神仏探訪記 神仏探訪記

  • ホーム
  • 神仏探訪記
    • 神社
    • 寺院
    • 史跡
  • 特集記事
    • 偉人伝
    • 今治山林火災
    • 今治城の歴史
    • 今治タオル物語
    • 今治とキリスト教
    • 越智氏の系譜
    • こぼれ話
    • 世田山合戦
    • 自然 × 暮らし
    • 伝統×文化
  • 特設ページ
    • 特設ページ
    • 今治城を知って、今治を知る。
    • 「今治林野火災 2025 3D MAP」
    • 春祭り・継ぎ獅子MAP
  • データベース
  • フォトギャラリー
  • ご質問・お問い合わせ
    • 当サイトについて
    • プライバシーポリシー
    • お問い合わせ
神社SHRINE

古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院TEMPLE

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

史跡MONUMENT

時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

今治城の歴史

FEATURE

06

【今治城の歴史⑥】今治市民とともに歩んだ海の城「今治城再建史」
今治タオル物語

FEATURE

07

【今治タオル物語⑦】菅原利鑅“先生”が紡いだ技術の継承──ジャカード織機の導入と紋織タオル
世田山合戦

FEATURE

14

《世田山合戦⑭》そして戦国時代へ……。乱世の伊予を二分した家督争い「河野宗家 vs 豫州家」
今治とキリスト教
【今治とキリスト教②】明治の今治から始まった、四国最初のプロテスタント教会
今治城の歴史
【今治城の歴史⑧】吹揚神社春祭りに響くもう一つの築城の唄「よいやな節」
今治城の歴史
【今治城の歴史⑨】今治を形づくった戦国武将・藤堂高虎の生涯(前編)
世田山合戦
《世田山合戦⑦》新伊予守護・細川頼春と河野通盛の対立 ── 南朝との戦いの後に始まった、もう一つの戦い
  • 特設ページ
春祭り・継ぎ獅子MAP

2026.09.23

今治城を知って、今治を知る。

2026.09.08

「今治林野火災 2025 3D MAP」

2026.09.05

SHINTO SHRINE神社で祈る

石拆神社・鈍川(今治市・玉川地区)

  • Post
  • Share
  • Hatena
  • LINE
  • Pin it
  • note
  • Threads
PR 旅と文化を、もう少し深く。
スポンサーリンク

鈍川の山あいに息づく、古代の伝承と信仰

今治市玉川町の山あいに位置する玉川ダム。

高縄山系から流れ下る蒼社川に建設されたこのダムは、昭和46年(1971年)に完成し、洪水の調節や農業用水、生活用水などの確保を通じて、今治地方の人々の暮らしを支えてきました。

ダムの建設によって生まれた玉川湖は、周囲を緑豊かな山々に囲まれ、春には湖畔の桜が咲き誇り、秋には色づいた木々が湖面を彩るなど、四季折々の美しい景観が広がっています。

また、玉川湖にはボート競技の公認コースが整備されており、湖面を滑るように進む競技用ボートの姿が見られるほか、カヌーなどの水上活動も行われています。

その玉川湖の東側には、鈍川温泉や鈍川渓谷へと続く山あいの風景が広がっています。

高縄山系の山々に囲まれた鈍川は、豊かな森林と清らかな渓流に恵まれ、古くから自然とともに人々の暮らしが営まれてきた地域です。

なかでも、奥道後玉川県立自然公園に属する鈍川渓谷は、緑深い山々と美しい渓流が織りなす景勝地として知られ、その一角には古くから人々に親しまれてきた「鈍川温泉」があります。

道後温泉・本谷温泉とともに「伊予の三湯」に数えられる歴史ある温泉で、江戸時代には今治藩の湯治場として栄えました。

現在も「美人の湯」として知られ、温泉や渓谷の景観を楽しむために多くの人々が訪れています。

一方、こうした自然と温泉に恵まれた鈍川には、古代伊予の有力氏族である越智氏や、修験道へとつながる山岳信仰にまつわる伝承も残されています。

その伝承を今に伝える神社の一つが、玉川湖の東側に鎮座する「石拆神社・鈍川(いわさくじんじゃ)」です。

石拆神社に祀られる神々

石拆神社・鈍川では、石拆神(いわさくのかみ)、根拆神(ねさくのかみ)、石筒男神(いわつつおのかみ)の三柱を主祭神として祀っています。

なお、同じ玉川地区の龍岡上・中村にも、この三柱を祀る「石拆神社・龍岡(いわさくじんじゃ)」が鎮座しています。

こちらは地域の人々から「妙見さん」と親しまれ、旧中村橋の建設と大きなムクの木にまつわる伝承が残されています。

それぞれ異なる由緒を持つ二社ですが、共通して祀られる三柱の神々の誕生については、日本の古い神話にその物語が伝えられています。

伊邪那岐神の剣にまつわる三柱の神々

『古事記』において、石拆神・根拆神・石筒男神の三柱が誕生するのは、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)と伊邪那美神(いざなみのかみ)の神生みの物語です。

二柱は、国生みを終えた後も次々と神々を生み出していましたが、火の神・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)が生まれたことで、悲劇が起こります。

伊邪那美神は、生まれてきた火の神によって大やけどを負い、重い病に苦しんだ末、ついに命を落としてしまったのです。

最愛の妻を失った伊邪那岐神は、亡くなった妻の枕元や足元に身を伏せ、激しく泣き悲しみました。その涙からは、泣沢女神(なきさわめのかみ)という新たな神が生まれたと伝えられています。

その後、伊邪那美神は出雲国と伯耆国の境にある比婆之山(ひばのやま)に葬られました。

しかし、妻を失った悲しみと怒りは収まらず、伊邪那岐神は腰に帯びていた「十拳剣(とつかのつるぎ)」を抜き、妻の命を奪う原因となった火之迦具土神の首を斬りました。

すると、剣の先についた血が勢いよく飛び散り、「湯津石村(ゆついわむら)」と呼ばれる神聖な岩々に降りかかりました。

その血から生まれたのが、石拆神(いわさくのかみ)、根拆神(ねさくのかみ)、石筒男神(いわつつおのかみ)の三柱です。

こうした誕生神話から、三柱は岩をも切り裂く刀剣の鋭さや、強大な力を象徴する神々として解釈されてきました。

  • 石拆神(いわさくのかみ):岩石をも切り裂くほどの強大な力を象徴する神です。その名前には「岩を裂く」という意味があると考えられ、硬い岩を断ち切る刀剣の鋭さや、岩を砕くほどの雷の威力と結びつけられています。古代の人々が、刀剣や雷の持つ強い力を神聖なものとして捉えた神とする説があります。『日本書紀』では「磐裂神(いわさくのかみ)」の名でも登場します。
  • 根拆神(ねさくのかみ):石拆神と対になる存在として、岩の根元まで断ち切るほどの力を表すと考えられる神です。「根拆」という名前には、地中に深く入り込んだ岩の根元や木の根さえも裂くほどの強い力が込められているとする説があります。石拆神と同じく、刀剣の鋭さや雷の威力を神格化した存在と考えられています。『日本書紀』では「根裂神」と記され、石拆神と一体の神のように扱われる伝承もあります。
  • 石筒男神(いわつつおのかみ):石拆神・根拆神とともに生まれた神で、岩石の持つ神聖な力や刀剣との関わりが指摘されています。「筒」という言葉の意味は明らかではありませんが、火を使って鉄を熱し、台の上で打ち鍛えて刀剣を作る技術と結びつける説もあります。また、『日本書紀』には、磐筒男命と磐筒女命の間に、後に武神として知られる経津主神(ふつぬしのかみ)が生まれたとする伝承も残されています。

こうした神々への信仰は、後世の山岳信仰とも結びついていきました。

例えば、栃木県鹿沼市にある石裂山(おざくさん)は、古くから山岳信仰の対象とされ、修験者が修行を行う霊場として知られていました。

その山麓に鎮座する加蘇山神社には、石拆神と根拆神にあたる磐裂命・根裂命が祀られており、山々を神聖な場所として敬う信仰の中で、これらの神々が崇敬されてきたことがわかります。

後に詳しく紹介しますが、鈍川の石拆神社にも、ある著名な山岳修行者を迎えて当地を開いたという創建伝承が残されています。

こうした伝承を踏まえると、鈍川でも山々を神聖な場所として敬う人々の信仰が、石拆神・根拆神などの神々への崇敬と結びついていたのかもしれません。

しかし、山々を神聖な場所として敬う古くからの信仰が、鈍川に祀られる神々とも何らかの形で結びついていたのかもしれません。

由緒に記された天御中主神と天満尊神

さらに、石拆神社・鈍川の創建由緒には三柱の主祭神だけではなく、天御中主神と天満尊神の名も記されています。

  • 天御中主神(あめのみなかぬしのかみ):『古事記』の冒頭で、天地が初めて開かれたときに最初に現れた神です。高御産巣日神・神産巣日神とともに「造化三神(ぞうかさんしん)」に数えられ、その名前は「天の中央の主」を意味すると考えられています。後世には北極星や北斗七星を神聖視する妙見信仰とも結びつき、厄除けや開運などを願う神としても信仰されてきました。
  • 天満尊神:石拆神社の創建由緒に名が記されている神です。一般に「天満」の名は、菅原道真を祀る天神信仰と結びついています。しかし、石拆神社に伝わる創建年代は道真が生まれるよりも古く、天満尊神が具体的にどのような神を指すのか、その詳しい由来は明らかになっていません。

眼病平癒・健康長寿・開運

石拆神社には、眼病平癒・健康長寿・開運の御神徳が伝えられています。

眼病平癒は目の病の回復、健康長寿は健やかで長生きできること、開運は災いを避けて幸運に恵まれることを願うものです。

こうした御神徳がいつ、どのような経緯で伝えられるようになったのか、詳しいことは明らかではありません。

それでも、石拆神社には、目の病の回復や健康、日々の暮らしの安寧と幸せを願う人々の祈りが受け継がれてきました。

そして、こうした人々の願いが寄せられてきた石拆神社には、遠く古代の伊予へとつながる創建伝承も残されています。

飛鳥時代にさかのぼる石拆神社の創建伝承

今から1300年以上前の飛鳥時代。

当時の日本は、天武天皇の後を継いだ持統天皇の治世にあり、天皇を中心とする律令国家の形成が進められていました。

持統天皇3年(689年)には「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」が施行され、翌4年(690年)には全国的な戸籍である「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」が作成されるなど、朝廷は地方の人々を把握し、統治の仕組みを整えていきました。

こうした国家体制の整備に伴い、地方には朝廷から任命されて一国の行政を担う「国司(こくし)」が置かれ、各郡では地元の有力豪族などが「郡司(ぐんじ)」として行政を担う仕組みが整えられていきました。

古代伊予の有力豪族・越智氏の歴史

一方、伊予国(現在の愛媛県)の越智郡(現在の今治市周辺)では、古くからこの地に勢力を持つ豪族・越智氏が、有力な一族として存在していました。

越智氏の起源は、律令制度が整う以前、ヤマト王権が各地の有力豪族に地域の統治を任せた「国造(くにのみやつこ)」の時代にさかのぼるとされています。

『国造本紀』によれば、古代の伊予には五つの国造が置かれたと伝えられ、その一つが現在の今治市周辺を治めた「小市国造(おちのくにのみやつこ)」でした。

越智氏は、その初代国造とされる乎致命(おちのみこと)を祖先とする一族で、後に律令制度が整えられると、越智郡の郡司として地域の行政を担うなど、伊予国の歴史に深く関わっていきました。

そして、後世に伝わる越智氏の系譜によれば、天智天皇の時代には越智守興(おちのもりおき)が一族を率い、その後、長男の越智玉興(おちのたまおき)が第25代当主として家督を受け継いだとされています。

伊予各地に名を残す越智玉興

玉興は、越智郡だけでなく、伊予国の広い地域に影響力を持った人物として伝えられ、「伊予大領」「伊予太夫」とも称されています。

「大領」とは、古代の郡の行政を取りまとめる長官を指し、「太夫」は高い位の官人などに用いられた呼び名です。

こうした称号からも、玉興が後世の伝承において、伊予の有力者として位置づけられていたことがわかります。

ただし、「伊予大領」は伊予国全体を治める正式な官職名ではなく、玉興にまつわる後世の伝承に見られる呼称です。

さらに、玉興は伊予国の「国司(こくし)」を務めた人物としても伝えられています。

国司とは、朝廷から任命されて一国の行政を担う地方官のことで、郡の行政を取りまとめる大領とは異なり、国全体の行政に関わる役職です。

伊予国司であれば、現在の愛媛県にあたる伊予国の行政を担う立場にあり、当時の地方統治において重要な役割を果たす存在でした。

ただし、玉興が実際に伊予国司を務めたことについては、同時代の史料による裏付けが確認されておらず、神社の由緒などに残る伝承として捉える必要があります。

また、玉興の名は、古い系譜や神社の由緒によって「小千宿禰玉興(おちのすくねたまおき)」「乎致宿禰玉興」「越智玉興」など、さまざまな表記で伝えられています。

「小千」「乎致」「越智」は、いずれも「おち」と読む氏族名の表記であり、「宿禰(すくね)」は古代の有力氏族に与えられた姓(かばね)の一つです。

こうした玉興の名は、伊予各地の神社や寺院の由緒にも登場し、土地の開拓や神々の祭祀、社寺の創建に関わった人物として、数多くの伝承にその足跡を残しています。

鈍川に鎮座する石拆神社にも、玉興にまつわる創建伝承が残されています。

その由緒によれば、持統天皇4年(691年)3月、「国司小千宿禰玉興」が大和国の葛城山から優婆塞役小角(うばそく えんのおづぬ)を迎え、この地を開いた際に、石拆神、根拆神、石筒男神、天御中主神、天満尊神を奉斎したと伝えられています。

ここに登場する「国司小千宿禰玉興」とは、先に紹介した越智玉興のことで、神社の由緒には国司としてその名が記されています。

また、大和国とは現在の奈良県にあたる地域で、葛城山は奈良県と大阪府の境に連なる山地に位置し、古くから山岳信仰の場として知られてきました。

この葛城山で山岳修行を重ねたと伝えられる人物こそ、後に修験道の開祖として崇められ、「役行者(えんのぎょうじゃ)」の名でも広く知られるようになった役小角です。

修験道の開祖・役小角とは

役小角は、7世紀後半の飛鳥時代に活動した宗教者で、呪術や祈祷に優れた人物として知られています。

延暦16年(797年)に完成した歴史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、石拆神社・鈍川が創建されたと伝えられる持統天皇4年(690年)から9年後の文武天皇3年(699年)、役小角が呪術によって人々を惑わせたとして、伊豆島へ流されたことが記されています。

Shimo-sagawa En-no-gyoja and Zenki stone statues 撮影:MirokunomichiProject(Wikimedia Commons) CC BY-SA 4.0

一方、平安時代初期に成立した仏教説話集『日本霊異記(にほんりょういき)』では、「役優婆塞(えのうばそく)」と呼ばれ、仏教に深く帰依し、山中で厳しい修行を重ねた人物として描かれています。

そこには、孔雀王(くじゃくおう)の呪法を修め、不思議な力を身につけたという説話も残されています。

また、石拆神社・鈍川の創建由緒にも、役小角は「優婆塞(うばそく)」と記されています。

優婆塞とは、本来、出家せずに仏教を信仰する男性を意味する言葉で、古代日本では山林で修行する宗教者を指す場合もありました。

こうした役小角の修行や説話は、時代が下るにつれて、日本各地の山岳信仰と結びついていきました。

古来、日本には山々を神聖な場所として崇める信仰があり、そこに仏教の教えや、平安時代に広まった密教の修行・祈祷などが結びつくことで、次第に「修験道(しゅげんどう)」が発展していきました。

修験道とは、山々を神仏が宿る神聖な場所と捉え、厳しい修行を通じて霊的な力を身につけ、人々の災厄を払い、安寧を願う日本独自の宗教です。

その修行者は「修験者(しゅげんじゃ)」や「山伏(やまぶし)」と呼ばれ、各地の霊山を修行の場としてきました。

修験道の発展とともに、役小角が吉野の金峯山や大峯山などを修行の霊場として開いたという伝承も広がっていきました。

そして、鎌倉時代初期には「役行者(えんのぎょうじゃ)」の名で知られ、修験道の開祖として崇められるようになったのです。

こうした役小角にまつわる伝承は、葛城山や吉野・大峯の山々だけでなく、遠く離れた伊予国にも残されています。

鈍川の石拆神社に伝わる創建由緒も、その一つです。

現代へ繋がる石拆神社の歩み

このような長い歴史を持つ石拆神社も、明治時代に入ると神社制度の大きな変化を迎えることになりました。

明治政府は、それまで各地で営まれていた神社の祭祀や管理について制度の整備を進め、神社を一定の基準によって区分する社格制度を設けました。

こうした中、石拆神社は明治4年(1871年)10月に村社に列せられました。

村社とは、明治時代の社格制度において、地域の氏神などを祀る神社に与えられた社格の一つです。

その後、明治42年(1909年)には、大己貴神社・山神社・勝手神社・三島神社・天神社の五社が石拆神社に合祀されました。

当時は全国的に神社の整理・統合が進められていた時期で、愛媛県でも明治41年(1908年)に、維持が難しい神社などの統合を促す方針が示されていました。

石拆神社で五社が合祀されたのも、こうした神社制度の変化が進む時代のことでした。

鈍川村から玉川町、そして今治市へ

さらに、石拆神社が鎮座する地も、時代の流れとともに行政区画の変遷を重ねてきました。

明治22年(1889年)の町村制施行により、それまでの鈍川村・鬼原村・木地村が合併し、新たな自治体として鈍川村が成立しました。

昭和29年(1954年)3月31日には、鈍川村が鴨部村・九和村・龍岡村と合併して玉川村が誕生し、昭和37年(1962年)4月1日には町制が施行され、玉川町となりました。

そして、平成17年(2005年)1月16日には、玉川町を含む12市町村が合併して新しい今治市が誕生し、鈍川も今治市の一地域として新たな歩みを始めたのです。

鈍川村から玉川村、玉川町、そして今治市へ。

こうした時代の移り変わりの中でも、石拆神社は地域に根ざした信仰の場として、この地の人々とともに歩んできました。

そして現在も、日々の暮らしの安寧と幸せを願う人々の祈りを受け継いでいるのです。

越智玉興と役小角を結ぶ記録

石拆神社の創建由緒に名を残す越智玉興と役小角。

実は二人にまつわる伝承は、石拆神社だけでなく鈍川を中心とした玉川地区の神社にも残されています。

そして、二人の縁は神社の創建にまつわるものだけではありません。

越智氏の歴史や伝承を記した『予章記(よしょうき)』には、役小角が伊豆島へ流されることになった際に玉興が救いの手を差し伸べ、その旅を助けたと記されているのです。

では、役小角はなぜ伊豆島へ流されることになったのでしょうか。

弟子の讒言によって伊豆島へ

文武天皇3年(699年)5月24日。

葛城山で修行を重ねていた役小角は、優れた呪術を使う人物として、広くその名を知られていました。

そんな役小角のもとで教えを受けていたのが、韓国連広足(からくにのむらじひろたり)という弟子でした。

ところが、広足はやがて師の優れた能力を妬むようになり、役小角が妖しい術を使って人々を惑わせていると朝廷に訴えたといいます。

この訴えがきっかけとなり、役小角は伊豆島へ流されることになりました。

役小角をかばった越智玉興

こうして役小角が伊豆島へ流されることになったとき、その境遇を哀れみ、救いの手を差し伸べようとしたのが越智玉興でした。

玉興は、かつて役小角を大和国の葛城山から伊予へ迎え、ともに信仰の場を開いたと伝えられる人物です。

それだけに、役小角が罪に問われたという知らせは、玉興にとって決して他人事ではありませんでした。

当時、朝廷に仕えていた玉興は、役小角には罪がないと訴えました。

ところが、その行動がかえって朝廷の怒りを買い、玉興自身も罪を問われることになってしまったのです。

こうして二人はともに摂津国へ向かい、難波(現在の大阪市周辺)にたどり着きました。

大阪港(Adobe Stock)

そんななか、役小角は玉興に一つの願いを打ち明けました。

それは、伊豆へ向かう前に、三島大明神を祀る伊予国の大三島へ参詣したいというものでした。

実は、役小角が深く信仰していたとされる三島明神(大山祇神・大山積神)は、越智氏が古くから崇敬してきた神でもありました。

こうした共通の信仰もまた、玉興と役小角を結ぶ大切な縁となっていたのです。

役小角の願いを知った玉興は、何とかその思いをかなえようと、難波津(なにわづ)で大三島へ向かう船を探し始めました。

しかし、朝廷から罪を問われた二人に船を貸そうとする者は、なかなか現れませんでした。

そんな折、玉興が出会ったのが、難波津に停泊していた一隻の唐船でした。

玉興は船に乗っていた人々に事情を伝え、大三島まで船を出してもらえるよう協力を求めました。

やがてその願いが受け入れられ、玉興は役小角とともに、三島大明神が鎮座する大三島を目指して海へと乗り出したといいます。

ところが、その航海は決して順調なものではありませんでした。

航海の途中、一行は飲み水が尽きるという危機に見舞われ、命の危険にさらされることになったのです。

この窮地に際し、玉興は一族の氏神である三島大明神に、一心に祈りを捧げました。

すると、不思議なことに清水を得ることができ、一行は危機を脱したと伝えられています。

こうして無事に大三島へたどり着いた役小角は、長く信仰してきた三島大明神を祀る大山祇神社への参詣を果たしました。

そして、念願をかなえた役小角は、玉興と別れ、流罪の地である伊豆へと向かったといいます。

歴史書と伝承に残された二人の足跡

ここまで紹介してきた役小角と越智玉興の物語には、歴史書に記された出来事と、後世に語り継がれてきた伝承が含まれています。

役小角の配流については、延暦16年(797年)に完成した歴史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記録されています。

文武天皇3年(699年)5月24日の条には、役小角が弟子の韓国連広足による「讒言(ざんげん)」によって、伊豆島へ流されたことが記されています。

讒言とは、他人を陥れるために事実を偽ったり、悪く言い立てたりすることです。

つまり、『続日本紀』は役小角が実際に人々を惑わせていたと断定しているのではなく、弟子による讒言が配流の原因になったと記しているのです。

また、同書には、役小角が鬼神を使役して水を汲ませたり、薪を集めさせたりし、命令に従わない鬼神を呪術で縛りつけたという話も残されています。

ただし、これらは当時の世間に伝わっていた噂として記されたもので、実際に起こった出来事と確認されているわけではありません。

一方、越智玉興が役小角をかばい、大三島への参詣を助けたという物語は、越智氏の歴史や伝承を記した『予章記(よしょうき)』に残されています。

『予章記』は、伊予国の有力武士であった河野氏の系譜や事績などを記した書物ですが、古い時代の記述には、後世に形成されたと考えられる伝承も含まれています。

役小角の配流については『続日本紀』に記録されているものの、越智玉興が朝廷に訴えたり、二人がともに難波から大三島へ渡ったりしたことを裏付ける同時代の史料は確認されていません。

そのため、実際に越智玉興が役小角を助けたのかどうかは、史実として確認されていません。

しかし、この伝承は、越智氏が古くから信仰してきた三島大明神への崇敬とともに、玉興と役小角の深い縁を今に伝えています。

関連記事はこちら:【越智氏の系譜】戦国の終わりまで続く伊予の歴史はここから始まった。河野氏の祖・越智玉澄

玉川地区に広がる二人の伝承

こうした越智玉興と役小角の関わりは、石拆神社だけでなく、玉川地区の鈍川から楢原山にかけて鎮座する神社の創建由緒にも残されています。

例えば、同じ地域に鎮座する須賀神社・鈍川には、石拆神社と同じ持統天皇4年(690年)3月、玉興が大和国葛城山から役小角を迎えて当地を開き、須佐之男神と大市比賣神の二柱奉斎したという由緒が伝えられています。

さらに、鈍川渓谷の奥にそびえる楢原山(標高1,041メートル)の山頂に鎮座する「奈良原神社(ならばらじんじゃ)」にも、二人にまつわる創建伝承が残されています。

奈良原神社では同年4月、玉興が役小角を迎えて楢原山の地を開き、伊佐奈伎命や宇気母知命、大山積神などを奉斎したことが、神社の始まりと伝えられています。

石拆神社と須賀神社・鈍川とは同年3月、奈良原神社は翌4月。

これらの神社の由緒をたどると、越智玉興と役小角が鈍川から楢原山へと足を延ばし、各地で神々を祀りながら信仰の場を開いていった二人の姿を思い描くことができます。

これらの伝承が実際にどのような経緯で生まれたのかは明らかではありません。

それでも、玉川地区には、古代伊予の越智氏にまつわる伝承と、山々を神聖な場所として敬い、神々に祈りを捧げてきた人々の信仰が、今も大切に受け継がれているのです。

神社名

石拆神社・鈍川(いわさくじんじゃ)

所在地

愛媛県今治市玉川町鈍川字サルガヲ甲151

主祭神

石拆神・根拆神・石筒男神

主な祭例

祈年祭(旧暦 2月18日)・春祭り(5月10日)・大祓6月30日)・例大祭 (10月中旬)・荒神祭(10月下旬)・新嘗祭 (11月23日)・大祓(12月31日) 

境内社

客人神社・三島神社・山神社

フォトギャラリーを閲覧する
神仏探訪記
前の記事
次の記事
  • ホーム
  • 神仏探訪記
    • 神社
    • 寺院
    • 史跡
  • 特集記事
    • 偉人伝
    • 今治山林火災
    • 今治城の歴史
    • 今治タオル物語
    • 今治とキリスト教
    • 越智氏の系譜
    • こぼれ話
    • 世田山合戦
    • 自然 × 暮らし
    • 伝統×文化
  • 特設ページ
    • 特設ページ
    • 今治城を知って、今治を知る。
    • 「今治林野火災 2025 3D MAP」
    • 春祭り・継ぎ獅子MAP
  • データベース
  • フォトギャラリー
  • ご質問・お問い合わせ
    • 当サイトについて
    • プライバシーポリシー
    • お問い合わせ
汝、星のごとく (Kissコミックス)
created by Rinker
「俺たちは どうしようもなく愛を欲している」 風光明媚な瀬戸内の島で、 父の不倫で心を壊した母と暮らす高校生の暁海と 自由奔放な母の恋愛に振り回され島に転校してきた櫂。 ともに、心に孤独と欠落を抱えた2人は、 暁海の父の不倫相手を訪ねたことをきっかけに、 惹かれ合い、同じ夢を抱いてーー。 生きることの自由さと不自由さを描き続けてきた 凪良ゆう最高傑作、待望のコミカライズ第1巻。
  • Kindle
  • Amazon
  • 楽天市場
  • Yahooショッピング
  • メルカリ
汝、星のごとく(講談社文庫)
created by Rinker
第20回本屋大賞受賞作! シリーズ累計100万部突破! あなたと生きる、その痛みごと。 著者2度目の本屋大賞を受賞した『汝、星のごとく』が3年の時を経てついに文庫化!同じ空の下であの星を見上げよう。そして、また出会おう。あまりに切ない運命を、繊細な心理描写で描いた著者最高傑作。 風光明媚な瀬戸内の島で育った暁海(あきみ)と母の恋愛に振り回され転校してきた櫂(かい)。ともに心に孤独と欠落を抱えた二人が恋に落ちるのに時間はかからなかった。ときにすれ違い、ぶつかり、成長していく。生きることの自由さと不自由さを描き続けた著者がおくる、あまりに切ない愛の物語【2023年本屋大賞受賞作】
  • Kindle
  • Amazon
  • 楽天市場
  • Yahooショッピング
  • メルカリ
  • Post
  • Share
  • Hatena
  • LINE
  • Pin it
  • note
  • Threads