水への祈りを伝える杣田の古社
今治市北部、乃万地区から波止浜地区へと続く山あいの峠道「杣田峠(そまだとうげ)」。
この峠を越えることは「杣田越え」と呼ばれ、その先には、かつて杣田村と呼ばれていた杣田(そまだ)という地域があります。
杣田峠は、古くから乃万と波止浜を結ぶ交通路として利用され、人々の往来を支えてきました。
かつては四国八十八箇所霊場を巡る遍路道の一つでもあり、天保7年(1836年)の遍路記録『四國遍路中并摂待附萬覚帳』には、波止浜から「そまだ越」を経て第54番札所の延命寺へ向かう予定の経路が記されています。

実際には大雨のため予定を変更し、菊間へ上陸したことで杣田越えを通ることはありませんでしたが、当初の旅程にその名が残されていることは、かつての遍路道を知る貴重な手がかりとなっています。
現在も峠道の周辺には、丘陵に囲まれた田園風景が広がり、昔ながらの農村の面影が残されています。
そんな杣田の地に、かつて杣田村の村社として地域の人々の信仰を集めていたとされる神社があります。
それが、「真名井神社・杣田(まないじんじゃ)」です。

八王子宮と呼ばれた真名井神社
真名井神社の創建年代や詳しい経緯については、現在のところ明らかになっていません。
しかし、かつて近江国(現在の滋賀県)の坂本に鎮座する日吉山王宮のうち、八王子宮を合祀したと伝えられており、古くから「八王子宮(はちおうじぐう)」と称されていました。
近江国の日吉山王宮と山王信仰
真名井神社の由緒に登場する「日吉山王宮」とは、現在の滋賀県大津市坂本に鎮座する日吉大社を指します。
日吉大社は、比叡山の東麓に鎮座する古社で、全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮として知られています。
その創祀は崇神天皇7年と伝えられており、古くから比叡山周辺の神々を祀る神聖な場所として崇敬されてきました。

nekko_nekon 撮影:滋賀・大津市 日吉大社 山王鳥居(Photo AC)
日吉大社の中心となるのは、西本宮に祀られる大己貴神(おおなむちのかみ)と、東本宮に祀られる大山咋神(おおやまくいのかみ)です。
大己貴神は、大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名として知られ、日本神話では国造りを進めた神として登場し、農業や医薬、縁結びなどの信仰を集めています。
一方、大山咋神は『古事記』にも登場する山の神で、古くから比叡山周辺の地主神として崇敬されてきました。
地主神とは、その土地に古くから鎮まり、地域や自然を守護すると考えられてきた神のことです。
日吉大社では、これらの神々をはじめ、境内に祀られる多くの神々を総称して「日吉大神(ひよしおおかみ)」と呼んでいます。
平安時代に入ると、日吉大社は比叡山延暦寺との結びつきを深め、日本の宗教史において重要な役割を担うようになります。
延暦7年(788年)、伝教大師最澄(さいちょう)が比叡山に、後の延暦寺の起源となる一乗止観院(いちじょうしかんいん)を建立すると、日吉大社の神々は天台宗の守護神としても厚く崇敬されるようになりました。
こうして日吉大社の神々に対する信仰は、天台宗との結びつきを深めながら「山王信仰(さんのうしんこう)」として広まり、神仏習合のもとでは「山王権現(さんのうごんげん)」としても信仰されるようになります。
権現とは、仏や菩薩が人々を救うため、日本の神の姿となって現れるという神仏習合の考え方に基づく呼び名です。
当時は神と仏を別々の存在として捉えるのではなく、互いに深く結びついた存在として崇める信仰が広がっていました。
このような神仏習合のもと、日吉大社は比叡山延暦寺を守護する重要な神社として発展し、その信仰は天台宗の広がりとともに全国各地へ伝えられていきました。
また、平安京の北東に位置することから、都の鬼門を守護する神社としても重視され、国家鎮護や災厄除けを願う人々から広く崇敬を集めました。
山王七社の一つに数えられた八王子宮
日吉大社には数多くの社殿がありますが、その中心となる七つの社は「山王七社(さんのうしちしゃ)」と総称されています。
その一つが、真名井神社の由緒にも登場する「八王子宮」です。
八王子宮は、現在の牛尾宮(うしおぐう)にあたり、日吉大社の背後にそびえる八王子山(はちおうじやま)の山上に鎮座しています。
八王子山は牛尾山とも呼ばれ、日吉大社の信仰の起源に深く関わる神聖な山として知られています。
その山頂付近には「金大巌(こがねのおおいわ)」と呼ばれる巨大な岩があり、古くから神が宿る磐座(いわくら)として信仰されてきました。
磐座とは、神が降臨したり、宿ったりすると考えられてきた神聖な岩のことです。
現在の牛尾宮には、大山咋神の荒魂(あらみたま)が祀られています。
荒魂とは、神が持つ力強く活動的な側面を表すもので、穏やかな側面である和魂(にぎみたま)と対になる考え方です。
また、山上に建つ牛尾宮の本殿と拝殿は、安土桃山時代の文禄4年(1595年)に造営されたもので、現在は国の重要文化財に指定されています。
このように八王子宮は、日吉山王信仰を構成する重要な神社の一つであり、比叡山の神々を崇める信仰のなかで特別な位置を占めてきました。
杣田の真名井神社にも、こうした歴史を持つ八王子宮を迎えたという伝承が残されているのです。
今治地方にも伝わる日吉山王信仰
近江国の日吉山王信仰は、伊予国にも伝わり、各地の神社にその由緒が残されています。
例えば、真名井神社からも比較的近い今治市野間覚庵には、同じ日吉山王宮を起源とする伝承を持つ日吉神社(ひよしじんじゃ)が鎮座しています。

この日吉神社は、平安時代初期の弘仁元年(810年)、嵯峨天皇の勅命を受けた伊予国司・越智宿弥実勝(おちのすくねさねかつ)が、近江国坂本から日吉山王宮を勧請したと伝えられています。
古くは「十禅宮(じゅうぜんぐう)」、あるいは「天降神社(あまくだりじんじゃ)」と称され、地域の人々から崇敬を集めてきました。
両社の創建や勧請に直接的な関係があったかどうかは明らかではありません。
それでも、古くから乃万と波止浜を結んできた杣田峠を挟み、双方の地域に日吉山王信仰に由来する神社が鎮座していることは、この一帯にも近江国の神々への信仰が伝わり、それぞれの土地で大切に受け継がれてきた歴史を今に伝えています。
水利の乏しさから勧請された八王子宮
では、なぜ近江国の日吉山王宮に属する八王子宮が、杣田の地に迎えられたのでしょうか。
その理由について、真名井神社の由緒には「八王子宮を勧請したのは水利が乏しきためといわれている」と記されています。
水の確保が暮らしを左右した時代
水利とは、農業や日々の暮らしに必要な水を確保し、利用することを意味します。
かつて農業を営む人々にとって、水の確保は暮らしを左右する重要な問題でした。
特に稲作では、田畑を潤す水が不足すれば、農作物の生育や収穫に大きな影響が及びます。
そのため、人々はため池や水路を整える一方で、神仏に祈りを捧げ、恵みの雨や安定した水の供給を願ってきました。
杣田に八王子宮が勧請されたという伝承も、こうした水の確保に対する人々の切実な願いを背景とするものと考えられます。
八王子宮の祭神・大山咋神と農耕・治水の信仰
ここで注目されるのが、八王子宮に祀られる大山咋神(おおやまくいのかみ)の荒魂と、農耕や治水との関わりです。
大山咋神は、古くから比叡山の地主神として崇敬されてきた山の神であり、農耕や治水の守護神として信仰される例もあります。
『古事記』では、農耕や豊穣に関わる大年神(おおとしのかみ)の子として登場し、その名にある「咋(くい)」は、土地に打ち込む杭を意味すると解釈されています。
このように、大山咋神は山や土地を守護する神としてだけでなく、人々の農業や暮らしを支える神としても崇敬されてきました。
山に降った雨は、川や地下水となって田畑を潤し、作物の生育を支えます。
こうした自然の恵みに生活を委ねていた人々にとって、山を司る神への信仰は、農業に必要な水の確保を願う祈りとも結びついていたのでしょう。
治水を願って日吉山王権現を迎えた事例
実際に、全国各地の日吉神社には、水の問題を背景として日吉山王信仰が迎えられたと伝える例があります。
その一つが、岐阜県岐阜市則武に鎮座する日吉神社です。
同社の由緒によると、かつて周辺の河川が度々氾濫し、田畑や家屋に被害が生じていたことから、天正元年(1573年)に近江国の日吉山王権現を勧請したと伝えられています。
また、祭神である大山咋神についても、治山や治水に関わる神として説明されており、水害から地域を守るために神を迎えたという伝承が残されています。
岐阜の日吉神社が河川の氾濫による水害への備えを背景としているのに対し、杣田の真名井神社では、水利の乏しさが勧請の理由と伝えられています。
その事情は異なりますが、いずれも水に関わる問題を背景として、近江国の日吉山王信仰に由来する神を迎えたという点で共通しています。
こうした事例を踏まえると、杣田の人々もまた、農業や暮らしに欠かせない水の恵みを願い、八王子宮を迎えたのかもしれません。
八王子宮から真名井神社へ
水の恵みを願って迎えられたと伝わる八王子宮。
その信仰が杣田の地で受け継がれるなか、長く続いた江戸時代は幕を閉じ、日本は明治という新たな時代を迎えました。
明治維新による変革は、政治や人々の暮らしだけでなく、古くから続いてきた神社や寺院のあり方にも大きな影響を及ぼしていきます。
明治元年(1868年)、新政府は、それまで長く続いてきた神道と仏教を分離する「神仏分離(しんぶつぶんり)」の政策を打ち出しました。
これにより、全国各地の神社では、仏教に由来する名称の変更や祭祀の見直しなどが進められ、長年にわたって続いてきた神仏習合のあり方も大きく変わっていきました。
こうした時代の転換期にあたる明治3年(1870年)、杣田で古くから「八王子宮」と称されていた神社も、現在の「真名井神社(まないじんじゃ)」へと社号を改めました。
ただし、この改称が神仏分離の政策によるものだったのかどうかは明らかになっていません。
ここで注目したいのが、新たな社号に用いられた「真名井」という言葉と、水との関わりです。
「真名井」とは、古くから井戸を尊んで呼ぶ際に用いられてきた言葉で、神聖な水や清らかな水源に関わる名称としても知られています。
京都の眞名井神社に伝わる神聖な水
実際に、日本各地には「真名井」の名を持つ神社や霊水が存在しており、その代表的な例が、京都府宮津市に鎮座する「眞名井神社(まないじんじゃ・真名井神社)」です。
この神社は、丹後国一宮・籠神社(このじんじゃ)の奥宮にあたり、伊勢神宮との深い関係を伝えることから「元伊勢(もといせ)」とも呼ばれています。

nekko_nekon 撮影:京都・宮津市 眞名井神社(籠神社奥宮)(Photo AC)
主祭神は、衣食住や五穀豊穣を司る豊受大神(とようけのおおかみ)で、境内には古代から神聖な場所として崇められてきた磐座(いわくら)が残されています。
また、境内には「天の眞名井の水」と呼ばれる御神水が伝えられています。
籠神社の由緒によると、この水は天村雲命(あめのむらくものみこと)が黄金の鉢に入れて天上から持ち降ったとされ、初めに日向の高千穂へ、次いで眞名井神社のある地へ移され、後に伊勢神宮外宮の井戸にも伝えられたといいます。
さらに、眞名井神社には、水を司る女神「罔象女命(みづはのめのみこと)」も祀られています。
罔象女命は『日本書紀』にも登場する水神で、古くから井戸や河川、農業に欠かせない水に関わる神として信仰されてきました。
このように、京都の眞名井神社には、神聖な水をめぐる伝承と、水や農耕に関わる神々への信仰が受け継がれています。
ただし、京都の眞名井神社と杣田の真名井神社に、直接的な勧請や祭祀のつながりがあったことを示す記録は確認されていません。
日本神話に登場する神聖な井戸「天之真名井」
一方、「真名井」という名称は、日本神話にも登場します。
日本最古の歴史書の一つである『古事記』には、「天之真名井(あめのまない)」と呼ばれる神聖な井戸が記されています。
この井戸は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)が行った「誓約(うけい)」という神話において、重要な役割を果たしています。
誓約とは、神々が互いの潔白や真意を確かめるために行った神聖な行為のことです。
『古事記』によると、須佐之男命が高天原(たかまがはら)にやって来た際、天照大御神はその目的を疑い、国を奪おうとしているのではないかと警戒しました。
そこで須佐之男命は、自らの潔白を証明するため、天照大御神と互いの持ち物を用いて神々を生み出す誓約を行うことになりました。
まず、天照大御神は須佐之男命の剣を受け取り、これを三つに折って天之真名井の水で清め、噛み砕いて吹き出しました。
すると、その息から三柱の女神が誕生しました。
このとき生まれたのが「宗像三女神(むなかたさんじょしん)」と呼ばれる神々です。
宗像三女神は、福岡県の宗像大社をはじめ、広島県の宮島に鎮座する厳島神社にも祀られており、古くから海上交通や航海安全を守護する神として崇敬されてきました。
続いて、須佐之男命は天照大御神の勾玉を受け取り、同じく天之真名井の水を用いて神々を生み出しました。
すると、今度は五柱の男神が誕生しました。
その最初に生まれたのが、天照大御神の御子神とされ、天孫降臨を果たした邇邇芸命(ににぎのみこと)の父となる天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)です。
このように、天之真名井は、三柱の女神と五柱の男神が誕生する神話に登場する神聖な井戸として描かれています。
天之真名井の神話と杣田の真名井神社
杣田の真名井神社には、この誓約の神話に登場する七柱の神々が主祭神として祀られています。
その内訳は、三柱の女神と四柱の男神です。
宗像三女神
- 多紀理毘売命(たぎりびめのみこと):田心姫神(たごりひめのかみ)とも呼ばれる神。
- 狭依毘売命(さよりびめのみこと):市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)とも呼ばれる神。
- 多伎都毘売命(たぎつびめのみこと):湍津姫神(たぎつひめのかみ)とも呼ばれる神。
誓約によって誕生した四柱の男神
- 天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと):天照大御神の御子神で、邇邇芸命(ににぎのみこと)の父にあたる神。
- 天津日子根命(あまつひこねのみこと):『古事記』では多くの氏族の祖神とされる神。
- 活津日子根命(いくつひこねのみこと):誓約によって生まれた五柱の男神の一柱。
- 熊野久須毘命(くまのくすびのみこと):誓約によって生まれた五柱の男神の最後の一柱。
これらの神々がいつから祀られるようになったのかは明らかではありません。また、かつての八王子宮における祭神の構成や、その後の変遷についても詳しいことは分かっていません。
そのため、天之真名井の神話が明治3年(1870年)の社号変更に関係していたという見方も、現時点では推測の域を出ません。
しかし、水利の乏しさから八王子宮を勧請したという伝承と、水にゆかりのある「真名井」という社号、そして天之真名井の神話に登場する祭神とのつながりからは、かつて杣田で暮らした人々が、水の恵みをいかに大切にし、日々の暮らしの安定や豊かな実りを願ってきたのか、その思いを感じ取ることができます。
真名井神社に伝わる伊予五大椿「酒天童子」
真名井神社の鳥居のそばには、伊予五大椿の一つに数えられる「酒天童子(しゅてんどうじ)」という珍しい椿が伝えられています。
椿は古くから日本各地で庭木や観賞用の花として親しまれ、江戸時代には園芸文化の発展とともに、さまざまな花色や形を持つ品種が育てられるようになりました。
伊予国(現在の愛媛県)でも椿は人々に親しまれ、地域に伝わる優れた品種が大切に受け継がれてきました。
そのなかでも、特に名高い五つの品種が「伊予五大椿(いよごだいつばき)」と呼ばれています。
- 伊予紅(いよくれない):鮮やかな紅色の八重咲きで、大きく華やかな花を咲かせる品種です。
- 微笑(みしょう):淡い桃色に白い斑や紅色のぼかしが入る、一重咲きの小さな椿です。開花時期は11月~3月頃とされています。
- 篤山椿(とくざんつばき):純白の一重咲きで、小松藩の儒学者・近藤篤山が愛したと伝えられる椿です。3月~4月頃に開花し、3月中旬頃に見頃を迎えます。
- 酒天童子(しゅてんどうじ):花の中心まで鮮やかな紅色に染まる、八重咲きの大輪が特徴です。開花時期は2月~4月頃とされています。
- 与市(よいち):桃紅色の花びらが幾重にも重なる、八重咲きから牡丹咲きの大輪品種です。3月~4月頃に開花します。
これらは特定の五本の古木を指すものではなく、それぞれ異なる特徴を持つ五つの椿の品種を指しています。
なかでも酒天童子は、大洲地方で発見されたとされる大輪の椿で、幾重にも重なる花びらが中心まで鮮やかな紅色に染まることが特徴です。
その名前の由来となった酒呑童子は、平安時代の武将・源頼光(みなもとのよりみつ)による鬼退治の伝説に登場する鬼で、大酒を好んだことで知られています。
酒天童子という椿の名前も、酒に酔って赤くなった鬼の顔を思わせる、鮮やかな紅色の花から名付けられたと伝えられています。
また、その美しい花姿は、宮内庁が所蔵する江戸時代の椿の図譜『椿花図譜』にも描き残されており、酒天童子は江戸時代からその存在が知られていた、歴史ある椿の一つです。
現在、愛媛県大洲市の如法寺(にょほうじ)には、同じ酒天童子の古木が残されています。
如法寺には酒天童子の椿が二株あり、五色八重散椿と合わせた三株が、昭和52年(1977年)4月15日に愛媛県指定天然記念物に指定されました。
酒天童子は、県内でも株数の少ない貴重な品種として知られており、伊予の椿文化を今に伝える名椿の一つとなっています。
庄屋・八木家の庭から真名井神社へ伝わった椿
真名井神社に伝わる酒天童子は、もともとこの地で庄屋を務めていた八木家の庭で大切に育てられていたものです。
庄屋とは、江戸時代に村を代表して年貢の取りまとめや村政を担った役職で、領主と村人をつなぐ重要な立場にありました。
その仕事は年貢の徴収だけでなく、役所からの命令の伝達、村内の取り決め、農業用水や道路の維持管理に関わる調整など、人々の日常生活にも深く関係していました。
杣田の八木家もまた、こうした村の運営を担う庄屋として、地域の人々の暮らしを支えてきた家でした。
その八木家の庭で育てられていた酒天童子は、大正4年に鳥生福太郎という人物が譲り受け、真名井神社へ寄進したと伝えられています。
こうして神社へと迎えられた椿は、その後も長い年月にわたって境内で育てられ、地域の人々に親しまれてきました。
昭和56年(1981年)当時には樹齢約85年とされ、かつて樹勢が盛んだった頃には、幾重にも重なる鮮やかな紅色の大輪を咲かせ、参拝者の目を楽しませていたといいます。
しかし、周辺の地形の変化や度重なる植え替えなどの影響によって樹勢が衰え、昭和56年頃には、以前のような大輪の花を見ることが難しくなっていました。
境内に設置された酒天童子の由来を紹介する説明板には、こうした椿の歴史とともに、この由緒ある木をこれからも大切に守ってほしいという願いが記されています。

真名井神社を訪れた際には、社殿への参拝とあわせて、鳥居のそばにある酒天童子にもぜひ目を向け、庄屋の庭から神社へと受け継がれてきたその歴史に思いを馳せてみてください。



