今治城を知って
今治を知る
海辺に生まれた一つの城から、現在の今治へ。
城とともに港が整い、町が生まれ、人々の暮らしが広がった。
その記憶は、今も今治の町に残っています。
藤堂高虎
今治へ
関ヶ原の戦いを経て、 藤堂高虎は今治へ入りました。 ここから、今治城と城下町へつながる新しい歴史が始まります。
現在の今治城ではありませんでした。
最初の拠点となったのは、 現在の桜井・唐子山にあった国分山城。 高虎はまず山城を拠点とし、 そこから次の城づくりへと動き始めます。
「山から海辺へ」
高虎が今治で最初の拠点とした国分山城から、 新たな築城地となる海辺へ。 この章では、今治城誕生の直前に起きた 「山から海への移動」をたどります。
KOKUBUYAMA / SAKURAI
高虎が最初に入った
唐子山の国分山城
国分山城は、周囲を見渡すことのできる山上の城でした。 高虎も今治へ入った当初、この城を拠点として領国経営を始めます。
ただし、関ヶ原を境に時代は大きく変わろうとしていました。 戦うための山城だけでなく、政治や物流、商業を支える新しい城が求められるようになります。
「守る場所」だけではなくなっていく。
港を整え、船で物資を運び、平地に大きな城下町をつくる。 そのためには、山上の国分山城とは異なる新しい場所が必要でした。
山の上から、その先に広がる海へ
戦の城ではなく
新しい都市の中心
瀬戸内海を行き交う船を利用すれば、 人や物資をより効率よく集めることができます。
さらに平地であれば、武家地や町人地、道路、寺院を計画的に配置し、 城を中心とした大きな城下町を形成することもできます。
海と町を結ぶ城へ。
こうして高虎は、 現在の今治城が建つ海辺、 「小田の長浜」と呼ばれた一帯へ目を向けていきます。
今治城築城
海辺に巨大な城を築くには、 石垣を積む石、建物を建てる木材、土地を造成する土砂、 そしてそれらを運び、組み上げる多くの人の力が必要でした。
そのため築城資材は、 国分山城だけでなく、周辺の旧城や寺院、 さらに瀬戸内海の島々からも集められたと伝えられています。 とくに石垣に用いる築石は、小船や石船によって海を渡り、 海辺の築城地へ運び込まれました。 今治城は一つの場所だけで生まれたのではなく、 周辺地域と島々を巻き込んだ大規模な普請によって形づくられていきました。
築城開始
国分山城から海辺の「小田の長浜」へ。 藤堂高虎が新しい城の建設に着手すると、 今治の山、島、寺院、そして多くの人々が動き始めました。
古い城と寺の一部が
新しい今治城へ
新しい城を築くため、 それまで地域にあった建物や石垣の資材が 新たな築城地へ集められていったと伝えられています。
来島村上氏の居城・来島城
村上水軍御三家の一つ、来島村上氏の本拠となった海城。 今治城築城の際には、来島城など周辺の旧城も破却され、 建物や石垣の資材が今治へ運ばれたと伝えられています。
来島城を詳しく見る
石は、海を渡って今治へ
今治城の石垣を築くための石材は、 国分山城など陸側の旧城だけではなく、 芸予諸島の島々からも船で運ばれたと伝えられています。 海城を築く工事そのものが、瀬戸内海の海運と深く結びついていました。
大島
良質な花崗岩を産する島。 大島の石は、今治城築城に用いられたと伝えられています。
伯方島・北浦
北浦の人々は水軍時代の経験を生かし、 小船で築石を運び、石積みにも携わったと伝えられています。
関前方面
愛媛県史には、関前の石材も切り出され、 小舟に載せて今治へ運ばれたとする記述が残されています。
小田の長浜
─ 今治城築城地
島で切り出された石は、 小船や石船によって瀬戸内海を渡り、 現在の今治城が建つ海辺へ集められていきました。
城を築いたのは
資材だけではない
築城の現場から生まれたと伝わる
「木山音頭」
今治城の普請奉行として築城工事を支えた人物の一人が、 木山六之丞です。 地元の地形や潮の流れに通じ、 人夫や職人をまとめながら工事にあたったと伝えられています。
海辺の軟弱な土地では、 地面を繰り返し突き固める地固めも重要な作業でした。 そこで人々が調子を合わせて働けるように歌われたと伝わるのが、 後の「木山音頭」です。
人々の声と足拍子が一つになった
築城のための作業歌として語り継がれた音頭は、 やがて今治の盆踊りとして受け継がれ、 現在のおんまくでも踊られています。
TODO TAKATORA / IMABARI
藤堂高虎が
今治を去った日
慶長13年(1608年)、藤堂高虎は伊勢・伊賀へ転封となり、 築き上げた今治城と城下町をあとにしました。 今治には藤堂高吉が残り、城と領地を引き継ぎます。 ここから、高虎自身の歩みと今治城の歴史は、 それぞれ別の道へ進んでいきます。
その後の高虎の歩み
今治を離れた高虎は、伊勢・伊賀へ移り、 その後も徳川政権を支える大名として歩み続けました。 その足跡は、やがて江戸・上野へとつながっていきます。
高虎は今治を離れ、新たな領地へ移ります。
天下普請などを通じて幕府を支え、 江戸にも藤堂家の歴史を残していきました。
高虎は江戸で75年の生涯を閉じました。
高虎の歴史は、
江戸・上野へ
高虎は江戸・上野に寒松院を創建し、 藤堂家の菩提寺としました。 今治城を築いた人物の歴史は、 今治を離れた後、遠く江戸へと続いていきます。
寒松院の旧境内
高虎の菩提寺となった寒松院の旧境内地は、 明治以降の上野公園整備を経て、その一部が現在の上野動物園となりました。 そして、その園内に藤堂家墓所が残されています。
現在の上野動物園
かつて寒松院の境内だった場所の一部は、 現在、多くの人が訪れる上野動物園となっています。 その園内の一角に、高虎へと続く場所が残っています。
園内の
藤堂高虎の墓所
藤堂家墓所は、かつての寒松院境内に築かれました。 周囲が上野動物園へと姿を変えた現在も墓所は旧境内地に残り、 高虎が生きた時代の記憶を今へ伝えています。
藤堂家墓所を詳しく見る
高虎がつくった
今治の形
今治城の築城と並行して、その周囲では新しい城下町の整備が進められました。 武家地、町人町、港、堀、水路、そして寺町。 海辺の城を中心に、人が暮らし、物が集まり、船が行き交う 新しい都市・今治の骨格がつくられていきます。
本町を軸に
海と内陸へ町が広がる
慶長8年(1603年)頃から、高虎は今治城下の町人町の町割を進めました。 三之丸北門・辰之口へ続く本町を中心に、 室屋町、米屋町、風早町、中浜町、片原町などが配置されていきます。
本町は城下の軸となる通りとなり、 その周囲には商人や職人が暮らす町が形成されました。 海側へ近づくほど港や水運との関わりも強くなっていきます。
水がつないだ
「城」「港」「町」
海に面して築かれた今治城では、 水は城を守るためだけのものではありませんでした。 船を城の近くまで導き、物資を運び、 港と城下町を一つの都市として結びつけていました。
舟入
海から船が城の近くまで入ることのできる舟入が設けられ、 今治城は瀬戸内海と直接つながる城となりました。
堀と水路
海水を引き込んだ内堀・中堀・外堀は、 防御施設であると同時に、 城と水辺を結ぶ都市構造の一部となっていました。
港と城下町
海から届いた人や物資は城下へ入り、 水辺には商人や問屋が集まりました。 城・港・町が水によって結ばれることで、 今治の都市としての骨格が形づくられていきます。
城下の外縁に
寺院が集まる
高虎の都市づくりは、武家地や町人地だけではありませんでした。 城下の外側には寺院を集める構想が進められ、 後に「寺町」と呼ばれる寺院群へと発展していきます。 寺院は人々の信仰の場であるとともに、 広い境内や建物を持つことから、 城下の外縁を構成する空間としても重要な役割を担いました。
城下町の記憶が今も続く
「寺町」
整った城下町の骨格
今治は新しい時代へ
慶長9年(1604年)頃には今治城の普請が大きく進み、
城・港・町・寺院を結ぶ新しい都市の姿が見え始めます。
しかし高虎は、その完成を見届けることはありませんでした。
藤堂高吉の時代
藤堂高虎が伊勢・伊賀へ移った慶長13年(1608年)。 今治に残ったのが、高虎の養子・藤堂高吉でした。 越智郡二万石を与えられた高吉は、 高虎が築いた今治城と城下町を受け継ぎ、 その後およそ27年にわたって今治を治めていきます。
丹羽長秀の子
高虎の養子
高吉は天正7年(1579年)、織田信長の重臣・丹羽長秀の三男として生まれました。 幼くして羽柴秀長の養子となり、その後、藤堂高虎の養子として藤堂家へ迎えられます。
藤堂家の一員として今治へ
戦国から江戸へと時代が移るなか、 高吉は今治で一つの領地を治める立場となりました。 城を守るだけではなく、寺社を保護し、 高虎が形づくった町をこの地に根づかせていきます。
高吉衣干山への進軍
「拝志騒動」
慶長9年(1604年)、今治では藤堂家と加藤家の所領が入り組み、 今治城と拝志城が近接する緊張した状況にありました。 家臣の殺害をきっかけに「拝志騒動」が起こると、高吉は兵を率いて衣干山付近まで進軍。 武力衝突寸前まで事態が高まりましたが、重臣の説得を受けて踏みとどまったと伝えられています。
築く時代から
守り育てる時代へ
高吉が受け継いだころ、今治にはすでに城、港、町人町、寺町の骨格が生まれていました。 高吉の役割は、それらを引き継ぎ、領主として今治の町に根づかせていくことでした。
1608年から1635年まで、およそ27年。 高吉は越智郡二万石を領し、今治の政務を担いました。 高虎から久松松平家へ一気に移ったように見えがちな今治城の歴史には、 その間に高吉が治めた長い時間がありました。
高吉が整えた寺町
高虎期に始まった寺町の構想は高吉が受け継ぎ、寺院の移転や保護を進めていきました。
DAIO-JI / TERAMACHI
両親の菩提を弔うため
大雄寺は、高吉が両親の菩提を弔うため、 現在の寺町へ移したと伝えられています。 寺町は高虎の時代だけで完成したのではなく、 高吉の時代にもその姿を変えながら整えられていきました。
大雄寺を詳しく見る大浜から城下へ
隆慶寺も、高吉によって大浜から現在の寺町へ移されたと伝えられています。 こうした寺院の移転は、高吉の時代にも城下の空間が整えられ続けていたことを伝えています。
隆慶寺を詳しく見る
RYUKEI-JI / TERAMACHI
KORIN-JI / TODO TAKAYOSHI
実父・丹羽長秀を偲んで
高吉は光林寺に実父・丹羽長秀の廟堂を祀り、
たびたび参拝していたと伝えられています。
当時の住職とも親交があり、
高吉からの書状が十数通残されているともいいます。
領主として今治を治めた姿だけでなく、
父を思い、寺を訪ねた一人の人物としての高吉を感じさせる場所です。
二十七年の今治統治を終え
高吉も今治を離れる
寛永12年(1635年)、高吉が伊賀・名張へ移ったことで、今治における藤堂家の治世は終わりを迎えました。
名張へ入った高吉は「名張藤堂家」の初代となり、城下町の整備や家臣団の基盤づくりに尽力。津藩本家を支える重臣として重要な役割を果たし、 寛文10年(1670年)に92歳の長寿を全うしてこの世を去りました。
今治藩の時代
寛永12年(1635年)、松平定房が今治三万石の領主となりました。 それから明治4年(1871年)の廃藩置県まで、およそ236年。 今治藩は十代にわたる久松松平家の藩主たちによって受け継がれていきます。
久松松平家とは
久松松平家は、久松氏の系統から出た大名家です。 その家を徳川将軍家と強く結びつけたのが、 徳川家康の生母・於大の方でした。
於大の方は、家康の父・松平広忠と離縁したのち、 久松俊勝に再嫁しました。 その間に生まれた松平定勝は、徳川家康の異父弟にあたります。 初代今治藩主・松平定房は、その定勝の子でした。
徳川家康に近い血縁の家
「今治藩主家」
菅原道真公の系譜
久松家には、徳川家との血縁よりもさらに古い系譜の伝承があります。 久松松平家は菅原道真の子孫・菅原資行の流れをくむと伝えられ、 道真を遠祖とする家系とされています。
梅を愛し、「天神さま」として祀られた菅原道真
一方、菅原道真は梅を愛した人物として知られ、死後は「天神さま」として祀られるようになりました。 各地の天満宮や天満神社では、道真と深く結びついた梅が、天神信仰を象徴する意匠として受け継がれています。 これは久松松平家の家紋の由来を直接説明するものではなく、道真と梅の結びつきを知るための背景です。
綱敷天満神社を詳しく見る
久松松平家の家紋 「星梅鉢」
菅原道真を遠祖とする系譜を伝える久松松平家では、 家を象徴する家紋として「星梅鉢」が用いられました。 この紋は、今治藩主家の系譜と家格を伝える印として 代々受け継がれてきました。
「星梅鉢」は、久松松平家を象徴する家紋として、 甲冑や調度品などにも用いられました。 現在の今治城天守の展示室でも、 梅鉢紋が付された実物資料を見ることができます。
久松松平家へつながる「梅鉢紋」を詳しく見る
初代今治藩主
松平定房
定房は、徳川家康の異父弟・松平定勝の子として生まれました。 久松松平家は徳川将軍家に近い家柄で、 定房の兄・定行は松山藩主となっています。
今治には弟・定房
1635年、定房は今治三万石を与えられ、 久松松平家による今治藩の初代藩主となりました。 藩政では塩田の開発や綿花栽培を奨励し、 瀬戸内海を通じた海運や商業の発展にもつながる経済基盤を整えていきます。 1665年には江戸城代に任じられ、 関東に一万石を加増されました。
初代から十代へ
受け継がれていく
1635年から1871年まで、およそ236年にわたる今治藩の時代。 十人の藩主が久松松平家の家督を継ぎ、 それぞれの時代の課題に向き合いながら今治を治めました。
三代
松平定陳
三代藩主・松平定陳は、藩政改革に力を注ぎ、 今治藩の発展に大きく貢献した藩主とされています。 その治世では、軍事体制の整備から農業政策、新田開発、 商業の安定化まで、幅広い課題に取り組みました。
藩の基盤を多方面から整えた三代藩主。
定陳は兵学者・江島為信を重用して軍事体制を整える一方、 甘藷の栽培を奨励し、新田開発を進めました。 さらに大島で塩田開発を行い、 今治藩の重要な産業である塩の生産拡大にも取り組んでいます。
元禄8年(1685年)には町法度を発布し、 商人による買い占めや売り惜しみを禁じることで、 城下町の商業と人々の暮らしの安定を図りました。 また元禄11年(1698年)には、 関東の飛び地五千石に代わって伊予国宇摩郡18村を受領し、 ため池の築造や井関の修築を進めて農業生産の向上を図りました。
こうして今治藩の財政と領内整備を支えた定陳でしたが、 元禄15年(1702年)、36歳でその生涯を閉じました。
最後の今治藩主
十代・松平定法
久松松平家の家督は、幕末には十代・松平定法へと受け継がれました。 幕府の時代が終わり、新しい政治体制へ移るなか、 定法は今治藩最後の藩主となります。
明治2年(1869年)の版籍奉還後、定法は今治藩知事となり、 明治4年(1871年)の廃藩置県によって今治藩は廃止されました。 1635年から続いた久松松平家の藩政は、ここで大きな区切りを迎えます。
二つの今治藩主の墓
今治藩主の墓は、今治市古国分の山上に残されています。
しかし、ここにすべての歴代藩主が眠っているわけではありません。
江戸時代、藩主たちは参勤交代によって領国と江戸を行き来し、江戸にも藩邸を構えて長い時間を過ごしていました。
こうした事情から、大名家には領国だけでなく江戸にも菩提寺を持つ例が多く、亡くなった場所や家の慣例によって墓所も分かれていました。
KARAKOYAMA / IMABARI
今治に眠る
三人の藩主
左 三代 松平定陳
右 四代 松平定基
今治市桜井地区の唐子山(古国分山)中腹には、 初代・定房、三代・定陳、四代・定基の墓が残されています。 約180平方メートルの墓域は瓦葺きの土塀で囲まれ、 その奥に高さ約3.6メートルの宝篋印塔が三基並びます。 参道には家臣たちが奉納した石灯籠が60基以上並び、 墓塔には久松松平家の家紋「星梅鉢」も刻まれています。 江戸時代前期の大名墓所の姿を伝える県指定史跡です。
KARAKOYAMA / IMABARI
東京に眠る
七人の藩主
五代 松平定郷
六代 松平定休
七代 松平定剛
八代 松平定芝
九代 松平勝道
十代 松平定法
東京都江東区白河の霊巌寺は、久松松平家が江戸で菩提寺とした寺院です。 ここには二代・松平定時をはじめ、五代から十代までの藩主の墓所が置かれました。 かつては歴代藩主だけでなく、正室や子どもたちの墓も数多く並んでいました。
大正12年(1923年)の関東大震災で墓所は大きな被害を受け、 その後の墓域整理によって縮小されました。 現在は、保存された五輪塔のもとに歴代藩主や家族がまとめて祀られ、 今治藩主家が江戸にも確かな足跡を残していたことを伝えています。
霊巌寺を詳しく見る
今治藩を
支えた人々
今治藩の歴史を動かしたのは、 歴代藩主だけではありません。 藩主のそばで政務を担った家老、 城下と領地を支えた家臣たち、 学問や武芸を受け継いだ人々。 今治に残る寺院と墓所には、 そうした人々の記憶が今も残されています。
新しい今治藩を
最前線で支えた筆頭家老
新たな領地へ藩主とともに移った 「長島譜代衆」。 その中でも、 今治藩成立期の政務と軍事を担った 中心人物の一人が久松長政でした。
久松長政
久松長政は、
初代藩主・松平定房が伊勢長島から今治へ入封する際、
ともに新領へ移った家臣団の一人でした。
この家臣団は「長島譜代衆」と呼ばれ、
誕生したばかりの今治藩を支える
中核家臣団となります。
長政は定房から家禄一千石を与えられ、
筆頭家老として軍事と政務の両面から
今治藩の基盤づくりを支えました。
また、大雄寺の境内には久松長政の宝篋印塔と、
同家七代当主・久松清儀の墓石が残されており、
今治藩成立期を支えた久松家の記憶を今に伝えています。
藩主が祈り 桜を愛で
家臣たちが眠った海禅寺
海禅寺は歴代今治藩主の祈願所として 厚く庇護されました。 同時に藩主一族や家老、 上級藩士たちの菩提寺でもあり、 今治藩を支えた人々の記憶が 集まる場所となっていきました。
今治藩主が
桜を愛でた場所
海禅寺は祈願の場であると同時に、 今治の町並みを望む静かな憩いの場所でもありました。 春になると境内と裏山は桜に包まれます。 貞享4年(1687年)、 第3代今治藩主・松平定陳は海禅寺を訪れ、 名木「塩釜桜」とその風景に心を動かされ、 一首の和歌を詠んだと伝えられています。 今も春になると桜が境内を彩り、 藩主が目にした季節の風景を 現在へ伝えています。
天嶺玄嶝和尚が藤堂高吉に請願し、 寺領を受け、 海禅寺として新たな歩みを始めました。
松平定房の入封後、 歴代藩主の祈願所として庇護され、 藩主家と深く結ばれていきます。
藩主一族、家老、上級藩士の 菩提寺として発展し、 日吉山には多くの墓が築かれました。
墓石に残された
今治藩士たちの名前
海禅寺の奥に広がる日吉山墓地。 ここには今治藩に仕えた家臣やその一族、 学者や武芸者などの墓が残されています。 城や藩庁が失われた現在でも、 墓石に刻まれた名前から、 藩を実際に動かしていた人々の存在を たどることができます。
幕末の一藩士から
現在まで続く信仰
幕末になると、 今治藩にも黒住教の信仰が広がりました。 第10代藩主・松平定法自身も入信し、 家臣や地域の有力者へ教えが浸透していきます。 その中で布教に大きな役割を果たした 今治藩士が柿原誠楽でした。
黒住教教師として活動
黒住教を信仰
日吉山墓地へ
今治宗忠神社へ
柿原誠楽の墓
柿原誠楽は今治藩士であり、 黒住教教師として愛媛各地へ教えを広めた人物です。 明治17年(1884年)11月15日に亡くなると、 今治藩士たちが代々眠る 海禅寺そばの日吉山墓地に葬られました。 没後もその人柄と教化の功績は忘れられず、 墓所は信徒によって大切に守られてきました。
「柿原霊神」として現在へ
誠楽は没後、 「柿原霊神」として人々から崇敬されるようになります。 令和4年(2022年)4月8日には、 日吉山に残る誠楽の墓石から分霊が迎えられ、 今治宗忠神社の斎庭にご神像が鎮座しました。 一人の今治藩士の記憶が、 138年の時を越えて、 現在の祈りの場へと受け継がれたのです。
墓所と神社をめぐる「両参り」
日吉山に残る柿原誠楽の墓所と、 分霊された柿原霊神を祀る今治宗忠神社。 墓所と神社、 二つの祈りの場をめぐることで、 藩士として生きた一人の人物の記憶が、 現在の信仰へと受け継がれていることが見えてきます。
今治藩が手がけた
インフラ整備
今治藩の歴史を動かしたのは、城や藩主だけではありません。 洪水から田畑と家々を守り、余分な水を流し、 日照りのときにはため池に水を蓄えて農地へ届ける。 そうした水の仕組みを整えることもまた、 今治の土地と暮らしを支える大切な仕事でした。
危険な暴れ川
「蒼社川」の大改修
蒼社川は、たび重なる氾濫によって田畑や家屋を脅かしてきました。 1635年に入部した松平定房の時代以降、 堤防の強化や流路の安定化が進められ、 洪水後には川底にたまる土砂を取り除く川ざらえも続けられます。 治水は、城下だけでなく藩領全体の暮らしを守る仕事でした。
蒼社川の治水史を詳しく見る今治藩は、洪水を繰り返す蒼社川に対して、 川筋そのものを付け替える大規模な工事へ踏み出しました。
今治藩の土木を支えた偉人
「河上安固」
蒼社川の流れを変えた土木の中心人物
河上安固は川の流れを見極めながら、 蛇行する流路を整理し、堤防を強化する大工事を進めました。 工事は13年に及び、現在につながる蒼社川の姿へと大きく変わっていきます。
その功績は、単なる治水工事にとどまりません。 洪水を抑えながら城下と田畑を守るという、 今治の基盤づくりそのものに関わるものでした。
今も残る「腰掛石」と土木の記憶
大須伎神社には、河上安固にまつわる 「腰掛石」が今も伝えられています。
河川だけでなく、城下の排水を調整する呑吐樋など、 水を「流す」仕組みにも関わったと伝えられています。 今治藩の土木は、川と城下を別々に考えるのではなく、 一つの水の流れとして整えていくものでした。
こうした仕事の記憶が、史跡だけでなく神社の伝承としても残っていることは、 河上安固の存在が地域の中で長く語り継がれてきたことを物語っています。
洪水を防ぐだけでなく
水を蓄える
今治藩が向き合ったのは、水害だけではありません。 六代藩主・松平定休の時代には鹿ノ子池の拡張が進められ、 長い工事を経て1799年に完成。 干ばつに備え、農地へ安定して水を届けるための基盤が強化されました。 同じ年には池の守護神として大山積神を祀る鹿児神社が建立され、 水利と信仰の記憶は現在まで受け継がれています。
鹿ノ子池と鹿児神社を詳しく見る
今治市民の暮らしの中で
蒼社川の治水、城下の排水、そして鹿ノ子池の水利。 今治藩が長い年月をかけて整えてきた水の仕組みは、 田畑や町を守りながら、現在の今治へと受け継がれてきました。 私たちが暮らす土地の姿にも、かつて人々が水と向き合い、 暮らしを守ろうとした歴史が静かに残っています。
今治城解体
明治維新によって、 約二百六十年続いた今治藩の時代は終わりました。 政治の中心だった今治城も役割を失い、 やがて建物の多くが解体されていきます。 しかし、そのすべてが失われたわけではありません。 城門や城内の建築の一部は、 今治の寺院や神社へと受け継がれました。
今治藩が
始まったとき
天守はなかった
寛永12年(1635年)、松平定房が今治へ入封し、 久松松平家による今治藩が始まります。 この時点で、藤堂高虎が築いたとされる天守は、 すでに城内に残っていなかったと考えられています。
それでも今治城は、藩庁として、そして城下町を束ねる 政治の中心として使われ続けました。 天守の有無だけでは測れない「城の役割」が、ここにはありました。
この前後に、高虎期の天守は姿を消したと伝えられています。
松平定房が今治へ入り、天守のない今治城で藩政が始まります。
天守はなくても、今治城は藩庁としてその役割を果たし続けました。
消えた天守はどこへ?
一説には、解体された今治城の天守は、慶長15年(1610年)の丹波亀山城の天下普請に際して 徳川家康へ献上され、丹波亀山城へ移されたと伝えられています。 後世に編纂された『寛政重修諸家譜』にも「今治の天守」を同城へ移した趣旨の記述があるとされます。
ただし、今治城では当時の天守を直接裏づける天守台などの遺構が確認されておらず、 実在の姿や移築の詳しい経緯には不明な点があります。
「当今時勢不用之品」
今治城の解体が始まる
明治2年(1869年)10月、
今治城は時代に合わない不要なもの「当今時勢不用之品」とされ、廃城となりました。
これは明治6年(1873年)の
全国的な廃城令よりも早い動きでした。
櫓や門、御殿など城内に残っていた建物は順次取り壊され、
城郭を形づくっていた木材や建築物の一部は
城下へ払い下げられていきました。
櫓・門・御殿など、 江戸時代の城郭建築の多くが姿を消しました。
市街地の形成とともに、 城を囲んだ堀も次第に失われていきました。
主郭部を囲む石垣と内堀は、 現在まで今治城の重要な遺構として残りました。
解体された城は
今治の町の中へ
払い下げられた建築物の中には、
寺院や神社へ移され、
新しい役目を与えられたものがありました。
それらは今も大切に守られており、実際に見て触れることができます。
延命寺に残る
今治城の城門
延命寺の山門は、 かつて今治城を守っていた城門の一つです。 天明年間(1781~1789年)に建造されたとされ、 明治期の廃城後に延命寺へ移されました。 総欅造りの重厚な門は、 寺の山門として新たな役目を与えられ、 二百年以上の時を越えて現在まで残されています。
延命寺を詳しく見る
乗禅寺に残る
辰之口の門
乗禅寺にも、 廃城となった今治城から門の一つが移されました。 寺に伝わるところでは、 慶長年間に築かれた武家専用の通用門で、 かつて城の辰巳の方位に構えられていた「辰之口の壱ノ門」とされます。 城下の防御を担った門は、 廃城後には寺院の入口として 第二の歴史を歩んでいます。
乗禅寺を詳しく見る
城内にあった社殿は
小泉へ
城門だけではありません。 今治城内にはかつて、 久松松平家と深い関わりを持つ 「松本天神社」が鎮座していました。 廃城後もその本殿は城跡に残されていましたが、 大正15年(1926年)、 取り壊しの話を知った小泉の人々が保存を決意します。 本殿は屋根・胴体・基礎石へ分解され、 牛車を使って夜間に運ばれ、 小泉に鎮座していた天満神社へ移築されました。
天満神社・小泉を詳しく見る
本丸跡に
創建された神社
「吹揚神社」
明治5年(1872年)、旧本丸跡に吹揚神社が創建されました。 かつて藩主が城を治めた場所は、 廃城後、人々が祈りを寄せる場所へと姿を変えていきます。
城の建物は失われても、 本丸という場所そのものの記憶まで消えたわけではありません。 今治城の中心は、神社という新しいかたちで 地域の人々に受け継がれていきました。
今治城再建
明治の廃城によって建物の多くを失った今治城。 それから長い年月を経て、残された堀と石垣を守りながら、 現在の今治城が少しずつ形づくられていきました。
保存の始まり
「愛媛県指定史」
昭和28年(1953年)、 今治城の主郭部跡と内堀は愛媛県の史跡に指定されました。 建物の多くを失ったあとも残されていた石垣と堀が、 今治城の歴史を伝える遺構として守られていくことになります。
天守をはじめ
城郭建築が再び姿を見せる
昭和55年(1980年)、 主郭部跡に天守閣、多聞櫓、武具櫓などが再建されました。 廃城から一世紀以上を経て、 今治城に再び城郭建築が立ち上がります。
現在の天守は五層六階の展示施設として整備され、 最上階からは今治の市街地や瀬戸内海を一望することができます。
少しずつ現在の今治城へ
1980年を起点に、 櫓や門の再建・復元が段階的に進められました。
御金櫓
昭和60年(1985年)、 二の丸跡の東隅に御金櫓が再建されました。 現在は郷土出身作家の作品を紹介する展示施設として利用されています。
山里櫓
平成2年(1990年)、 二の丸北西隅に山里櫓が再建されました。 建物が加わることで、城郭の輪郭がさらに整っていきます。
鉄御門
平成19年(2007年)、 二の丸の表門である鉄御門と、 それに付随する櫓門・多聞櫓などが再現復元されました。
今治城の歴史は
城の中だけではない
城を離れて町へ目を向けると、かつての城門や町名、寺町など、城下町だった時代の痕跡がさまざまな場所に残っています。
今治城を写真で見る
街を歩くと見えてくる
本当の今治城
藤堂高虎がつくったのは、 今治城という一つの建物だけではありませんでした。 海と城を結ぶ舟入。 城を取り囲む堀。 そこを行き交う船と物資。 商人や職人たちが暮らす町。 そして城下の外縁に集められた寺院。 城を中心として、 港・物流・商業・交通・信仰までを組み込んだ 新しい都市そのものが形づくられていったのです。
01
IMABARI CASTLE / PORT
今治城から繋がる歴史
「今治港」
今治城は、 海水を堀へ引き込んだ海城でした。 城の北側には、 船が海から城郭内へ直接入ることのできる 「舟入」が設けられ、 その周辺には船頭町も置かれました。 瀬戸内海を行き交う船と城下町を結ぶこの場所は、 人や物資が出入りする海の玄関口となります。 その港湾機能は時代とともに発展し、 現在の今治港へとつながっていきました。 今治は最初から、 城だけではなく「港」とともに築かれた町だったのです。
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KINSEI RIVER / IMABARI
城の外堀の記憶が残る川
「金星川」
江戸時代の今治城は、 現在残る内堀だけでなく、 中堀・外堀を備えた広大な城郭でした。 明治以降、 城下の姿が変わるにつれて 外堀の多くは埋め立てられていきます。 しかし、その水系の痕跡は 現在の金星川として街の中に残されています。 今では住宅や道路の間を流れる小さな川ですが、 その流れをたどることは、 かつての今治城下の輪郭を たどることでもあるのです。
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KAWAGISHIBATA / IMABARI
堀を行き交った船の記憶
「川岸端」
今治城の堀は、敵から城を守るためだけの施設ではありませんでした。海とつながった水路には船が入り、城下へさまざまな物資が運び込まれます。その荷物を陸へ上げる場所の一つが、「川岸端」と呼ばれた一帯でした。周辺には商人や問屋が集まり、水運を利用した物流と商業によって城下町の賑わいが生み出されていました。現在では当時の水辺の姿は大きく変わり、アーケードが広がる商店街の一角となっています。
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TATSU-NO-KUCHI / IMABARI
城と城下町が繋がる
「辰之口」
城郭と城下町の境には、 人や物資が行き交うさまざまな出入口がありました。「辰之口」も、今治城下を構成していた重要な場所の一つです。かつて巨大な城郭があったその場所は現在公園となっており、やすらぎを与える市民の憩いの場となっています。
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DONDOBI / IMABARI
城の堀は消えても
名前は暮らしの中で
現在の今治中心部には、 「ドンドビ」と呼ばれる交差点があります。 その名の由来とされるのが、 かつてこの付近にあった「呑吐樋」です。 今治城の外堀と水路がつながるこの一帯では、 水の流れを調整するための樋が設けられていました。 水を「呑み」、 そして「吐く」ように出入りさせることから、 「呑吐樋」と呼ばれたといいます。 城の外堀が埋め立てられ、 かつての水路が見えなくなった現在でも、 「ドンドビ」という呼び名は残され、「ドンドビ」と言えば今治の人ならすぐにあの場所だと伝わるほど、街の目印として親しまれています。
藤堂家と久松松平家
今治城で
二つの家紋が重なる
今治城を築いた藤堂高虎と、 今治藩主として城と城下町を受け継いだ久松松平家。 今治城では、両家の家紋が一枚に重なる特別な御城印を手にすることができます。
今治にお越しの際は、ぜひ今治城へ足を運び、 堀や石垣、城下町の名残が残る街をゆっくり歩いてみてください。 そして、城のすぐ先に広がる瀬戸内海にも目を向けてみてください。 海とともに築かれ、港とともに発展してきた今治の歴史が、 今の街や海の景色の中にも静かに息づいていることを感じられるはずです。
今治城の歴史を
もっと深く
今治城には、ここだけでは語りきれない物語があります。 築城に関わった人々、城に残る石、受け継がれた唄、 幻となった天守、そして現在の城へ。 「今治城の歴史」特集では、それぞれの物語を個別の記事で詳しく紹介しています。
「今治城の歴史」特集を見る今治を訪れる方へ
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