
しかし昭和46年(1971年)、塩業近代化に伴う全国的な塩田廃止によって、伯方島の塩田も姿を消すことになります。
「伯方島の塩田そのものを残す」という願いは、実現しませんでした。
それでも、人々は諦めませんでした。
塩田そのものを残せないのであれば、せめて、そこでつくられてきたような塩をこれからも食べられるようにしたい。
その思いは、「塩田を残す運動」から「塩を残す運動」へと受け継がれていきます。
失われた塩づくりを取り戻すために
昭和47年(1972年)、従来の塩を求める人々によって「日本自然塩普及会」が結成されました。
彼らが求めたのは、単に昔と同じ塩田を復活させることではありません。
塩田が失われた後も、それまで日本でつくられてきた塩を残し、これからも食べ続けられるようにしたい。
そうした思いから、日本専売公社に対して自然塩の存続を求める運動が続けられていきました。
しかし、そこには大きな壁がありました。
明治38年(1905年)以来続いてきた塩専売制度のもとでは、塩の生産や流通は国の管理下に置かれています。
自分たちが塩をつくりたいと願っても、自由に製塩を始めることはできなかったのです。
そんな中、日本専売公社から示されたのが、「特殊用塩」という道でした。
海外の天日塩田でつくられた原塩を用い、それを国内で再製するのであれば、民間による塩づくりを認める。
従来の塩田を残すことはできなくても、新しい方法で塩を残す道が、ここで開かれ始めたのです。
新たな塩づくりの地に選ばれた「伯方島」
その新たな塩づくりの地として選ばれたのが、伯方島でした。
昭和46年(1971年)12月に塩田が全廃されたばかりの島です。
しかし、伯方島と塩との関わりまで失われたわけではありません。
室町時代にはすでに塩を積んだ船が島外へ向かい、江戸時代後期以降は古江浜、瀬戸浜、北浦浜に大規模な塩田が広がっていました。
そして何より、塩田がなくなったばかりの伯方島には、実際にそこで働き、塩をつくってきた人々がまだ暮らしていました。
塩田は失われても、製塩に携わってきた人々の知識や経験まで消えたわけではなかったのです。
こうして、従来の塩を残したいと願う消費者たちと、長い製塩の歴史を持つ伯方島が結びついていきました。
昭和48年、伯方塩業株式会社の誕生
自然塩の製造を実現するには、日本専売公社から認められた形で、実際に塩を製造する組織をつくらなければなりませんでした。
そこで昭和48年(1973年)4月、日本自然塩普及会のメンバーらによって「伯方塩業株式会社設立準備委員会」が発足します。
そして、日本専売公社に対して「特殊用塩」の製造を申請しました。
その働きかけが実を結び、同年6月には新たな塩づくりへの道が開かれます。
そして8月13日。
伯方島に「伯方塩業株式会社」が誕生しました。
しかし、その船出は決して順調なものではありませんでした。
当初は伯方島の既存の塩業組合へ製造を委託する構想もありましたが、さまざまな事情から実現せず、運動に携わってきた人々自身が伯方島へ入り、一から会社を立ち上げることになります。
創業当初は資金にも余裕がなく、役員が無給で会社を支えた時期もあったといいます。
さらに、それまで全国にほとんど例のない製造方法だったため、既製の設備をそのまま購入すればよいというものでもありませんでした。
そこで、かつて伯方島の塩田で働いていた人々の力も借りながら、自分たちで機械をつくり、改良を重ねていったと伝えられています。
ここでも、失われた塩田で培われた人々の経験が、新しい塩づくりへと受け継がれていったのです。
伯方島の海水を使うことは許されなかった
しかし、新たに誕生した伯方塩業が、自由に伯方島の海水から塩をつくれたわけではありませんでした。
当時、日本専売公社から認められたのは、伯方島の海水を直接汲み上げて製塩することではありません。
使用できたのは、オーストラリアなど海外の天日塩田でつくられ、日本へ輸入された原塩でした。
その原塩をいったん溶かして濃い塩水へ戻し、それを平釜で煮詰め、再び塩として結晶させる。
そうした条件のもとで、新たな塩づくりを始めることになったのです。
「伯方の塩」という名前から、伯方島の海水をそのまま濃縮してつくられた塩を想像する人も多いかもしれません。
しかし、誕生当時の「伯方の塩」はそうではありませんでした。
それでも、人々が目指したものは変わりませんでした。
一度は失われた塩づくりを、新しい形で伯方島に取り戻すことでした。
昭和48年、「伯方の塩」誕生
そして昭和48年(1973年)12月。
伯方島で新たにつくられた塩が、ついに完成しました。
「伯方の塩」。
この名前には、単に製造地を示す以上の意味が込められていました。
その原点にあったのは、塩田廃止に際して人々が抱いた「伯方島の塩田を復活させたい」という願いでした。
長い年月にわたって島の海辺に広がり、人々の暮らしを支えてきた塩田。
その塩田そのものを取り戻すことはできませんでした。
しかし、その歴史を受け継ぐ新たな塩が、同じ伯方島で生まれたのです。
そして翌昭和49年(1974年)1月、「伯方の塩」の販売が始まりました。
一度は塩田をすべて失った伯方島。
それでも人々の声と行動によって、島と塩とのつながりは、新しい形で次の時代へと受け継がれていったのです。
もう一つ受け継がれた伯方島の塩づくり
しかし、塩田廃止後の伯方島で塩づくりを受け継いだのは、伯方塩業だけではありませんでした。
昭和52年(1977年)、伯方島にもう一つの製塩会社が誕生します。
「伯塩産業株式会社」です。
その成立には、伯方塩業とは異なる形で、かつての塩田との直接的なつながりがありました。
後年に行われた聞き取りによれば、創業者の家は、もともと伯方島の塩田所有者でした。
昭和46年(1971年)の塩田廃止によって従来の製塩を続けることはできなくなりましたが、伯方塩業組合の関係者とのつながりなどを背景として新たな会社を設立し、「調理の塩」の名称で塩の製造・販売を始めました。
伯塩産業もまた、当時の塩専売制度のもとで外国産の天日原塩を使用し、それを平釜で再製する方法によって「特殊用塩」をつくっていました。
そして昭和61年(1986年)には、旧塩田跡地へ工場を移転しています。
これは非常に象徴的な出来事でした。
かつて塩田として海水から塩を生み出していた土地で、塩田が失われた後も、異なる製法によって再び塩がつくられるようになったのです。
「自然塩を残したい」という消費者運動から生まれた伯方塩業。
そして、かつて実際に塩田を所有していた人々の系譜から生まれた伯塩産業。
出発点は異なりました。
しかし、その二つの流れはともに、塩田を失った伯方島で「塩をつくり続ける」という一つの歴史へとつながっていったのです。
塩田跡地から生まれた新たな産業
そして、塩田廃止後の伯方島で始まったのは、新しい塩づくりだけではありませんでした。
古江浜、瀬戸浜、北浦浜に残された広大な塩田跡地。
その土地をこれから何に利用するのかは、島にとって大きな課題となりました。
そこで新たに注目されたものの一つが、「水産養殖」です。
昭和47年(1972年)には「北木水産」が創業しました。
その創業者の家も、伯方島で塩田を所有していた家でした。
塩田廃止に伴う転換補償などを利用し、自ら所有していた塩田跡地をクルマエビの養殖場へと改良して、新しい事業へ乗り出したのです。
当時、塩田跡地を利用したクルマエビ養殖は、香川県や山口県などで始まりつつありましたが、まだ確立された産業ではありませんでした。
伯方島からも先進地へ視察に赴き、その可能性を探ったと伝えられています。
昭和50年(1975年)には、「ふじた水産」もクルマエビ養殖へ進出しました。
こちらも、北浦浜や古江浜の塩田を所有していた家を背景に持つ事業者でした。
さらに昭和48年(1973年)には、後に「バイ・エヒメ」となる水産会社も創業し、マダイやトラフグなどの養殖用種苗生産へと発展していきます。
こうして、かつて海水を取り込み「塩」を生み出していた広大な塩田跡地は、今度はクルマエビや魚を育てる「水産」の場へと姿を変えていきました。
塩田は失われました。
しかし、その土地まで失われたわけではありません。
塩田を所有していた人々。
そこで働いていた人々。
そして、海を利用して産業を営んできた経験。
そうしたものは新しい時代へと受け継がれ、製塩、水産養殖、さらには海運や造船へと姿を変えながら、現在の伯方島を形づくっていったのです。
塩田の記憶を今に伝える「塩竈神社」
そして、かつて伯方島に広大な塩田があったことを今に伝える場所の一つが、古江浜と瀬戸浜の境に位置する長崎山に鎮座する「塩竈神社(しおがまじんじゃ)」です。

文政4年(1821年)、伯方島で塩づくりが新たな産業として定着していくなか、その守り神として創建されたと伝えられています。
その後、古江浜塩田の築造が進められ、万延元年(1860年)10月11日に長年にわたる潮留めが完成すると、この日を記念して、塩竈神社では毎年10月11日に祭礼が行われるようになったといいます。
塩田が栄えていた時代には、境内で宮相撲なども催され、多くの人々で賑わっていたと伝えられています。
しかし昭和46年(1971年)、伯方島の塩田はすべて廃止され、それまで製塩業とともにあった祭礼も、次第にかつての賑わいを失っていったといいます。
それでも塩竈神社は、この地に鎮座し続けてきました。
やがて、かつて塩田が広がっていた土地は、新たな塩づくりや水産業の場へと姿を変えていきます。
現在、塩竈神社のすぐ近くには、「伯方の塩」を製造する伯方塩業株式会社の伯方本社・伯方工場があり、その周辺には水産関係の施設などが広がっています。
かつて眼下に広がっていた塩田も、そこで働いていた人々の姿も、今では見ることができません。
それでも、塩づくりの守り神として祀られてきた塩竈神社は今も長崎山に鎮座し、そのすぐそばでは、形を変えながらも塩づくりが続けられています。
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