越智氏が切り拓いた伊予の歴史、その源流を辿る
「乎致命(オチノミコト)」という名前をご存知でしょうか。
この人物は、古代伊予の開拓に関わり、越智氏の祖として語り継がれてきた存在です。
今治の歴史だけではなく、伊予の歴史、さらには日本の古代史を語るうえで欠かすことのできない重要な人物でありながら、その名は意外にも広く知られているとはいえません。
その理由の一つとして挙げられるのが、調べようとすると直面する「名前」の多さです。
オチノミコトの名は一つに定まっているわけではなく、史料や伝承によって次のようにさまざまな表記が見られます。
- 越智命(おちのみこと)
- 小千命(おちのみこと)
- 小致命(おちのみこと)
- 乎致命(おちのみこと)
- 乎知命(おちのみこと)
- 乎千命(おちのみこと)
- 小千御子(おちのみこ)
- 子致命(こちのみこ)
こうした表記の揺れは、時代や文献の違い、さらには口承による伝承の過程で生まれたものと考えられています。
一見すると混乱のようにも思えるこの名前の多さですが、むしろそれこそが、広い地域で語り継がれ、多くの人々の記憶に刻まれてきた証でもあるのです。
本記事では、混乱を避けるために以降は「オチノミコト」として表記を統一して進めていきます。
「伊予国造」越智氏を支えた古代の統治権
そして、この多様な名を持つ人物を、歴史の表舞台へと繋ぎ止めている一つの重要な称号があります。
それが、「伊予国造(いよのくにのみやつこ・いよこくぞう)」という称号です。
この称号は、越智氏の歴史を語る上で決して外すことはできません。
国造とは、ヤマト王権が全国へと影響力を広げていく過程で、各地の有力氏族を「その土地を治める者」として公式に認定した役職のことで、ヤマト王権からお墨付きを与えられた、地方の「王」とも呼べる存在でした。
特に伊予は、瀬戸内海交通の要衝として、大陸や朝鮮半島へとつながる重要な拠点であり、日本列島の防衛線の一端を担う地域でもありました。
こうした地理的・軍事的条件を踏まえると、伊予国造という役職は、他国の国造と比べても国家戦略上きわめて重要な意味を持っていたことがわかります。

伊予の豪族「越智氏」の誕生と繁栄
『国造本紀』によると、当時の伊予国には次の五つの「国」が存在していたとされています。
- 伊余国(いよこく) — 伊予郡を中心とする地域
- 怒麻国(ぬまこく) — 野間郡を中心とする地域
- 久味国(くみこく) — 久米郡を中心とする地域
- 小市国(おちこく) — 越智郡を中心とする地域
- 風早国(かざはやこく) — 風早郡を中心とする地域
現在の行政区分とは異なりますが、現在の今治市域は、古代において怒麻国や小市国を含む地域にあたると考えられています。
その中で、オチノミコト(小市命)は初代の国造(おちのくにのみやつこ)に任じられ、小市国(おちこく・越智国)を治めたとされています。
国造の地位はその後、子孫へと世襲されるようになり、やがて古代の姓の一つである「直」を称するようになります。
こうして「小市直(おちのあたい)」の氏姓が成立し、一族は次第に「越智氏(おちうじ・おちし)」として発展していきました。
律令制のもとでは伊予国越智郡の郡司を代々務めるなど、伊予最大の在地豪族へと成長し、その系譜はやがて河野氏へとつながっていきます。
そしてこの一族は、戦国時代の終わりに至るまで、伊予の歴史の中で大きな影響力を持ち続けることとなります。
こうした歴史の中で、「越智」の名は氏族の呼称にとどまらず、地域そのものを指す地名「越智郡(おちぐん)」としても定着していきました。
越智郡の変遷と「今治」の原点
古代の越智郡は現在の今治市一帯を含む広い地域で、越智氏が郡司として行政・軍事・祭祀を担い、瀬戸内海交通の要衝として重要な位置を占めていました。
中世にはその流れをくむ河野氏が統治し、戦国期には村上水軍や来島氏など海上勢力の拠点となります。
近世には松山藩のもとで再編され、明治期には野間郡などと統合されて近代的な越智郡へと再編されました。
そして2005年(平成17年)の市町村合併により、越智郡の多くの町村は今治市へ編入され、郡域は大きく縮小しました。
現在では、越智郡は上島町のみが属する郡となっていますが、その名称は古代から続く歴史を今に伝えるものとして残り続けています。
越智氏の誇り、大山祇神社の神紋を受け継いだ血脈
そんな越智氏が、一族の誇りとして受け継いできたのが「折敷に揺れ三文字(隅切折敷に三文字)」の家紋です。
この意匠は、神前に供え物を置く「折敷(おしき)」の上に、三つの揺れた線を引いた「三文字」を配したもので、愛媛県今治市大三島に鎮座する、大山積神(三嶋大明神・大山祇神)を祀る大山祇神社の神紋でもあります。
その由来には諸説ありますが、もともとの紋は「三ツ(※)」という、非常に複雑かつ神秘的な意匠であったと伝えられています。
(※本来は一文字で表される古い漢字ですが、表示が難しいため、ここでは構成を分けて表記しています。左側の「粦」と、波を意味する「巛」を組み合わせた文字「粦巛」です)
しかし後に、「三嶋」の“嶋”という字を略し、現在の「三文字紋」に改めたといわれています。

大山祇神社は、古来より「日本総鎮守」と尊称されてきた最高格の社であり、源氏や平氏をはじめとする数多の武将が戦勝を祈願し、国宝級の武具を奉納してきた「武神の聖地」です。
越智氏は、大山積神を単なる信仰の対象ではなく、自らの祖神として仰ぎ、その神を祀る大山祇神社の神紋を、一族の象徴として家紋に取り入れたのです。
それは、自分たちが神と直接の血縁を結んだ「特別な一族」であることを内外に象徴するものでもあったと考えられます。
その誇りは、正統な後裔とされる河野氏やその家臣団にも分かち合われ、今も今治各地の家の瓦や墓所、神社仏閣の至る所に伝承と共に、その名残を留めています。


古代から連なる今治の歴史は、越智氏の歴史そのものといっても過言ではないほど、深く結びついているのです。
その始まりこそ、オチノミコト(乎致命)です。
オチノミコトに関する足跡や伝承は各地に残されていますが、なかでも大山祇神社には、紀元前の神武天皇の時代にまでさかのぼる壮大な物語が残されています。

「神武東征」初代天皇が歩んだ建国への道
当時の日本は、各地に諸勢力が点在する黎明期のただ中にありました。
天照大神の血を受け継いだ神武天皇は、祖先から託された使命である「日本全土を平和に治める」という強い願いを持っていました。
しかし、当時神武天皇が拠点としていた九州の日向は、日本列島の西端に位置しています。
この地からでは、日本全体を統治するにはあまりにも西に偏っていると感じていました。
そこで神武天皇は、「国の中心である大和(現在の奈良県)へ進み、そこから国を治めるべきだ」と考え、大和への進軍を決意します。
これが「神武東征」と呼ばれる伝説の始まりです。
『日本書紀』によれば、このとき神武天皇は45歳であったと伝えられています。
神武天皇は弟や従者たちを率い、日向の地から東へと向かいました。その進路は陸路ではなく海路であり、船団を組んで豊後水道を抜け、瀬戸内海へと入りました。
そして宇佐(現:大分県)、安芸(現:広島県)、吉備(現:岡山県)といった西日本の要地を経由しながら東へ進み、やがて難波(現:大阪市)、河内(現:東大阪周辺)へと到達します。

敗北からの再起、神に導かれた逆転劇
しかし、大和の地にはすでに長髄彦(ながすねひこ)という土着の勢力が存在しており、激しい戦いとなりました。
この戦いの中で、神武天皇の兄である五瀬命(いつせのみこと)が命を落とし、一行は大きな苦境に立たされます。
この敗北を受け、神武天皇は進軍のあり方そのものを見直しました。
「我々は太陽の昇る東から西へ向かって進んでいる。これは天照大神の御心に反しているのではないか」と考えたのです。
そこで神武は進路を改め、一度南へ退き、紀伊(和歌山県)から熊野の山々を越えて大和へ入る道を選びました。
しかし熊野の山中は深く険しく、一行は道に迷い、再び危機に陥ります。
そのとき現れたのが、八咫烏(やたがらす)です。
八咫烏は神武たちを正しい道へと導き、そのおかげで一行は無事に大和へとたどり着くことができました。

そして再び大和に入った神武は、長髄彦との決戦に臨みます。
この戦いの最中、金鵄(きんし)と呼ばれる金色の鳥が現れ、神武の弓にとまって強い光を放ち、敵の目をくらませたと伝えられています。
神の加護によって戦局は大きく傾き、ついに神武は長髄彦を討ち破ることに成功しました。

「神武天皇」日本の建国と初代天皇の即位
紀元前660年、こうして大和の地を平定した神武天皇は、畝傍山のふもと橿原の地に都を築き、初代天皇として即位したとされています。
神武天皇が即位したこの日は、日本の建国の始まりとされ、現代の暦では2月11日にあたります。
この日を記念して、現在も「建国記念の日」として祝われています。
その後、神武天皇は大物主神の娘である媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を皇后に迎え、二人の間には神八井耳命(かんやいみみ)と、のちの第2代天皇となる綏靖天皇(神渟名川耳尊・かんぬなかわみみ)が誕生します。
この婚姻は、ヤマトの王権と出雲の神を結びつける象徴的な出来事とも考えられています。
そして、神武天皇は76年にわたって在位し、その後崩御したと伝えられています。
現在もその御霊は奈良県の橿原神宮に祀られており、毎年建国を祝う祭りが行われています。

橿原神宮(Adobe Stock)
乎知命と大山祇神社の創祀
このように、神武天皇の物語は日本の始まりとともに、神と人とが結びついた歴史として、今もなお語り継がれているのです。
そして、神武天皇が大和を目指して東征を進めるよりも前に、勅命を受け、先駆けとして伊豫之二名島(伊予之二名島・伊予二名洲・四国島)へと赴いた人物がいたと伝えられています。
それがオチノミコト(乎知命)です。
大山祇神社の伝承では、伊予に渡ったオチノミコト(乎知命)は、芸予海峡の要衝である現在の大三島「御島」を神域と定め、祖神にあたる大山積大神を祀ったといいます。
これが、大山祇神社の創祀にまつわる伝承の一つとして、古くから語り継がれてきました。
現在も境内には、この伝承を今に伝える御神木「乎致命御手植の楠」がそびえ立っています。

この楠は、乎知命が大山積大神を祀った記念として自ら植えたものと伝えられ、長い年月を経た神木として崇敬を集めています。
さらに、「息を止めたまま木のまわりを三周すると願いが叶う」という言い伝えも残されており、現在でも多くの参拝者が静かに祈りを込めながら、この御神木の周囲を巡る姿が見られます。

「大浜八幡大神社」七歳で統治者となった乎致命
他にも、各地に残る伝承には、時代にずれが見られるものの、その出自や功績がさまざまな形で語り継がれています。
例えば、大浜八幡大神社にはオチノミコトについて次のように伝えられています。
オチノミコト(乎致命)は饒速日命(にぎはやひのみこと)の十代目の後裔にあたり、七歳のときに応神天皇より伊予国小市の国造に任じられたとされています。
そしてこの大浜の地に館を構え、南海に威を示しつつ、東予地方の開拓にあたり、徳をもって人々を治め、内外に皇威を輝かせました。
当時の伊予国は、まだ開発の進んでいない地域であり、自然環境も厳しく、人々の暮らしも安定しているとは言えない状況でした。
そのため、この地の統治は決して容易なものではなかったと考えられます。
しかも、なんとこのときオチノミコト(乎致命)はわずか七歳という若さであったと伝えられています。
それにもかかわらず、乎致命は持ち前の知恵と勇気によって館を構え、東予地方の開拓と統治に果敢に取り組みました。
武力を背景としながらも、それに頼るだけではなく、農業の振興や交通路の整備、さらには治水にも力を尽くし、地域の基盤を整えていったとされています。

祖先の遺徳を祀る「王浜」の聖地
伝承によってその出自や時代背景には違いが見られるものの、これらの功績から、オチノミコト(乎致命)は伊予の地を治めた最初の国造、すなわち小千国造として位置づけられるようになりました。
時代が下って、オチノミコト(乎致命)の九代目の子孫にあたる乎致足尼高縄(おちのすくねたかなわ)は、祖先である乎致命の偉業を後世に伝え、その御霊を鎮め敬うため、当地・大浜の地に大浜大神(大濱宮)を創建しました。
これが大浜八幡大神社の起源とされています。

「饒速日命系」大浜八幡大神社の伝承からたどる系譜
では、オチノミコトの出自とはいったいどのようなものなのでしょうか。
大浜八幡大神社にある乎致命之像の台座には、以下のように「越智氏族略系図」が刻まれています。
饒速日命 → 宇摩志麻治命 → 彦湯支命 → 出石心大臣 → 大矢口宿禰 → 大綿杵命 → 伊香色雄命 → 大新川命 → 大小千連(物部大小連・大小市命) → 乎致命(越智氏族之祖)
そして、越智氏の祖・乎致命に続く系譜として、次のように続いています。
乎致命 → 天狭貫 → 天狭介 → 粟鹿 → 三並 → 熊武 → 伊但馬 → 喜多守 → 高縄(現大濱八幡大神社創建者)
この系図は、単なる一族の記録にとどまらず、古代日本における神話、王権、そして海上勢力がどのように結びついていたかを示しています。

軍事と祭祀を担った氏族・物部氏
この系図で特に注目すべきは、その始まりが饒速日命(にぎはやひのみこと)に置かれている点です。
饒速日命は、神武天皇よりも先に「天磐船」で大和へ降臨したとされる存在であり、物部氏の祖神として知られています。
物部氏は、古代ヤマト政権において軍事と祭祀を担った有力豪族であり、「大連(おおむらじ)」という最高位の地位に就くなど、天皇家に次ぐほどの影響力を持っていました。
もともとは武器の製造や管理を司る一族であったとされ、やがて軍事を統括する氏族へと発展していきます。
さらに、単なる軍事集団にとどまらず、裁判や刑罰、さらには呪術的な祭祀にも関わるなど、国家運営の中枢を担う存在でもありました。
また、物部氏は神道的な伝統を重んじる一族としても知られ、外来の仏教を巡っては、蘇我氏と対立したことでも有名です。
この対立は後に「丁未の乱」と呼ばれる争いへと発展し、結果として物部氏は衰退していくことになります。
しかし、その系譜や影響は完全に消えたわけではなく、各地に広がった氏族の中に受け継がれていきました。
越智氏の系図が饒速日命へとさかのぼるとされるのも、こうした流れの中に位置づけることができます。
「瓊瓊杵尊系」天皇の血筋と越智氏の系譜
越智氏の系譜は、大山祇神社の祭神である大山積大神からも読み解くことができます。
越智氏は古来より大山積大神を祖神として篤く崇敬しており、その信仰の背景から、大山積大神の系統、さらには天皇家へとつながる血筋が浮かび上がってきます。
大山積大神は、「大山祇大神」「三島明神」「三島大明神(三嶋大明神)」「三島大神」など、時代や地域によってさまざまな名で呼ばれてきました。
山と海の双方を守護するこの神を氏神とすることは、瀬戸内海一帯に勢力を広げた越智氏の統治と深く結びついており、その宗教的権威は一族の基盤そのものであったといえます。
そして、大山積大神の系譜をたどると、オチノミコト(乎致命)と神武天皇が遠いながらも同じ祖に連なる存在であることが見えてきます。
瓊瓊杵尊から神武天皇、そして乎致命へ
大山祇神社の御祭神・大山積大神には、二柱の娘がいたとされます。
そのうちの一人が、吾田津姫(あたつひめ)、あるいは木花開耶姫(このはなさくやひめ)と呼ばれる女神です。
この吾田津姫は、天孫降臨で知られる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚し、三柱の御子神(三人の子)をもうけました。
この三柱のうちの一柱である彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ・木花咲耶姫)と結婚し、「鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)」が生まれます。
さらに、鵜葺草葺不合尊は、自らの乳母であり叔母でもある玉依姫命(たまよりひめのみこと)と結ばれ、以下の四柱の子を授かりました。
- 五瀬命(いつせのみこと)
- 稲氷命(いなひのみこと)
- 御毛沼命(みけぬのみこと)
- 神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれびこのみこと)
このうち末子の神倭伊波礼琵古命こそが、後に初代天皇として即位する神武天皇になります。
この神々の系譜をたどると、大山積大神は神武天皇にとって「祖父の祖父(高祖父)」にあたる存在となります。
一方で、オチノミコト(乎知命)もまた大山積大神の子孫とされています。
つまり、オチノミコト(乎知命)と神武天皇は、どちらも大山積大神を共通の祖先に持つ血縁関係にあり、遠い親戚同士であったと考えられるのです。
オチノミコトの出生伝承
西条市の長福寺に伝わる写本『予章記(豫章記)』は、河野氏の流れをくむ禅僧・南明東湖によって慶安年間に書き写されたとされ、越智氏の由来や小千命に関する伝承を今に伝える、貴重な史料の一つです。
その中には、オチノミコトがいつ、どこで生まれたのかについての記述も見られます。

「父・彦狭島命」伊予に下向した孝霊天皇の皇子
神武天皇の東征から数世代を経たとされる、紀元前3世紀頃のこと。
大和王権は各地へと勢力を広げ、地方統治の基盤を築きつつありました。
その時代を治めていたのが、人皇第七代・孝霊天皇(こうめいてんのう)です。
孝霊天皇は、『日本書紀』では大日本根子彦太瓊天皇、『古事記』では大倭根子日子賦斗邇命と記される天皇で、第六代・孝安天皇の第三皇子として生まれたと伝えられています。
欠史八代の一人に数えられ、その実在性については諸説あるものの、古代日本の王権が形成されていく過程を示す重要な存在とされています。
宮は大和国の黒田廬戸宮に置かれ、王権は山裾から平野部へと拠点を移し、より広域的な統治体制を整えていきました。
また、この時代には多くの皇子たちが各地へと派遣され、地方の統治や平定にあたったと考えられています。
そうした流れの中で、西南地域の守護のために伊予の地へ下向したと伝えられるのが、孝霊天皇(こうれいてんのう)と絙某弟(はえいろど)とのあいだに生まれた第三皇子、彦狭島命(ひこさしまのみこと・彦狭嶋命)です。
この彦狭島命こそ、オチノミコトの父にあたるとされ、越智氏の祖へと連なる重要な存在とされています。
ある日、彦狭島命は父・孝霊天皇に呼び出され、次のように命じられました。
「お前は二名島へ下り、大山積大明神(三嶋明神)に仕えよ。そして私に代わって神の徳に従い、祭祀を行いながら国を治めなさい。日々の務めを怠らず、心を誠実に保って民を導け。またこの島は我が国にとって重要な要の地である。外敵の襲来に備える守りとなり、西南の方面を監視せよ」
この頃、四国は大きく二つの地域を基準として分けられており、南の地域(土佐)と北西の地域(伊予)、二つの名を持つ島として、四国全体は「二名島(ふたなじま)」と称されていました。
命を受けた彦狭島命は、良き日を選び難波の浦から船出し、遠い波路を越えて四国北西の地へと至りました。
そして現在の伊予郡神崎郷の地に館を築き、三島(大三島の大山祇神社)へ参って祭祀を怠ることなく、神に仕える日々を送ったと伝えられています。
館に戻っては民を慈しみ、生活の道を教え導いたため、人々は自然とこれに従い、国は安らかに治まっていきました。
その徳は広く知れ渡り、彦狭島命は「今岡皇子(伊予皇子・伊予親王)」とも称されるようになり、この島が与えられることになりました。
実はこの頃、伊予は「彌(いよ)」と表記されていましたが、この時にその呼称を受け継ぐ形で正式に国号が「伊予」と定められました。
そして、館が置かれたこの一帯は「伊予郡(現在の松前町・砥部町)」と呼ばれるようになったといいます。
彦狭島命が亡くなった後、この地の人々は彦狭島命を「霊宮大神(たまみやのおおかみ)」として祀り、この地は神崎の庄と呼ばれるようになりました。
さらに、かつての館跡には、彦狭島命とその一族・大小市命(おおちのみこと)を祀る今岡神社が創建され、長く地域の信仰の中心となりました。
その後、時代の変遷とともに社は変遷し、現在は伊曾能神社(愛媛県伊予市宮下)の境内社である吹揚神社に合祀されています。
そして、その館跡は伊予市の指定文化財「今岡御所跡」として大切に守られ、彦狭島命の足跡を今に静かに伝えています。

今岡御所跡(PIXTA)
他にも、彦狭島命への信仰はこの地に受け継がれています。
彦狭島命がこの地で古くより祀られてきた伊予郡松前町神崎には、「伊予」の名を冠する伊予神社(伊豫神社)が鎮座しています。
同社は平安時代に編纂された『延喜式』にも名を連ねる名神大社であり、彦狭島命を主祭神として祀る神社として、古来より伊予国の中核的な存在として篤い崇敬を集めてきました。
さらに中世には、伊予の有力氏族である河野氏の祖に関わる神社として歴代の崇敬を受け、天正年間には社殿の造営が行われたと伝えられています。
近代に入ってからもその信仰は衰えることなく、現在に至るまで地域の人々の信仰の中心として大切に守られています。

神社の石畳の参道 撮影:bocco(写真AC)
「壺から出てきたお姫様」母・和気姫
同じ時代、松山市の興居島(ごごしま)には和気姫と呼ばれる美しい女性がいたと伝えられています。

興居島(Adobe Stock)
この女性こそが、オチノミコト(小千命)の母とされる「和気姫(和気比売・わけひめ)」です。
和気姫を祀る興居島・由良町の船越和気比売神社には、オチノミコト(小千命)の誕生とともに語られる伝承が、現在も語り継がれています。
ある日、興居島に住んでいた和気五郎太夫という漁師が、沖で漁をしていると、海の上に大きな壺が浮かんでいるのを見つけました。
不思議に思いそれを拾い上げ、岩に打ち当てて割ってみると、中から十二、三歳ほどの非常に美しい娘が現れたといいます。
驚いた五郎太夫が事情を尋ねると、その娘はこう答えました。
「私は唐の国の者でございますが、わけあって壺の中に入れられ、海に流されてしまいました。私の名は和気姫と申します」
子どものいなかった五郎太夫は、この娘を養女として迎え入れ、大切に育てました。
やがて成長した和気姫は、伊予皇子と呼ばれる彦狭島命の妃となります。
その後、二人の間には三人の男の子が生まれますが、何らかの理由により、それぞれ棚のない小舟に乗せられ、海へと流されたと伝えられています。
「第一王子」東国に渡った越智の血脈
第一王子は伊豆の浦(現在の静岡県伊豆半島から駿河湾沿岸)へと流れ着きました。
土地の漁師たちは、その子供の気品ある佇まいを見て「ただ者ではない」と直感し、立派な屋敷を新築して大切に育て上げました。
やがて王子の子孫は、その地で大いに繁栄し、一族の住居(庵)がいくつも立ち並ぶほどになったことから、その地は「庵原(いはら)」と呼ばれるようになりました。
その末裔は大宅氏(おおやけ氏)と名乗り、一族の祖である王子は、後に「諸山大明神(従一位 諸山祇大明神)」として神格化され、永く祀られることとなりました。
「第二王子」吉備に根を下ろした一族と山村権現
第二王子は吉備国・備前国にあった島・児島(岡山県倉敷市児島周辺)に流れ着きました。
王子が中国地方の吉備の山本に上陸した際、その地が三つに分かれた(あるいは三つの邸宅を構えた)ことから、子孫は「三宅氏」を称して大いに栄えました。
王子の徳は没後も語り継がれ、備前児島にて山村権現(さんそんごんげん)として崇め奉られることとなりました。
こうして、三人の王子はそれぞれ伊予・伊豆・吉備の地で、地名の由来となり、神として祀られる偉大な始祖となったのです。
「第三王子」三津浦に降り立った越智氏
諸説ありますが、第三王子が辿り着いたのが、伊予国和気郡の三津の浦(現在の松山市三津浜周辺)とされています。
そして、この第三王子こそが、後に伊予の統治者として歴史に刻まれる乎致命(おちのみこ)、すなわちオチノミコト(小千命)であると伝えられています。
「母の島」地名に刻まれた親子の絆
また、和気姫が住んでいた島は「母のいる島」という意味から「母子島」と呼ばれるようになったとも伝えられています。
その後、母居島、沖の島などの名称を経て、「母」の字を避ける形で、元禄十二年以降は現在の「興居島」と呼ばれるようになったといわれています。
和気姫の死後、その御霊は船越社に祀られ、後に船越八幡宮と改められました。
さらに明治期には船越和気比売神社と称されるようになり、現在も和気姫は御神体として祀られています。
この伝承は「壺から出てきたお姫様」として語り継がれ、今なお地域に深く根付いています。

船越和気比売神社(Adobe Stock)
「奥土居神社」流された小千命の胞衣と神託
なぜ流されたのかについての伝承は残されていませんが、奥土居神社には、オチノミコト(小千命)が誕生した際の伝承が残されています。
オチノミコト(小千命)が誕生したあと、その胞衣(一説には臍の緒とも言われます)を箱に納めて海上へ流したところ、その箱は今出の海岸へと漂い着きました。
これを拾った漁師が自宅へ持ち帰り、机の上に安置して休んでいたところ、その夜に不思議な神託(お告げ)がありました。
「この箱を清らかな土地に埋め、造化の神を合わせて祀れば、わが霊は永く庶民を見守り、子を授け、安産を守護するであろう」
このお告げを受けた土地の人々は、社殿を建てて「臍緒神(へそのおがみ)」として大切にお祀りしました。
すると大変霊験あらたかで、多くの人々がそのご利益を授かったと伝えられています。
かつてはこの社の相殿(あいどの)に、オチノミコト(小千命)自身もお祀りされていたといいます。
伊予の開拓者・小千御子の栄光
なんとか無事に上陸した第三王子(オチノミコト)。
その後の詳しい足取りについては明確には伝わっていません。
しかし、第三王子(オチノミコト)は生まれながらに並外れた才能と聡明さを備えていたとされ、その評判は遠く都にまで届くほどであったといいます。
一方、父である彦挟嶋王は、官職を辞して都へ戻ることとなりました。
そのため、第三王子(オチノミコト)がその跡を継ぐことになります。
やがて第三王子(オチノミコト)の名声は、時の開化天皇の耳にも届き、わずか七歳(あるいは十一歳)という幼さで、天皇の命により都へと召し上がったといいます。
都での生活を始めた第三王子(オチノミコト)は、天皇のそばで深い慈愛を受けながら育てられ、当時最先端であった教養や政治の要諦を、その身に吸収していったのでした。
やがて朝廷からも格別の信頼を寄せられる存在となった第三王子(オチノミコト)は、故郷である伊予国の国司に任ぜられ、故郷へと錦を飾ることになります。
(※七歳にしてすでに伊予の国造として開拓を指揮していたという伝承を紹介していますが、都へ召し上げられたという伝承に沿って進めます)
小千御子と大浜の由来
崇神天皇三年丙戌(紀元前94年)、第三王子は小千郡の大浜へ上陸した後、この地に館を構え、多くの人々に支えられながら、主君として敬われる存在となっていきました。
そして人々は、この高貴な王子を「小千御子(おちのみこ)」と称したと伝えられています。
小千御子は、父・彦狭嶋命の後継として、同じく大山積大明神(三嶋明神)に仕え、西南地域を守護するという重要な任務を担うことになります。
実は、大浜は四国の中でも特に重要な聖地のひとつでした。
古くから、大三島に鎮座する大山祇神社へと通じる神聖な海辺と考えられており、人々は海から寄せる清らかな波によって身を清めた後、神域へ入ったと伝えられています。
また、この地は大山祇神社のある三島を深く崇敬して、「御島(みしま)」とも呼ばれていました。
小千御子の館は、こうした神聖な信仰と深い結びつきを持つ御島の地に築かれたのです。
やがて、小千御子がこの地に館を構えたことで、人々はその御子をさらに深く敬うようになり、館のあった場所を「御浜(おはま)」と呼ぶようになりました。
そして時代の流れとともに、「御浜(おはま)」は「王浜」、さらに「大浜」という文字へ変化し、現在の「大浜(おおはま)」という地名として定着したと伝えられています。
また、このことからオチノミコト(小千御子)の館も「大浜館」と称されるようになりました。
若き守護者と土佐の動乱
オチノミコト(小千御子)は、四十一もの館を設け、自ら各地を巡視しながら伊予の地を治めていました。
若くして主君となった小千御子でしたが、その統治は武力一辺倒ではなく、人々に寄り添い、民の声に耳を傾ける温厚で誠実なものだったとされています。
そんな中、土佐国で田上之昆谷率いる賊衆が蜂起しました。
朝廷は大矢田根雄を総大将として討伐軍を派遣しますが、賊衆は激しく抵抗し、官軍は苦戦を強いられます。
土佐国境では激しい戦が繰り広げられ、ついには総大将・大矢田根雄までもが討死してしまいました。
この報を聞いたオチノミコト(小千御子)は、「自分は西南鎮護の任を預かる身でありながら、逆賊を見過ごすことはできない」と決意し、自ら討伐へ向かいます。
出陣に先立ち、オチノミコト(小千御子)は三島(大三島)の大山祇神社に参籠し、戦勝を祈願しました。
すると吉兆が現れ、神意を得たオチノミコト(小千御子)は勝敗を天に任せる覚悟で土佐へ進軍し、賊徒の首領・田上之昆谷との決戦に臨みます。
戦いは激戦となり、小千御子の軍も苦戦を強いられました。
しかし退くことなく戦い続け、家臣・有田藤市の巧みな計略によって昆谷を誘い出し、ついに討ち取ることに成功しました。
さらに昆谷の一族郎党も藤市の館で討ち取られ、土佐の反乱は平定され、伊予二名洲には再び平穏が戻りました。
この時、オチノミコト(小千御子)はまだ十八歳。
勇気と統率力、そして誠実で寛大な人柄を兼ね備えた若き守護者は、人々の尊敬を集め、後世までその名を語り継がれることになったのです。
「小千郡」守護神となった越智氏
そして、オチノミコト(小千御子)が治めた地域は「小千郡」と呼ばれるようになり、後の時代には「越智郡」と記されるようになったと伝えられています。
このことから、オチノミコト(小千御子)は越智氏の偉大な始祖として深く崇敬され、この地の守護神として祀られることとなりました。
英雄・日本武尊にも例えられた小千御子
オチノミコト(小千御子)は八十一歳という、当時としては非常に長寿を全うし、崇神天皇三年丙戌三月(紀元前94年4月頃)に亡くなったと伝えられています。
その名は後の時代にも広く伝えられ、越智氏の始祖として深く尊ばれていきました。
例えば、清和天皇の御代(在位:850年5月10日〜881年1月7日)になると、小千御子の功績が改めて朝廷へと伝えられました。
越智氏族の祖として、古くから語り継がれてきたオチノミコト(小千御子)の功績が、あらためて朝廷へ伝えられたといいます。
オチノミコト(小千御子)は、伊予の地を切り開き、人々を導いた英雄的人物として伝承されていました。
その武勇と統治の徳は極めて優れており、朝廷では、「日本武尊(やまとたける)にも比肩する人物」として高く評価されたのです。
日本武尊は、第12代景行天皇の皇子として『古事記』『日本書紀』に描かれる伝説的英雄です。
熊襲討伐や東国平定など、朝廷に従わない勢力を各地で平定し、古代国家の勢力拡大に大きく貢献した人物として知られています。
特に有名なのが、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の伝説です。
東国遠征の途中、敵によって草原へ火を放たれ窮地に陥った際、日本武尊は草薙剣で草を薙ぎ払い、逆風を起こして炎を退けたと語られています。
その姿は、単なる武人ではなく、「国家を守護する神聖な英雄」として人々に崇敬される存在となっていきました。
さらに死後には白鳥となって天へ飛び去ったという神話も残され、後世には武神として全国で祀られるようになります。
その日本武尊に並び称されるほど、オチノミコト(小千御子)の存在は朝廷にとって特別なものだったのです。
その偉大な霊を末永く祀るため、八幡宮として社が建てられることとなりました。
この時、小千御子を祀る霊社も「大浜の社」と称され、宇佐八幡・応神天皇とともに合殿で祀られるようになり、「大浜八幡宮」と呼ばれるようになりました。
祭日は中秋の名月の日とされ、河野氏の宗家(本家)・分家・旗下・末流に至るまで、多くの人々が神輿渡御へ参加する、二名洲第一の大祭として大いに栄えたのでした。
これが、現在の大浜八幡大神社に受け継がれる信仰の始まりです。
「勝岡八幡神社」小千命の討伐伝承
愛媛県松山市の勝岡八幡神社にも、オチノミコト(小千命)の武功を今に伝える古い言い伝えが残されています。
伝承によれば、伊予へ下向したオチノミコト(小千命)は、現在の勝岡八幡神社が鎮座する地にあった白人(うらと・うらど)城を拠点として、伊予各地の統治にあたりました。
ちょうどその頃、堀江方面から「鬼」とも形容されるほど強大な勢力を持つ兇賊がこの地へ襲来し、人々の暮らしを脅かしていたといいます。
オチノミコト(小千命)は直ちに白人城から軍勢を率いて出陣し、兇賊との激しい戦いに臨みました。
激戦の末、小千命は兇賊を打ち破り、捕らえた賊を白人城へ連行しました。
こうして人々は脅威から解放され、再び平穏な暮らしを取り戻したとされています。
この武功によってオチノミコト(小千命)は朝廷から恩賞を賜り、勝ち戦にあやかって白人城の地は「勝岡」と名付けられたと伝えられています。
その後、オチノミコト(小千命)の徳を深く敬った人々は、現在の太山寺(四国八十八箇所第五十二番札所)がある小山(松山市太山寺町)に社を創建し、「白人宮(中野山若宮神社)」として祀るようになりました。
白人宮では、小千命が兇賊を平定した八月七日を祭日と定め、祭礼が執り行われていました。
この祭日は「伊予国最初の祭日」とも伝えられ、祭礼が終わるまでは他の祭りを行うことができなかったとされるほど、特別な意味を持つ神事として受け継がれてきたといいます。
しかし、永享年間(1429~1441年)の戦火によって、白人宮の神殿や社記、宝物はすべて焼失してしまいました。
それでも小千命への信仰は絶えることなく、現在の勝岡八幡神社の裏山にあたる高月山へ遷宮したと伝えられています。
その際、宇佐神宮から八幡神が勧請され、オチノミコト(小千命)とともに祀られるようになり、「勝岡八幡宮」として新たな信仰を集めるようになりました。
これが勝岡八幡神社の始まりと伝えられています。

また、勝岡町の地名も、この「勝ち戦」に由来するとされ、かつては神社名と町名が同じであることは畏れ多いとして、一時「片岡(かたおか)」と呼ばれていた時期もありました。
しかし、昭和17年(1942年)の町名改正によって、再び「勝岡」の名が正式な町名として用いられるようになりました。
現在も勝岡八幡神社は、オチノミコト(小千命)の武功と白人城の伝承を今に伝える古社として、地域の人々の篤い信仰を集めています。

「木の谷」に残る小千命の足跡
また、西条市の長福寺に伝わる古い歴史書『予章記(よしょうき)』にも、この戦いで討ち取られた兇賊を三津の北一里ほどにある「鬼の谷(きのたに)」へ葬ったと記されています。
この「鬼の谷」は、現在の松山市太山寺の裏手から高浜へと続く谷一帯を指すと考えられており、後の時代に「鬼(き)」の字を避けて縁起の良い文字へ改められ、現在の「木の谷(きのたに)」という地名になったといわれています。
「岩崎神社」小千命を祀る道後の社
オチノミコト(小千命)は、「白人明神」あるいは「白人明神小千命」とも称えられ、古くから白蛇の神として崇敬されてきました。
こうした信仰を今に伝えるのが、河野氏が道後に築いた本拠・湯築城跡(現在の道後公園)の一角に鎮座する岩崎神社です。
伝承によれば、その起源は建武年間(1334~1341年)、河野通盛が湯築城を築いた際、城内の一隅に小祠を建立したことに始まるとされています。
以来、岩崎神社は古くから「岩崎権現」や「道後の岩崎さん」と親しまれ、今日まで地域の人々の信仰を集めてきました。
この神社には、大蛇を祀る古い伝説が残されています。
昔、竹の子掘りに訪れた老人が木の根元で休み、吸い殻を落としたところ、その木の根と思っていたものは実は巨大な大蛇でした。
その大蛇は義安寺まで届くほどの大きさで、人々を襲い続けたため、困り果てた村人たちは神社を建立して蛇を祀りました。
すると、それ以降は大蛇が暴れることはなくなり、村には再び平和が訪れたと伝えられています。
現在でもこの蛇は親しみを込めて「ミイさん」や「ミーさん」と呼ばれ、今も大切に祀られています。
オチノミコト(小千命)が古くから白蛇の神として崇敬されてきたことから、この大蛇伝説も、単なる蛇の昔話ではなく、小千命の神威を象徴するものとして語り継がれてきたのかもしれません。


「日高鯨山古墳」オチノミコトの墳墓
そんなオチノミコト(小千命)が眠っていると伝えられているのが、馬越の安養寺と三島神社が鎮座する、日高鯨山古墳です。
鯨山古墳の北部からは土器や埴輪が出土しており、この地が古代より重要な祭祀の場であったことは、考古学的にも裏付けられています。
また、天正7年(1579年)、中世の大山祇神社に仕えた高位神職・大祝であった三島安人の手記に「小千御子御墓」との記述が残されていることから、この地が古くから小千御子の墓所として認識されていた可能性が高いと考えられています。

「小千命社」古来から続く神仏習合の聖域
こうした伝承を大切に受け継いできた地元の人々は、鯨山の北斜面に小さな祠を建て、「小千命社(おちのみことしゃ)」として、オチノミコトを静かにお祀りしています。
小千命社は、三島神社・馬越の社殿の裏手へと続く道を進んだ先にあります。
社の内部には、三体の観音像が安置されています。
さらにその背後には、神棚に見られる「宮形」を思わせる木製の棚が設けられており、神仏を分かつことなく一体として尊んできた、素朴ながらも丁寧な祭祀の様子がうかがえます。
木壁には、年月を経て色褪せながらもはっきりと文字を残す古い木札が掛けられています。
そこには、社の建立や修理に携わった地元の人々の名が刻まれており、その一つひとつから、地域に根ざした深い信仰心が今もこの場所に息づいていることを感じさせます。


二千年を越えてつながる歴史
このように、オチノミコトの足跡は、神社や古墳、地名、そして人々の記憶の中に、今もなお静かに息づいています。
名は時代とともに姿を変えながらも、その存在は決して消えることなく、二千年の時を越えて語り継がれてきました。
そしてそれは、単なる一人の人物の伝承ではありません。
この地に生きた越智氏の一族、そして幾世代にもわたって紡がれ、繋がれ続けてきたこの地の歴史そのものです。
今治、そして伊予の地には、二千年の時を越え、今もオチノミコトの記憶が脈々と流れ続けているのです。
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