石井の地に受け継がれてきた「祇園さん」の祈り
愛媛県今治市石井町。
今治市の北部、近見山の北側に広がるこの地域には、緑豊かな山林と住宅地が隣り合い、山のふもとには田畑や昔ながらの集落が残されています。
標高244メートルの近見山は、山頂から瀬戸内海や来島海峡を見渡せる場所として知られ、周辺には石井公園なども整備されています。
住宅地が広がる石井町ですが、かつては「石井村」と呼ばれ、近見山のふもとに広がる田畑とともに、人々の暮らしが営まれてきました。
そんな石井の地で、古くから「石井の祇園さん」と呼ばれ、厄除け招福の神として人々の信仰を集めてきた神社があります。
それが「須賀神社・石井町(すがじんじゃ)」です。
近見山に残る古い歴史と石井村の歩み
石井町の歴史は古く、近見山の山麓には、古墳時代に築かれた数多くの円墳が残されています。
円墳は土を円形に盛り上げて築いた古代の墓であり、こうした古墳の存在から、近見山の周辺には古墳時代から人々が暮らしていたことがうかがえます。
また、近見山には、中世に「石井山城(近見山城)」と呼ばれる山城が築かれ、戦国時代には伊予の河野氏に連なる重見氏の居城となっていました。
近見山は、古くから人々の暮らしや地域の歴史と深く関わってきた山でもあったのです。
江戸時代、石井村から広がった新田開発
やがて江戸時代になると、石井村は今治藩の領内に属し、近見山の山林と、その東側に広がる田畑を中心とした村となっていました。
当時の今治藩では、農業生産を増やすために各地で新田開発が進められ、特に蒼社川や浅川の流域では、低湿地や海岸沿いの土地を利用した開発が盛んに行われていました。
寛永14年(1637年)の「石井村検地帳」には、すでに44町2反の田畑が記録されており、江戸時代初期には、石井村にまとまった農地が広がっていたことがわかります。
石井村もこうした新田開発が進められた地域の一つで、特に浅川下流の低湿地では、干拓によって新たな田畑が切り開かれていきました。
慶安元年(1648年)の「今治御領分新高畝村人数帳」には、石井村の一部として「大新田」の名前が記録されています。
大新田は、浅川下流の低湿地を干拓して開かれた土地で、その後も開発が進み、貞享元年(1684年)までには石井村から独立した「大新田村(現在の大新田町)」が成立しました。
こうして石井村とその周辺では、山裾の農地に加えて新たな田畑が切り開かれ、人々の暮らす場所も少しずつ広がっていきました。
災いから人々を守る「石井の祇園さん」
田畑が広がり、村が発展していく一方で、当時の人々の暮らしには、さまざまな不安がありました。
農作物は天候や自然災害の影響を受けやすく、病気や疫病の流行も人々にとって大きな脅威でした。
こうした時代、人々は家族の健康や日々の暮らしの無事、そして村の平穏を願い、地域の神々に祈りを捧げてきました。
そんな人々の願いと深く結びつき、石井の地で古くから崇敬されてきたのが、須佐之男命(すさのおのみこと)を祀る「須賀神社(すがじんじゃ)」です。
須賀神社の詳しい創建年代や建立に至る経緯は明らかになっていませんが、古くから「石井の祇園さん」と呼ばれ、厄除け招福の神として篤い崇敬を集めてきました。
この「祇園さん」という呼び名には、疫病や災厄を鎮めることを願って全国各地に広がった祇園信仰の歴史が深く関わっています。
八岐大蛇を退治した須佐之男命
須賀神社の祭神である須佐之男命は、『古事記』や『日本書紀』に登場する神で、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟神として知られています。
荒々しく勇猛な性格を持つ一方で、人々を災厄から守る神としても信仰され、古くから厄除けや疫病退散などの願いを集めてきました。
日本神話では、出雲の地で人々を苦しめていた八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、櫛名田比売(くしなだひめ)を救ったことで知られています。
その後、須佐之男命は櫛名田比売とともに出雲国の須賀の地を訪れ、そこに新たな宮を築いたと伝えられています。
『古事記』には、須佐之男命がこの地を訪れた際、自らの心が清々しくなったと語ったことから、「須賀」という地名が生まれたと記されています。
この神話にゆかりを持つのが、島根県雲南市に鎮座する須我神社(すがじんじゃ)です。
須我神社は、須佐之男命が宮を築いたという伝承から「日本初之宮」とも呼ばれ、出雲神話を今に伝える神社として知られています。
ただし、石井町の須賀神社が須我神社から直接勧請されたかどうかや、その社名が出雲の須賀宮に由来するかどうかについては、詳しい記録が確認されていません。
疫病を鎮める牛頭天王と祇園信仰
須佐之男命への信仰を知るうえで欠かせないのが、牛頭天王(ごずてんのう)と祇園信仰の歴史です。
古代から中世にかけて、日本では疫病の流行や大きな災害を、神仏の怒りや怨霊の働きによるものと考えることがありました。
医療が十分に発達していなかった時代、疫病は多くの命を奪う恐ろしい災いであり、人々は神仏に祈りを捧げ、病を鎮めようとしてきました。
こうした信仰の中心となったのが、京都の八坂神社です。
八坂神社は、古くは「祇園社」や「祇園感神院」と呼ばれ、疫病を鎮める神として牛頭天王が信仰されていました。
牛頭天王は、仏教の祇園精舎と結びつく神であり、日本では神道と仏教が融合する神仏習合のなかで、須佐之男命と同一視されるようになりました。
牛頭天王は、疫病をもたらす恐ろしい力を持つと同時に、その災いを鎮め、人々を守る力も持つと信じられていました。
そのため、人々は牛頭天王を畏れながらも篤く祀り、疫病退散や無病息災を願って祈りを捧げてきたのです。
平安時代の貞観11年(869年)には、京都で疫病を鎮めるために祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が行われたと伝えられ、これが現在の祇園祭の起源とされています。
やがて祇園信仰は全国各地へと広がり、各地に祇園社や天王社が祀られるようになりました。
特に夏は疫病が流行しやすい季節であったことから、祇園信仰では夏に祭礼を行い、疫病退散や地域の平穏を願う風習が広まっていきました。
石井町の須賀神社も、こうした祇園信仰を受け継ぐ神社として、地域の人々から「石井の祇園さん」と呼ばれ、親しまれてきました。
旧暦6月14日、夏の祭礼に込められた祈り
須賀神社の例大祭は、旧暦6月14日(現在の暦ではおおむね7月〜8月頃)に行われるとされています。
暑さや湿気が増すこの季節は、古くから疫病の流行が恐れられてきました。
そのため、全国各地の祇園信仰では、夏の祭礼を通して疫病退散や無病息災を願う風習が受け継がれてきました。
京都の祇園御霊会も、かつては旧暦6月7日と14日に祭礼が行われており、石井町の須賀神社の例大祭と日付が重なっています。
こうした共通点からも、須賀神社に受け継がれてきた祇園信仰の特色がうかがえます。
「石井の祇園さん」と親しまれてきた須賀神社には、家族の健康や地域の平穏を願う人々の祈りが受け継がれてきたと考えられます。
明治の神仏分離と受け継がれた信仰
江戸時代から明治時代へと移り変わるなか、全国の神社を取り巻く環境も大きく変わっていきました。
明治元年(1868年)、新政府は神仏分離を進め、それまで長く結びついていた神道と仏教を制度上分けることとしました。
この政策によって、全国各地の祇園社や天王社でも、牛頭天王に代わって須佐之男命を祭神とするなど、神社名や祭祀のあり方が見直されていきました。
それまで神仏習合のもとで受け継がれてきた祇園信仰も、こうした時代の変化のなかで、新たな神社制度へと組み込まれていったのです。
ただし、石井町の須賀神社がこの時期に社名や祭神を改めたかどうかについては、詳しい記録が確認されていません。
石井町の大山積神社とのつながり
明治4年(1871年)には廃藩置県が実施され、江戸時代から続いた今治藩が廃止されて今治県が成立しました。
また、明治政府は全国の神社制度にも改革を進め、神社を官社や諸社に区分する新たな社格制度を設けました。
地域の神社にも「郷社」や「村社」といった社格が設けられ、各地の神社が新しい制度のもとで整理されていきました。
こうした神社制度の転換期にあたる明治4年、須賀神社・石井町は、同じ石井町に鎮座する村社・大山積神社・石井町の末社として崇敬されるようになりました。

大山積神社・石井町は、大山積命(おおやまつみのみこと)を祭神とする神社で、奈良時代の神亀5年(728年)、聖武天皇の勅命によって大三島の大山祇神社から大山積大神を勧請して創建されたと伝えられています。
古くから「古別宮」と称され、大三島の大山祇神社と深い関わりを持つ神社として、近見地域の人々から崇敬されてきました。

山や海をつかさどる大山積命を祀る大山積神社と、疫病や災厄を鎮める須佐之男命を祀る須賀神社。
それぞれ異なる神々を祀りながら、石井地域の人々の暮らしと深く関わり、信仰を受け継いできました。
古くから「石井の祇園さん」と呼ばれ、人々に親しまれてきた須賀神社。
近見山のふもとに広がる石井町の風景が時代とともに変わっても、厄除け招福を願う人々の信仰を受け継ぎながら、今も石井の地を静かに見守り続けています。



