大三島に伝わる大山祇神社のお使い狸「五六さん」
愛媛県今治市、瀬戸内海に浮かぶ大三島。
島の西側に位置する宮浦には、全国の三島神社・大山祇神社の総本社であり、「日本総鎮守」と称される大山祇神社が鎮座しています。

古くから山の神、海の神、そして武神として広く信仰を集め、歴代の武将や瀬戸内海を行き交う人々からも厚い崇敬を受けてきた大山祇神社。
そんな大山祇神社には、かつて神社のお使いとして仕えていたとされる、一匹の狸の伝承が残されています。
人々から「五六さん」と呼ばれたその狸は、やがて信仰の対象となり、現在は「吾勒坊大権現(ごろくぼうだいごんげん)」として祀られています。
そして、その五六さんを現在祀っているのが、大山祇神社の門前に広がる宮浦の町中にある、江戸時代初期に開かれた曹洞宗の寺院「大通寺」です。


しかし、五六さんは、かつて大通寺とは別の場所でも祀られていました。
大三島には、「五六坊大権現」の名で五六さんを祀る立派な社が建てられ、多くの人々の信仰を集めていた場所があったのです。
大滝山に祀られた「五六坊大権現」
大三島町明日(あけび)の奥にそびえる、標高317メートルの「大滝山」。
この山は、古くから雨乞い祈祷が行われてきた信仰の場でした。
日照りが続くと、地域の人々は昼夜交代で大滝山へ登り、山頂に祀られた「竜王さん」に雨を願ったと伝えられています。
そして、この大滝山の山頂付近には、竜王さんとともに、もう一つ人々の信仰を集めた存在がありました。
それが、地元で「ゴロクさんいうタヌキ」と語られた五六さんを祀る「五六坊大権現」です。
八畳ほどの瓦葺きの社
五六坊大権現の社は、八畳ほどの広さを持つ瓦葺きの立派なものでした。
さらに社には、信者から寄進された太鼓も納められていたといいます。
山頂付近にこれほどの社が建てられ、奉納品まで寄せられていたことから、当時の五六さんが地域の人々から厚い信仰を集めていたことがうかがえます。
「正一位」を称した五六坊大権現
そして、五六坊大権現は「正一位」を称していたとも伝えられています。
「正一位」とは、もともと朝廷から神々へ授けられた「神階」と呼ばれる位の中で、最も高い位にあたります。
神階は、人間に与えられていた位階にならって神々にも授けられるようになったもので、神の霊験や国家への功績などに応じて位が進められました。
その最高位が「正一位」です。
しかし、五六坊大権現が朝廷や大山祇神社などから正式に正一位を授けられたことを示す資料は、現在のところ確認されていません。
地元に残された聞き取りでも、五六坊大権現については「自称正一位」と語られています。
そのため、正式な神階として授けられたことは確認できず、五六坊信仰が盛んになる中で、その霊験や威徳をたたえる意味を込めて「正一位 五六坊大権現」と称するようになったものと考えられます。
大山祇神社のお使い狸として伝えられた五六さんが、「大権現」として祀られ、さらに最高位を意味する「正一位」の名まで冠するようになった。
そこからも、人々が五六さんに大きな霊威を感じ、厚い信仰を寄せていたことがうかがえます。
毎月開かれていた「五六坊講」
こうした五六さんへの信仰を支えていたのが、「五六坊講」です。
講とは、同じ神仏を信仰する人々が集まり、参拝や祈祷などを行うために結成された信仰集団です。
伊勢講や金毘羅講、大師講などが全国各地に存在したように、明日でも五六坊大権現を信仰する人々によって「五六坊講」が組織されていました。
この講は毎月開かれていたといい、大正時代ごろには五六さんへの祈祷を行う人物もいたと伝えられています。
病気になったときには、その人物に五六さんへの祈祷を頼み、病の回復を願う人々もいました。
五六さんは、大滝山の山上に祀られた存在であるだけでなく、人々が困ったときにその力を頼り、願いを託す存在として、明日の暮らしの中に深く根付いていたのです。
子供たちも歌った「大滝山のゴロクさん」
では、こうした五六坊大権現への信仰は、いつごろから盛んになったのでしょうか。
当時を知る人々の証言では、五六坊講は「恐らく大正からのもの」で、大正時代ごろに祈祷を行っていた二人の人物が講を作ったのではないかとも語られています。
そして、五六坊講が盛んだった時代を子供として過ごした人々の記憶にも、五六さんの名ははっきりと残されていました。
当時、明日の小学生が走る競技などの大会に出場すると、応援する子供たちは童謡『花咲か爺さん』の節に合わせ、五六さんに勝利を願う替え歌を歌っていたといいます。
使われていたのは、『花咲か爺さん』の、
「裏の畑でポチがなく
正直爺さん掘ったれば
大判小判がザクザクザクザク」
と歌う部分の節でした。
これに合わせて子供たちは、
「大滝山のゴロクさん
枕にかけて申すなら
今度も鏡のカーチ、カーチ、カーチ、カチ」
と歌っていたのです。
「大滝山のゴロクさん」は、山頂付近に祀られていた五六坊大権現のこと。
そして「鏡」とは、子供たちが通っていた鏡小学校のことです。
原曲の「裏の畑でポチがなく」に「大滝山のゴロクさん」、「正直爺さん掘ったれば」に「枕にかけて申すなら」と言葉を乗せ、最後の「ザクザクザクザク」に当たる部分を「カーチ、カーチ、カーチ、カチ」と「勝ち」に置き換えていました。
つまりこの歌は、大滝山の五六さんに願いをかけ、今度の大会でも鏡小学校が勝てるようにと願いながら歌う、五六さんへの願掛けと学校の応援歌が一つになったものだったのです。
さらに、この歌は昔から代々歌い継がれてきたものではありませんでした。
当時を知る人によると、小学4年生のころにはまだ五六さんの歌はなく、小学6年生になるころには歌われるようになっていたといいます。
聞き取りに応じた人々の年代からみると、昭和初期ごろには、子供たちの間でこの歌が歌われるようになっていたとみられます。
こうして、当時の明日の子供たちにとっても身近な存在となっていた五六さんですが、やがて大きな節目を迎えることになります。
五六坊講の終わりと残された太鼓
盛んに活動していた五六坊講ですが、講を中心となって支えていた人物が亡くなると、次第にその活動も途絶え、やがて解散したといいます。
その後、大滝山の社に残されていた太鼓も、山の上に置いたまま朽ちさせるのはもったいないとして、集落へ下ろされることになりました。
ちょうど氏神の太鼓が破れていたことから、五六坊大権現へ奉納されていた太鼓は、その代わりに氏神の太鼓として使われるようになったといいます。
こうして五六坊講は姿を消しましたが、かつて五六さんへ奉納された太鼓は、形を変えて地域の中に残されることになりました。
振り返れば、病気になれば五六さんの力を頼り、子供たちは「大滝山のゴロクさん」と歌いながら仲間の勝利を願う。
五六さんは、ただ祈りを捧げるだけの存在ではなく、当時の明日の人々の暮らしの中に入り込み、大人から子供まで親しまれる身近な存在でもあったのです。
遠く中国大陸に現れた「五六さん」
そんな五六さんには、島を遠く離れた中国大陸の戦場にまでつながる、不思議な物語も残されています。
伊予各地に伝わる狸の伝説を収集していた「富田狸通(とみた・りつう)」は、著書『たぬきざんまい』の中で、大山祇神社のお使い狸「五六さん」にまつわる、一つの不思議な話を紹介しています。
この話は、松山出身の洋画家「八木彩霞(やぎ・さいか)」から直接聞いたもので、その内容は、彩霞の長男が中国大陸の戦地で体験した出来事でした。
日中戦争が続く中国大陸へ
昭和15年(1940年)。
日本と中国との間では、昭和12年(1937年)に始まった日中戦争が続き、多くの日本兵が中国大陸へ派遣されていました。
そうしたなか、八木彩霞の長男も日本陸軍の兵士として中国中部方面へ渡り、同年10月、現地へ赴きました。
そして12月、所属する部隊は「柳橋」と呼ばれる場所へ到着します。
そのころ、柳橋からおよそ2.5キロメートル離れた場所では、味方の一個小隊が400人から500人ほどの敵兵に包囲され、激しい戦闘が続いていました。
救援のため、守備隊の多くが戦闘の行われている場所へ向かいましたが、夜になっても銃声は止みません。
味方の部隊がどのような状況に置かれているのか。
そして、敵兵がどの程度集まっているのか。
その状況を確かめるため、八木彩霞の長男を含む四人の兵士に、敵情を探る偵察命令が下されました。
与えられた時間は、一時間でした。
暗闇の原野へ向かった四人
四人が偵察へ向かったころ、辺りはすでに深い闇に包まれていました。
周囲には目印となるような道もほとんどなく、一面に広がる原野には、ところどころに土を盛った墓のような塚が点在していました。
季節は12月。
冬の中国大陸は厳しく冷え込み、地面は凍りつき、冷たい風が吹きつけていました。
四人は暗闇の中を警戒しながら、敵兵がいるとみられる方向へ慎重に進んでいきます。
出発から30分ほどが過ぎたころ、突然、前方から銃撃を受けました。
四人は周囲の塚などを遮蔽物にしながら身を伏せ、敵の動きを探ります。
その結果、前方に相当数の敵兵がいることを確認しました。
偵察の目的を果たした四人は、その情報を味方へ伝えるため、急いで来た方向へ引き返そうとします。
しかし、その直後、再び激しい銃撃を受けました。
四人は飛んでくる銃弾を避けながら、暗闇の原野を必死に移動します。
ところが、銃撃をかわすことに気を取られるうちに、いつしか自分たちがどの方向から来たのか分からなくなってしまいました。
辺りを見渡しても、目印になる建物も道もありません。
広がっているのは、暗い原野ばかりでした。
しかも、偵察に与えられていた一時間という時間も、すでに過ぎようとしていました。
敵の状況を把握することはできた。
しかし、このままでは味方の陣地へ帰ることができない。
四人は完全に方向を見失い、暗闇の中で立ち往生してしまったのです。
暗闇に現れた一つの提灯
そんなときでした。
一人の兵士が、前方にかすかな明かりを見つけます。
暗闇の中に浮かんでいたのは、一つの提灯でした。
しかも、それは中国の戦場には似つかわしくない、日本式の提灯だったといいます。
提灯は四人の少し前を、右へ左へと揺れながら進んでいきました。
まるで、進むべき方向を示しているかのようでした。
不思議に思った八木彩霞の長男が、その提灯へ目を凝らします。
すると、さらに驚くものが見えました。
提灯には、故郷で何度も目にしてきた紋が描かれていたのです。
それは、大三島神社の定紋でした。
現在の大山祇神社で「隅切折敷縮三文字(すみきりおしきちぢみさんもんじ)」と呼ばれている神紋です。
遠く大三島から離れた中国大陸。
しかも、敵兵が迫る暗闇の原野に、なぜ故郷の氏神の紋を掲げた提灯が現れたのか。
長男は、その明かりを氏神の加護によるものだと信じ、三人の戦友とともに提灯の後を追うことにしました。
四人を導いた故郷の明かり
四人は、暗闇の中を進んでいく提灯を見失わないよう、その後を追い続けました。
提灯は一定の距離を保ちながら、四人をどこかへ導くように進んでいきます。
そして、およそ30分走ったころ、それまで四人の前を照らしていた提灯の明かりが突然消えました。
しかし、その直後でした。
暗闇の向こうから、人の声が聞こえてきます。
耳を澄ますと、それは日本語でした。
周囲を確かめてみると、そこには見覚えのある城壁があり、四人はいつの間にか味方の陣地近くまで戻ってきていたことに気付きました。
こうして四人は無事に帰還し、偵察によって確認した敵兵の状況を部隊へ報告することができました。
その情報をもとに戦闘が続けられ、話によれば、翌朝には敵兵を退けることができたといいます。
なお、八木彩霞の長男は、自分たちを導いた不思議な提灯について、隊長には話さなかったそうです。
大山祇神社の宮司が語った「五六さん」
そして、この出来事が「五六さん」の伝承へとつながっていくのは、その後のことでした。
戦地から無事に帰還した長男から一連の出来事を聞いた父・八木彩霞は、後にその話を大山祇神社の宮司へ伝えました。
すると宮司は、大三島神社の提灯によって氏子が助けられたという話はほかにもあるとしたうえで、この出来事について、大山祇神社のお使い狸「五六さん」の霊験によるものだという趣旨の話をしたといいます。
つまり、この伝承の中で、五六さん自身が狸の姿となって戦場に現れたわけではありません。
暗闇の中に現れたのは、大山祇神社の紋を掲げた一つの提灯でした。
遠く中国大陸の戦場で道を失った氏子を、故郷の氏神の明かりによって味方のもとへ導く。
その不思議な出来事が、やがて大山祇神社のお使い狸「五六さん」の霊験として語り継がれていくことになったのです。
五六さんの伝承を後世へ残した二人
では、この中国大陸の戦場で起きたという不思議な提灯の物語を語った「八木彩霞」と、それを記録として後世へ残した「富田狸通」とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。
伊予の狸伝説を集めた「富田狸通」
五六さんの物語を記録した富田狸通は、明治34年(1901年)2月1日、温泉郡川上村松瀬川、現在の東温市松瀬川に生まれました。
生まれたときの名は寺田寿久。
愛媛県立松山商業学校を卒業した後、明治大学政治学科へ進学し、大正13年(1924年)に卒業しました。
その後は東京の愛国生命保険株式会社に勤務し、大正15年(1926年)、道後湯之町の富田喜美子と結婚して富田家に入ります。
同じ年には伊予鉄道電気株式会社へ入社し、その後、昭和31年(1956年)に定年を迎えるまで長く伊予鉄道に勤めました。
一方で、富田は会社員として働くだけでなく、俳句や俳画、映画、焼き物、義太夫など、さまざまな文化活動に親しんだ人物でもありました。
大正15年ごろから俳句を始め、後には松山子規会の副会長や「松山坊っちゃん会」の会長なども務めました。
そして、そんな富田が強い関心を寄せていたのが「狸」でした。
愛媛県史では、狸にまつわる品々を数多く収集し、「狸祭り」や「他抜き茶会」なども催した人物として紹介され、俳句や郷土文化とともに、狸を通じても広く知られる存在になっていったことが記されています。
その狸への関心は、単に民話を読むだけのものではありませんでした。
昭和24年(1949年)には、西条・石鎚山麓で捕獲されたという二匹の狸を自ら購入して飼育するなど、本物の狸の生態にも強い興味を持っていました。
また、富田自身が残した文章からは、それ以前にも砥部の山中で捕らえられた子狸を飼っていたことが確認でき、狸は彼にとって一時的な趣味ではなく、長年にわたって向き合い続けた存在だったことが分かります。
そして昭和33年(1958年)には、道後温泉前に趣味の店「狸のれん」を開店。
狸にまつわる品々を集めるだけでなく、各地に残された狸の伝説や昔話を聞き集め、人々との交流を通じて、その記録を蓄積していきました。
富田は愛媛に伝わる狸をまとめた「伊豫之国狸伝説大番付」も作成しており、そこには県内各地の狸が数多く取り上げられています。
愛媛県生涯学習センターの資料では、その数は66に及んだと紹介されています。
こうして長年集めてきた狸にまつわる伝承や資料をまとめ、昭和39年(1964年)に刊行したのが『たぬきざんまい』でした。
同書は松山の「狸のれん」から発行された全246ページの著作で、現在も国立国会図書館や愛媛県立図書館に所蔵されています。
その『たぬきざんまい』に収められた数多くの狸伝承の一つが、八木彩霞から聞いた大三島の五六さんにまつわる物語でした。
五六さんの物語を語った洋画家「八木彩霞」
八木彩霞は、明治19年(1886年)12月5日、松山市北夷子町、現在の三番町に生まれました。
本名は「八木熊次郎」。
愛媛県師範学校を卒業すると県内で教員を務め、その後、大正6年(1917年)には横浜の小学校へ転任しました。
教員として働く一方で洋画を学び、ドイツ人画家リゲルスタインに師事。
やがて画家として本格的に活動するようになります。
大正14年(1925年)にはフランスへ渡り、ソルボンヌ大学やグラン・ショミエール美術院で学びました。
滞仏中にはフランスのサロンに三度入選し、藤田嗣治や石黒敬七らとも交流。
帰国後は特定の画壇に属さず、独自の道を歩んだ画家として活動していきます。
八木彩霞の作品として、現在も松山で見ることができる代表的なものが「萬翠荘」の壁画です。
旧松山藩主家の久松定謨によって建てられた萬翠荘では、1階広間に掲げられた「三坂峠」と「神奈川台場の図」の二面を八木彩霞が手がけました。
現在も残るこの壁画は、松山平野や旧松山藩にゆかりの深い風景を壮大なパノラマとして描いた作品です。
さらに八木彩霞は、宮内省から明治天皇の肖像画制作を命じられるほど高く評価された画家でもありました。
愛媛県美術館の資料では、大正9年(1920年)と大正12年(1923年)に宮内省から明治天皇肖像画の制作を命じられ、奉納したことが記録されています。
八木彩霞は単なる「伝承の語り手」ではなく、愛媛出身の画家として国内外で活動し、故郷・松山とも深い関わりを持ち続けた人物だったのです。
『たぬきざんまい』から『現代民話考』へ
昭和39年(1964年)、富田狸通が八木彩霞から聞き取った五六さんの物語は、著書『たぬきざんまい』の刊行によって、文章として後世へ残されることになりました。
『たぬきざんまい』は、富田が長年にわたって集めてきた狸にまつわる伝承や逸話をまとめた全246ページの一冊です。
伊予各地に残されていた狸の昔話や信仰、実際に人々から聞き取った体験談などが収められており、大山祇神社のお使い狸「五六さん」の物語も、その一つとして記録されました。
現在も国立国会図書館や愛媛県立図書館に所蔵されており、昭和の愛媛に残されていた狸伝承を知るうえでも貴重な一冊となっています。
そして、それから30年以上が経った平成7年(1995年)。
五六さんの物語は、児童文学作家・松谷みよ子による『現代民話考11 狸・むじな』にも収録されました。
立風書房から刊行された同書は、全国各地に伝わる狸やむじなの話を集めたもので、その中には、戦地へ赴いた狸や、戦場で人間を助けた狸にまつわる伝承をまとめた「戦争にいった狸」と題する一節があります。
その中の一つとして収められているのが、中国大陸の戦場で道を見失った兵士たちの前に大三島神社の定紋を掲げた提灯が現れ、味方の陣地まで導いたという「五六さん」の物語です。
昭和39年に富田狸通によって記録された、大山祇神社のお使い狸「五六さん」の戦地での霊験譚は、その後も語り継がれ、30年以上の時を経て、平成の時代にも再び書物の中へ記録されることになったのです。
大三島に残る「五六さん」
かつて大滝山で「五六坊大権現」として祀られ、人々から厚い信仰を集めた五六さん。
五六坊講が盛んだった時代は過ぎ、山上にあった社も、今ではその姿を見ることはできません。
それでも、五六さんの名が大三島から消えてしまったわけではありません。
大滝山で人々が祈りを捧げ、子供たちがその名を歌い、遠く中国大陸にまで不思議な物語を残した一匹の狸。
時代とともに信仰の形は変わりましたが、人々が親しみを込めて「五六さん」と呼んできたその存在は、今も大三島の大通寺で「吾勒坊大権現」として大切に祀られています。



