瀬戸内の港町・今治から、時代を越えて愛される英雄たちへ
瀬戸内海の島々を結ぶ「しまなみ海道」の四国側の玄関口として、国内外から多くの旅行者やサイクリストが訪れる駅です。
東口の駅前ロータリーには、市内各地を結ぶ路線バスや、県外へ向かう高速バスの乗り場が並んでいます。
バスの到着を待つ人々、旅の荷物を手に行き交う旅行者、しまなみ海道を目指すサイクリストたち。
そこには、今治ならではの旅の風景が広がっています。
そんな駅前のバス乗り場のすぐそばに、ひときわ目を引くブロンズ像が立っています。

雲を蹴り、今にも空へ飛び立とうとする躍動感あふれる姿。
その名は「猿飛佐助(さるとび さすけ)」。
戦国武将・真田幸村に仕える「真田十勇士」の一人として知られ、忍術を駆使して活躍する伝説の忍者です。

しかし、真田家の本拠地は信州。
そして、幸村が最期の戦いに臨んだのは大坂でした。
では、なぜ遠く離れた四国の今治駅前に、猿飛佐助の像が立っているのでしょうか。
実は今治は、猿飛佐助や真田十勇士を全国的な人気へと押し上げた『立川文庫』と、深いゆかりを持つ場所なのです。
今治の廻船問屋から始まった『立川文庫』の物語
明治時代。
帆船から蒸気船へ。
江戸時代の城下町から、近代の商業都市へ。
今治もまた、時代の変化のなかで新たな発展を遂げようとしていました。
そんな港町の一角、片原町に「日吉屋」という一軒の廻船問屋がありました。
この商家に、一人の女性が暮らしていました。
その名は、山田敬(やまだ けい)。
人々からは親しみを込めて「お敬」と呼ばれていました。
お敬は日吉屋に生まれ、養子婿を迎えて家庭を築き、子どもたちを育てながら今治で暮らしていました。
瀬戸内海を行き交う船によって、遠く離れた町々と結ばれていた今治。
それでも、お敬の日々の暮らしは、この港町にありました。
運命を変えた講談師との出会い
しかし、明治29年(1896年)。
一人の人物との出会いによって、お敬の人生は大きく動き始めます。
この年、大阪を拠点に活動していた講談師・玉田玉麟(たまだ ぎょくりん)が、巡業のため今治を訪れました。
本名を加藤万次郎といい、後に玉田玉秀斎(たまだ ぎょくしゅうさい)の名を継いで知られるようになる人物です。
当時、講談は人々にとって身近な娯楽の一つでした。
講談師が語り始めれば、そこには戦国武将たちの激しい合戦があり、豪傑たちの冒険がありました。
語り手の声一つで、遠い昔の出来事が、まるで目の前で繰り広げられているかのように感じられる。
テレビもラジオもなかった時代、講談には人々を物語の世界へ引き込む魅力があったのです。
玉麟もまた、そうした物語を語りながら各地を巡る講談師でした。
そして、この今治で、お敬と玉麟は出会いました。
二人がどのような経緯で親しくなったのか、詳しいことは明らかではありません。
しかし、この出会いが、お敬の人生を大きく変えたことは確かでした。
やがて、お敬は生まれ育った今治を離れ、玉麟とともに大阪へ移り住むことになります。
瀬戸内海に面した故郷から、商業と娯楽の盛んな大都市・大阪へ。
長年暮らした商家を離れ、新しい土地へと生活の場を移したお敬。
その選択は、今治に残された家族の運命をも変えていくことになります。
大阪で始まった山田一族の新しい暮らし
明治時代の大阪は、近代化の波のなかで大きく発展しつつありました。
工場や商店が増え、鉄道や蒸気船によって各地との往来も盛んになる一方、芝居や寄席、講談などの娯楽文化も人々の暮らしに深く根づいていました。
お敬が新たな生活を始めたのも、そんな活気に満ちた町でした。
やがて、お敬は今治に残していた子どもたちを大阪へ呼び寄せます。
こうして再び集まった一家が、生活を支えるために携わるようになったのが、講談を読み物にする仕事でした。
当時の大阪では、講談師が語った内容を速記し、書物として出版する「講談速記本」が人気を集めていました。
本来、講談は寄席などに足を運び、講談師の語りを直接聞くことで楽しむものでした。
しかし、口演を文字にすれば、講談師の話を聞きに行かなくても、好きなときに物語を読むことができます。
玉秀斎の講談も、こうした方法で読み物にまとめられていました。
お敬の一家は、その出版活動に関わるようになります。
仕事を支えたのは、長女の寧(ねい)や長男の阿鉄(おてつ)をはじめとする子どもたちでした。
講談師が語った内容を文章にまとめ、読みやすい形に整えていく。
そうした仕事を通じて、一家は次第に出版の世界に深く関わるようになっていきました。
しかし、その活動は、講談師の言葉を文字に書き留めるだけでは終わりませんでした。
やがて家族は、講談特有の語り口を生かしながら、自分たちの手で新しい物語を書き始めます。
それが「書き講談」と呼ばれる創作方法でした。
講談師の口演を記録するのではなく、最初から読者に向けて物語を書き下ろす。
そこでは、登場人物の活躍や冒険の展開を、作者自身が自由に生み出すことができました。
今治の廻船問屋から大阪へと舞台を移した山田一族は、こうして物語をつくる家族へと姿を変えていったのです。
そして、一家のなかから、新しい講談本の誕生に重要な役割を果たす人物が現れます。
お敬の息子、山田阿鉄でした。
『立川文庫』家族で挑んだ出版の世界
明治44年(1911年)。
大阪の立川文明堂から、一冊の小さな講談本が刊行されました。
題名は『諸国漫遊一休禅師』。
一休禅師のとんち話を題材としたこの本は、後に全国的な人気を集める『立川文庫(たつかわぶんこ)』の第1編となりました。
このとき、今治から大阪へ渡った山田一族の出版活動は、新たな段階を迎えることになります。
山田阿鉄が構想した新しい講談本
山田阿鉄(やまだ おてつ、1875〜1942年)は、今治出身の作家で、「山田酔神(やまだ すいしん)」という筆名でも知られています。
阿鉄は、講談師の口演を記録する仕事から、物語を直接書き下ろす「書き講談」の制作へと活動を広げ、一族の中心的な作家として活躍しました。
当時、講談本はすでに人気を集めていましたが、多くの本は大きく、持ち運びに便利とはいえないものでした。
もっと小さく、もっと手軽に読める講談本をつくることはできないだろうか。
後に池田蘭子が発表した小説『女紋』には、阿鉄が当時刊行されていた小型の読み物に着想を得て、新しい講談本を構想した経緯が描かれています。
ただし、『女紋』は一族の経験をもとにした小説であり、発案から出版に至る細かなやり取りのすべてが、史実として確認されているわけではありません。
それでも、阿鉄が『立川文庫』の企画と創作に深く関わったことは、後の研究でも重要な事実として位置づけられています。
その出版を手がけたのが、大阪で立川文明堂を営んでいた立川熊次郎(たつかわ くまじろう)でした。
こうして明治44年(1911年)、立川文明堂の名を冠した『立川文庫』が誕生します。
それは、今治から大阪へ渡った一族が、それまで積み重ねてきた創作活動を世に送り出す、新たな出発点でもありました。
家族が力を合わせて紡いだ物語
『立川文庫』には、一般的な出版物とは異なる特徴がありました。
それは、執筆や編集に、山田一族の多くの人々が関わっていたことです。
作品には「雪花山人」「雪花散人」「野花散人」などの筆名が使用され、複数の家族が協力して物語を生み出していました。
講談特有の語り口を生かしながら、歴史上の武将や豪傑、忍術の達人たちを主人公とする作品を書き上げていく。
一つの作品が完成すると、また次の作品へ。
新しい物語が次々と生み出され、立川文庫の刊行は続いていきました。
その制作を支えたのは、阿鉄だけではありませんでした。
お敬の娘・寧や息子たち、そして孫の池田蘭子(いけだ らんこ)も、一族の仕事に関わっていました。
後に作家として知られる蘭子は、少女時代から原稿のふりがな付けなどを手伝い、やがて自らも創作に参加するようになります。
今治の廻船問屋に生まれたお敬。
その息子である阿鉄、そして孫の蘭子へ。
世代を越えて家族が関わった出版活動は、やがて大きな成功を収めることになります。
明治44年(1911年)に始まった『立川文庫』は、大正13年(1924年)までに196編に及んだとされ、全国の少年たちに広く読まれる人気シリーズへと成長していったのです。
少年たちを熱狂させた『立川文庫』の秘密
一冊、また一冊と刊行される『立川文庫』。
戦国武将や豪傑、忍術を使う人物たちが繰り広げる物語は、次第に少年たちの間で評判となっていきました。
その人気を支えたのは、物語の面白さだけではありませんでした。
本そのものにも、当時の読者を引きつける工夫が施されていたのです。
七色の表紙をまとった小さな講談本
『立川文庫』の大きさは、縦約12.5センチ、横約9センチ。
手のひらに収まるほどの小さな本でした。
現在の一般的な文庫本よりも小さく、懐に入れて持ち歩くこともできる、手軽な読み物だったのです。
表紙には布が用いられ、赤・青・黄・緑・黒・藍・紫という七色の装丁が使われました。
さらに、表紙には揚羽蝶の紋様が施されていました。
この揚羽蝶は、後に池田蘭子が小説『女紋』でも描くことになる、山田家の女性たちの家紋と結びついた意匠でした。
小さな本でありながら、本文には200ページを超える物語が収められていました。
漢字にはふりがなが付けられ、難しい字を十分に読めない少年たちにも楽しめる工夫がなされていました。
しかし、『立川文庫』には、もう一つ大きな特徴がありました。
それは、本の販売方法です。
当初、立川文庫は1冊25銭で販売されていました。
さらに、読み終えた本に3銭を添えると、別の古本と交換できる仕組みも設けられていました。
一冊を読み終えた後も、わずかな追加費用で別の物語を手に取ることができたのです。
次々と新しい物語を読みたい少年たちにとって、これは大きな魅力でした。
立川文庫は貸本屋でも取り扱われ、その人気は大阪を中心に、関西各地から九州、関東へと広がっていきました。
当初、熱心な読者となったのは、大阪の商店で働く少年店員たちだったとも伝えられています。
その後、小学生や中学生にも人気が広がり、立川文庫は大正時代の少年たちにとって、夢中になれる娯楽の一つとなりました。
今治から大阪へ渡った一族が生み出した小さな講談本。
その本は、いつしか故郷の今治をはるかに越え、日本中の少年たちの手へと届くようになっていたのです。
そして、ついに『立川文庫』の人気を決定づける一人の忍者が、やがて物語の世界に登場します。
「猿飛佐助の登場」一冊の講談本が巻き起こした忍者ブーム
大正初期(1913〜1914年頃)。
大阪の立川文明堂から、一冊の講談本が世に送り出されました。
『立川文庫』第40編『猿飛佐助』。
表紙には「真田三勇士」「忍術名人」の文字が掲げられていました。
その主人公は、戦場で軍勢を率いる武将でも、名高い剣豪でもありませんでした。
自在に忍術を操り、敵の目を欺き、次々と迫る危機を鮮やかに切り抜けていく、一人の忍者。
猿飛佐助でした。
それまで真田幸村に仕える人物の一人として語られていた猿飛佐助が、この一冊では物語の主役となり、縦横無尽の活躍を繰り広げます。
そして、この小さな講談本が、やがて日本中の少年たちを夢中にさせる忍術ブームの火付け役となったのです。
真田幸村に仕えた伝説の忍者
物語の舞台は、戦国時代の信州。
郷士の子として生まれた猿飛佐助は、幼い頃から並外れた素質を持つ少年でした。
その才能を見いだしたのが、忍術の名人・戸沢白雲斎(とざわ はくうんさい)です。
白雲斎のもとで厳しい修行を重ねた佐助は、さまざまな忍術を身につけ、やがて戦国武将・真田幸村に仕えることになります。
ここから、佐助の波乱に満ちた冒険が始まります。
幸村の命を受けて各地を巡り、次々と現れる強敵に立ち向かう佐助。
敵の裏をかき、ときには忽然と姿を消し、知恵と忍術を駆使して幾多の危機を切り抜けていきます。
その行く手には、槍の名人・由利鎌之助(ゆり かまのすけ)や、忍術使いの霧隠才蔵(きりがくれ さいぞう)といった手強い相手も待ち受けていました。
しかし、佐助の冒険は、敵を打ち負かすだけでは終わりません。
戦いの末に相手を改心させ、やがてともに戦う仲間へと迎え入れていくのです。
かつての敵が味方となり、一人、また一人と個性豊かな仲間たちが集まっていく。
次々と現れる強敵、想像を超える忍術、そして新たな仲間との出会い。
佐助たちが繰り広げる痛快な冒険は、ページをめくる少年たちの心をつかみ、忍者という存在への憧れを大きく膨らませていきました。
忍者を少年たちの英雄に変えた物語
猿飛佐助が人気を集めた背景には、それまでの忍者のイメージとの違いがありました。
忍術を使う人物は、江戸時代の小説や講談にも登場していました。
しかし、当時の忍術使いには、怪しげな術を操る者や、盗賊、悪役として描かれる人物も少なくありませんでした。
それに対して、立川文庫の猿飛佐助は、勇敢で機知に富み、主君に忠義を尽くす忍術の達人として描かれました。
剣の強さだけではなく、知恵と素早い身のこなしによって危機を切り抜ける。
その姿は、少年たちが憧れる新しい英雄像となったのです。
『猿飛佐助』は大きな人気を集め、立川文庫を代表する作品となりました。
忍術や忍者を題材とした作品は次々と登場し、大正時代の日本には忍術ブームが巻き起こります。
もっとも、猿飛佐助の原型となる物語は、立川文庫以前にも存在していました。
しかし、その人物像を広く知らしめ、忍者を少年たちの英雄として定着させるうえで、立川文庫が果たした役割は大きなものでした。
そして、その創作の中心にいた人物の一人が、今治出身の山田阿鉄(やまだ おてつ)だったのです。
猿飛佐助の名前に秘められた、石鎚山とのつながり
ところで、猿飛佐助の名前には、愛媛県との意外なつながりを伝える説があります。
その舞台となるのが、西日本最高峰・石鎚山の山々です。
石鎚山の南麓に広がる面河渓には、「猿飛岩」と呼ばれる場所があり、周辺には「猿飛」の名を持つ地名が残されています。
一説によれば、山田阿鉄は、故郷・愛媛の石鎚山系にある「猿飛橋」の名前に着想を得て、忍者の名に「猿飛」を用いたといわれています。
信州を舞台に縦横無尽の活躍を繰り広げる忍者。その名前が、遠く離れた四国の山々と結びついていたというのです。
もっとも、この命名説が史実であると確認されたわけではありません。
「猿飛佐助」という名前自体は『立川文庫』以前の江戸時代の文献にも登場しており、山田阿鉄が石鎚山系の地名から新たに命名したと断定することはできません。
それでも、こうした言い伝えが残されていることは、猿飛佐助の物語と愛媛との結びつきを考えるうえで、興味深いものです。
猿飛佐助から広がった英雄・真田十勇士の世界
猿飛佐助の人気は、一人の忍者の活躍だけにとどまりませんでした。
佐助が仕える真田幸村のもとには、武芸や忍術を得意とする個性豊かな勇士たちが集まっていました。
霧隠才蔵、三好清海入道、由利鎌之助。
それぞれが異なる力を持ち、徳川方の大軍を相手に活躍する英雄たちです。
やがて、こうした人物たちは「真田十勇士」として広く知られるようになります。
そして、その人気を全国へ押し広げるうえで、大きな役割を果たしたのが『立川文庫』でした。
十人の勇士が繰り広げる戦国の冒険
真田十勇士とは、戦国時代末期の武将・真田幸村に仕えたとされる十人の勇士の総称です。
- 猿飛佐助(さるとび さすけ)
- 霧隠才蔵(きりがくれ さいぞう)
- 三好清海入道(みよし せいかいにゅうどう)
- 三好伊三入道(みよし いさにゅうどう)
- 穴山小助(あなやま こすけ)
- 海野六郎(うんの ろくろう)
- 筧十蔵(かけい じゅうぞう)
- 根津甚八(ねづ じんぱち)
- 望月六郎(もちづき ろくろう)
- 由利鎌之助(ゆり かまのすけ)
それぞれが忍術や槍術、剣術などを得意とし、主君のために力を尽くす人物として描かれてきました。
なかでも猿飛佐助と霧隠才蔵は忍術の達人として知られ、三好清海入道は豪快な怪力を持つ豪傑として人気を集めました。
しかし、こうした十人の勇士が、すべて実在したわけではありません。
江戸時代の軍記物『真田三代記』などには、後の真田十勇士の原型となった人物が登場しています。
そこへ講談や小説による創作が加わり、現在知られる勇士たちの姿が形づくられていきました。
史実上の真田家の戦いと、想像力によって生み出された英雄たちの活躍。
その二つが重なり合うことで、真田十勇士という壮大な物語の世界が育まれていったのです。
次々と生み出された勇士たちの物語
猿飛佐助の人気を受け、『立川文庫』では真田幸村の家臣たちを主人公とする作品が相次いで刊行されました。
大正3年(1914年)には、第55編『霧隠才蔵』、第60編『三好清海入道』、第62編『由利鎌之助』などが登場します。
猿飛佐助とは異なる忍術を操る霧隠才蔵。
圧倒的な怪力で敵に立ち向かう三好清海入道。
優れた槍術を武器に活躍する由利鎌之助。
一人ひとりが主人公となり、それぞれの冒険が描かれていきました。
読者は佐助の物語を読み終えても、別の勇士が活躍する新たな物語を楽しむことができました。
そして、異なる作品で描かれた人物たちは、真田幸村のもとで活躍する仲間として結びついていきます。
こうして立川文庫は、一人の英雄の人気を、真田十勇士という集団の物語へと広げていきました。
その後、真田十勇士は小説や映画、演劇、漫画など、さまざまな作品に取り上げられるようになります。
時代が移り変わっても、勇士たちの活躍は繰り返し語られ、新しい世代の読者や観客を楽しませてきました。
大正時代の少年たちが手にした小さな講談本から広がった物語は、立川文庫の刊行が終わった後も、日本の大衆文化のなかで生き続けていくことになります。
『立川文庫の終幕』一族が残した物語の行方
明治44年(1911年)の創刊から、次々と作品を世に送り出してきた『立川文庫』。
猿飛佐助や真田十勇士の人気とともに、山田一族が関わる出版活動は大きく発展しました。
しかし、時代は少しずつ変わり始めていました。
大正時代には新しい雑誌や少年向けの読み物が登場し、出版文化そのものが大きな広がりを見せるようになっていました。
立川文庫も、いつまでも同じ人気を保ち続けたわけではありませんでした。
人気シリーズに訪れた終わり
立川文庫の刊行が続く一方で、一族の暮らしにも変化が訪れました。
講談師・玉田玉秀斎や山田敬の死、そして作品の内容が次第に似通うようになったことなども、シリーズの衰退に影響したとされています。
大正13年(1924年)ごろまでに、立川文庫は約200編に及ぶ作品を世に送り出し、その刊行を終えていきました。
今治から大阪へ渡った山田敬。
その息子・山田阿鉄を中心に、一族が力を合わせて続けてきた出版活動にも、やがて一つの区切りが訪れたのです。
しかし、立川文庫が残したものは、刊行された本だけではありませんでした。
一族が生み出し、広めてきた物語の登場人物たちは、その後も新しい作家たちによって繰り返し描かれていきます。
猿飛佐助は、織田作之助や柴田錬三郎、林芙美子など、後世の作家たちによって新たな作品の主人公となりました。
映画や演劇、漫画、テレビドラマ、アニメへ。
忍術を使う英雄の姿は、時代ごとに新しい表現を与えられながら、多くの人々に親しまれていくことになります。
立川文庫という一つの出版シリーズは終わっても、そこから広まった物語の世界は、終わることがなかったのです。
一族の記憶を受け継いだ池田蘭子
立川文庫の歴史には、もう一人、忘れてはならない人物がいます。
今治出身の作家・池田蘭子(いけだ らんこ、1896〜1976年)です。
蘭子は山田敬の孫にあたり、山田阿鉄の姪でもありました。
少女時代から一族による講談本の制作に関わり、原稿のふりがな付けを手伝いながら、やがて自らも物語を書くようになりました。
立川文庫が全国的な人気を集めていた頃、蘭子もまた、その創作活動を支える一員だったのです。
しかし、立川文庫の刊行が終わり、年月が過ぎるにつれて、家族で物語を制作していた当時の事情は、次第に知られなくなっていきました。
全国に名を知られた猿飛佐助や真田十勇士。
その一方で、作品の創作を担った人々の歩みは、長い間、十分に明らかにされていませんでした。
そうした一族の歴史が、再び注目されるきっかけとなったのが、池田蘭子の小説でした。
『小説 女紋』明かされた山田一族の歴史
昭和35年(1960年)。
立川文庫の創刊から、およそ半世紀が過ぎようとしていた頃、一冊の小説が刊行されました。
池田蘭子の『女紋(おんなもん)』です。
そこに描かれていたのは、今治の廻船問屋に生まれた山田敬と、その娘、そして孫へと続く三代の女性たちの物語でした。
長く語られることの少なかった、立川文庫の誕生と創作の舞台裏。
その歴史が、一族の一員であった池田蘭子の手によって、再び世に送り出されたのです。
三代の女性たちが歩んだ人生
『女紋』では、今治の廻船問屋「日吉屋」に暮らしていた山田敬が、講談師・玉田玉秀斎と出会い、故郷を離れて大阪へ渡るまでの出来事が描かれています。
さらに、大阪で始まった暮らし、一族が講談本の制作に取り組むようになった経緯、そして立川文庫の誕生と成功へと物語は続いていきます。
その中心に置かれているのは、祖母・山田敬、娘・寧、そして孫の池田蘭子という、三代の女性たちの人生でした。
一つの家族が時代の変化のなかで、それぞれ異なる生き方を選び、出版の世界に関わっていく姿が描かれています。
『女紋』は、山田一族の経験をもとにした小説です。
そのため、作中の会話や人物の行動、出来事の細かな経緯をすべて史実として扱うことはできません。
しかし、実際に立川文庫の創作に携わった池田蘭子が、一族の歩みを作品として残したことには、大きな意味がありました。
この小説をきっかけに、立川文庫の成立事情や山田一族の創作活動は、改めて研究の対象となっていきました。
『女紋』は発表後に反響を呼び、テレビドラマや舞台作品としても取り上げられました。
かつて家族とともに物語を生み出した少女は、長い年月を経て、今度は一族そのものの人生を描く作家となっていたのです。
小さな本の表紙に残された揚羽蝶
『女紋』という題名には、山田家の歴史と結びついた意味があります。
立川文庫の表紙には、揚羽蝶の紋様が施されていました。
この紋様は、山田家の女性たちが使用していた「女紋」に由来するとされています。
女紋とは、主に女性が受け継ぎ、身につける家紋のことで、地域や家によってさまざまな慣習があります。
小説『女紋』では、この揚羽蝶を立川文庫の表紙に用いることを、山田敬が提案したという経緯も描かれています。
その具体的なやり取りは小説上の描写ですが、立川文庫の表紙に揚羽蝶の紋様が施されていたことは、現存する本からも確認できます。
今治の商家に受け継がれていた女紋が、大阪で刊行された人気講談本の表紙を飾ることになったのです。
日本中の少年たちが手に取った、小さな講談本。
その表紙には、今治にルーツを持つ山田一族の歴史と結びつく紋様が残されていました。
山方町の観音寺に残された山田一族足跡
今治の廻船問屋から大阪へ渡り、家族で物語を生み出した山田一族。
その創作活動は、全国の少年たちを魅了し、後の日本の大衆文化にも大きな影響を与えることになりました。
そして現在も、今治には一族の歴史を伝える場所が残されています。
それが、今治市山方町にある臨済宗妙心寺派の禅寺「観音寺(かんおんじ・観音禅寺)」です。

山田阿鉄と池田蘭子が眠る墓所
昭和17年(1942年)、立川文庫の中心的な作家として活躍した山田阿鉄は、67歳でその生涯を閉じました。
その遺骨は、故郷である今治市の観音寺に納められました。
観音寺の境内奥には、現在も山田一族の墓所が残されています。

また、『愛媛県史』には、昭和51年(1976年)に亡くなった池田蘭子も、この山田家の墓所に眠ると記されています。
明治時代の今治から大阪へ渡り、家族で数多くの物語を生み出した人々。
猿飛佐助や真田十勇士を全国的な人気へと押し上げた創作活動に携わった山田阿鉄と、その一族の歴史が、今もこの寺院に刻まれています。
全国の少年たちを夢中にさせた物語の作り手たちは、今治の地で静かに眠っているのです。
境内に立つもう一つの猿飛佐助像
観音寺には、山田一族の墓所だけでなく、猿飛佐助のブロンズ像も建立されています。
平成16年(2004年)11月に建立されたこの像は、奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」の作者としても知られる彫刻家・籔内佐斗司(やぶうち さとし)さんによる作品です。
手裏剣と巻物を手にした姿で表現されており、立川文庫の物語で活躍する忍者を、生き生きとした造形で伝えています。

猿飛佐助という架空の英雄をかたどった像と、その物語を全国に広めた作家の墓所。
観音寺は今日も、時代を越えて愛される物語と、その創作に人生を捧げた人々の足跡を、静かに伝え続けています。
今治駅前に受け継がれる、猿飛佐助の物語
再び、JR今治駅前の。
猿飛佐助像の像が建立されたのは、平成13年(2001年)のことでした。
今治ライオンズクラブが結成40周年を迎え、その記念事業として故郷と『立川文庫』の歴史的なつながりを後世に伝えるため、今治駅前に贈呈したものです。

かつて今治の港町から大阪へ渡った山田敬と、その家族。
一族が力を合わせて生み出した小さな講談本は、やがて日本中の少年たちを魅了し、一世紀以上の時を経た現在も、さまざまな作品のなかに生き続けています。
その歴史を忘れず、次の世代へと受け継いでいく。
今治駅前の猿飛佐助像には、そんな郷土の人々の思いが込められているのです。
かつて瀬戸内海を行き交う船によって、全国の町々と結ばれていた今治。
その港町から旅立った一族の物語は、時代を越えて多くの人々に親しまれるようになりました。
そして今日も、今治駅前には猿飛佐助が立っています。
故郷を離れた人々が、日本の大衆文化に残した足跡を、静かに伝えながら。