大宰府へ向かう菅原道真が大島で過ごした一夜
愛媛県今治市、瀬戸内海に浮かぶ大島。
瀬戸内しまなみ海道が通るこの島は、美しい多島海の風景に囲まれ、サイクリングの島として親しまれる一方、かつて瀬戸内海で活躍した村上海賊(村上水軍)ゆかりの地としても知られています。
島の南部、今治市吉海町名にある、村上水軍の祖・村上義弘の菩提寺「高龍寺」のそばには、菅原道真(すがわらのみちざね)公を祀る「田井天満神社(たいてんまんじんじゃ)・田居天満神社」が鎮座しています。
集落の中に静かに佇む小さな神社ですが、この神社とその周辺には、菅原道真公にまつわる数々の話が残されています。

田井天満神社に祀られる三柱の神々
田井天満神社には、次の三柱の神々が祀られています。
- 菅相丞(かんしょうじょう):菅原道真公を指す尊称の一つです。「菅」は菅原氏を表し、「相丞」は大臣・宰相を意味する語として用いられ、右大臣にまで上りつめた道真公を敬って呼んだものとされています。
- 天菩比命(あめのほひのみこと):『日本書紀』では天穂日命とも表記されます。天照大御神と須佐之男命の誓約によって生まれた神で、菅原氏の祖先にあたる土師氏の遠祖とされています。
- 少名毘古命(すくなびこなのみこと):『古事記』や『日本書紀』において、大国主神とともに協力して日本の国作りを行ったとされる小さな神様です。医療、温泉、酒造、そして国土経営の知恵を授ける神として信仰されています。
このように、田井天満神社では天神信仰を中心としながら、学問や知恵、そして日々の暮らしの安寧を願う祈りが大切に受け継がれてきました。
では、道真公とはいったいどのような人物で、なぜ都から遠く離れた瀬戸内海の大島に祀られることになったのでしょうか。
菅原道真公の軌跡
菅原道真公は、平安時代を代表する学者・漢詩人・政治家として知られる人物です。
当時の貴族社会の中では、藤原氏のような最高位の名門に生まれたわけではありませんでしたが、代々学問を家業としてきた菅原氏の家に生まれ、幼い頃から並外れた才能を発揮したと伝えられています。
幼少期から漢詩や中国の古典に親しみ、11歳の頃にはすでに漢詩を作るほどの文才を示していました。
成長すると学問の道でさらに頭角を現し、20代には当時の学者官僚を目指す者にとって重要な登竜門であった「文章得業生(もんじょうとくごうしょう)」に選ばれ、その後は文章博士をはじめ、学問に関わる官職を歴任していきます。
また、道真公は優れた漢詩人としても名を残しました。
その作品は『菅家文草(かんけぶんそう)』などに収められ、自然の風景や自身の心情、政治や社会に対する思いなどを詠んだ数多くの漢詩が現在まで伝えられています。
こうして学者・漢詩人として高い評価を受けた道真公は、その優れた学識を生かしながら、やがて政治の世界でもその才能を発揮するようになっていきます。
しかし、道真公の政治家としての歩みは、常に都の朝廷だけを舞台としていたわけではありません。
菅原道真公が讃岐へ赴任
仁和2年(886年)、道真公は讃岐国(現在の香川県)の国司である「讃岐守(さぬきのかみ)」に任命され、都を離れて讃岐国へ赴任しました。
讃岐守は、一国の行政を担う重要な役職です。
道真公は約4年間にわたって讃岐国の政務にあたり、地方政治の現場に直接向き合うことになりました。
この讃岐での経験は、それまで朝廷で学者・官僚として歩んできた道真公にとって、地方に暮らす人々の生活や社会の実情に触れる機会にもなりました。
そして任期を終えて都へ戻った道真公は、その後、宇多天皇から重用されるようになります。
朝廷で急速に昇進を重ね、醍醐天皇の時代には、ついに右大臣にまで上りつめました。
学者の家系に生まれた人物が、朝廷政治の中枢を担う右大臣にまで昇進したことは当時としても異例であり、道真公は政治の世界でも大きな存在となっていったのです。
しかし、その異例ともいえる出世の先には、道真公の運命を大きく変える政争が待ち受けていました。
政争と大宰府への左遷
昌泰4年(901年)、右大臣にまで上りつめた道真公は、突然その地位を追われることになります。
道真公には、醍醐天皇を廃し、娘婿である斉世親王(ときよししんのう・醍醐天皇の弟)を皇位につけようと企てたという嫌疑がかけられました。
この事件には、当時左大臣であった藤原時平(ふじわらのときひら)が深く関わったとされ、道真公は十分な弁明の機会を得られないまま、朝廷の中枢から追われることとなります。
そして道真公に命じられたのが、「太宰権帥(だざいのごんのそち)」として筑紫の大宰府(現在の福岡県太宰府市)へ赴くことでした。
大宰府は、九州の統治をはじめ、外交や防衛などを担っていた重要な役所です。
しかし、道真公に与えられた太宰権帥という地位は名目上のもので、実際に大宰府の政務を担うことは許されなかったとされています。
朝廷の中枢で右大臣まで上りつめた道真公は、一転して都から遠く離れた筑紫へと追われることになったのです。

太宰府天満宮(Adobe Stock)
今治に伝わる菅原道真公の漂流伝承
左遷を命じられた菅原道真公は、家族を都に残して難波津(なにわづ・現在の大阪市周辺にあった古代の港)から十挺櫓(じゅっちょうろ)の大型の屋形船に乗って、大宰府へ向かう長い旅路に就きました。

大阪港(Adobe Stock)
しかし、当時の航海は、現代とは比べものにならないほど危険なものでした。
海図や航路標識はまだ十分に整備されておらず、ひとたび天候が崩れれば、強風や高波、複雑な潮流によって船は容易に進路を失い、命を落とすことさえある時代でした。
なかでも瀬戸内海は、大小無数の島々が連なり、その間を複雑な潮流が流れる海域です。
狭い海峡や暗礁も多く、経験豊かな水主たちにとっても、風雨の中での航海は決して容易なものではありませんでした。
道真公もまた、大宰府へ向かう長い航海の中で、幾度となく風や波に行く手を阻まれたと伝えられています。
そして、その旅の記憶を伝えるかのように、瀬戸内海沿岸には今も、道真公が嵐を避けて船を寄せ、土地の人々に迎えられ、しばしの時を過ごしたとする伝承が数多く残されています。
今治市も、そのような道真公伝承が残る地域の一つです。
桜井の二つの綱敷天満神社
その中でも、菅原道真公の大宰府下向にまつわる代表的な伝承を残しているのが、今治市桜井の二つの綱敷天満神社(つなしきてんまんじんじゃ)、「綱敷天満神社・新天神」と「綱敷天満神社・古天神」です。


筑紫へ向かう途中、道真公一行の船は、伊予(予州)の迫門(現在の愛媛県西条市・壬生川沖から桜井沖にかけての海域)へと入りました。
このとき道真公は、かつて讃岐国司として下向(赴任)していた頃を思い出し、現在の自らの境遇との違いに涙を流していたといいます。
かつては朝廷の命を受けて地方へ赴いていた道真公でしたが、今は都を追われ、家族とも離れ、遠く筑紫へと向かわなければならない身となっていました。
そんな道真公に追い打ちをかけるように、やがて海は荒れ始めます。
次第に風は激しさを増し、高い波が船を襲いました。
激しい風と波によって船は大きく揺さぶられ、櫓を漕いでも思うように進むことができず、一行は航行さえ困難な状況に陥ったといいます。
そのような中、道真公一行は何とか船を進め、現在の今治市桜井の浜辺へとたどり着くことができました。
突然現れた船に気づいた地元の人々は、道真公一行を浜辺へ迎え入れます。
長い航海と海難で疲れた道真公に休んでもらおうとしましたが、突然のことで、高貴な人物を迎えるための立派な敷物を用意することができませんでした。
そこで人々は、漁船に積んでいた綱を浜辺へ運び、それを丸く敷いて座をつくり、その上に道真公を迎えたといいます。
さらに地元の人々は、嵐によって傷んだ船の修理にも力を貸し、道真公一行が再び航海を続けられるよう手助けしました。
やがて船の修理も終わり、荒れていた海も次第に静けさを取り戻します。
道真公は、自らを助け、温かく迎えてくれた人々に別れを告げると、再び大宰府を目指して桜井の浜から船出しました。
しかし、道真公の航海は、まだ平穏なものとはなりませんでした。
大島へ吹き戻された菅原道真公
桜井を離れた道真公一行の船は、再び大宰府を目指して瀬戸内海を西へと進んでいきました。
やがて船は、大島の南端に突き出す大角鼻へと近づいていきます。
この岬を回れば、さらに西へと航海を進めることができます。
ところが、まさに大角鼻を回ろうとしたその時、道真公一行は再び大風に見舞われました。

強い風に押し戻された船は大角鼻を越えることができず、そのまま大島の奥深く入り込んだ湾内へと流されていったといいます。
そして一行は、湾の奥にある場所へとたどり着きました。
当時、この付近には海を行き交う船の客を迎える宿があったとされ、道真公もその宿へ身を寄せることになりました。
道真公の言葉から生まれた地名「田居(田井)」
道真公は湾の奥に広がる浅瀬へと目を向けたといいます。
そこには、潮が引くと姿を現す広大な干潟が広がっていました。
その光景を眺めた道真公は、
「この湾を埋め立てて田を拓けば、野の都合もよく、田居(田井)たちも喜ぶであろう」
という趣旨の言葉を口にしたと伝えられています。
ここでいう「田居」とは、田を耕して暮らす人々、すなわち百姓を指す言葉であったとされています。
ところが、土地の人々にとって「田居」という言葉は聞き慣れないものでした。
「田居とは何だろう」
「田居、田居……」
人々が道真公の口にした「田居」という言葉を繰り返すうちに、いつしかこの土地そのものが「田居(田井)」と呼ばれるようになったといいます。
これが、現在の今治市吉海町に残る「田居」という地名の由来とされています。
現在の田居周辺の景色を見ると、道真公を乗せた船がこの場所まで入り込んだという話は、少し想像しにくいかもしれません。
しかし、この地に残る話では、当時は現在の国道付近まで海水が入り込み、その奥には浅瀬や干潟が広がっていたとされています。
そして、海上交通が重要な移動手段であった時代、この付近には船で往来する人々が上陸し、身を休めるための宿があったとも伝えられています。
大風によって大角鼻から吹き戻された道真公も、この宿に身を寄せ、ここで一夜を過ごすことになったのです。
道真公が残した「黄金の鶯」
やがて夜が明けると、それまで吹き荒れていた風は収まり、海も次第に静けさを取り戻していました。
さらに、潮の流れも西へと向かい始めます。
大宰府を目指す道真公一行にとって、再び船を出す絶好の機会が訪れたのです。
船出の時を迎えた道真公一行は、自分たちを迎えてくれた田居の人々に別れを告げました。
その際、道真公は宿泊させてもらった礼として、自らが日頃から大切にしていた一つの品を残したと伝えられています。
それが、「黄金の鶯(うぐいす)」でした。
黄金で作られた小さな鶯の置物であったといいます。
道真公はこの黄金の鶯を、自らを迎えてくれた人々への感謝のしるしとして残し、大島を後にしました。
次の宿泊地「碇掛天満宮」
大島を離れた道真公一行は、大角鼻を越え、大宰府を目指してさらに西へと進んでいきました。
そして次に道真公が上陸したと伝えられているのが、現在の今治市大西町星浦に鎮座する「碇掛天満宮(いかりかけてんまんぐう)」です。
碇掛天満宮にもまた、菅原道真公の大宰府下向にまつわる話が残されています。
昌泰4年(901年)、大宰府へ向かっていた道真公一行は星浦の浜へ船を寄せ、ここで碇を掛けて停泊したといいます。
「碇掛」という特徴的な社名も、道真公の船がこの地に碇を掛けたことに由来するとされています。

菅原道真公の死と「天神信仰」の誕生
桜井から大島、そして星浦へと、今治各地に足跡を残したとされる道真公。
星浦を後にした一行は、さらに瀬戸内海を西へと進んでいきました。
いくつもの島々を横目に海を渡り、都から遠く離れた筑紫を目指して航海を続けます。
そして長い旅の末、道真公はついに大宰府へとたどり着きました。
しかし、そこで道真公を待っていたのは、都への帰還を待つ穏やかな日々ではありませんでした。
太宰府への道中は、すべての費用が自費で賄われ、到着しても俸給や従者は与えられず、政務を行うことも禁じられていました。
用意された住まいは雨漏りのする粗末な小屋で、衣食住の心配がつきまとう厳しい暮らしが続きました。
それでも、道真公は「いつか再び都に戻りたい」という強い願いを抱きながら、孤独と苦難の生活に耐え続けました。
しかし、次第に身体は衰え、心身の疲労が積み重なり、ついに延喜3年(903年)2月25日、道真公は太宰府で病に倒れ、無念の中でその生涯を閉じました。
道真公の死と人々の祈り
道真公の無念の死は、朝廷のみならず全国の人々に深い衝撃を与えました。
特に、かつての教え子や官人たち、そして道真公を敬愛していた民衆のあいだでは、「この死は不当であり、道真公は冤罪であった」という思いが強く広がっていきます。
このような世論の動きは、やがて道真公の霊を慰めるための信仰へと発展していきました。
まず延喜3年(903年)、道真公の没後まもなく、太宰府の墓所の上に小さな社が建てられ、霊を慰める祀りが始まりました。
さらに延喜5年(905年)には、道真公の門弟であり、忠実な学僧であった味酒安行(うまさけのやすゆき)が、その墓所の上に廟(みたまや)を建立しました。
この廟はのちに「安楽寺」と称され、道真公を祀る寺院としての歴史を刻み始めます。
そして、この出来事は全国に広がる天神信仰のはじまりでもありました。
菅原道真公の怨霊伝説と都の災厄
この頃、平安京では不吉な出来事が相次ぎ、これらが道真公の怨霊の祟りではないかと恐れられるようになりました。
まず、道真公の弟子でありながら失脚に加担した藤原菅根が、延喜9年(908年)に雷に打たれて急死。
続いて、政敵であった藤原時平も翌年、39歳の若さで病没します。
さらに延喜13年(913年)には、右大臣・源光が狩猟中に泥沼へ落ち、そのまま行方不明になったと伝えられています。
これらの突然の不幸に加え、都では洪水、長雨、疫病などの天災が次々と発生。
人々はこれらの災厄を、道真公の怨霊による「祟り」と恐れ始めたのです。
太宰府天満宮の創建と鎮魂、さらなる災厄
このような状況を重く見た醍醐天皇は、延喜19年(919年)、道真公の霊を鎮めるため、太宰府の安楽寺境内に社殿を建立するよう勅命を下しました。
これが、後の太宰府天満宮の前身となります。
太宰府天満宮は、道真公の霊を慰め、都の安寧を取り戻すための国家的な鎮魂の場として整備されていきました。
しかし、それでも災厄は止まることなく続いていきます。
延喜23年(923年)、醍醐天皇の皇子である保明親王が病没しました。
保明親王は、道真公を失脚させた藤原時平の甥にあたる人物であり、その死もまた、道真公の怨霊によるものではないかと恐れられるようになりました。
こうした中、朝廷は道真公の名誉回復へと動きます。
同年、道真公を大宰府へ左遷した際の宣命が破棄され、生前の官職であった右大臣へと復されました。
しかし、それでも都を襲う災厄は終わりませんでした。
さらにその2年後、延長3年(925年)には、保明親王の子であり、皇太孫に任じられていた慶頼王までもが病死します。
皇統に連なる若い皇族が相次いで亡くなったことで、都の人々の間には、さらなる不安が広がっていきました。
そして、極めつけとなったのが延長8年(930年)の出来事です。
この年の6月、平安京の清涼殿に落雷があり、朝議に参列していた大納言・藤原清貫をはじめ、高官たちに死傷者が出ました。
この出来事もまた、やがて道真公の怨霊による祟りと結びつけて語られるようになります。
都に恐怖と動揺が広がる中、醍醐天皇も病に伏しました。
やがて天皇は、皇太子寛明親王(のちの朱雀天皇)に譲位。
しかし、そのわずか1週間後の9月29日、崩御しました。
清涼殿への落雷からわずか数か月後、ついには天皇までもが世を去るという、朝廷を大きく揺るがす事態となったのです。
名誉回復後も続いた道真公への畏れ
「これはまさしく、無実の罪で死した菅原道真公の祟りではないか」
道真公の名誉は、すでに延喜23年(923年)に回復されていました。
しかし、その後も皇族の死や災厄は続き、ついには清涼殿への落雷が起こり、その数か月後には醍醐天皇までもが崩御しました。
名誉を回復してもなお相次ぐ災厄を前に、人々の間では、道真公の怨霊に対する畏れがさらに強まっていきました。
そして、「道真公の霊を鎮めなければ、さらなる災厄が朝廷や都に降りかかるのではないか」という恐れが広がり、その御霊を鎮め、神として祀ろうとする信仰へとつながっていったのです。
「北野天満宮」の誕生
名誉を回復してもなお、道真公の怨霊に対する人々の畏れは消えることはありませんでした。
相次ぐ災厄を背景に、道真公の御霊を鎮めるだけではなく、その強大な力を神として祀り、都を守護する存在として崇めようとする信仰が次第に広がっていきます。
そして天暦元年(947年)、道真公を祀る新たな動きが平安京で起こりました。
西京七条に住んでいた多治比文子(たじひのあやこ)という女性に、「北野の地に祀ってほしい」という道真公からの託宣があったと伝えられています。
しかし、文子には立派な社殿を建てるだけの力がなかったため、まず自宅に小さな祠を設け、道真公を祀ったといいます。
その後、近江国比良宮の神職であった神良種(みわのよしたね)の子・太郎丸にも同様の託宣があったとされ、これらの出来事を受けて、北野の地に道真公を祀る社殿が造営されることになりました。
こうして天暦元年(947年)、現在の京都市上京区にあたる北野の地に道真公を祀る社が創建されました。
これが、現在の「北野天満宮」の始まりです。
それまで怨霊として恐れられてきた道真公は、やがて雷をはじめとする災厄をも支配する強大な「天神」として崇められ、その力によって都や人々を守護する神へと信仰されるようになっていきました。
さらに朝廷からも篤い崇敬を受けるようになり、北野の社は次第に大きな神社へと発展していきます。

北野天満宮 楼門 撮影: HiC(写真AC)
そして、北野天満宮は九州の太宰府天満宮とともに全国にある天満宮・天神社の総本社とされ、道真公への信仰の中心的存在となっていきました。

太宰府天満宮 撮影: るCha(写真AC)
「天満大自在天神」怨霊から神様へ
こうして神として祀られるようになった道真公は、永延元年(987年)に一条天皇から「北野天満大自在天神」の神号を授けられました。
今日では、菅原道真公を「天神さま」と親しみを込めて呼び、全国各地で篤く信仰されています。
「天満」とは
「天満」という言葉には、「天に満ちる」という意味が込められているともいわれ、菅原道真公の霊力が空の果てまで及ぶほど強大であることを象徴しています。
これは、雷神として畏れられていた道真公の怨霊を、逆に都を守護する天の加護の神として再定義し、天に満ちる力強い存在として祀り上げたものです。
この名は、やがて「天満宮」「天満神社」などの社名の由来となり、全国に広がる天神信仰の礎となりました。
「大自在天」
「大自在天(だいじざいてん)」とは、仏教における最高位の天部の神であり、全宇宙(=三千大千世界)を自在に支配する神とされています。
元来は古代インドにおけるシヴァ神(マハーデーヴァ)の仏教的受容によって成立した神格で、ヒンドゥー教では破壊と再生を司る神、仏教においては色界の最上位に住する絶対的な存在として位置づけられました。
この「大自在」とは、“何ものにも縛られず、あらゆることを思いのままに成す力”を意味し、仏教における他の諸天(帝釈天や梵天など)をも凌駕する存在とされています。
そしてこの「大自在天」の名を、日本の朝廷が菅原道真公に与えたことは、神仏習合の思想を体現するものでもありました。
当時の日本では、神と仏の区別は明確でなく、神道の神も仏教の諸尊として読み替えられる(本地垂迹)思想が一般的でした。
怨霊信仰と仏教的加持祈祷が融合した環境の中で、道真公の怒りを鎮めるには、単なる神格化では足りず、仏教的にも最高位の神に昇格させる必要があったのではないかと考えられます。
菅原道真公=学問の神
その後も道真公への崇敬は高まり、朝廷による名誉回復はさらに進んでいきました。
正暦4年(993年)には正二位が追贈され、さらに太政大臣を追贈されるなど、道真公は死後、極めて高い地位を与えられることになります。
生前には大宰府へ左遷され、都へ戻ることなく生涯を閉じた道真公でしたが、死後、その名誉は大きく回復されていったのです。
そして、神として崇められるようになった道真公は、生前に優れた学者・漢詩人として活躍したことから、やがて「学問の神様」としても信仰されるようになっていきました。
江戸時代に入ると、全国各地に寺子屋や藩校が整備され、学問は武士だけでなく、町人や農民の子どもたちにとっても身近なものとなっていきます。
こうした教育の普及とともに、「菅原道真公=学問の神様」という信仰も、庶民のあいだへ広く浸透していきました。
人々は、学問の道で類まれな才能を発揮した道真公にあやかろうと、学業の上達や子どもたちの成長を願い、その祈りを天神さまへ託すようになります。
やがて天満宮や天神社は、学業成就や試験合格を願う人々からも篤く信仰されるようになり、今日まで続く「菅原道真公=学問の神様」という信仰が広く定着していったのです。
大島に受け継がれた菅原道真公の記憶
こうした道真公の霊を鎮めるための取り組みは、都だけにとどまらず、朝廷は同時に諸国にも道真公の御霊を祀るよう命じました。
この命により、各地の神社や寺院で道真公が祀られるようになり、都における北野天満宮と同様に、天神信仰は全国へと広がっていきました。
「田井天満神社」田居地域の天満神社
伊予国(愛媛県)全域において、菅原道真公ゆかりの地を中心に天神信仰が急速に広がりを見せました。今治の地においても、「綱敷天満神社」をはじめとする数多くの天満神社(天満宮)が次々と創建されていきました。
そうした中、田居(現在の田井)の人々もこの流れを受け、この地に仮殿を設けて道真公をお祀りしました。
その際、御神体とされたのが、道真公がこの地に宿泊された際のお礼として残していったとされる「黄金の鶯」でした。
これが、現在の「田井天満神社」の始まりと伝えられています。
「鶯天神」御神体の黄金の鶯
御神体として祀られた「黄金の鶯」には、不思議な話が残されています。
毎年、大晦日の夜になると、御神体である黄金の鶯が鳴いたと伝えられているのです。
そのことから、田井天満神社は「鶯天神」とも称えられるようになったといいます。
しかし、この黄金の鶯は現在は残されていません。
いつの頃からか失われ、その行方も分からなくなったと伝えられています。
かつて道真公が田居の人々への感謝のしるしとして残し、後に御神体として祀られたという黄金の鶯。
その姿を見ることはできなくなりましたが、「鶯天神」という名に、今もその記憶が残されています。
「一夜天神」道真公が過ごした一夜
そして、田井天満神社にはもう一つ、「一夜天神」という呼び名があります。
その由来となったのが、大宰府へ向かっていた道真公が、大風によって大島へ吹き戻された時のことでした。
大角鼻を越えることができず、田居へとたどり着いた道真公が、この地で過ごしたのはわずか一夜。
翌朝には風も収まり、潮の流れが西へと変わったため、道真公は再び大宰府を目指して船出したと伝えられています。
この「一夜」の滞在にちなみ、田井天満神社は「一夜天神」とも呼ばれるようになったのです。
大島に受け継がれる菅原道真公の伝承
道真公がこの地を訪れたという記憶は、「田居」という地名や田井天満神社だけに残されているわけではありません。
その周辺にも、道真公の滞在にまつわるとされる地名が今も残されています。
- 「野都合(のつごう)」:道真公がこの地に広がっていた湾や干潟を眺め、「この湾を埋め立てて田を拓けば、野の都合がよい」という趣旨の言葉を島の人々に告げたことに由来するとされています。
- 「御門(みかど)」:田井天満神社から東北へ約50メートル離れた場所に残る地名です。道真公を迎えるために設けられた仮御殿の門があった場所と伝えられています。
- 「小室(こむろ)」:道真公とともに大宰府へ向かっていた従者たちが宿泊した場所と伝えられています。
このように神社の周辺には、道真公がこの地で過ごしたとされる時間を思わせる地名が、いくつも残されています。
都を追われ、遠く大宰府へと向かった菅原道真公。
その長い旅の途中で今治の人々と出会ったという記憶は、今も大島で大切に受け継がれているのです。