戦国の海がつないだ西洋の宗教、伊予にキリスト教が伝わった日
今治とキリスト教。
意外に思われるかもしれませんが、今治はキリスト教と深く結びつきながら、その歴史を歩んできました。
今治は、四国で初めてプロテスタント教会が設立された地であり、近代において今治の産業を支えた人々の中にも、キリスト教と関わりをもった人物が少なくありません。
例えば、今日全国に知られる今治タオルの成立と発展には、クリスチャンの人々が深く関わっており、人を思い、地域全体の繁栄を願う精神とともに育まれてきました。
戦国時代の日本に伝来した宗教「キリスト教」
16世紀半ば、日本は大きな転換点を迎えていました。
戦乱が続く戦国時代のただ中で、日本社会は外の世界と本格的に接触し始めていたのです。
1543年(天文十二年)、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着し、日本に鉄砲が伝えられました。
火器の登場は戦国の戦いの様相を一変させ、従来の戦術や勢力図に大きな影響を与えます。
この出来事をきっかけに、日本は否応なく西洋世界との関係を深めていくことになりました。
新しい武器とともに、海外の知識や文化、価値観がもたらされ、各地の戦国大名たちは西洋との接触に強い関心を示すようになります。
鉄砲の安定的な入手や、海外貿易によって得られる利益は、戦国を生き抜くうえで大きな魅力だったからです。
こうした時代の中で、1549年(天文十八年)、イエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しました。
これが、日本におけるキリスト教(当時は「吉利支丹」とも呼ばれた)の本格的な布教の始まりでした。
ザビエルの来日をきっかけに、キリスト教は九州を中心として各地へと広がっていきます。
ザビエルが伝えたキリスト教は、ローマ・カトリック教会の教えに基づくものであり、当時の日本にとっては、信仰の内容だけでなく、その背景にある思想や価値観の点でも、きわめて新しい宗教でした。
唯一神の存在や来世における救済、人間の平等といった考え方は、仏教や神道を基盤としてきた日本の宗教観とは異なる側面を持っており、人々に強い印象を与えました。
宣教師たちは、単に教義を説くだけではなく、布教とともに西洋の知識や文化、学問をも伝えていきます。
文字や書物、音楽、美術、さらには医学や天文学といった知の体系は、日本社会にこれまでにない世界観を紹介するものであり、キリスト教は宗教であると同時に、西洋文明への入口としても受け止められていきました。
キリシタン大名の登場と信仰の広がり
また、南蛮貿易を通じた経済的利益や、鉄砲をはじめとする軍事技術の流入と強く結びついていたため、海外との交易に積極的だった大名たちの中には、キリスト教を保護し、宣教師の活動を後押しする者も現れます。
こうした大名たちは、後に「キリシタン大名」と呼ばれるようになります。
キリシタン大名の領国では教会が建てられ、宣教師の活動が認められ、多くの人々が洗礼を受けていきました。
教会を中心にした信仰の場が生まれ、西洋音楽や美術、文字文化なども取り入れられ、独自のキリスト教文化が花開いていったのです。
一方で、民衆にとってキリスト教は、単に戦国大名の後押しによって広まった宗教ではありませんでした。
戦乱や疫病、重い年貢に苦しむ人々にとって、神の前では身分の差なく救われると説く教えは、確かな心の拠り所となり得るものでした。
来世における救済や、苦難の中にあっても意味を見いだす思想は、不安定な時代を生きる人々の心に深く響いたのです。
こうしてキリスト教は、戦国大名の政治的・経済的判断と、民衆の精神的な求めとが重なり合う形で、日本社会の中に急速に根を下ろしていきました。

偶然が重なり四国に伝わったキリスト教
もっとも各地で仏教勢力の抵抗もあったため、伝道は常に順風満帆というわけではありませんでした。
それでも、ザビエル来日後は主に九州から中国地方、そして京都・大坂といった政治・経済の中心地を軸に信者が増え、各地に教会堂が建てられていきました。
実は、四国地方では、最初から布教の対象として定められていたわけではありませんでした。
四国におけるキリスト教の始まりは、計画されたものではなく、偶然の積み重ねによってもたらされたものだったのです。
そのきっかけとなったのが、伊予国堀江、現在の松山市堀江地区でした。
ルイス・フロイスの著した歴史書『日本史』によれば、四国におけるキリスト教伝来の端緒となったのは、カトリック教会の修道会であるイエズス会に属するポルトガル人宣教師、ガスパル・ヴィレラ神父の一行であったと記されています。
1559年(永禄2年)、ヴィレラ神父は、日本人修道士のロレンソ、ダミアンらとともに豊後(現在の大分)を発ち、宣教のため都・京都へ向かう途中、瀬戸内海を航行していました。
その途上、安芸国(広島県)の宮島に立ち寄った後、伊予国堀江(現:松山市堀江地区)に到着します。
これが、記録上、宣教師が初めて四国の地を踏んだ出来事になります。
堀江は瀬戸内海の海上交通の要衝であり、古来より船乗りたちが潮待ち・風待ちに利用する港(熟田津とも呼ばれた)でした。
この時も瀬戸内海は荒れ、悪天候に見舞われたため、宣教師一行はやむなく堀江に立ち寄ることになりました。
しかし同乗していた日本人の船客たちは、嵐という異変を不吉なものと受け取り、「嵐を呼んだのは宣教師のせいだ」と迷信的に恐れました。
そして船長を説得し、ついにはヴィレラ神父らを船から降ろしてしまったのです。
このようにして、ヴィレラ一行は布教を目的としないまま、意図せず伊予国堀江に足留めされることになりました。
それから数年後の1566年(永禄九年)1月15日、今度は別の宣教師一行が、再び伊予の地を踏むことになります。
この時に伊予を訪れたのは、イエズス会士・ルイス・フロイス神父と、アルメイダ修道士を含む計6名でした。
彼らは豊後府内(現在の大分)から都・京都へ向かう途中、瀬戸内海で荒天に遭い、その影響を避けるため、偶然にも伊予国堀江、現在の松山市堀江地区に寄港することになったのです。
この時も、寄港は布教を目的としたものではなく、あくまで嵐を避けるための一時的な滞在にすぎませんでした。
しかし、ここから運命が動き出します。
滞在中、フロイス神父らは思いがけない事実を知ることになりました。
当時の堀江には、すでに京都でキリスト教の洗礼を受け、郷里へ戻っていた信徒たちが存在していたのです。
彼らは、都で身につけた信仰を胸に秘めながら、この地で静かに暮らしていました。
そして、天候の回復を待つ約八日間という短い滞在の中で、フロイス神父らは、マヌエル・アキマサをはじめとする伊予の人々と出会い、対話を重ねながら、地元住民六名に洗礼(バプテスマ)を授けました。
こうして伊予の地には、四国で最初となるキリシタン(改宗者)たちが生まれ、四国におけるキリスト教の歴史は静かに動き始めます。
それは、まさに「嵐が運んだ巡り合わせ」でした。
四国初のキリスト教布教拠点
こうして、伊予国の港町・堀江と、その近隣に位置する温泉地・道後は、四国における最初期のキリスト教布教拠点となっていきました。
堀江は瀬戸内海の海上交通の要衝であり、引き続き船乗りたちが潮待ちや風待ちのために利用する港でした。
そのため宣教師たちも、布教を目的とせずに偶然この地に立ち寄る機会が多くなり、堀江周辺では洗礼を受ける信徒が次第に増えていきました。
その結果、1586年(天正14年)秋頃には、堀江に教会堂(礼拝堂)が建設されるまでになったと伝えられています。
さらには、司祭が滞在・居住するための神父館(司祭館)が設けられ、キリスト教の初等教育を行う学校も開かれていました。
この学校は、当時全国におよそ八十校ほど存在したとされる天主教学校の一つであり、四国では堀江にしか確認されていません。
このようにして堀江・道後を拠点に育まれたキリスト教の信仰は、やがて伊予国内の他地域へも静かに広がっていきました。
その影響は松山周辺にとどまらず、次第に現在の今治市域を含む周辺地域へと及んでいったと考えられます。
歴史的に見ても、伊予へのキリスト教伝播には、当時の戦国大名同士の関係が少なからず影響していました。
伊予の隣国である周防国の大名・大内義隆や、豊後国の大名・大友宗麟は、ともに熱心なキリシタン大名として知られ、それぞれの領内でキリスト教を保護・奨励していました。
大内氏は伊予の戦国大名である河野氏と同盟関係にあり、大友氏も一時期その勢力を南予地方にまで及ぼしています。
こうした周辺大名との政治的・軍事的な関係、人や情報の往来を通じて、伊予の地にも自然な形でキリスト教が伝えられ、信徒の数は次第に増えていったのです。
戦国時代末期に始まったキリスト教弾圧
しかし、キリスト教の広がりは、やがて天下人や幕府といった権力者の警戒心を強めていきます。
信徒同士の強い結束や、宣教師を通じた海外勢力との関係は、国内統一を進める権力者にとって、国家秩序を揺るがしかねない要素として映るようになりました。
1587年(天正十五年)、豊臣秀吉は伴天連追放令を発し、宣教師の活動を制限します。
これが、日本における最初の本格的なキリスト教禁制でした。
ただし、この段階では禁制は必ずしも徹底したものではなく、地域によっては布教や信仰が黙認される状況も続いていました。
サン・フェリペ号事件と弾圧の転換
情勢を大きく変えたのが、1596年(慶長元年)に起きたスペイン船サン・フェリペ号事件です。
漂着した船の乗組員の発言から、宣教師による布教が領土侵略の前段階である可能性が示されたと受け取られ、秀吉は強い危機感を抱きました。
この事件を契機に、キリスト教に対する姿勢は一気に厳しさを増し、長崎では宣教師や信徒の処刑が命じられます。
これが、日本二十六聖人の殉教として知られる出来事です。
江戸幕府による禁教政策の徹底
江戸幕府が成立すると、キリスト教弾圧はさらに制度的に進められていきます。
1614年(慶長十九年)には全国に禁教令が出され、宣教師は国外へ追放されました。
キリスト教は、公に信仰することのできない宗教となり、完全に排除すべき対象とされたのです。
幕府は、踏絵や宗門改め、密告制度などを導入し、人々の内面にまで踏み込んだ取り締まりを行いました。
信徒であることが発覚すれば、投獄や拷問、さらには処刑に至ることもあり、弾圧は年を追うごとに厳しさを増していきました。
島原・天草一揆と禁教の決定
禁教政策を決定的なものとしたのが、1637年(寛永十四年)に起きた島原・天草一揆です。
重い年貢や圧政に苦しむ農民たちが蜂起したこの一揆には、多くのキリスト教信徒が含まれていました。
天草四郎を中心とした一揆軍は宗教的結束を背景に抵抗しましたが、最終的には幕府軍によって鎮圧されます。
この出来事を受け、江戸幕府はキリスト教を国家秩序を脅かす危険な思想と位置づけ、禁教と弾圧を一層徹底していきました。
鎖国体制が確立され、宣教師の入国は完全に不可能となります。

島原城6 天草四郎像 撮影:watanos(写真AC)
禁教下の日本で信仰を守った隠れキリシタン
こうして教会と司祭を失った中でも、信仰が完全に断ち切られたわけではありませんでした。
信仰を捨てることができなかった人々は、厳しい禁教政策のもと、生き延びるための道を模索し続けました。
表向きには各地の寺院に属して檀家となり、仏教徒として日常生活を送ることで、幕府や藩による宗教取締りの目をかわしていきます。
しかしその一方で、心の奥底ではキリスト教信仰を捨てることなく、家族やごく限られた仲間の間で、祈りの言葉や教えを密かに受け継いでいたと考えられます。
信仰は公の場から姿を消し、家庭の中や夜陰に紛れた集まりの中で、静かに守られていきました。
このように、公には改宗したかのように振る舞いながらも、内面では信仰を守り続け、世代を超えて継承していった人々こそが、後に「隠れキリシタン」と呼ばれる存在です。
彼らは教会や司祭を持たない状況の中で、信仰の形そのものを大きく変化させていきました。
仏教や神道の習俗に身を寄せ、祈りの言葉を口伝によって伝え、石や像、身近な生活用具に信仰の思いを託すことで、厳しい禁教の時代を生き抜いていったのです。
信仰の具体的な形として、最もよく知られているのが、観音像を聖母マリアに見立てた信仰です。
とくに子を抱く姿の観音像はマリア像と重ねやすく、表向きは仏像として祀りながら、内心ではキリスト教の信仰対象として礼拝されました。
こうした像は、信仰を隠すための手段であると同時に、日本の宗教文化の中で信仰を存続させるための工夫でもありました。
また、石や小さな像、十字を思わせる形を持つ日用品なども祈りの対象となりました。
一見すると宗教的な意味を持たないように見えるこれらの品も、信徒にとっては大切な信仰の拠り所であり、家族や共同体の中で密かに受け継がれていったものです。
祈りの対象は必ずしも固定された聖像ではなく、その家や土地の状況に応じて、柔軟に姿を変えていきました。
外見上は他の信仰と区別がつかないように装いながらも、心の内ではキリスト教信仰を守り続ける。
その静かな営みこそが、長い禁教の時代を支えていたのです。
混同されがちなもう一つの呼び名「潜伏キリシタン」
このように、禁教という厳しい時代の中で、信仰を生活の奥深くに溶け込ませながら守り続けた人々は、近代以降の研究において、歴史的整理のために別の呼び名で呼ばれるようになりました。
それが「潜伏キリシタン」です。
江戸時代、キリシタンは次のように呼ばれていました。
- 切支丹類族(きりしたんるいぞく)
- 切支丹(きりしたん)
- 伴天連宗(ばてれんしゅう)
- 邪宗門(じゃしゅうもん)
- 隠れ宗門(かくれしゅうもん)
これらはいずれも、信徒自身が自ら名乗っていた呼称ではなく、主に幕府側が管理や取締のために用いた呼び名でした。
1873年(明治六年)、キリスト教禁制が解かれると、それまで信仰を隠してきた人々が次第に表へ姿を現すようになります。
この頃、「長く隠れていたキリシタン」という意味合いから、「隠れキリシタン」と呼ばれるようになりました。
その後、20世紀に入って歴史学や宗教学の研究が進むにつれ、信仰の継承のあり方に違いがあることが明らかになっていきます。
1.生きた時代
一つ目は、信仰を守った時代の違いです。
江戸時代の禁教下において、信仰を公にできない状況の中で生きた人々は、禁制という時代そのものをくぐり抜けた存在でした。
これに対し、明治の禁教解禁後も独自の信仰を続けた人々は、すでに信仰を公にすることが可能となった時代を生きています。
同じ信仰を受け継いでいても、それを守ることの重さや過酷さは、置かれた時代によって大きく異なっていたのです。
2.禁教解禁後の選択の違い
禁教解禁後、それまで信仰を隠して生きてきた人々は、大きな転機を迎えました。
宣教師や司祭が再び来日し、教会が各地に建てられるようになると、多くの人々はカトリック教会と再びつながり、正式な信仰生活へと戻っていきました。
洗礼を受け直し、教会の教えに基づく新たな信仰のかたちを受け入れる人々も少なくありませんでした。
しかし、その一方で、すべての人が同じ選択をしたわけではありませんでした。
江戸時代から代々受け継いできた祈りや儀礼は、すでに家や村の暮らしと深く結びついており、外からもたらされる教会の教えとは必ずしも一致しない部分も生まれていました。
こうした違和感から、カトリック教会には戻らず、これまでと同じ形で信仰を守り続ける道を選んだ人々もいたのです。
彼らにとって大切だったのは、教義の正しさよりも、先祖から受け継いできた信仰の記憶でした。
祈りは家の中で続けられ、儀礼は共同体の中で守られ、信仰はこれまでと同じ日常の中に留め置かれました。
信仰を「変えないこと」そのものが、一つの選択となっていったのです。
潜伏キリシタンが生き抜いた地域
このような進路の違いが、後になって「潜伏キリシタン」と「隠れキリシタン」を分けて考える必要性を生み出しました。
そして、潜伏キリシタンは禁教下の時代を生きた人々、隠れキリシタンは解禁後も独自の信仰を守り続けた人々として、現在では研究や歴史解説の中で区別されるようになったのです。
潜伏キリシタンとしてその歴史が最も色濃く残されている地域が、長崎・天草地方(熊本県南西部)です。
19世紀半ば、日本が開国へと向かう中で、長崎は再び海外との窓口となります。
1859年(安政6年)に港が開かれ、1864年には長崎の大浦に、大浦天主堂(正式名 日本二十六聖殉教者聖堂)が建設されました。
これは、16世紀末に長崎で殉教した二十六聖人を記念する教会でもありました。
1865年(慶応元年)3月17日、この大浦天主堂を訪れた浦上村の潜伏キリシタン十数名が、堂内にいたプティジャン神父に信仰を告白します。
この出来事は「信徒発見」と呼ばれ、約250年に及ぶ禁教と弾圧の時代を経ても、なお信仰が生き続けていたことを世界に示しました。
日本にキリスト教信徒はもはや存在しないと考えていたヨーロッパ社会に、大きな衝撃を与えた出来事でした。
1873年(明治六年)、明治政府によってキリスト教禁止の高札が撤廃されると、多くの潜伏キリシタンはカトリック教会へと復帰していきます。
長崎や天草の各地では、日本と西洋の技術や材料を組み合わせた教会堂が次々と建てられ、信仰は公の場へと姿を現しました。
一方で、この地域においても教会には復帰せず、潜伏時代に形づくられた独自の祈りや儀礼を守り続ける人々(隠れキリシタン)も存在しました。
2018年(平成三十年)、こうした長い信仰の歩みは「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」としてユネスコ世界遺産に登録されました。
そこに見いだされた価値は、教会建築の美しさだけではなく、約250年にわたり禁教という厳しい現実の中で、信仰を生活の中に溶け込ませながら静かに受け継いできた人々の歩みそのものにあります。

大浦天主堂 撮影:みっちーー(e-e)(写真AC) CC BY-SA 4.0
潜伏キリシタンの受け皿となった四国
こうした過酷な時代において、四国はキリシタンたちにとって、比較的身を潜めやすい地域であったと考えられています。
実際、京都・大坂など中央で弾圧を受けた信徒たちの中には、より安全を求めて四国へ避難する者が少なくありませんでした。
- 幕府から遠く直轄支配が希薄:四国は江戸幕府の政治中枢である江戸から地理的に離れており、幕府直轄領が少ない土地でした。そのため幕府による宗教統制の徹底度にも地域差が生じ、寺請制度(宗門改)の実施も各藩でまちまちで遅れがちでした。中央直轄地ほど厳しい取り締まりが及ばなかった点で、四国は比較的緩やかな環境だったと言えます。
- 急峻な山地と散在する集落:四国は全国平均と比べても可住地面積が狭く、山がちで平野部が限られる土地柄です。山あいの険しい地形には小規模な集落が点在し、外部からの監視や統制が行き届きにくい環境でした。一見なんの変哲もない静かな山間集落が、実は外部の目を逃れて信仰を受け継ぐ隠れ里となり得たのです。
- 瀬戸内海沿岸の複雑な海岸線と海上交通:四国北部が面する瀬戸内海には多島美とも呼ばれる複雑な海岸線と多数の島々があり、古来より海運・航路が発達していました。16~17世紀当時、宣教師たちも瀬戸内海航路を頻繁に利用し、豊後・下関から瀬戸内海を経て畿内へ向かう航路上に四国沿岸の港町がいくつも寄港地となっています。瀬戸内では日常的に物資や人の往来が盛んで、漁民・廻船業者・行商人など多数の人々が行き交うため、特定の個人や集団の動向を把握しづらい側面がありました。こうした匿名性の高い海上交通圏もまた、信徒たちが紛れて移動したり情報や信仰を密かに伝える助けとなったのです。
以上のような条件に加え、江戸幕府の宗門改め(寺請制度)の下では住民は仏教寺院に所属・登録することが義務付けられていました。
四国に逃れた信徒たちも、表向きは各地の寺院の檀家となり、仏教徒を装うことで身を守りながら暮らしていました。
その一方で、内心ではキリスト教信仰を捨てることなく、ひっそりと守り続けていたと考えられます。
特に本州に近い讃岐国(現在の香川県)は、こうした潜伏信徒たちにとって重要な避難先となりました。
江戸初期の宣教師の記録によれば、京都や大坂といった上方から迫害を逃れて四国へ渡ったキリシタンの多くが、地理的に最も近い讃岐へ向かったとされています。
当時日本各地を巡回していたイエズス会宣教師の一人であるマルナス神父は、最も近い讃岐へ多数が避難し、いくつかの村ごと移住するほどであったと記しており、個人単位ではなく、集団で生活の場を移した例があったことを伝えています。
さらに、慶長十一年には宣教師たちが讃岐周辺を巡回し、その過程で伊予を含む地域で合計千二百五十人に洗礼を授けたとの報告も残されています。
このことから、この時期の四国には、相当規模の信徒層が存在していたことがうかがえます。
讃岐と並んで、伊予国(現在の愛媛県)もまた、潜伏キリシタンたちの重要な受け皿となりました。
マルナス神父の記録によれば、伊予北部には迫害を逃れてきた信徒が数多く住み着き、中には村単位で移住した例もあったとされています。
今治に残る隠れキリシタンの痕跡
菊間町、玉川町、大西町、波方町など、現在も今治市周辺には、隠れキリシタンの信仰と関わりがあったと伝えられる地名や、隠れキリシタンのものと考えられている石碑が点在しています。
これらの石碑は、五輪塔や宝篋印塔といった仏教の墓石に似せて造られているものが多く、周囲の墓石や供養塔の中に混ざるように置かれ、外見上は他の墓石と区別がつきません。
また、集落の裏山や山林の中など、あまり人の目に触れない場所に残されていることもあります。そこには、信仰を公にできなかった時代に、静かに信仰を守り続けた人々の思いが感じられます。
このような立地は、信仰の存在を公にできなかった時代において、周囲から疑念を持たれないよう工夫された結果であったと考えられています。
今治周辺に残るこれらの石碑は、形状の違いから、主に次の三つに分けられています。
「教会石碑」小さな教会を思わせる石碑
教会の建物を思わせる形をした石碑です。
全体の輪郭は建物の外観を意識した造りとなっており、上部が屋根のように盛り上がるなど、小さな教会を石で簡略に表したような姿をしています。
尖塔や窓、扉といった具体的な建築要素は省かれており、外見上は祠や墓標、境界石などと区別がつきにくい形となっています。

「キリスト石碑」石に託されたイエス・キリスト
今治周辺で確認されるキリスト石碑は、形状の点から見ると基本的には教会石碑と共通する構造を持っていますが、教会石碑に比べて一回り小さく、より簡素な造りとなっている点に違いが見られます。
全体の形は教会石碑に近いものの、キリスト石碑には正面にイエス・キリストを思わせる顔の彫りが施されています。
その表現は写実的なものではなく、目や鼻の位置を簡略に示した程度の控えめな造形であり、一見しただけでは人物像と気づきにくいものとなっています。

「マリア石碑」石碑に映る聖母の面影
マリア石碑は、聖母マリアを表していると考えられる石碑で、全体に柔らかく穏やかな印象を与える形状をしている点に特徴があります。
中には、幼子を抱く姿を思わせる造形や、胸元に手を当てたように見える姿勢を取るものもあり、慈悲や包容を象徴する聖母マリアのイメージが重ねられています。
ただし、その表現はきわめて簡略で、顔立ちや身体の細部はほとんど表されていません。
そのため、外見上は観音像などの仏教的な女性像と区別がつきにくく、仏教石造物の中に自然に溶け込んでいます。

キリシタン弾圧の伝承
菊間町種には、江戸時代のキリシタン弾圧に関わるとされる「四十八人塚」の伝承が残されています。
言い伝えによれば、禁制下にあったキリシタン四十八人が村人の訴えによって捕らえられ、野間から派遣された役人によって斬首されたとされています。
処刑後、庄屋の計らいにより、斬首された人々の胴体は一か所にまとめて埋葬され、その場所に塚が築かれたと伝えられています。
塚の上には地蔵が彫られた石地蔵が据えられており、碑文には個人名ではなく「四十八人」という人数のみが刻まれています。
さらに、この地には「ヒトクロ田」「ヒトクロザサ」といった呼び名が残されています。
「ヒトクロ」はクロス、すなわち十字架を意味する言葉であったとも考えられており、信仰の象徴を直接示すことができなかった人々が、地名や呼称の中に意味を託したものと考えられています。

クロス(十字架)に由来するとされる重茂山
標高約二百九十四メートルの重茂山(じゅうもさん)も、今治周辺における隠れキリシタン信仰との関わりが指摘されている場所の一つです。
重茂山は、古くから重門山(じゅうもんさん)、そして十文字山(じゅうもんじやま)とも呼ばれ、その名が十字架を連想させることから、戦国末期から江戸時代初期にかけて、信仰を公にできなかった人々が密かに祈りを捧げた場所であったとする伝承が残されています。

実際、重茂山の麓にはキリスト教に関わるとみられる石碑や刻印が残されています。
例えば大西地区の衣笠妙見神社では、社殿の裏手にある奥の祠の扉部分に、十字架を思わせる形が設けられており、信仰を公にできなかった時代の名残ではないかと考えられています。

また、この地域に伝わる十天堂は、かつて大西一帯にキリスト教が広まっていたことに由来する名称とされています。

衣笠弁天堂も、大西地区に残る隠れキリシタン信仰との関わりが指摘されている場所の一つです。
衣笠妙見神社の近く、丘の中腹に位置し、現在も地域の人々によって静かに守られています。
この地には、戦国時代に近隣の重茂山城が落城した際、城主の息女がこの地まで逃れ、最期を迎えたという伝承が残されています。
村人たちはその悲運を悼み、姫を葬り、弁天を祀ったと伝えられています。
盗難に遭って現在は失われていますが、かつて衣笠の弁天堂の前には、十字が刻まれたマリア像の石碑が安置されていました。
このため「姫もまた父と同じくキリシタンの信仰を受け継いでいたのではないか」と考えられています。
こうした信仰の痕跡は、戦国の動乱の中にあっても祈りと希望を絶やさなかった人々の姿を今に伝えています。

禁教の時代を越えて、近代へ
こうして見てきたように、今治におけるキリスト教の歴史は、戦国期の伝来、禁教と潜伏の時代を経て、長い沈黙の時間を抱え込みながら続いてきました。
石碑や地名、伝承の中にかすかに残された信仰の痕跡は、決して声高なものではなく、むしろ疑われずに生きるために姿を変えることで守られてきた記憶でした。
しかし明治六年(1873年)、禁制が解かれたことで、キリスト教は再び公に信仰することのできる宗教となります。
それは、信仰が否定されるということではなく、密かに受け継がれてきた祈りが、教会や牧師、説教、教育といった近代的なかたちを得て、社会の中へと新たに展開していく段階の始まりでもありました。
今治にとっても、この変化は単なる節目にとどまらず、近代化へ向かう港町としての進路を大きく方向づける出来事となっていきます。
次の記事はコチラ:【今治とキリスト教②】明治の今治から始まった、四国最初のプロテスタント教会