桜井に伝わる海の武士・田坂槍之助の忠義と武勇
今治市桜井。
白砂青松の志島ヶ原、綱敷天満宮の社叢、古くから海とともに生きてきた人々の営み。
穏やかな風景が広がるこの地には、実は瀬戸内を支配したあの村上水軍とも深い関わりがあることをご存じでしょうか。
その縁を結ぶ存在こそ、村上水軍御三家の一つ来島村上氏に仕え、比類なき武勇と揺るぎない忠義をその身で示した武人、田坂槍之助(たさか やりのすけ) です。
※詳細な記事は『村上水軍が誇る伝説の槍・田坂槍之助 ── 戦国の瀬戸内に鳴り響いた無双の最期』をご参照ください。
十反帆の大船と、来島瀬戸の緊張
ある日、来島瀬戸の海を巨大な帆が切り裂き、一隻の堂々たる中型船が姿を現しました。
その船は、畳六十枚を超える十反もの大帆(おおほ)を張り、瀬戸の強い潮風を一身に受けて勢いよく進んでいました。
船上には、芸州(現・広島県)の豪族・佐伯氏の家臣二十数名が乗り込み、海域を守る来島村上氏の番衆(ばんしゅう)たちは、いつもの通り「帆別銭(通行料)」の支払いを求めました。
帆別銭とは、海の安全を守る来島水軍が古来より定めてきた掟であり、船が安全に瀬戸を通るための海上保護料にあたります。
しかし、この十反帆の船は帆別銭の支払いを拒み、強引に来島瀬戸を突破しようとしました。
掟を踏みにじるこの行為は、来島村上氏の権威そのものを否定する暴挙でした。
槍之助、怒りとともに海へ
この知らせを受け、ただちに動いたのが来島村上家の武士・田坂槍之助(たさか やりのすけ)でした。
槍之助は小舟に乗り込み、激しい潮流をものともせず大帆船を追いかけ、ついに船腹へ追いつきます。
「帆別銭を出して行け。天下の法をないがしろにする振る舞い、断じて許すわけにはいかぬ!」
しかし、佐伯家臣たちは鼻で笑い、こう叫び返しました。
「この広い海を通るのに関所とは片腹痛いわ。帆別銭がほしければ、どこまでもついてくるがよい」
この侮辱に槍之助は烈火のごとく怒り、
「問答無用! これ以上の無礼は許すわけにはいかぬ!」
そう叫ぶやいなや、槍之助はひとり槍を手に敵船へと飛び移りました。
海の武士による圧巻の槍さばき
海上戦に不慣れな佐伯家臣たちは足元がおぼつかず、揺れる甲板で槍之助の気迫と動きにまったく対応できませんでした。
槍之助は海の武士らしく、船が傾こうと、波が甲板を洗おうと、槍を自由自在に操りました。
そして一撃目で一人、続けてもう一人を突き伏せました。
潮の流れは容赦なく船を押し流し、戦いの場はやがて桜井沖へと移っていきました。
その間に倒れた兵は八人、深手を負った者が六人。
二十名を超える兵のうち、半数以上が槍之助ただ一人によって戦闘不能となったのです。
恥をさらした佐伯家臣の懇願
恐怖に染まった佐伯家臣たちは顔色を失い、ついに両手を合わせ懇願しました。
「陸で勝負をしてほしい」
多勢でありながら、たった一人を相手に敗北寸前となり、命乞いに等しい懇願を口にする姿は、もはや武士としての威厳も誇りも感じられないものでした。
槍之助は義理人情に厚く、この願いを聞き入れ、江口の砂浜で改めて決着をつけることを承知しました。
■ 江口の浜での最期の戦い
しかし、陸上でも槍之助の猛攻は止まりませんでした。
七、八人に囲まれながらも、弾かれた砂の中で槍を翻し、五、六人を瞬く間に突き伏せました。
しかし、圧倒的な人数差と連戦の疲労には抗えず、槍之助は深手を負い、ついに力尽きて首を取られ、江口の浜でその生涯を閉じました。
生還した佐伯家臣はわずか五人。
無傷はただ一人だけだったと伝えられています。
武士の恥と主君の怒り
佐伯家臣たちは槍之助の首を塩漬けにし、帰国後すぐに主君に戦果を報告しました。
しかし佐伯氏は激怒しました。
「法にそむき、たった一人の武士を相手にこれほどの無様な失態を晒すとは……。武士として見苦しき振る舞いである!」
その場で家臣五名は即座に追放されました。
追放とは、主従関係を断たれ、武士としての身分・立場を失うことを意味します。
とくに大名家の正式な処分として「追放」を言い渡されることは、武士として二度と家に帰れないだけでなく、他家に仕官することも極めて難しくなる、武士としての人生の終わりを意味していました。
神として祀られた忠義と武勇
一部始終を目撃していた桜井の人々は、法を守り、主君の名誉を背負って命を捧げた田坂槍之助の姿に深い感銘を受けました。
圧倒的な不利の中でも退くことなく槍を握り続け、最後の瞬間まで戦い抜いたその生き様は、まさに武士の鑑と呼ぶにふさわしいものでした。
桜井の人々は、激しい戦いの舞台となった江口の浜辺に槍之助の亡骸を丁重に葬り、その忠義と勇気に深い敬意を捧げました。
しかしその後、奇妙な出来事が村に起こります。
槍之助の墓前を馬に乗ったまま通ると、馬が突然苦しみ、乗り手が落馬するという異変が相次いだのです。
村人たちは、これを無念のうちに散った槍之助の霊が迷い、まだ安らげずにいる徴ではないかと考えるようになりました。
そこで槍之助の魂を慰め、再び地域を守護する存在となっていただけるよう、沖浦(旧桜井町沖浦)にそびえる江口山(明神山)の頂上に小さな祠を建てることになりました。
江口山は瀬戸内海を一望できる静かな高台で、来島海峡を見渡すその眺めは、槍之助が生前見守ってきた海と同じ景色でした。
村人たちは「こここそ槍之助の霊が安らぐ場所である」と考え、祠を建立すると「江口八幡宮(えのくちはちまんぐう)」と称して丁重に祀りました。
八幡神は古来より武士の守護神として深く崇敬されてきた神であり、その御神徳は「武運長久」「勝負必勝」「国家鎮護」に及びます。
来島水軍の武士として掟を守り、帆別銭を拒んだ武士らとただ一人で戦い、荒れる瀬戸内の海で主君の名誉のために殉じた槍之助の姿は、八幡神が象徴する「忠義」「勇気」「武の道」と重なり合うものでした。
そのため、槍之助が八幡神として祀られるようになったことは、地域の人々にとって、きわめて自然なことであったと考えられます。
江口八幡宮から綱敷天満宮へ続く田坂槍之助の系譜
時代が移り、志島ヶ原の地に新たな綱敷天満宮(綱敷天満神社・新天神)が創建されました。
この創建に際して、長く江口山の頂で槍之助の霊を守ってきた江口八幡宮が、境内社として合祀されることになりました。
こうして、江口の入江で祀られてきた田坂槍之助の御霊は綱敷天満宮の境内へと迎えられ、「田坂八幡神社」と称され、今日まで静かに祀られ続けています。
槍之助が生涯を懸けて見守った来島海峡は、綱敷天満宮の境内にも風の匂いや潮の気配となって届きます。
まるでその魂が、新しく設けられた社の地からもなお、海と人々の暮らしを守っているかのようです。
一方で、かつて槍之助の霊が祀られていた江口八幡宮の社殿は、長い年月の中で姿を失いました。
しかし、御神体が安置されていたとみられる石祠や基壇跡が今も江口山(明神山)の斜面にひっそりと残され、江口の地がどれほど長く槍之助を敬ってきたかを静かに語り続けています。



