高地地域に受け継がれる御頭祭
須賀神社・高地町(今治市)|河内大明神の古い由緒と、地域に受け継がれる御頭祭
今治市高地町。
岡山理科大学今治キャンパスの北側、近見山のふもとに広がる地域です。
周辺の丘陵からは弥生時代の遺跡や古墳も見つかっており、古くから人々が暮らしを営んできた土地です。
小高い丘や谷が入り組んだ地形が特徴で、今も豊かな山林が残っています。
現在は自然体験施設「しまなみアースランド」が整備され、道路の整備も進むなど、豊かな自然を残しながら、街の姿も少しずつ変わってきました。
そんな高地町の東側、住宅地にほど近い小高い丘には、古くから地域の人々に大切にされてきた神社が、今も守り継がれています。
それが、「須賀神社(すがじんじゃ)」です。
須賀神社の由緒と歴史
須賀神社の創建年代は明らかになっていませんが、その由緒には『風土記』の記録として「古郷地大明神 河内谷大地」という一節が伝えられています。
この地域はかつて日吉村の一部で、江戸時代の宝永7年(1710年)の土地記録には、『日吉村河内谷古池新田野取帳』という史料が残されています。
当時から「河内谷」という地名が使われていたことがわかります。
須賀神社も、古くは河内谷に祀られていたことから「河内大明神」と呼ばれていたと伝えられています。
また、大木の丘にあったことから「大木大明神」とも称され、ほかにも「応化大明神」という名が残されています。
河内谷や大木の丘が現在のどの場所にあたるのかは明らかになっていませんが、こうした古い呼び名には、周辺の谷や丘の地形と結びついた神社の歴史が残されています。
『風土記』からたどる古い歴史
『風土記』とは、奈良時代の和銅6年(713年)に朝廷が各国に編纂を命じた地誌で、土地の地形や産物、地名の由来、古くからの伝承などを記録したものです。
伊予国(現在の愛媛県)でも『伊予国風土記』が編纂されましたが、完本は現存せず、鎌倉時代後期に成立した『釈日本紀』などに引用された一部が現在まで伝えられています。
須賀神社の由緒に残る一節が、この『伊予国風土記』に由来するものであれば、その歴史は奈良時代にまでさかのぼる可能性があります。
ただし、由緒に記された『風土記』の出典は特定されておらず、正確な創建年代は今も明らかになっていません。
明治維新と須賀神社への改称
時代は進んで、明治元年(1868年)。
江戸幕府に代わって明治政府が新たな国づくりを進めるなか、神社を取り巻く制度も大きく変わり始めました。
政府は、それまで一体となって信仰されることの多かった神道と仏教を分ける「神仏分離(しんぶつぶんり)」を進め、全国各地で神社の名称や祀り方が見直されていきました。
詳しい改称の経緯は明らかになっていませんが、こうした時代の転換期に、河内大明神などと呼ばれていた神社も、現在の「須賀神社」へと名を改めました。
明治43年、二つの神社を合祀
それから42年後の明治43年(1910年)、須賀神社には新たに二つの神社が合祀されました。
- 大山積神社(おおやまづみじんじゃ)猪谷に祀られていた神社で、祭神は大山積神(おおやまづみのかみ)。山を司る神として知られ、今治市大三島に鎮座する大山祇神社の祭神でもあります。
- 大穴遅神社(おおなむちじんじゃ)西奥に祀られていた神社で、祭神は大穴遅神(おおなむちのかみ)。大国主神の別名で、日本神話では国作りの神として知られています。
明治39年(1906年)以降、全国各地で神社の整理・統合が進められており、須賀神社での合祀も、こうした動きが広がっていた時期に行われました。
かつて猪谷と西奥でそれぞれ祀られていた二社は、現在も須賀神社の境内社としてその名を残しています。
日吉村から現在の今治市へ
大正9年(1920年)、高地の一帯が属していた日吉村は今治町と合併し、今治市が誕生しました。
当時の今治は織物産業が盛んで、港の整備も進み、商工業のまちとして発展していきました。
昭和に入ると近見村や立花村など、周辺の村との合併も進み、市域は次第に広がっていきます。
昭和53年(1978年)には、それまで日吉と呼ばれていた地域の一部が、現在の「高地町1丁目・2丁目」という町名になりました。
そして平成17年(2005年)、今治市は周辺11町村との大合併を経て、現在の市域となりました。
こうして時代とともに地域の名前や街並みが変わっていくなか、須賀神社では、地域の人々によって古くからの信仰や祭礼が大切に受け継がれてきました。
主祭神・須佐之男命
須賀神社の主祭神である須佐之男命(すさのおのみこと)は、『古事記』や『日本書紀』に登場する神で、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟神として知られています。
荒々しく勇猛な性格を持つ一方、人々を災厄から守る神としても信仰され、古くから厄除けや疫病退散などの願いを集めてきました。
日本神話では、出雲の地で人々を苦しめていた八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、櫛名田比売(くしなだひめ)を救ったことで知られています。
その後、須佐之男命は櫛名田比売とともに出雲国の須賀の地に宮を築いたと伝えられています。
『古事記』には、須佐之男命がこの地を訪れた際、自らの心が清々しくなったことから「須賀」という地名が生まれたと記されています。
この神話の舞台とされているのが、島根県雲南市に鎮座する須我神社(すがじんじゃ)です。
須我神社は、須佐之男命が宮を築いたという伝承から「日本初之宮(にほんはつのみや)」とも呼ばれ、現在も出雲神話ゆかりの神社として知られています。
疫病を鎮める牛頭天王と祇園信仰
須佐之男命への信仰を知るうえで欠かせないのが、牛頭天王(ごずてんのう)と祇園信仰の歴史です。
かつて日本では、疫病の流行や大きな災害を、神仏の怒りや怨霊の働きによるものと考えることがありました。
特に疫病は多くの命を奪う恐ろしい災いであり、人々は神仏に祈りを捧げ、その流行を鎮めようとしてきました。
こうした信仰と深く結びついていたのが、京都の八坂神社です。
八坂神社は、古くは「祇園社」や「祇園感神院」と呼ばれ、疫病を鎮める神として牛頭天王が祀られていました。
牛頭天王は、仏教の祇園精舎と結びつく神で、日本では神道と仏教が融合した「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」のなかで、須佐之男命と同一視されるようになりました。
疫病をもたらす恐ろしい力を持つ一方、その災いを鎮め、人々を守る力も持つと信じられ、厄除けや疫病退散を願う人々の信仰を集めてきました。
平安時代の貞観11年(869年)には、都をはじめ各地で疫病が流行した際、災厄を鎮めるために「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」が行われたと伝えられています。
これが、現在も京都で続く祇園祭の起源とされています。
その後、祇園信仰は全国各地へと広がり、祇園社や天王社と呼ばれる神社が祀られるようになりました。
このように、須佐之男命への信仰には、神話に登場する勇猛な神という姿だけでなく、疫病や災厄から人々を守る神としての長い歴史も重なっています。
御頭祭と受け継がれる「お頭渡し」
須賀神社では、毎年10月第3日曜日に「御頭祭(おとうさい)」が行われています。
この祭礼で中心的な役割を担うのが、「お頭屋(おとうや)」と呼ばれる世話役です。お頭屋は、神社の例大祭や御頭祭の準備、運営などを取り仕切り、祭礼を支えてきました。
御頭祭では、その年のお頭屋から翌年のお頭屋へと役目を引き継ぐ「お頭渡し」の神事が行われます。
これは単なる世話役の交代ではなく、地域の人々が祭礼を守り、次の担い手へと受け継いでいく大切な節目でもあります。
今治地方に伝わる頭屋制度
こうした、地域の氏子などが交代で祭礼を担当する仕組みは「頭屋制度(とうやせいど)」と呼ばれ、古くから日本各地に伝えられてきました。
近畿地方から中国・四国地方にかけても広く見られ、愛媛県では今治市周辺や芸予諸島をはじめ、東予地方を中心に受け継がれています。
なかでも今治地方では、頭屋が中心となって行う祭礼を「オトウ」と呼び、翌年の担当者へ役目を引き継ぐ「お頭渡し」を大切な神事として受け継いできました。
今治地方には、祭礼の中心となる世話役を「トウモト」、それを補佐する役を「ヨリトウ」などと呼ぶ地域もありました。
一般的に、頭屋は神職を補佐しながら、神事に必要な準備や神前への供え物、祭礼に集まる人々の世話などを担当します。
その役割や作法は地域によって異なりますが、氏子たちが協力して祭礼を支え、次の担当者へと引き継ぐ仕組みは、地域のつながりを保つうえでも重要な役割を果たしてきました。
高地の須賀神社に残る御頭の記録
須賀神社の御頭行事については、かつての祭礼の様子を伝える興味深い記録も残されています。
昭和の頃の記録には、高地地区の須賀神社で行われていた「オトウ」について、次のような習わしが紹介されています。
当時は10月12日に行われ、神前には甘酒やイギスを供え、膳には焼いた「バタ(ハス)」を添えていたといいます。
イギスは、瀬戸内海沿岸の浅い海に生える海藻の一種です。今治地方では、これを大豆粉などと煮て固めた郷土料理「いぎす豆腐」が知られています。
こうした地域になじみのある食材が神前への供え物にも使われていたことは、須賀神社の御頭行事が、土地の暮らしや食文化とも結びついていたことを伝えています。
なお、かつての記録では祭日が10月12日とされていますが、現在の御頭祭は10月第3日曜日となっています。
供え物や神事の作法が現在も同じ形で続いているかどうかは明らかになっていませんが、こうした記録は、高地地区に伝わってきた祭礼の特色を知る貴重な手がかりとなっています。
高地町とともに歩んできた須賀神社
須賀神社では、御頭祭のほかにも4月20日の祈年祭、5月第2日曜日の例大祭、11月23日の新嘗祭などが行われています。
こうした祭礼は、地域の人々と神社を結びつける大切な行事として、長年にわたって受け継がれてきました。
近見山のふもとに広がる高地町では、道路や住宅地の整備が進み、かつての風景も少しずつ変わってきました。
その一方で、須賀神社には、河内大明神と呼ばれた古い時代の由緒や、地域の人々が守り続けてきた祭礼の伝統が今も残されています。
古い地名に残る土地の歴史と、世代を超えて受け継がれてきた人々の信仰。
須賀神社は、高地町の長い歩みを今も伝えています。



