太陽石油の町・菊間に消えた集落「原地域」と受け継がれる龍神信仰
瀬戸内海に面した愛媛県今治市菊間町。
この静かな海辺には、日本のエネルギーを支える二つの巨大施設が並んでいます。
一つは、石油を精製する太陽石油菊間製油所。
太陽石油は、西日本を中心にガソリンスタンドブランド「SOLATO」としても知られており、私たちの日常生活とも密接につながっています。
そしてもう一つは、国家の備えとして原油を蓄える菊間国家石油備蓄基地です。
備蓄された原油はパイプラインを通じて隣接する太陽石油菊間製油所へ送られ、ガソリンや軽油などへと精製され、全国へと供給されていきます。
これらの施設は、普段の生活の中で意識されることはほとんどありません。
しかし、ひとたび世界情勢が揺らぐと、その存在は一気に現実のものとして立ち現れます。
2026年3月、中東情勢の緊張によりホルムズ海峡を通る原油輸送が大きく制限され、日本国内では石油供給への不安が高まりました。
これを受けて政府は国家備蓄の放出を決定します。
その一端を担ったのが、この菊間国家石油備蓄基地でした。
さらに、ホルムズ海峡を通らないルートで原油を運んだタンカーが、日本に到着します。
その到着地の一つもまた、この場所でした。
菊間は、石油を「備える場所」であると同時に、「社会へ送り出す場所」として、日本のエネルギーを支える重要な拠点となってるのです。
しかし、この地はもともと、こうした巨大施設とは無縁の場所で、海とともに生きる人々の暮らしがありました。
そして、その暮らしの中には、静かな祈りの場がありました。

海とともに生きた町・原地域の記憶と祈り
現在、巨大なエネルギー施設が立ち並ぶこの一帯は、かつて「原」と呼ばれる地域で、漁師たちが海とともに暮らす町でした。
瀬戸内海の穏やかな海は豊かな漁場であり、人々は網を引き、魚を獲り、海とともに生活を営んでいました。
潮の満ち引きや天候の変化は、そのまま暮らしに直結していました。
海は恵みをもたらす存在であると同時に、常に畏れを抱くべき存在でもありました。
こうした環境の中で、原地域の人々は海の安全と豊漁を願い、現在の太陽石油菊間製油所のマリンセンター付近に祠を設けて龍神を祀っていました。
一方で、龍神様については現在のところ詳しい由来や祭祀の形は明らかになっていません。
龍神とは
龍神と呼ばれる存在は一柱の神ではなく、水に関わるさまざまな神々が重なり合って成立したものとされています。
その背景には、中国の龍、インド神話に登場するナーガ(蛇神)、そして日本古来の水神信仰があり、これらが結びつくことで、日本独自の「龍神」という信仰が形づくられていきました。
神社において龍神として祀られる祭神には、高龗神(たかおかみのかみ)や闇龗神(くらおかみのかみ)といった水を司る神、あるいは仏教に由来する善如龍王(ぜんにょりゅうおう)などがあり、いずれも雨や水、自然の働きと深く関わる存在です。
また、日本各地では、もともと地域で祀られていた水神や蛇神が、後に「龍神」として呼ばれるようになった例も多く見られます。
水辺に棲むとされた蛇は、やがて天へ昇る龍の姿と結びつき、自然の力を象徴する存在として信仰されるようになりました。
龍は雲や雨、風といった自然の動きを体現する存在とされ、そのうねる姿は波や水流、さらには雷雨の様子とも重ねられてきました。
龍神は、雨をもたらし、水を守り、時に海を鎮める存在とされ、人々の暮らしに欠かすことのできない力を象徴していました。
海とともに生きる地域では、龍神は海の安全や豊漁を願う対象として祀られ、出漁の前に祈りを捧げるといった習わしが各地に見られます。
原地域において祀られていた龍神もまた、こうした信仰の一つであり、海とともに生きる人々の暮らしを支える存在であったと考えられます。
地域に訪れた近代化の波と石油産業
こうした暮らしは、この地に長く息づいていました。
しかし、この静かな漁村に変化が訪れます。
20世紀に入り、日本は急速に工業化を進める中で、石油への依存を強めていきました。
船舶用燃料や機械油の需要が高まり、安定供給を担う拠点が各地に求められるようになります。
この流れの中で重要な役割を果たしたのが、太陽石油の前身を築いた人物、青木繁吉(あおき しげきち)です。
青木は明治41年、高知で灯油の行商から事業を始めました。
当時はランプ用の灯油が主力商品でしたが、やがて電灯の普及によって需要は大きく変化していきます。
この変化を見抜いた青木は、船舶用エンジン油や機械油へと事業の軸を転換しました。
さらに南予に着目し、拠点を八幡浜へと移します。
その後は石油製品の販売にとどまらず、蒸留による製造やタンカーによる輸送にも進出し、事業を拡大していきました。
やがて石油の重要性が高まる中で、青木は瀬戸内海の地理的条件に着目します。
穏やかな海と優れた物流環境を備えたこの地域は、石油産業にとって理想的な立地でした。
こうして、現在の今治市菊間の地に拠点が築かれていきます。
日中戦争下の昭和13年(1938年)には複数の石油企業が統合され、太陽石油株式会社が発足。
菊間は石油産業の重要な拠点として位置づけられていきました。
石油危機と「備える」という発想
この流れを決定づけたのが、1970年代の石油危機です。
中東情勢の悪化により原油供給は不安定となり、日本は深刻なエネルギー不足に直面しました。
輸入に依存していた日本にとって、石油の供給停止は社会全体の停止を意味していました。
この経験を契機に、日本はエネルギー政策を大きく転換します。
それが「国家による石油備蓄」という考え方です。
その拠点の一つとして選ばれたのが、当時の越智郡菊間町の原地域一体でした。
集落移転の決断
しかし、この変化は地域に大きな影響をもたらしました。
製油所の拡張により、原地域の人々は工業施設と隣り合わせの生活を余儀なくされます。
悪臭や騒音、そして火災への不安が現実のものとなっていきました。
やがて住民の間で安全への不安が高まり、解決策として選ばれたのが、集落ごとの移転でした。
こうして、原地域に暮らしていた55世帯は新たな土地へ移住することになりました。
新天地・八幡町で始まった暮らし
移転先として選ばれたのが、現在の菊間町浜地区の一部である八幡町(やわたまち)です。
人々は、この地で新たな暮らしを始めることになります。
しかし、この「八幡町」という地名は、現在の住所表記には残っていません。
昭和期以降の町名整理や住居表示の変更にともない、旧来の小字や通称地名が統合・整理されていく中で、八幡町という呼び名も次第に使われなくなっていったものと考えられます。
それでも、この場所には確かに人々の暮らしがあり、その記憶は地域に今も受け継がれています。
「恵比須神社の創建」恵比須町と地域の氏神様
その一方で、別の場所へ移り住んだ人々もいました。
原地域に暮らしていた5世帯は、太陽石油から踏切を渡った先へと移り住み、この新たな地を恵比須町(えびすまち)と名付けて暮らしを始めました。
そして、ともに移り住んだ庄屋の手によって、踏切の向こう側にあった龍神の祠もこの地へと移され、恵比須町の氏神として祀られました。
この時、恵比須町の名にちなんで、社は恵比須神社と称されるようになったのです。

昭和41年(1966年)5月には、恵比須町の人々によって幟立石が据えられ、現在へと続く恵比須神社の姿が整えられていきました。

こうして、龍神様を祀る現在の恵比須神社がこの地に形づくられていきました。
そして、今も毎年1月の第2日曜日、恵比須祭の日には、恵比須町の人々がこの地に集い、原の地から続く祈りが、場所を変えてなお、世代を越えて静かに受け継がれています。