大山祇信仰と祇園信仰、そして「船みこし」に伝わる海の祈り
今治市大西地区紺原に鎮座する「素鵞神社(そがじんじゃ)」は、地域の産土神として古くから崇敬されてきた神社です。
現在の社名は明治4年(1871年)に定められ、この時をもって創建とされていますが、その由緒はさらに古く、当地に伝わる信仰の歴史は、3世紀頃・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の時代にまでさかのぼると伝えられています。
若弥尾命が祀った怒麻国の古社
古墳時代、大和政権は各地に国造(くにのみやつこ)と呼ばれる地方の統治者(首長)を任命しており、『国造本紀』によると、当時の伊予国には次の五つの「国」が存在していたとされています。
- 伊余国(いよこく) — 伊予郡を中心とする地域
国造:速後上命(はやのちあがりのみこと) - 怒麻国(ぬまこく) — 野間郡を中心とする地域
国造:若弥尾命(わかみおのみこと) - 久味国(くみこく) — 久米郡を中心とする地域
国造:伊予主命(いよぬしのみこと) - 小市国(おちこく) — 越智郡を中心とする地域
国造:子致命(こちのみこと) - 風早国(かざはやこく) — 風早郡を中心とする地域
国造:阿佐利(あさり)
現在の行政区分とは異なりますが、現在の今治市域は、怒麻国と小市国を含む地域にあたると考えられています。
「怒麻」という名は、この一帯が古く湿地や沼地を含む土地であったことに由来するともいわれ、古代の地形や環境を今に伝える地名とも考えられています。
その範囲は旧乃万村や波止浜から、西は菊間付近にまで及んでいたともされ、妙見山古墳がある大西町宮脇・大井一帯は、そのほぼ中心部に位置していました。
瀬戸内海に面した怒麻の地は、古代において海上交通と陸上交通の結節点でもあり、大和政権にとっても重要な拠点だったとみられています。
怒麻国の初代国造・若弥尾命
怒麻国の初代国造・若弥尾命(わかみおのみこと)は、『国造本紀』に「飽速玉命三世孫若弥尾命定賜国造」と記され、伊予国・怒麻における統治の基盤を築いた人物として、その名が伝えられています。
ここに見える飽速玉命(あきはやたまのみこと)は、古代安芸国(現在の広島県西部)を治めた阿岐国造の祖とされる人物です。
さらに若弥尾命は、古代大和政権の軍事や地方統治を担った中央豪族・物部氏の系統に連なるとも伝えられ、その手腕と資質を高く評価された人物と考えられています。
そんな若弥尾命が怒麻国造に任じられる契機となったとされるのが、神功皇后の三韓征伐です。
三韓征伐は『日本書紀』において仲哀天皇9年(西暦200年頃、あるいは4世紀前後とも推定)に行われたと記され、神功皇后は新羅・百済・高句麗に遠征し、大和朝廷の威勢を広く知らしめました。
この戦役において、若弥尾命は軍事的功績を挙げ、皇后の遠征を支える重要な役割を果たしたと伝えられています。
その功労が認められ、大和朝廷から伊予の要衝である怒麻の地を任され、初代国造に任命されたのです。
大山積命の祭祀
若弥尾命はこの地を治めるにあたり神籬(ひもろぎ)を設け、地域の守護神として大山積命(おおやまづみのみこと)を祀りました。
大山積命は古来、山の神であると同時に海の守護神としても崇敬されてきた神であり、瀬戸内海沿岸では特に篤い信仰を集めてきました。
山の恵みと海の幸に支えられた人々の暮らしの中で、大山積命は自然の恵みを司る神として重要な存在であったと考えられています。
大山積命は史料によって表記が異なり、『古事記』では大山津見神、『日本書紀』では大山祇神、また『伊予国風土記』では大山積神と記されています。
いずれも同一の神を指す名称であり、地域や時代によって表記が使い分けられてきました。
また、三島神、和多志大神、酒解神などの別名でも知られています。
大山積命と三島信仰
この大山積命を祀る信仰は三島信仰と呼ばれ、全国各地に広がっています。
その中心となるのが、静岡県三島市の三嶋大社と、今治市大三島に鎮座する大山祇神社です。
大山祇神社は大山積命を主祭神とする三島信仰の総本社として知られ、古くから瀬戸内海の航海安全や武運長久を祈る神社として広く崇敬されてきました。
中世以降は源氏や平氏、河野氏、さらには村上水軍など多くの武家からも篤い信仰を受け、瀬戸内海地域の守護神として重要な役割を果たしてきました。
伊予の地では、この大山祇神社を中心として三島信仰が広く根づき、各地に大山積命を祀る神社が勧請されていきました。
紺原の地における若弥尾命の祭祀も、こうした三島信仰の広がりの中で行われたものと考えられています。

「滝之宮」越智玉純が勧請した大山祇信仰の社
神亀5年(728年)、伊予国の国司であった越智玉純(おちのたまずみ)が、大三島の大山祇神社より上津社・下津社を勧請し、高寵神と雷神を祀りました。


さらに貴布弥神社を勧請し、弥津波能売命を合祀しました。
こうして、大山積命・高寵神・雷神・弥津波能売命を祭神として祀る社が成立し、この社は「滝之宮」という社号を与えられたと伝えられています。
滝之宮には、神社の祭祀を司る別当寺(神社に付属した寺院)として野間寺・金剛寺(矢田)・安養寺(紺原)・地福寺が交替で奉仕していました。
しかし天正18年(1590年)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めて天下統一を成し遂げたこの年、これらの別当寺は廃されたと伝えられています。
越智玉純とは?伊予に三島信仰を広めた越智氏の人物
越智玉純は、古代伊予に勢力を持った豪族・越智氏の人物であり、史料によっては玉澄あるいは小千玉澄とも記されています。
父は白村江の戦いに参加した伊予水軍の将として伝えられる越智守興とされ、越智氏の有力な一族に属していました。
越智氏は、大三島に鎮座する大山祇神社の祭神である大山積命を祖神として崇敬した氏族で、古代伊予において政治・軍事・祭祀の中心的役割を担っていました。
越智玉純もまた、この大山祇神信仰の広がりに深く関わった人物の一人で、伊予各地に三島神社を勧請し、大山祇神を祀る信仰を広めたと伝えられています。
紺原の地において大山祇神社より上津社・下津社を勧請したことも、こうした三島信仰が各地へ広がっていく流れの中で行われたものと考えられています。
現在の素鵞神社へ、分祀された神々と信仰の継承
戦乱が収束へと向かう安土桃山時代の末期、天正十三年(1585年)、加藤嘉明が六万三千石を与えられて伊予に入封し、松前(正木)を拠点としてこの地の統治を開始しました。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いにおける功績により嘉明は加増され、慶長七年(1602年)には松山に新たな城「松山城」を築き、城下町の整備が進められるとともに、周辺地域においても新たな統治体制が整えられていきます。
こうした動きの中で、野間郡においても地域の有力者を中心とした村政の体制が整えられていきました。
その担い手として重要な役割を果たしたのが井手家です。
文禄3年(1594年)9月5日、旧越智郡八丁村の庄屋であった井手宗兵衛の二男・藤左衛門が野間郡紺原村へ、三男・井手清右衛門が同郡新町村へ分家し、それぞれ庄屋役を仰せつかりました。
その際、代々の氏神であった神社を分祀して紺原村の産土神として祀ったと伝えられています。
このとき分祀されたのが、寺村の橘神社(たちばなじんじゃ)と、八丁村の牛頭天王宮(現在の樟本神社)の神々でした。


「橘神社」井手家の祖霊
橘神社は、かつて立花郷と呼ばれていた地域の産土神として古くから信仰されてきた神社で、江戸時代以前の記録である『伊予国古神社祭神録』には祇園神社の一社として記されています。
祇園信仰の祭神である牛頭天王は、疫病退散や厄除けの神として広く信仰されてきました。
また橘神社は、井手家の祖先の系譜とも結びつく神社でもあります。
井手家は南北朝時代の武将・楠木正成(くすのき まさしげ)で知られる楠木氏の流れをくむと伝えられていますが、さらにさかのぼると楠木氏は古代の名族である橘氏(たちばなうじ)の流れを汲む一族とされています。
橘氏とは、「橘」を氏の名とする古代の氏族で、飛鳥時代末期、県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)が元明天皇から「橘宿禰(たちばなのすくね)」の姓を賜ったことに始まるとされています。
県犬養三千代は橘氏の祖とされる人物ですが、この三千代は敏達天皇の後裔である美努王(みぬおう)の妻であり、のちに藤原不比等の後妻となった際に橘姓を与えられたと伝えられています。
このため、形式的には橘氏の成立は県犬養三千代から始まるとされますが、その背景には敏達天皇の血統との深い関わりが指摘されています。
敏達天皇の祖母には橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)がおり、さらに敏達天皇の後裔で聖徳太子の妃となった橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)など、「橘」の名を持つ皇族の存在も知られています。
また、聖徳太子の父である用明天皇は「橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)」とも呼ばれ、太子の生誕地とされる橘寺にも「橘」の名が残されています。
こうしたことから、「橘」という名は単なる氏姓にとどまらず、古代皇統、とりわけ敏達天皇の系統と深く結びつく象徴的な名称であったとも考えられています。
さらに『古事記』『日本書紀』などの記紀において、最初に「橘」の名を持つ人物として登場するのが、日本武尊の妃である弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)です。
弟橘比売命は東国遠征の際、荒れ狂う海を鎮めるため自ら海に身を投じたと伝えられる神であり、海上安全や守護の神として広く信仰されてきました。
中寺村の橘神社では、この弟橘比売命を主祭神の一柱として祀っており、古代の橘氏の名と結びつく象徴的な神として崇敬されてきました。
こうした歴史的背景もあり、井手家が紺原の地に新たな産土神を祀る際、祖先の系譜や信仰のゆかりを持つ橘神社の神々をあわせて分祀したものと考えられます。
牛頭天王=須佐之男命
牛頭天王宮は、橘神社と同じく祇園信仰に関わる神社です。
祇園信仰の中心となる牛頭天王は、京都の八坂神社を中心に広まり、疫病や災厄から人々を守る神として全国各地に祀られるようになりました。
特に中世から近世にかけては、疫病や災厄から村を守る神として各地の天王社や祇園社に祀られるようになり、人々の生活と深く結びついた信仰となっていきました。
牛頭天王は神仏習合の時代になると、日本神話の神である須佐之男命(素戔嗚尊)と同一視されるようになり、祇園信仰はやがて素戔嗚尊信仰として日本各地に広がっていきました。
その後、明治4年(1871年)の神仏分離の際、古くから祀られていた滝之宮の神々と牛頭天王宮(現在の樟本神社)の神が相殿に祀られることとなり、社名が現在の素鵞神社と改められました。
こうして、古代から続く大山祇神信仰と滝之宮の祭祀、そして牛頭天王(素戔嗚尊)信仰が一つの神社の中で受け継がれ、現在の姿が形づくられていきました。
素鵞神社の御祭神
紺原の地に静かに鎮座する素鵞神社は、このような長い歴史の中で積み重ねられてきた信仰の姿を今に伝える存在となっています。
- 主祭神
素戔嗚尊(牛頭天王)
稲田毘売命
弥都波能売命 - 配神
大山積命
高寵神
雷神
これらの祭神は、古代の大山祇神信仰、滝之宮の祭祀、そして牛頭天王信仰という異なる信仰の流れが重なり合う中で現在の姿へと受け継がれてきたものです。
特殊神事「お舟みこし(紺原御船)」
紺原の素鵞神社には、「船みこし(船神輿)」と呼ばれる独特の祭礼があります。
この神事は地域では「紺原御船(こんばらみふね)」とも呼ばれ、紺原地区に古くから伝わる特色ある祭礼の一つです。
船神輿は、長さ約6メートル、幅4メートル、高さ3.5メートルほどの屋形船風の形をしています。
船の周囲には波模様の幕が張られ、船首と船尾には大山積大神と白髪の藤原佐理卿の人形が向かい合って座しています。
神輿は内部と外側で15人〜20人ほどが担ぎ、十節余りある舟歌の音頭に合わせて、ゆっくりと揺らしながら練り歩きます。
その姿は、まるで本物の船が波間に浮かんで進むかのようで、祭礼の中でもひときわ印象的な光景となっています。
海運の町から始まったお舟みこし
約200年前、紺原地区の三軒屋は瀬戸内海の海運に関わる人々が多く暮らす地域でした。
船主や船乗りたちは、航海の安全と無事を願い、船の形をした神輿を素鵞神社に奉納したことが、このお舟みこし(紺原御船)の始まりと伝えられています。
海とともに生きてきた人々の祈りと信仰が、この船みこしの背景にあり、地域の伝統行事として今日まで大切に受け継がれてきました。
大山祇神社の伝説
この船みこしには、さらに古く平安時代にさかのぼる伝説が語り継がれています。
正暦3年(992年)、藤原実頼の孫で能書家の「藤原佐理(ふじわら の すけまさ)」は、太宰大弐(だざいのだいに)の任を終え、九州から船に乗って都へと帰っていました。
しかし瀬戸内海は連日の荒天に見舞われ、しばしば仮泊を強いられ、やがては航行そのものを断念せざるを得ないほどの状況に追い込まれていきます。
そんなある夜、夢に白髪の翁の姿をした大山積大神が現れ、こう告げたといいます。
「この風浪の原因は、私の意に沿わぬことがあるためだ。多くの宮には神額が掛かっているが、大山祇神社にだけはまだない。それが無念である。しかし、神額は誰にでも書かせられぬ。ちょうど汝が通りかかったので、この方法で呼び止めたのだ。ぜひ筆を取ってほしい」
佐理卿は、その神託に従って身を清め、船板に「日本総鎮守大山積大明神」という神額を力強い筆致で書き上げ、それを海へ流しました。
すると不思議なことに、荒れ狂っていた嵐がぴたりと収まり、佐理卿は無事に都へ帰還することができたと伝えられています。
そして海へ流され神額は、まるで何か神秘的な力が働いたかのように大三島宮浦の海岸に流れつき、大山祇神社の神官がそれを見つけ、神社に奉納したとされます。
この神額は後に国の重要文化財に指定され、今も大山祇神社(大三島町)に所蔵されています。
船みこしの起源と伝承
佐理卿が神額を書き上げた場所については、吉海町泊の海岸や弓削町下弓削の海岸など、いくつかの説が伝えられています。
なかでも有力な一説として、一説には、素鵞神社・紺原が鎮座する紺原三軒屋、品部川のほとり(現在の新来島どっく大西工場付近)であったともいわれています。
大山積命を神籬を設けて斎き祀ったことに由来し、古くから「神野原」と呼ばれてきた神聖な場所であり、現在の地名「紺原」もこの祭祀に由来すると伝えられています。
もしかしたら、神額を書き上げるにあたって、佐理卿は大山積命との深い結びつきを持つこの地を選んだのかもしれません。
また、この一連の出来事の中で、佐理卿を舟に乗せて素鵞神社・紺原から野間郡の式内社であった野間神社へと運んだとされ、これが船みこしの起こりであるといわれています。
船みこしは、この伝承にちなんで白髪の翁として表された大山積大神と、筆を持つ藤原佐理の人形が向かい合って座り、中央には「扶桑総鎮守」(日本全土の守り神)と記された神額が掲げられています。

舟歌とともによみがえった祭礼
この船みこしは長い間地域の人々によって受け継がれてきましたが、みこしの老朽化や担ぎ手の減少により、昭和30年頃には一度奉納が途絶えてしまいました。
それでもこの伝統を守りたいという地域の人々の思いは強く、紺原の住民を中心に復活を望む声が高まりました。
やがて保存と継承を目的とした「船みこし保存会」が結成され、地域の協力のもと修復や準備が進められました。
こうした多くの人々の尽力によって、昭和56年(1981年)に船みこしは復活を果たしました。
現在では、毎年5月に行われる素鵞神社、そして野間神社の祭礼において紺原御船が奉納されています。
紺原地区は野間神社の氏子地域でもあり、野間神社の春の大祭では宮出しの行列に加わり、紺原御船も祭礼の一つとして奉納されています。
紺原の若者たちを中心とした担ぎ手が、舟歌に合わせて神舟を操りながら石段をゆっくりと降りてくるその姿は、まるで海に浮かぶ舟のように優雅で、祭礼の中でもひときわ印象的な光景となっています。
そして、現在も紺原御船は、海とともに生きてきた地域の人々の祈りと伝統を今に伝える貴重な祭礼として、大切に守り続けられています。



