河野氏とともに戦い、河野氏とともに歴史を閉じた山城
応仁元年(1467年)、京都では室町幕府の実権を握る細川勝元と山名宗全が、それぞれ全国の守護大名を率いて激突しました。
将軍家の後継問題や守護大名同士の対立が複雑に絡み合ったこの戦いは、やがて京都全域を巻き込む大乱へと発展し、十一年にわたって続きます。
しかし、文明五年(1473年)に東軍の細川勝元と西軍の山名宗全が相次いで病没すると、戦いは次第に終息へ向かいました。そして文明九年(1477年)、両軍が京都から撤退したことで、応仁の乱はようやく終結します。
ところが、この戦いが日本に残した影響は、あまりにも大きなものでした。
室町幕府の権威は著しく失われ、将軍の命令だけでは全国の守護大名や国人領主を統制することが困難になります。
京都から領国へ戻った諸将は、かつて敵味方に分かれて戦った相手への怨恨を抱えながら、自らの所領を守り、さらに勢力を広げようとしました。
こうして日本は、武力によって領国を守り、勢力を広げる戦国時代へと移っていきます。
伊予国でも、応仁の乱によって深まった河野宗家と豫州家の対立はなお続き、一族の内紛は戦国乱世の中でさらに激しさを増していきました。
しかし、その一方で外から強大な敵が迫るとき、争い続けてきた両家は一時的に対立を収め、再び力を合わせることになります。
その相手こそ、室町幕府の中枢を担った名門・細川氏の有力武将、細川之勝(ほそかわ ゆきかつ、後の義春)でした。
前回の記事はこちら:《世田山合戦⑭》そして戦国時代へ……。乱世の伊予を二分した家督争い「河野宗家 vs 豫州家」
阿波細川家の後継者・細川義春
細川之勝(ほそかわ ゆきかつ・後の義春)は、応仁二年(1468年)、阿波守護・細川成之(ほそかわ しげゆき)の次男として生まれました。
父・成之が率いた阿波細川家は、代々阿波国守護を務めた細川氏の有力な一門であり、之勝は幼い頃から室町幕府を支える名門武家の後継者として育てられます。
当時の細川氏は、管領家である京兆家(けいちょうけ)を中心に、阿波・讃岐・土佐・丹波・摂津・淡路・備中などへ広大な勢力を広げた、室町幕府最大級の武家一門でした。
その勢力の礎を築いたのが、南北朝時代に管領として幕府を支えた細川頼之です。之勝の祖・細川詮春(あきはる)は頼之の弟として阿波細川家を興し、一族は代々阿波国守護として四国に大きな勢力を築きました。
応仁の乱では、之勝の父・成之が東軍の主力として細川勝元を支え、阿波・讃岐の軍勢を率いて京都へ参陣しています。
一方、細川氏の嫡流である京兆家を率いた細川勝元は、室町幕府の中枢を担いながら、山名宗全率いる西軍と十一年にわたる天下を二分する戦いを繰り広げました。
之勝は、まさに細川氏が全国屈指の権勢を誇った時代に育った武将だったのです。
その後、兄・政之の死去によって阿波細川家の家督を継承し、第十代将軍・足利義材(後の義稙)から偏諱の「義」の一字を与えられ、「之勝」から「義春」へと改名しました。
これは、細川氏の嫡流である京兆家当主でさえ容易には許されなかった将軍家の通字を与えられるという異例の待遇であり、義春が将軍から厚い信任を受けていたことを示しています。
その後、義春は細川京兆家当主・細川政元に対抗し得る有力守護として期待され、阿波細川家を代表する武将へと成長していきました。
「細川義春の伊予侵攻」
文明十一年(1479年)、細川義春(之勝)が阿波・讃岐から一万余の大軍を率いて伊予への侵攻を開始しました。
この時、義春はまだ十二歳ほどであったため、実際の軍事行動は、父・細川成之をはじめとする阿波細川家の重臣たちが主導していた可能性が高いとされています。
では、なぜ細川氏は伊予国へ侵攻したのでしょうか。
細川氏が伊予を狙った理由
伊予国は、阿波・讃岐・土佐へ勢力を広げてきた細川氏にとって、極めて重要な地域でした。
しかも、細川氏による伊予攻略は、細川頼之一代に始まったものではありません。
足利尊氏に従って四国へ進出した細川一族は、早くから阿波・讃岐を足掛かりとして勢力を築き、その後、頼之の父・細川頼春も伊予攻略を進めました。頼春が果たせなかった伊予掌握への思いは頼之へ受け継がれ、さらに後の細川氏にも引き継がれていきます。
つまり伊予国は、細川氏が四国へ進出して以来、代々その勢力下に置こうとしてきた地域だったのです。
そして、この時代になると、伊予国の重要性はさらに高まっていました。
畿内と中国・九州を結ぶ瀬戸内海は、軍勢や兵糧、武器をはじめ、さまざまな物資が行き交う海上交通の大動脈でした。
その中央部に位置する伊予国を押さえることは、西国へ向かう航路へ影響力を及ぼし、軍事的・政治的な優位を確保することにつながります。
さらに、明との勘合貿易をはじめとする海上交易が発展すると、瀬戸内海の航路や港へ影響力を持つことは、海上での勢力を強めるだけでなく、大きな経済的利益を得ることにもつながりました。
阿波・讃岐・土佐に勢力を築いた細川氏にとって、なお河野氏が統治する伊予国は、四国経営を進めるうえで無視することのできない存在だったのです。
一方、河野氏にとっても、瀬戸内海は一族の存立を支える生命線でした。
能島・来島・因島をはじめとする島々の海上勢力と結び付き、港や航路を掌握することで、河野氏は長く伊予国に勢力を維持し、瀬戸内海へ大きな影響力を及ぼしてきました。
そのため、細川氏による伊予進出は、河野氏から一国を奪うだけではありませんでした。河野氏の軍事力や経済力を支えてきた瀬戸内海の基盤そのものを切り崩すことを意味していたのです。
そして河野氏にとっても、細川氏との戦いは本領を守るだけのものではなく、一族を支える海上交通網と水軍勢力、さらには河野氏そのものの存亡を懸けた戦いでした。
こうして伊予国と瀬戸内海の主導権をめぐる両氏の対立は、一時的な争いではなく、頼春・頼之の時代から後世へと受け継がれる、長年にわたる対立となっていったのです。
細川氏に好機を与えた河野氏の内紛
応仁の乱が勃発する直前にも、河野氏と細川氏はすでに刃を交えていました。
寛正三年(1462年)には、河野通春と阿波守護・細川成之の軍勢が伊予で交戦しています。
さらに応仁の乱では、細川氏が東軍、河野通春が西軍に属したことで、両者の対立はさらに深まることとなりました。
応仁の乱が終結すると、細川氏にとって伊予へ再び勢力を伸ばす絶好の機会が訪れました。
そのきっかけとなったのが、河野氏内部で続いていた豫州家と宗家の対立です。
文明十年(1478年)には通春が一時優勢となり、伊予国の三分の一から半国近くまで勢力を広げたと伝えられています。
しかし、その後は宗家の通直方が巻き返し、劣勢となった通春は大内政弘へ呉・能美・蒲刈の船衆の派遣を要請しました。
このような河野氏内部の混乱は、細川氏にとって伊予へ再び勢力を伸ばす絶好の機会と映ったのかもしれません。
河野氏と細川氏との戦い
細川義春が阿波・讃岐の大軍を率いて伊予へ侵攻したとの報は、ほどなく河野氏のもとへ届けられました。
河野氏は直ちに伊予各地の武将たちへ出陣を命じ、細川軍を迎え撃つため総力を結集します。
この戦いで河野軍を率いたのが、河野宗家第53代当主・河野通久の二男・河野通生(こうの みちなり)でした。
通生は、文正元年(1466年)に宗家当主で実兄・河野通直(教通)が京都へ赴いていた隙を突き、安芸守護・武田氏が伊予へ侵攻した際には、嫡男・勝生(かつお)を出陣させ、十日余りに及ぶ激戦の末、武田軍を撃退するなど、幾度となく河野氏の危機を救ってきました。
京都で活動する兄・通直を支えながら、伊予における河野宗家の基盤を守り続けた通生は、一族随一の名将として厚い信望を集めていました。
そして、この時も兄・通直は京都に滞在していたため、伊予国の防衛と軍勢の指揮は実質的に通生へ委ねられていました。
河野氏の総力を挙げたこの決戦でも、伊予を守る采配は通生に託されたのです。
伊予総力を挙げて迎え撃つ河野軍
通生は、細川義春率いる阿波・讃岐の大軍を迎え撃つため、風早郡の神途城(こうづじょう・十二台城・三十三台城)へ入ると、一族を集め、伊予各地の諸将に出陣を命じました。
さらにこの戦いには、細川氏という因縁の敵を前に、対立を続けてきた豫州家も協力し、河野氏は再び一つとなります。
その後、阿波・讃岐から侵攻する細川軍を迎え撃つため、伊予各地では急いで防衛体制が整えられました。
特に最前線となる道前地方(現在の今治市・西条市・新居浜市・四国中央市周辺)では、世田山城をはじめ、大熊山城、鷺ノ森城、獅子鼻山城などの要害で守りが固められ、互いに連携して細川軍の進軍を食い止める強固な防衛線が築かれます。
また、伊予灘を望む由並城でも守備が固められ、嫡男・勝生には高穴城の守備を任せるなど、海上交通や西方からの侵攻に備えました。
そして、ついに細川義春率いる大軍が伊予東部へと入ってきました。
河野通生、世田山城で迎え撃つ
通生は、この伊予東部最大の要衝である世田山城へ一族や譜代の家臣を率いて入り、自ら最前線で細川義春率いる大軍を迎え撃ったのです。
河野軍は世田山城を中心に、大熊山城や獅子鼻山城など各地の要害が互いに連携し、険しい山城の地形を巧みに生かしながら細川軍と戦い続けました。
当初、細川軍は大熊山城や獅子鼻山城を攻め立てましたが、やがて主力を河野通生が陣を構える世田山城へ集中させ、伊予東部防衛の要衝をめぐる激戦が繰り広げられます。
しかし、通生は最前線の世田山城で巧みに軍勢を指揮し、各地の諸城と連携して細川軍の猛攻に耐え抜きました。
さらに村上氏・忽那氏ら伊予水軍が海上から細川軍の補給路や退路を襲撃すると、戦局は一気に河野軍へ傾きます。
前後から挟撃された細川軍は総崩れとなって阿波・讃岐へ敗走し、大熊山城の包囲も解かれました。
その機を逃さず、通生父子は敗走する細川軍を追撃し、獅子鼻山城主・宇野隼人正通平もこれに加わって、ついに細川軍を伊予国境の外まで追い払ったと伝えられています。
この大敗を受け、細川義春は「二度と伊予へは攻め入らぬ」と語ったといいます。
「天文八年の決戦」細川氏最後の伊予侵攻
しかし、細川氏が伊予国への野心を捨てたわけではありませんでした。
約60年後の天文八年(1539年)10月、讃岐の細川持隆は阿波・讃岐の諸将を率い、一万余とも伝えられる大軍を率いて再び伊予国へ侵攻します。
陸路では西讃岐から大軍が進軍し、海上でも西伊予や神津の島々へ働きかけながら伊予各地へ攻め寄せました。周敷郡をはじめ各地で激戦が繰り広げられ、村々の人々は山中へ避難し、田畑や民家が焼かれるなど、伊予は再び戦火に包まれます。
これに対し河野方では、河野通生が世田山や温泉山などの要害を拠点として各地の国人衆とともに迎え撃ち、細川軍の侵攻を食い止めました。
やがて、河野氏が豊後国の大友義鑑と和親し、援軍が来るとの風聞が細川方へ伝わると、細川軍は畿内情勢も考慮して撤退を決断します。
しかし、退却する軍勢は隊列や旗印が乱れ、人々の目には敗走する軍勢のように映ったと伝えられています。
河野氏と細川氏、百四十年の因縁に終止符
この戦いでは、伊予各地の国人たちも河野氏に呼応し、各地で細川軍を迎え撃ちました。
中でも、宇摩・新居両郡(現在の四国中央市・新居浜市・西条市周辺)の国人たちは河野方として奮戦し、細川軍を撃退したとも伝えられています。
宇摩・新居両郡は、永徳年間に河野通義と細川頼之が和睦した際、細川方の勢力下となった地域でした。
この地方の国人たちは代々細川氏の恩顧を受け、本来であれば細川軍に味方しても不思議ではありませんでした。
それにもかかわらず河野方として戦ったことは、代々伊予国を治めてきた河野氏との長年の結び付きや旧恩の深さを物語る出来事だったと考えられています。
一方、この戦いでは伊予・讃岐の両国とも甚大な被害を受けました。各地の城や村々は戦火に巻き込まれ、田畑は荒廃し、民家や農具までも失われるなど、多くの人々が戦乱の犠牲となったのです。
こうして細川軍は伊予国から撤退し、この戦いを最後に河野氏と細川氏が伊予国をめぐって大規模に衝突した記録は見られなくなりました。
南北朝時代以来、およそ百四十年にわたって続いた両氏の長きにわたる因縁は、この戦いをもって、ついに終止符が打たれたのです。
室町幕府を動かした細川氏、その栄華と没落
実は、細川持隆が伊予国へ侵攻した頃、細川氏は有力大名ではあったものの、その勢力はかつてとは大きく様相を変えつつありました。
応仁元年(1467年)。
この年に始まった応仁の乱は、細川氏の運命を大きく変える戦いとなります。
東軍の総大将・細川勝元は西軍の山名宗全と天下を二分する激戦を繰り広げ、細川氏はその後も幕府の中枢で大きな発言力を持ち続けました。
やがて明応二年(1493年)、細川京兆家(けいちょうけ)の当主・細川政元(ほそかわ まさもと)は、河内へ出陣していた第十代将軍・足利義材(あしかが よしたね)に対して政変を起こします。
政元は京都で足利義澄(よしずみ)を新たな将軍として擁立し、自ら幕政の実権を掌握しました。
これが「明応の政変」です。
この政変を境に、将軍を擁立した細川京兆家が幕府政治を主導する「細川政権」の時代が始まりました。
政元は歴代管領の中でも屈指の実力者となり、将軍を自らの意向で交代させ、新たな将軍を擁立して幕府政治を思うままに動かすほどの強大な権力を握ります。
かつて伊予国をめぐって河野氏と激しく争っていた細川氏は、この頃には四国の有力守護という枠を超え、室町幕府の政治を左右する日本最大級の武家勢力へと成長していたのです。
細川氏家中の家督争い
しかし、その繁栄は長くは続きませんでした。
政元には実子がなく、澄之(すみゆき)・澄元(すみもと)・高国(たかくに)の三人を養子として迎えていました。
ところが、誰を後継者とするか決めないまま政元が暗殺されたことで、細川氏は澄之派・澄元派・高国派へと分裂します。
永正四年(1507年)の政元暗殺をきっかけに、一族は家督と幕府の実権をめぐる長い内戦へ突入しました。
かつて将軍を擁立し、幕府政治を思うままに動かしていた細川氏は、今度は自らが将軍や諸大名を巻き込みながら争う立場となったのです。
京都と畿内では戦乱が絶えることなく続き、細川政権は次第に求心力を失っていきました。
終わらない細川氏の内紛
この家督争いは二十年以上にわたって続き、最終的に細川高国が敗死すると、細川晴元(はるもと)が京兆家の主導権を握りました。
晴元のもとで畿内には一時的な安定が戻ったかに見えましたが、その平穏は長く続きませんでした。
晴元を支えていた摂津・河内・大和の国人領主たちは、それぞれ独自の利害や婚姻関係によって結び付いていました。
そのため、一つの争いが周辺の国人勢力を巻き込み、畿内全体へ広がる大規模な戦いへと発展していったのです。
天文十年(1541年)、細川高国の妹婿であった塩川政年が摂津国一蔵城へ籠城すると、三好範長(後の三好長慶)や三好政長らがこれを包囲しました。
塩川氏は姻戚関係にあった伊丹氏・三宅氏へ援軍を求め、さらに河内の木沢長政も参戦したことで、戦いは摂津だけでなく河内・大和・山城へと広がっていきます。
翌天文十一年(1542年)、木沢長政が河内・太平寺の戦いで敗死すると、細川高国の旧臣たちは細川氏綱(うじつな)を擁立し、晴元へ対抗しました。
この動きは一度鎮圧されたものの、氏綱はその後も反晴元勢力の旗印となり続けます。
こうして細川氏の家督争いは終わることなく、京兆家を支えてきた家臣団や国人勢力の結束も次第に崩れていきました。
三好氏の台頭と細川政権の終焉
こうした細川氏内部の争いの中から、急速に勢力を伸ばしたのが三好氏でした。
三好氏は、もともと阿波細川家に仕える国人層でした。
しかし、三好元長やその子・三好長慶(みよし ながよし)の代になると急速に力を伸ばし、ついには主君であった細川氏をしのぐ勢力へと成長します。
長慶は当初、細川晴元を支える重臣として活躍しました。
やがて主君である晴元と対立すると、細川氏綱を擁立して反晴元勢力と結びます。
天文十八年(1549年)、長慶は江口の戦いで晴元方を破り、晴元と将軍・足利義晴らを京都から追放しました。
こうして、明応の政変以来、およそ半世紀にわたって幕府政治を主導してきた細川政権は、事実上終焉を迎えます。
代わって京都と畿内の実権を握ったのは、かつて細川氏に仕えていた三好長慶でした。
栄華を極めた細川氏の終焉
かつて四国最大級の勢力として伊予国へ幾度も侵攻し、河野氏と百四十年以上にわたって激しく争い続けた細川氏。
その後は将軍を擁立して室町幕府の政治を動かすまでになり、ついに幕府政治の頂点に立ちました。
ところが、その繁栄は永遠ではありませんでした。
一族の家督争いと内紛は家臣団や国人勢力を巻き込みながら長期化し、細川氏の結束は次第に失われていきます。
最後は、かつて家臣であった三好氏に幕府の実権を奪われ、細川氏は戦国乱世の中でその勢力を大きく後退させることとなりました。
伊予国をめぐって河野氏と覇を競い、室町幕府の中心にまで上り詰めた細川氏。
河野氏を長く苦しめた最大の宿敵は、戦国時代という激動の時代の流れの中で、その栄華を失っていったのです。
河野氏にも訪れた戦国乱世の荒波
一方、河野氏もまた、新たな時代の荒波に飲み込まれていきます。
外敵との戦いが終わっても、河野宗家と豫州家の関係が完全に修復されたわけではありませんでした。
両家は共通の敵を前に一時的に協力しましたが、通義の死後から続く家督をめぐる問題や、長年の戦いの中で積み重なった不信と怨恨までは消えなかったのです。
さらに河野氏は、宗家と豫州家の対立を抱えながら、伊予国内の国人領主や水軍勢力をまとめ、周辺の強大な戦国大名から領国を守らなければならないという、極めて難しい舵取りを迫られていました。
瀬戸内海の中央に位置する伊予国は、中国・九州・畿内・四国を結ぶ海上交通の要衝です。
そのため、伊予国の統治は河野氏だけの問題ではなく、大内氏、毛利氏、大友氏、三好氏、長宗我部氏など、西日本の有力大名たちの思惑とも深く結び付いていました。
河野氏は、能島・来島・因島の村上氏をはじめとする水軍勢力と連携しながら、伊予国を守ろうとします。
しかし、宗家と豫州家の争いは一時的に収まったものの、一族の結束は大きく損なわれたままでした。
その影響は国人領主や水軍勢力にも及び、各地の有力者たちは次第に独自の判断で行動するようになっていきます。
こうして河野氏は、長年にわたる細川氏との戦いを乗り越えた後も、一族の内紛を抱えたまま、戦国大名たちが覇を競う新たな時代へと足を踏み入れることになったのです。
そして、その危うい均衡は長くは続きませんでした。
「天文伊予の乱(来島騒動)」河野氏を二分した内乱
天文年間(1532~1555年)になると、河野氏では再び家督をめぐる大きな内乱が起こりました。
当時の河野宗家当主・河野通直には、正室との間に男子がいませんでした。
そこで通直は、来島村上氏の当主であり、河野氏水軍を率いる有力武将・村上通康を後継者に据えようとします。
通直は自らの娘を通康へ嫁がせ、湯築城へ迎えて政務を任せるほど厚く信頼していました。
しかし、この決定に対し、河野氏の重臣たちは強く反発します。
河野氏の家督は河野氏の血を引く者が継ぐべきであるとして、豫州家の河野通政を推す勢力が結集しました。
やがて重臣たちは通政を擁して兵を挙げ、湯築城を包囲します。
これが、後に天文伊予の乱、あるいは来島騒動と呼ばれる内乱です。
河野氏は再び宗家方と豫州家方に分かれ、一族同士が刃を交えることとなりました。
戦いが長引く中、室町幕府は豊後の大友義鑑へ両者の仲裁を命じます。
やがて和睦が成立し、豫州家の通政が河野氏の家督を継ぎました。
通政は後に将軍・足利義晴から偏諱を受け、河野晴通と名乗ります。
一方、村上通康は後継者の地位を失ったものの、その忠節と力量は認められ、河野氏一族としての待遇を受けたと伝えられています。
その後、晴通に男子がいなかったため、河野氏の家督は再び宗家へ戻されました。
しかし、この内乱によって生じた一族の亀裂は容易には埋まらず、長年にわたる争いで失われた結束と国力が元に戻ることはありませんでした。
「来島村上氏の離反」崩れ始める河野氏の支え
戦国時代が進むにつれ、河野氏を取り巻く情勢はさらに厳しくなっていきました。
中国地方では毛利元就が勢力を拡大し、九州では大友宗麟が豊後を中心に大きな勢力を築きました。
さらに四国では、土佐を統一した長宗我部元親が阿波・讃岐・伊予へ勢力を広げ、四国統一を目指して進撃を続けていました。
こうした中、河野氏は毛利氏と結んで村上水軍とも連携しながら、長宗我部氏や大友氏など周辺勢力の侵攻に抵抗します。
しかし、次々と台頭する戦国大名を前に、河野氏はもはや自らの力だけで領国を守ることができない状況に追い込まれていました。
その頃、畿内で天下統一を目指していた織田信長も、四国の情勢へ深く関わるようになります。
信長は当初、長宗我部元親による四国での勢力拡大を認め、明智光秀を通じて友好関係を築いていました。
ところが、元親が阿波・讃岐へ急速に勢力を広げると、信長はそれまでの方針を転換します。
天正九年(1581年)頃には、元親に対して領国の縮小を求め、四国東部からの撤退を迫るようになりました。
これにより、信長と元親の関係は次第に悪化していきます。
このように織田氏が四国へ本格的に関与を始めた中で、河野氏を支えてきた水軍勢力にも大きな亀裂が生まれました。
天正九年(1581年)、来島村上氏の当主・来島通総は、河野氏・毛利氏のもとを離れ、天下統一を進める羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従うと、軍船を率いて河野方へ攻撃を仕掛けました。
毛利氏と河野氏は、来島通総を再び味方へ引き戻そうと説得しましたが、通総がその意思を変えることはありませんでした。
この離反によって、かつて河野氏を支えてきた村上水軍三家は、毛利方に立つ能島・因島と、織田方へ転じた来島に分かれ、互いに対立することになったのです。
その後、毛利・河野方の攻撃を受けた通総は伊予を離れ、羽柴秀吉のもとへ身を寄せます。通総は秀吉に重用され、水軍武将として活躍しながら、再び伊予へ戻る機会を待つことになりました。
一方、河野氏は、長年にわたってともに伊予を支えてきた海上戦力の重要な一角を失い、その勢力はさらに大きく衰えていったのです。
織田信長が目指した四国平定
来島通総が羽柴秀吉へ通じた翌年、織田信長と長宗我部元親の関係は決定的に悪化しました。
信長は元親に対し、土佐一国を中心とする領有へ縮小するよう求めましたが、元親との交渉がまとまらないまま、ついに武力による四国平定を決断します。
天正十年(1582年)、信長は三男・織田信孝を総大将とし、丹羽長秀や蜂屋頼隆らを加えた四国征伐軍を編成しました。
軍勢は摂津へ集結し、まさに四国へ渡海しようとしていました。
しかし、天正十年(1582年)六月二日、京都・本能寺で織田信長が家臣・明智光秀の謀反によって討たれるという、日本史を大きく変える事件が起こります。
信長に続いて嫡男・信忠も討たれ、織田政権は突如として混乱に陥りました。その影響は四国にも及び、出陣直前まで準備が進められていた四国征伐は中止を余儀なくされます。
一方、その頃、羽柴秀吉は備中高松城で毛利軍と対峙していました。
信長の死を知った秀吉は、毛利氏との講和を急いで成立させると、ただちに畿内へ引き返し、山崎の戦いで明智光秀を討ち果たします。
さらに同年六月に開かれた清洲会議では、織田家の後継問題を主導し、信長の嫡孫・三法師(のちの織田秀信)を後継者に擁立しました。
これによって秀吉は織田家中で最も大きな発言力を持つ存在となり、信長の後継者として急速に台頭していきます。
一方、本能寺の変の混乱の最中においても、毛利氏との外交交渉は途絶えることなく継続され、毛利氏は秀吉と手を結ぶ道を選びました。
その結果、西国の勢力図は大きく塗り替えられることになります。
秀吉による四国征伐
本能寺の変によって、信長が計画していた四国征伐は中止となったことは、長宗我部元親にとってまさに起死回生の転機となりました。
目前まで迫っていた織田軍の脅威が一夜にして消えると、元親は阿波・讃岐・伊予への進出をさらに加速させ、後ろ盾を失って混乱する四国各地の勢力を次々と従えていきました。
そして天正十三年(1585年)頃には、土佐・阿波・讃岐をほぼ掌握し、伊予国にも大きな影響力を及ぼすなど、四国の大部分をその勢力下に置くまでになります。
しかし、その絶頂も長くは続きませんでした。
信長の遺志を継ぎ、天下統一を進める羽柴秀吉にとって、独自に四国統一を進める元親の存在は、もはや看過できるものではありませんでした。
秀吉は元親に対し、阿波・讃岐・伊予の返還と土佐一国への縮小を求めます。
しかし、元親はこれを受け入れず、両者の交渉は決裂しました。
天正十三年(1585年)、秀吉は決着をつけるべく十万を超えるとも伝えられる大軍を四国へ送り込みました。
この四国征伐(四国攻め)には、総大将・羽柴秀長をはじめ、宇喜多秀家、黒田官兵衛、そして河野氏を長年支えてきた毛利氏の一門・小早川隆景らが参加し、阿波・讃岐・伊予の各方面から一斉に侵攻します。
一方、四国統一を目前としていた長宗我部元親も、豊臣軍の圧倒的な兵力の前に各地で敗北を重ねました。
そして天正十三年(1585年)、元親は秀吉へ降伏し、阿波・讃岐・伊予を失って土佐一国のみを安堵されます。
本能寺の変によって滅亡の危機を脱し、一時は四国の大部分をその勢力下に置いた元親でしたが、その夢はわずか三年ほどで潰えることとなりました。
湯築城開城と河野氏の滅亡
一方、伊予方面では毛利氏の一門・小早川隆景が進軍し、かつて河野氏・毛利氏から離反した来島通総も秀吉方の武将として伊予攻略に加わっていました。
当時の河野氏は、長年にわたる宗家と豫州家の内紛によって国力を失い、さらに来島村上氏の離反によって海上戦力も大きく低下していました。
長宗我部氏との戦いによる消耗に加え、最大の後ろ盾としてきた毛利氏も秀吉方へ転じたことで、外交的にも軍事的にも孤立していたのです。
もはや秀吉方の圧倒的な軍勢に、独力で対抗できる状況ではありませんでした。
河野氏当主・河野通直は、本拠・湯築城に籠城して最後の抗戦を試みます。

しかし、旧知の間柄でもあった小早川隆景の説得を受け、これ以上の抗戦は無益と判断した通直は、ついに開城を決断しました。
こうして、河野氏が代々伊予守護として守り続けてきた本拠・湯築城は、豊臣方へ引き渡されました。
通直は一族や家臣とともに城を退き、秀吉の裁定を待つことになります。
しかし、その願いが受け入れられることはありませんでした。
四国平定後、伊予国は小早川隆景ら豊臣配下の大名へ分与され、河野氏が再び伊予国を治めることは認められなかったのです。
その後も、小早川隆景や毛利輝元は秀吉へ河野氏の取り立てを願い出ましたが、その望みがかなうことはありませんでした。
そこで通直は、毛利氏の勧めを受け、正室の縁もあった安芸国竹原へ移り、河野氏再興の日を待つことになったのです。
しかし、その願いがかなうことはありませんでした。
天正十五年(1587年)、通直は竹原でその生涯を閉じます。
こうして、鎌倉時代以来およそ四百年にわたり伊予国を代表する武家として栄えた河野氏は、その長い歴史に幕を下ろしたのです。
世田山に刻まれた最後の記憶
伊予国の要として、幾度となく歴史の大きな転換点に立ち続けてきた世田山城。
脇屋義助を迎えて南朝方の拠点となり、興国三年/康永元年(1342年)には細川頼春率いる大軍に四十日余り包囲されながらも激戦を繰り広げました。
さらに正平十七年/貞治元年(1362年)には河野通朝が籠城の末に自害し、河野宗家が滅亡の危機に瀕するなど、世田山城は幾度となく伊予の命運を左右する戦いの舞台となります。
そして文明十一年(1479年)、河野通生が細川義春の侵攻を退けた戦いを最後に、世田山城が再び大きな戦乱の舞台となることはありませんでした。
西条に残る河野通生の記憶
そして、河野氏の危機を幾度となく救い、宿敵・細川氏との最後の戦いを勝利へ導いた河野通生。
その後、通生がいつ生涯を閉じたのかについては諸説があり、正確な没年は明らかになっていません。
しかし、通生の墓と伝えられる五輪塔は、今も大切に守り継がれています。
西条市丹原地区。
豊かな自然に抱かれた山あいにある大義山報恩寺(ほうおんじ)。
細川義春との激戦が繰り広げられた文明十一年(1479年)4月、通生が自らの所領である田畑や山林を寄進し、自身の菩提寺として創建したと伝えられています。

その寄進状は現在も報恩寺に大切に保存されており、寺院の山腹には、通生の墓と伝えられる五輪塔が今もなお往時の記憶を静かに伝えています。

世田山城とともに伊予を守った笠松山城
約200年にわたり伊予を守り続けた世田山城は、その役目を終え、静かに合戦の記録から姿を消していったのです。
もっとも、この戦いの後も世田山城が直ちに廃城となったわけではなく、その後もしばらくは存続していたとみられています。
では、長きにわたって伊予を守り続けた世田山城は、その後どのような運命をたどったのでしょうか。
その答えを知る手がかりとなるのが、尾根続きに築かれ、世田山城とともに伊予東部を守り続けた笠松山城です。

世田山城と笠松山城は、山頂間の直線距離で約1キロメートル、尾根道を歩いても約20~30分ほどという、非常に近い場所に築かれており、両城は伊予東部から府中へ通じる交通路を押さえる一体の防衛線を形成していました。
敵が東から侵攻すれば互いに連携して迎え撃つことができる、まさに河野氏の東の守りを担う「一対の山城」だったのです。
興国三年/康永元年(1342年)の世田山合戦では、大館氏明が世田山城へ、篠塚伊賀守が笠松山城へ籠もり、細川頼春率いる大軍を迎え撃ちました。
その後も両城は常に連携しながら河野氏の東の守りを支え、河野通朝が籠城した戦い、さらに河野通生が細川義春の侵攻を退けた最後の戦いに至るまで、約二百年にわたり伊予東部防衛の最前線として重要な役割を果たし続けたのです。
やがて戦国時代になると、笠松山城には岡氏が入り、岡彦三郎が城主を務めました。
天正十三年(1585年)、豊臣秀吉による四国平定で河野氏が滅亡すると、岡彦三郎は城を下り、笠松山城はその役目を終えたと伝えられています。
世田山城がいつ廃城となったのかを直接伝える同時代史料は残されていません。
しかし、約二百年にわたり笠松山城と一体となって伊予東部防衛を担ってきた歴史を踏まえれば、河野氏の滅亡にともなって世田山城もまた廃城となったと見られます。
また、天下統一を果たした豊臣秀吉は、天正十九年(1591年)に全国の山城の築造や使用を禁じる「山城停止令」を発布し、多くの中世山城がその使命を終えました。
世田山城が河野氏滅亡後もしばらく存続していたとしても、近世城郭を中心とする新たな領国統治が整う江戸時代初頭までには、少なくともその姿を消していったのでしょう。
世田山城に受け継がれる歴史
世田山、そして笠松山。
現在、その山々からは、今治市の先に広がる多島美が美しい瀬戸内海や来島海峡、西条市へ広がる周桑平野、そして西日本最高峰・石鎚山を望む雄大な景色を一望することができます。
その麓には国内外から多くの観光客が訪れるタオル美術館があり、今治市と西条市を結ぶ主要な道路や高速道路を利用する多くの人々が、日々この山々のそばを行き交っています。
しかし、その穏やかな山並みからは想像もできないほど、この地では約二百年にわたり、伊予の命運を左右する数々の戦いが繰り広げられてきたのです。
この地を訪れた際には、ただ通り過ぎるだけではなく、ぜひ一度足を止めてみてください。
普段は何気なく目にしていた風景も、その歴史を知ることで、きっとこれまでとは違った景色を見せてくれるはずです。
