突如訪れた南朝最大の危機
尊真親王という精神的支柱を失いながらも、伊予の南朝勢力はなお抗戦を続けていました。
しかし、その頃の南朝方は全国各地で苦しい戦いを強いられており、伊予にも戦局を揺るがす衝撃的な報せが次々ともたらされます。
それが、南朝を支えてきた総大将たちの相次ぐ戦死でした。
前回の記事はこちら:《世田山合戦③》南北に分かれた河野氏一門と三親王の到着。動き出す激動の伊予情勢
「新田義貞と北畠顕家」南朝を支えた二人の総大将
南朝方は全国各地でなおも抗戦を続けていましたが、その軍事力を支えていたのが、新田義貞と北畠顕家(きたばたけ あきいえ)でした。
鎌倉幕府滅亡の立役者として知られる新田義貞と、奥州から二度にわたり大軍を率いて上洛した北畠顕家。
二人は事実上の南朝方総大将として各地を転戦し、後醍醐天皇を支える軍事的支柱となっていました。
若き名将・北畠顕家
なかでも北畠顕家は、後醍醐天皇の側近である北畠親房(きたばたけ ちかふさ)の長男として生まれ、若くして陸奥守・鎮守府大将軍に任じられた南朝方屈指の名将でした。
公家の出身でありながら卓越した政治力と軍事的才能を兼ね備え、十代にして奥州の武士たちをまとめ上げ、陸奥将軍府の中核を担う存在となります。
建武政権崩壊後、後醍醐天皇が吉野へ移ると、顕家は義良親王(のりよししんのう・後の後村上天皇)を奉じて奥州で南朝勢力を支えました。
そして延元二年/建武四年(1337年)には、伊達氏・結城氏・南部氏ら東国武士を率いて奥州を出発し、足利方の支配下にあった関東・東海道を突破しながら京都を目指します。
その進軍速度は驚異的でした。
顕家軍はわずか二十日余りで数百キロを踏破したとされ、戦国時代の軍勢と比べても異例ともいえる強行軍を成し遂げています。
しかも、その道中では各地の北朝方勢力と戦いながら進軍しており、単なる移動ではありませんでした。
顕家は鎌倉を攻略し、さらに西へ進撃すると、新田義貞や楠木正成らと合流して足利尊氏を京都から追い落とすことにも成功します。
その武名は全国に轟き、若干21歳にして南朝方を代表する名将となっていたのです。
しかし足利尊氏が九州で再起を果たし、再び勢力を盛り返すと戦局は一変します。
顕家は再び大軍を率いて上洛を目指しますが、長期遠征による疲弊と度重なる戦いによって、その軍勢は次第に消耗していったのです。
石津の戦いに散る
延元三年/建武五年(1338年)、顕家は再び京都奪還を目指して西進を続けていました。
しかし、奥州から関東、東海道、近畿へと続く長い遠征によって兵力は大きく消耗しており、軍勢も疲弊していました。
さらに、義良親王を安全な吉野へ送り届けるため、兵を分けざるを得ない状況にも置かれていました。
それでも顕家は戦いを止めませんでした。
京都奪還こそが南朝再興への道であると信じ、残された兵を率いて進軍を続けたのです。
そして延元三年/建武五年五月二十二日(1338年6月10日)、和泉国石津(現在の大阪府堺市付近)で足利方の高師直・高師泰兄弟率いる大軍と激突しました。
これが「石津の戦い」です。
当時の足利方は一万八千ともいわれる兵を集結させており、兵力では南朝軍を大きく上回っていました。
顕家軍は奮戦したものの、多勢に無勢でした。
しかも北朝方に属した瀬戸内海の水軍勢力からも攻撃を受け、南朝軍は次第に追い詰められていきます。
顕家は最後まで退くことなく戦い続けました。
わずかな供回りとともに敵中を突破しようとしましたが、石津の地でついに包囲されます。
激戦の最中、顕家は落馬し、そのまま討ち取られました。
享年21。
ともに上洛軍を率いてきた名和義高や南部師行らも戦死し、奥州から西上した南朝軍の主力はここで壊滅します。
若くして南朝随一の名将と謳われた北畠顕家の死は、南朝にとって計り知れない損失であり、後醍醐天皇もその死を深く嘆いたと伝えられています。

石津の戦い、北畠顕家戦死の地の供養塔 撮影:Ogiyoshisan(Wikimedia Commons) CC BY-SA 4.0
後醍醐天皇の忠臣・新田義貞
そしてこの悲報は、伊予で尊真親王が崩御してからわずか二か月余り後の出来事でもありました。
尊真親王に続き、南朝を支えた名将・北畠顕家までも失ったことは、各地で戦う南朝方に大きな衝撃を与えることとなったのです。
しかし、南朝を襲った悲報はこれだけではありませんでした。
それが、新田義貞の討死です。
「金ヶ崎城落城」親王と嫡男を失う
新田義貞は、元弘の乱で後醍醐天皇の討幕運動に呼応して挙兵し、鎌倉幕府を滅亡へ追い込んだ後も後醍醐天皇への忠誠を貫き続け、事実上の南朝方総大将として多くの南朝方武士たちにとって精神的支柱となっていました。
後醍醐天皇が京都を脱出して吉野に南朝を開くと、新田義貞は恒良親王(つねよししんのう)・尊良親王(たかよししんのう)を奉じて北陸へ下りました。
当時の北陸にはなお南朝方に与する武士たちが多く存在しており、義貞は越前国(現在の福井県北部)を拠点として勢力を結集し、再び京都へ攻め上る機会をうかがっていました。
延元元年/建武三年(1336年)10月、義貞らは敦賀へ到着すると、気比神宮の神官・気比氏治(けひ うじはる)らの出迎えを受け、金ヶ崎城へ入城します。
金ヶ崎城は敦賀湾へ突き出した丘陵上に築かれた天然の要害であり、海上交通と陸路の双方を押さえる戦略上極めて重要な拠点でした。
義貞はここを北陸における南朝方最大の拠点と位置付け、北陸反攻の本拠地としたのです。

天筒山展望台から見た金ヶ崎城跡(福井県敦賀市) 撮影:立花左近(Wikimedia Commons) CC BY-SA 4.0
さらに義貞は、嫡男・新田義顕(にった よしあき)や甥の脇屋義治(わきや よしはる)を杣山城(そまやまじょう)へ派遣し、越前各地の南朝勢力との連携を図ります。
しかし北朝方もこれを見過ごしませんでした。
越前守護・斯波高経(しば たかつね)を中心とする北朝軍は越前各地を掌握し、金ヶ崎城を包囲します。
延元二年/建武四年(1337年)に入ると包囲はさらに強まり、城は完全に孤立し、兵糧攻めにあうことになりました。
義貞は城の窮状を打開するため、弟・脇屋義助らとともに金ヶ崎城を脱出し、越前各地で援軍を募る決断を下します。
しかし城内には尊良親王、恒良親王、嫡男の義顕らが残されていました。
そして同年3月、兵糧が尽きた金ヶ崎城はついに落城します。
尊良親王は自害し、義顕もまた城兵たちとともに壮絶な最期を遂げました。
さらに新田四天王の一人として知られる由良具滋(ゆら ともしげ)も戦死します。
恒良親王は脱出を試みたものの足利方に捕らえられ、後に命を落としました。
義貞は奉じていた親王、最愛の嫡男、そして長年苦楽をともにしてきた腹心の武将までも失うという大きな悲劇に見舞われたのです。

尊良親王が自刃した地とされる金ヶ崎城跡の尊良親王陵墓見込地 撮影:立花左近(Wikimedia Commons) CC BY-SA 4.0
「越前での反攻」諦めず戦い続けた義貞
それでも義貞は戦いを諦めませんでした。
越前各地の南朝勢力をまとめ上げると反撃に転じ、杣山城を拠点に勢力を立て直していきます。
延元三年/建武五年(1338年)には金ヶ崎城を奪還するなど、越前における南朝勢力は再び勢いを取り戻しつつありました。
当時の義貞は決して追い詰められていたわけではありません。
越前では金ヶ崎城をはじめとする南朝方の拠点がなお健在であり、越後方面からの援軍も期待されていました。
戦況はむしろ南朝方に有利な方向へ傾きつつあったともいわれています。
金ヶ崎落城という悲劇を乗り越えた義貞は、再び北陸における南朝勢力の中心として戦い続けていたのです。
「藤島の戦い」新田義貞討死
延元三年/暦応元年閏7月2日(1338年8月25日)。
越前における戦況は南朝方優勢へと傾きつつありました。
義貞は、北朝方の拠点であった藤島城(現在の福井県福井市周辺)の攻略を進める一方で、周辺の敵情を探るため、わずか五十騎ほどの兵を率いて出陣します。

西超勝寺 山門脇にある藤島城址碑 撮影:藤谷良秀(Fujitani Yoshihide)(Wikimedia Commons) CC BY-SA 4.0
それは大軍を率いた決戦ではなく、あくまで偵察を目的とした小規模な行動でした。
しかし灯明寺畷(とうみょうじなわて)付近で、義貞隊は北朝方の細川勢と不意に遭遇します。
互いに予期せぬ接触だったとも伝えられますが、兵数では北朝方が圧倒的に優勢でした。
十分な射手も伴わないまま戦闘に巻き込まれた義貞隊はたちまち苦戦を強いられます。
従者や郎党たちは次々と討ち取られ、戦況は急速に悪化しました。
家臣たちは退却を勧めましたが、義貞は退くことをよしとせず、自ら太刀を振るって戦い続けます。
やがて敵の放った矢が義貞の額付近に命中し、深手を負いました。
最期を悟った義貞は自ら命を絶ったとも、従者によって介錯されたとも伝えられています。
享年38。
これが後に「藤島の戦い」として語り継がれる、新田義貞最期の戦いでした。

新田義貞戦没伝説地 撮影:Bakkai(Wikimedia Commons) CC BY-SA 4.0
南朝の象徴「後醍醐天皇崩御」
鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇を支え続けた南朝方最大の武将の突然の死は、全国の南朝勢力に大きな衝撃を与えました。
南朝の絶対的な支柱であった義貞を失ったことで、降伏する者、逃げ去る者、あるいは出家する者まで現れたと伝えられています。
さらに、延元四年/暦応二年(1339年)8月16日には、南朝そのものの象徴であり、建武の新政を断行して足利尊氏と対峙し続けた後醍醐天皇までもが崩御してしまいました。
後醍醐天皇は最後まで足利氏討伐の悲願を捨てることはありませんでした。
崩御に際しては、「たとえこの身が吉野山の苔の下に埋もれようとも、その魂は常に京都の空を望み続けるであろう」との遺志を残したと伝えられています。
さらに天皇は、左手に『法華経』第五巻を、右手に御剣を握ったまま息を引き取ったとされ、その姿は最後まで南朝の大義を貫こうとした強い意志を象徴するものとして語り継がれています。

奈良 吉野の如意輪寺 後醍醐天皇陵 撮影:kazu_m49(写真AC)
「後村上天皇即位」受け継がれた後醍醐天皇の意志
こうして南朝は、北畠顕家、新田義貞、そして後醍醐天皇という軍事・政治両面の中核を、わずか一年余りの間に相次いで失うという未曾有の危機に直面しました。
それでも南朝の火は消えませんでした。
後醍醐天皇が崩御すると、皇子である義良親王が即位し、後村上天皇(ごむらかみてんのう)として新たな南朝政権を率いることとなりました。
父・後醍醐天皇の遺志を受け継いだ後村上天皇は、なお続く北朝との戦いを前に、苦境に立つ南朝勢力の再建に乗り出します。
政務面では北畠親房や四条隆資(しじょう たかすけ)らが朝廷を支えました。
また軍事面では、討死した楠木正成の長男・楠木正行(くすのき まさつら)が、後村上天皇を支える新たな柱として期待されるようになります。
特に四条隆資は各地の武士へ綸旨や書状を送り続け、離反者が相次ぐ苦境のなかでも南朝勢力を繋ぎ止めるため奔走しました。
その中でも、西国の維持は極めて重要な課題でした。
特に伊予国は、三親王の下向や、四条隆資の実子・四条有資(しじょう ありすけ)が伊予国司に任じられたことからも分かるように、南朝が西国経営の要地として重視していた国でした。
そして、この伊予の地で新たな戦いの幕が開こうとしていたのです。
兄の遺志を継いだ西国反攻の総大将「脇屋義助」
そんな中、南朝方の軍事的再建と西国勢力の立て直しを託されたのが、新田義貞の実弟・脇屋義助(わきや よしすけ)でした。
義助はもともと新田氏の一族として「新田義助」を名乗っていましたが、上野国脇屋郷(現在の群馬県太田市周辺)を本拠としたことから脇屋姓を称するようになります。
兄・新田義貞とともに数々の戦場を駆け抜け、建武政権崩壊後も後醍醐天皇への忠誠を貫き、新田軍の中核として南朝方のために戦い続けました。
箱根・竹ノ下の戦い、京都攻防戦、湊川の戦い、そして北陸での戦いに至るまで、常に兄・義貞と行動をともにした義助は、新田軍を支える最重要人物の一人であり、まさに義貞の「片腕」ともいうべき存在だったのです。

東武鉄道太田駅前に建つ新田義貞公と脇屋義助公像(photo library)
敗走からの帰還と再起への道
兄・義貞が討死すると、義助はその遺志を継いで越前国の南朝勢力を率い、黒丸城を攻略するなど奮戦を続けました。
しかし北朝方の反攻は激しく、やがて越前での戦況は悪化していきます。
興国元年(1340年)、義助は美濃国(現在の岐阜県西部・中南部)根尾城に拠って再起を図りましたが、美濃守護・土岐頼遠(とき よりとお)率いる北朝方の大軍がこれを攻撃しました。
頼遠は新田義貞や北畠顕家ら南朝方の名将たちとも戦った北朝方屈指の猛将として知られています。
義助は奮戦したものの力及ばず、尾張へ退くこととなりました。
その後、熱田神宮の大宮司の支援を受けながら羽豆崎で兵を整え、海路伊勢へ渡り、伊賀を経て吉野へ向かいます。
北国における南朝勢力は大きく後退し、朝廷内では「敗軍の将に恩賞を与えるべきではない」という厳しい声も上がりました。
しかし、この時義助を強く擁護したのが四条隆資(しじょう たかすけ)でした。
隆資は、義助が北国の最前線で孤軍奮戦を続けたことを高く評価し、その責任は十分な支援を与えられなかった朝廷側にもあると主張します。
さらに義助の忠節と功績を後村上天皇へ訴えたことで、義助は罪に問われるどころか、再び南朝方の中心武将として重用されることとなりました。
こうして義助は、新田義貞亡き後の南朝方を支える数少ない有力武将として、西国再建という重大な任務を託されることになるのです。
総大将を求めた伊予の南朝勢力
その頃、伊予では土居氏・得能氏・忽那氏などの南朝方有力武士たちが各地で戦い続けていました。
しかし、それぞれが奮戦を続ける一方で、西国の南朝勢力を統率する総大将を欠いていたのです。
興国三年(1342年)4月。
伊予の南朝方武士たちは後村上天皇へ対し、「西国を統率する総大将を派遣してほしい」と要請しました。
この願いに応えた後村上天皇は、脇屋義助(わきや よしすけ)を西国方面の南朝軍総大将に任命します。
大命を受けた義助は、ただちに行動を開始しました。
熊野水軍の協力を得て三百余隻にも及ぶ大船団を編成し、伊予国府へ向けて出航します。
義助のもとには、新田一門の有力武将である金谷経氏(かなや つねうじ)も従っていました。
経氏は上野国新田郡金谷を本拠とする新田氏一族の武将で、新田義貞と同じく清和源氏の流れをくむ名門の出身です。
義貞の挙兵以来、南朝方として各地を転戦し、播磨国の丹生山城などを拠点に抗戦を続けていました。
義助の西国遠征にも加わり、新田一門を代表する武将として南朝軍の中核を担うことになります。
「瀬戸内海を味方に」塩飽・忽那水軍との連携
脇屋義助の一行は海路をたどって伊予を目指しました。
まず淡路島の沼島へ渡ると、現地豪族の梶原二郎や、瀬戸内海屈指の海上勢力であった塩飽水軍の佐々木信胤(ささき のぶたね)らと合流します。
さらに伊予へ近づくにつれ、忽那諸島を本拠とする忽那水軍もこれに呼応しました。
忽那義範(くつな よしのり)は、熊野水軍とも連携しながら瀬戸内海各地で北朝方と戦っていた南朝方屈指の水軍武将です。
後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねながしんのう)を忽那島へ迎え入れ、長期間保護したことでも知られています。
義範は義助の伊予入国にも積極的に協力し、海上からその行動を支えました。
こうして熊野・塩飽・忽那という瀬戸内海有数の海上勢力が南朝方のもとに結集します。
海上交通を掌握した義助は、安全な航路を確保しながら西国へ進出し、各地の南朝方勢力との連携を深めていったのです。

愛媛県松山市 野忽那島と田ノ島 撮影:setsuna0410(写真AC)
「今張浦上陸」待望の総大将到着
そして興国三年(1342年)4月23日。
塩飽水軍に護衛された脇屋義助の大船団は、ついに伊予国府がある今張浦(現在の愛媛県今治市周辺)へ姿を現しました。
長年にわたり総大将の到着を待ち望んでいた伊予の南朝方武士たちは、この報に大きく沸き立ちます。
義助を迎えたのは、土居氏・得能氏をはじめとする伊予南朝方の有力武将たちと、三親王の下向以来南朝勢力を率いてきた伊予守護・大館氏明(おおだち うじあき)、新田四天王の筆頭格・篠塚重広(しのづか しげひろ)、そして伊予国司・四条有資(しじょう ありすけ)でした。
こうして、三親王の下向以来伊予で戦い続けてきた古参勢力と、脇屋義助・金谷経氏ら新たに下向した新田勢が合流します。
「結集する伊予国」南朝方躍進の時
それは単なる援軍の到着ではありませんでした。
伊予の南朝方が、初めて一人の総大将のもとへ結集する瞬間だったのです。
伊予の南朝方諸氏は、土居氏・得能氏・河田氏・武市氏・日吉氏らを中心に長年抗戦を続け、東は讃岐方面、西は土佐国幡多郡方面にまでその勢力を及ぼしていました。
しかし全軍を統率する総大将を欠いていたため、その力を十分に結集できずにいたのです。
そこへ後村上天皇の勅命を受けた脇屋義助が総大将として下向したことで、それまで各地で戦っていた南朝方の力は一つにまとまり、その勢いはかつてないほど高まっていきました。
南朝方の軍勢は急速に主導権を握り始めます。
伊予国内に残っていた北朝方の諸勢力も大きく動揺し、なかには南朝軍が攻め寄せる前に城を放棄する者まで現れました。
伊予の戦局は急速に南朝方優勢へと傾き、その威勢はたちまち四国全域へ広がります。
さらに備前・備後・安芸・周防など西国各地の南朝方武士たちも呼応し、南朝勢力は再び反攻への機運を高めていったのです。
南朝方西国反攻の拠点、国分
伊予南朝方の有力武将たちに迎えられた総大将・脇屋義助の一行は、そのまま宿舎として国分寺(伊予国分寺)へ入り、背後にそびえる国分山を新たな拠点と定めました。
国分山を含む府中一帯は、古代以来、伊予国府や国衙が置かれた伊予国の政治・行政の中心地でした。
また、瀬戸内海へ通じる交通の要衝でもあり、周辺には守護所に関わる勢力も集まるなど、軍事・戦略上も極めて重要な地域だったのです。


「南朝最大の誤算」脇屋義助の突然の死
しかし、誰もが予想だにしなかった事態が起こります。
着任から間もない興国三年(1342年)5月4日、脇屋義助は突然の病に倒れました。
伊予の南朝勢力が結集し、西国反攻への機運が高まるなかでの出来事でした。
そして、同年五月十一日、懸命な療養が続けられましたが、回復することなく、ついに息を引き取りました。
享年38。
それは、兄・新田義貞が藤島の戦いで討死した時と同じ年齢でした。
南朝方にとって、まさにこれから反攻を開始しようという矢先に起きた総大将の急死は、諸将たちに大きな衝撃を与えます。
ようやく一つにまとまりかけていた伊予の南朝勢力は再び求心力を失い、土居氏・得能氏ら諸将も今後の方針を定めることさえ容易ではない状況に置かれました。
また、戦の真っ只中で総大将を失うことは、軍の士気を揺るがすだけでなく、戦況そのものを左右しかねない重大事でした。
そのため義助の死は隠され、総大将の身でありながら盛大な葬儀や墓所が築かれることもありませんでした。
当時の緊迫した情勢のなか、わずかな家臣と僧侶たちによって、ひそかに葬礼が営まれたのです。
しかし、総大将の死をいつまでも隠し続けることはできませんでした。
そして、そのことが伊予国の戦局を大きく動かし、世田山合戦へとつながっていくことになるのです。
今治に残る脇屋義助の足跡
極秘とされた西国総大将・脇屋義助の死
戦乱の最中という事情もあり、その死が公にされることはなく、しばらくの間は立派な墓所が築かれることもありませんでした。
それでも地域の人々は、志半ばで倒れた義助の死を深く悼み、国分寺の東方に埋葬されたと伝わるその墓所を、代々ひそかに守り伝えてきたといいます。
近世初頭には、そこに「脇屋刑部卿義助の印の石」と呼ばれる小さな石があったとも伝えられ、すでに義助ゆかりの地として人々の間で認識されていたことがうかがえます。
江戸時代に入ると四国遍路が盛んになり、第59番札所・国分寺(伊予国分寺)を訪れた巡礼者たちは、本堂への参拝を終えた後、その足を延ばして義助の墓所にも立ち寄り、静かに手を合わせたと伝えられています


つまり義助の墓所は、単なる「古い墓」ではなく、国分寺参拝とともに巡られる祈りの場として、人々の信仰の中に生き続けていたのです。
やがて時代が下り、その忠義を顕彰する機運が高まると、墓所は「脇屋神社・脇屋義助公廟堂」として整備され、正式に祀られるようになりました。
国分寺の参拝とともに訪れ、義助の冥福を祈る。そうした人々の祈りは、時代を超えて今もこの地に受け継がれています。


脇屋義助の名を伝える地は、桜井の霊廟だけではありません。
大西町脇には、南北朝時代の作と伝わる凝灰岩の石塔があり、ここも義助の墓所とされ、「脇屋義助五輪塔」として今に伝えられています。
一方で、この石塔は義助の墓所という説のほか、戦国武将・岡部十郎国道の墓であるという伝承も併せ持ち、長い年月の中で史実と伝承が重なり合ってきました。
誰の墓であるかという確証を超えて、この石塔は、郷土を守り抜いた「忠義の武将」を偲ぶ祈りの象徴として、大切に守り継がれています。

また、同じく大西には「新田さん」と親しまれてきた「脇屋社」があります。
この社には、国分寺で亡くなった脇屋義助の遺骸を、大井寺の義泰法印が人目を避けて密かに運び出し、大西町の清水谷へ葬ったという伝承が残されています。

時代が下って大正時代、この地で発掘調査が行われた際、古い遺物や石材が出土しました。
これをきっかけに、地域の人々は脇屋義助ゆかりの地であることを後世へ伝えるため、出土した石の一つを用いて「脇屋社」と刻んだ記念碑を建立し、改めて義助の霊を顕彰したと伝えられています。

また異説として、脇屋義助は病によって没したのではなく、この地での戦いで負傷し、国分山城で死去したという説も残されています。
このように、義助にまつわる墓所や伝承地は各地に残されており、そこには史実だけでは語り尽くせない、人々の深い祈りと記憶が積み重ねられてきました。
そして、いずれの地も南北朝の時代を今に伝える貴重な史跡であり、義助の忠義と志が、この地の人々の心の中で静かに息づき続けてきた証でもあるのです。
次の記事はこちら:《世田山合戦⑤》北朝方四国総大将・細川頼春の伊予侵攻