総大将を失った伊予へ…世田山へ迫る細川頼春の足音
興国三年/康永元年(1342年)、頼みの綱であった脇屋義助(新田義助)が亡くなった後、再び統率者(指導者)を欠いていた伊予国の南朝方勢力は、深刻な危機に瀕していました。
そのため、得能氏・村上義弘・土居通綱らは吉野朝廷(南朝)へと働きかけ、懸命に援軍の派遣を求めていました。
一方、吉野朝廷側もまた、劣勢を覆すために西国での「反転攻勢」の機会を模索していたのです。
前回の記事はこちら:《世田山合戦④》南朝再興を託された西国総大将「脇屋義助」今張上陸
南朝方の危機を見抜いた細川頼春
同じ頃、伊予の情勢を固唾をのんで見守っていた人物がいました。
それが北朝方の四国総大将・細川頼春(ほそかわ よりはる)です。
頼春は足利尊氏の側近として早くから頭角を現した武将であり、細川氏一門を率いて室町幕府草創期を支えた功臣の一人です。
細川和氏(ほそかわ かずうじ)や細川師氏(もろうじ)ら一門とともに各地を転戦し、四国平定や幕府勢力の拡大に大きな功績を挙げました。
頼春は文武両道の名将として知られ、建武三年(1336年)には宮中の射礼でその腕前を賞賛されたという逸話も残されています。
また、延元三年/暦応元年(1338年)の石津の戦いでは、南朝方の総大将・北畠顕家率いる軍勢を破る大功を挙げ、その功績によって阿波・備後両国(現在の徳島と広島県東部一帯)の守護に任じられました。
その後は阿波国勝瑞に本拠を築きました。
この居館は後に「阿波館」と呼ばれ、四国における北朝方統治の中枢となりました。
さらに細川一門は阿波・讃岐・淡路を掌握し、瀬戸内海東部の海上交通と軍事拠点を勢力下に置いていきます。
当時の伊予の南朝方にとって、阿波・讃岐を掌握した細川氏はまさに最大の脅威でした。
その最大の敵である細川頼春のもとへ、南朝方が極秘としていたはずの脇屋義助急死の報が伝わってしまったのです。
「興国の戦」予東部の要衝・川之江城をめぐる攻防
頼春はこれを千載一遇の好機と判断し、ただちに阿波(現在の徳島県)と讃岐(現在の香川県)から七千の兵を集め、怒涛の勢いで伊予への侵攻を開始しました。
頼春が伊予攻略の第一歩として狙いを定めたのが、伊予東部の要衝・川之江城(河江城)でした。
川之江城は延元二年/建武四年(1337年)、南朝方の河野惣領として伊予を率いていた得能通政(河野通政)が、東方からの侵攻に備えるため、土肥義昌(どひ よしまさ・土居義昌)に命じて鷲尾山(城山)に築かせた山城です。
川之江は伊予・讃岐・阿波を結ぶ交通の要地であり、東から伊予へ攻め入る際の玄関口ともいえる場所でした。
ここを押さえれば伊予東部を制圧できるだけでなく、そのまま国府や世田山方面へ進軍することも可能となります。
そのため川之江城は、南朝方にとって伊予防衛の最前線を担う重要拠点だったのです。
義昌はそのまま城主となり、伊予東部防衛の要としてこの城を守っていました。

また、西方には家臣の由良吉里(ゆら よしさと)が守る支城・畠山城も配置されており、川之江城を中心とした防衛網が築かれていました。

「燧灘海戦」阻まれた川之江城救援
伊予国へ侵攻した細川頼春率いる北朝軍は、まず川之江城の支城であった畠山城を攻撃し、防衛線の切り崩しを図りました。
城を守る由良吉里(ゆら よしさと)は奮戦したものの、多勢に無勢でした。畠山城はついに陥落し、細川軍はさらに本城である川之江城へと迫ります。
川之江城は伊予東部防衛の要でした。
この城を失えば、伊予の東の玄関口は北朝方の手に落ちることになります。
そのため、伊予の南朝方諸将は川之江城を何としても守り抜こうとしていました。
これに対し、脇屋義助とともに伊予へ下向していた金谷経氏(かなや つねうじ)は、大将として土居氏・得能氏・合田氏・二宮氏・日吉氏・多田氏・三宅氏・武市氏ら伊予の南朝方武士と力を合わせ、五百艘もの軍船を率いて海上から川之江城の救援へ向かいます。
海上補給路を確保できれば、城内へ兵糧や武具、さらには援軍を送り込むことができます。
そうなれば川之江城はなお持ちこたえることができる――。
南朝方はこの海上作戦に大きな望みを託していたのです。
ところが、その動きを見越していた細川頼春はすでに先手を打っていました。
頼春は備後・安芸・周防・長門の諸国から兵船を集め、その数は一千艘を超えたとも伝えられています。
こうして燧灘一帯には巨大な北朝方水軍が展開され、伊予へ向かう南朝方の進路を遮っていたのです。
やがて燧灘で両軍は激突しました。
川之江城救援を目指す南朝方と、それを阻止しようとする細川方。
瀬戸内海を舞台に、大規模な海戦の火蓋が切られたのです。
海上では無数の矢が飛び交い、船と船が接近すると兵たちは敵船へ飛び移って激しい白兵戦を繰り広げました。
特に大館氏明の家臣・岡部出羽守は十七艘を率いて敵船団の中へ突入し、敵船へ飛び移っては組み討ちを行うなど、壮絶な戦いぶりを見せたと伝えられています。
北朝方の船は大型船が多く、高い櫓の上から矢を浴びせかけました。
これに対し、伊予の南朝方は小回りの利く小舟を巧みに操り、敵船へ接近して戦います。
兵たちは、たとえ海の藻屑となろうとも退くまいとの覚悟で、敵船へ飛び移っては激しく斬り結びました。
川之江城を救うため、南朝方は文字どおり命懸けで突破を試みたのです。
双方とも命を惜しまず戦い、一歩も退かぬ激戦となりました。
しかし、待ち構えていた細川方の大船団は海上に幾重もの防衛線を築き、南朝方の進撃を阻み続けます。
金谷経氏率いる軍勢も必死に突破を試みましたが、川之江城への道は容易には開けませんでした。
川之江城を守る土居義昌にとって、この援軍こそが最後の希望でした。
城内では援軍の到着を信じながら、必死の籠城戦が続けられていたことでしょう。
ところが、その最中に思いもよらぬ出来事が起こります。
激しい海戦が続くなか、突如として暴風が燧灘を襲ったのです。
荒れ狂う波と強風は南朝方の船団を直撃しました。
船は次々と進路を失い、隊列は大きく乱れます。
やがて船団は統制を失ったまま備後方面へ押し流され、多くの船が損傷を受けてしまいました。
その隙を逃さず細川方の水軍が猛攻に転じると、金谷軍はもはや川之江城へ近づくことすらできなくなりました。
こうして海上からの救援は失敗に終わります。
川之江城は完全に孤立し、土居義昌ら守備兵は細川頼春率いる大軍の総攻撃を、自らの力だけで迎え撃たなければならなくなったのです。

「鞆の合戦」金谷軍が北朝方の拠点・鞆を急襲
一方、備後方面へ押し流された金谷軍は、川之江城への救援を果たせないまま海上をさまようことになりました。
夜になり風が静まると、兵たちは「もはや運に見放された。元の港へ戻るべきだ」と口々に語ったといいます。
これに対し、金谷経氏は兵たちにこう言い放ちました。
「運をはかり、勝ちを求めるのは、自らの命を惜しむ者のすることだ。われらはすでに義助殿を失った。もはや運が良いとか悪いとか言っている時ではない」
敗戦と暴風によって備後まで押し流された今、誰もが撤退を考えていました。
しかし経氏は退くどころか、このまま細川頼春の勢力圏である備後へ攻め入り、敵の拠点を衝くことを決意します。
その夜、金谷経氏は船団を率いて備後国鞆(現在の広島県福山市鞆町)へ奇襲を敢行しました。
夜陰に乗じて押し寄せた南朝方の軍勢に、鞆の守備兵は完全に不意を突かれます。
守備兵はわずか三十余人であり、必死に応戦したものの多勢に無勢でした。
激しい戦いの末、守備兵は全員討死し、南朝方は鞆の制圧に成功します。
海戦で敗れた直後とは思えないこの大胆な反撃に、南朝方の兵たちは大いに気勢を上げました。
金谷経氏は大炊島(おおいじま)の大可島城(現在の南林山圓福寺周辺)を詰城として拠点を構え、鞆の浦に兵を集めて西国各地からの援軍を待ちます。
小豆島や武島(むしま)からも味方が駆けつけ、鞆を制圧した南朝方の勢いは大いに高まりました。
これに対して北朝方も鞆の小松寺に陣を敷き、備後・備中・安芸の三国から三千余騎を集めて対抗します。
南朝方は船を使って上陸と撤退を繰り返し、海と陸を舞台に激しい攻防を展開しました。
戦いは十日を超える長期戦となり、互いに決定打を欠いたまま消耗戦が続きます。

鞆の浦の景色 撮影:kakkiko(写真AC)
川之江城陥落と金谷軍の伊予帰国
そんな中、南朝方にさらなる衝撃の報せが届きました。
東伊予の要衝・川之江城と枝城の畠山城が落城し、勝利によって勢いづいた細川頼春軍が、宇摩・新居両郡を制圧しながら世田山方面に進軍しているというのです。
この報せは、備後で戦う南朝方の武士たちの心を大きく揺さぶります。
土居氏・得能氏ら伊予の武士たちは、「どうせ死ぬなら、自らの国・伊予で戦って死のう」と決意し、備後での戦いを打ち切って急ぎ伊予へ帰還しました。
金谷経氏もまた、迫り来る細川軍を迎え撃つため、兵を率いて伊予へ戻ることを決断します。
しかしその結果、備後には南朝方の武将・桑原重信(くわばらしげのぶ)がわずかな兵とともに残されることになりました。
北朝方はこの機を逃さず攻撃を開始。
桑原重信は最後まで抗戦を続けましたが力及ばず、ついに敗北しました。
こうして鞆は再び北朝方の勢力下へと戻り、備後における南朝方の反攻は終息します。
この一連の戦いは、後に「鞆の合戦(とものかっせん)」として語り継がれることになります。
また、金谷経氏が拠点とした大可島城跡とされる現在の南林山圓福寺には、桑原伊賀守重信一族のものと伝わる五輪塔群が残されており、今もなお当時の激戦を静かに伝えています。

円福寺, 広島県福山市 撮影:663highland(Wikimedia Commons) CC BY-SA 4.0
「千町ヶ原の戦い」三百騎の決死の突撃
伊予へ戻った金谷経氏は、残された兵を数えました。
その数、およそ二千余騎。
しかし、細川頼春の軍勢は七千。
しかも川之江城はすでに孤立し、時間が経てば経つほど南朝方に不利な状況となっていました。
正面から戦えば勝ち目は薄い。
それでも金谷経氏は退くことを選びませんでした。
むしろ、このまま頼春の進撃を許せば、伊予国そのものが危機に陥ることを理解していたのです。
そこで経氏は、一つの決断を下します。
数ではなく、質で勝負する。
残された兵の中から、武勇に優れた者だけを選び抜き、わずか三百騎の精鋭部隊を編成したのです。
狙うはただ一つ。
敵軍を正面から突破し、総大将・細川頼春その人に斬りかかることでした。
「たとえ刺し違えてでも、敵の進撃を止める」
それが金谷経氏の覚悟でした。
出陣の日、三百騎はみな曼荼羅を母衣に掛け、死を覚悟した姿で馬を並べたと伝えられています。
しかも通常であれば吉日を選ぶところを、あえて「十死一生」の大凶日を選んで出陣したともいわれています。
まさに、生きて帰ることを考えない決死隊でした。
一方の細川頼春も、ただの武将ではありませんでした。
新居郡千町ヶ原(千丈ヶ原)に現れたわずか三百騎を見た頼春は、その異様な陣容にただならぬものを感じ取ります。
普通なら、その兵力差を見て勝負にならないと考えるところでした。
しかし頼春は違いました。
「これは、ただの少数ではない。精鋭だけを選び、大将である自分に斬り込んでくるつもりだ」
そう見抜いた頼春は、すぐに諸将へ命じます。
「敵をまともに受け止めるな。突破させて疲れさせよ。近づきすぎるな。包囲して討て。敵一騎に十騎で当たれ」
数の利を生かし、決死の突撃を受け流しながら削り取る。
頼春は冷静に、周到な迎撃策を整えたのです。
そして、ついに両軍が激突しました。
当時の合戦では、まず双方が名乗りを上げながら弓矢を射掛け合う「矢合わせ」を行い、その後に本格的な戦闘へ移るのが一般的でした。
しかし、この日の金谷経氏にそのような余裕はありませんでした。
三百騎は最初から敵陣突破だけを目指し、一気に突撃を開始したのです。
まさに決死の突撃でした。
三百騎は第一陣五百騎を突破し、さらに第二陣七百騎へ斬り込みます。
その猛攻は凄まじく、細川軍は一時大きく押し込まれました。
しかし、その先にはなお二千余騎の第三陣が待ち構えていました。
ここで戦いは壮絶な白兵戦へと変わります。
兵と兵が入り乱れ、馬上で組み合い、太刀と太刀が激しくぶつかり合いました。
三百騎は敵中深くまで斬り込み続けましたが、多勢に無勢でした。
次々と討たれ、ついに二百八十三騎が戦場に倒れます。
生き残ったのは、わずか十七騎。
金谷経氏、河野通里、得能弾正、土居備中守ら、名だたる武将たちだけでした。
それでもなお戦意は衰えませんでした。
しかし、敵陣深くまで斬り込んだものの、頼春の本陣を見つけることはできませんでした。
「このまま討死するより、生き延びて次の戦いに望みをつなぐべきではないか」
そう判断した金谷経氏は、残る十七騎を率いて方向を変え、七千の敵中を一気に突破することを決断しました。
四方を敵に囲まれた絶望的な状況でしたが、彼らは馬腹を蹴って疾駆し、迫り来る敵兵を次々と斬り払いながら包囲網へと突入します。
驚くべきことに、この十七騎は一騎も討たれることなく敵陣を突破し、戦場から生還したと伝えられています。
三百騎で七千に挑み、第一陣・第二陣を突破し、敵中深くまで斬り込んだこの戦いは、南朝方最後の意地を示した壮絶な死闘でした。
しかし、この勝利によって細川頼春の前に立ちはだかる勢力はほぼ一掃されました。
「世田山合戦へ」細川軍の進撃
頼春は戦いの後、味方の損害を数えさせると、戦死者・負傷者は七百人余りに及んだものの、敵方の主力二百余人を討ち取ったことで軍勢の士気は大いに高まっていました。
「ならば、すぐに大館左馬助(大館氏明)が立て籠もる世田城へ攻め寄せよ」
頼春は間髪入れず進軍を命じます。
そして軍勢は、椎ノ木越(しいのきごし)を越え、府中・朝倉郷へと雪崩れ込みました。
険しい山を越えた細川軍の視界の先に広がっていたのは、そびえ立つ笠松山と世田山の雄大な姿でした。
そして、その山々には大館氏明をはじめとする南朝方諸将が籠る堅固な防衛陣地が築かれていたのです。
こうして、伊予の命運を懸けた「世田山合戦」が、ついに幕を開けたのです。
世田山合戦までの舞台を歩く
細川頼春の大軍と南朝方の武将たちが激しくぶつかり合った興国三年/康永元年(1342年)の伊予侵攻。
その戦いの舞台となった場所には、現在も南北朝時代の記憶が数多く残されています。
細川軍が越えた千町ヶ原と椎ノ木越
激戦の舞台となった千町ヶ原(せんちょうがはら)は、桑村郡の大明神川右岸に広がる扇状地で、後に江戸時代の松山藩によって「新町」が開かれる場所です。

当時は人家も少なく、視界を遮るもののない広大な原野が広がっていました。
世田山・笠松山の麓に位置するこの地は、数千の兵が激突する決戦の舞台として十分な広さを備えていたのです。

また、細川頼春軍が世田山へ進軍する際に越えた椎ノ木越(しいのきごし)も、現在までその名を残しています。
椎ノ木越は現在の今治市朝倉地区と西条市を結ぶ峠で、現在の愛媛県道154号今治新居浜線にあたります。
標高約180メートルの山越えで、近くに今治カントリー倶楽部があることから、地元では「今カン峠(いまかんとうげ)」の名でも親しまれています。

この峠を西条側から越えて今治方面へ下ると、やがて世田山の麓にあるタオル美術館が見えてきます。

現在、今治と西条を行き来する際には、実報寺方面から山を貫く「周越(しゅうえつ)トンネル」を通るルートが一般的となっています。
しかし、このトンネルが開通する以前の古くから、地域を結ぶ重要な大動脈として人々や馬車が行き交っていたのが、まさにこの椎ノ木越の峠道でした。
今では多くの人が何気なく通り過ぎるこの峠道も、かつては東予から今治平野へ向かう重要な交通路だったのです。
何気なく通りすぎる道ですが、そこには伊予の命運を左右した「世田山合戦」へと突き進む、細川軍が駆け抜けた歴史の足跡が、今も色褪せることなく息づいています。
幾度も戦火に包まれた川之江城
伊予侵攻の足掛かりとなった川之江城がある鷲尾山(城山)には、もともと天台宗の高僧・源信(恵心僧都)の開基と伝わる仏堂があり、そこには奈良時代の高僧・行基が作ったと伝わる阿弥陀如来像が安置されていたといわれています。
城主となった土肥義昌は、この阿弥陀如来を深く崇敬し、仏堂を取り壊すことなく新たな堂宇を建立して、朝夕その前で武運長久を祈ったと伝えられています。
そのため、この城は当時「川之江城」ではなく、「仏殿城(ぶつでんじょう)」と呼ばれていました。
興国三年/康永元年(1342年)の細川頼春によって攻略された後、城は再び河野氏の手へ戻され、伊予東部防衛の重要拠点として存続します。
戦国時代には城主・妻鳥友春が阿波の三好長治の侵攻を撃退するなど、その堅固さを示しました。
しかし、四国統一を目指す長宗我部元親の勢力拡大によって河野氏は次第に追い詰められ、川之江城も再び激しい戦乱の渦へ巻き込まれていきます。
天正10年(1582年)、長宗我部軍の猛攻を受けた城主・河上安勝は、最後まで抗戦した末に本丸へ火を放ち、自ら命を絶ったと伝えられています。
その後も四国の戦局は大きく動き続けました。
そして天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国平定によって長宗我部氏は降伏し、河野氏も歴史の表舞台から姿を消します。
川之江城はその後、小早川氏・福島氏・池田氏・小川氏などを経て、加藤嘉明の時代に最終的な廃城となりました。
こうして南北朝時代以来およそ250年にわたり伊予東部を見守り続けた名城は、その役目を終えたのです。
数々の戦いが繰り広げられた背景には、川之江が伊予・讃岐・阿波を結ぶ交通の要衝であったという地理的条件がありました。
まさに川之江城は、「四国の玄関口」を守り続けた城だったのです。
その後、長い年月のなかで城は失われ、本丸付近にわずかな石垣を残すのみとなりました。
江戸時代初期の寛永13年(1636年)には川之江藩が成立し、藩主・一柳直家によって再築が計画されたとも伝えられていますが、直家の死によって実現することはありませんでした。
そして昭和61年(1986年)、旧川之江市制施行30周年記念事業として模擬天守が再建されます。

現在の川之江城は、瀬戸内海と川之江の町並みを見渡す歴史公園として整備され、地域の歴史を伝えるシンボルとして多くの人々に親しまれています。

畠山城跡と塩釜神社
川之江城を支えた支城・畠山城も本城と運命をともにし、その役目を終えて廃城となりました。
現在、城跡の本丸には「畠山城跡」と刻まれた石碑が建立されており、往時の姿を今に伝えています。

また、畠山城の二の丸跡には塩釜神社が鎮座しています。
神社がある塩谷(しおや)の地は、かつて海岸に面した土地で、小規模ながら塩田が営まれていました。
塩釜神社は、そうした製塩に携わる人々によって勧請されたと伝えられており、現在も地域の人々の信仰を集めています。


最後まで南朝を支えた土肥義昌
川之江城主・土肥義昌は、興国3年(1342年)の川之江城落城後も生き延び、その後も南朝方の武将として各地を転戦し続けました。
南朝勢力が衰退していくなかでも義昌は新田氏への忠節を失わず、新田義貞の次男・新田義興(にった よしおき)に従って東国での戦いに身を投じます。
当時の関東では、足利氏が鎌倉を拠点として勢力を固める一方、新田義興は父・義貞の遺志を継ぎ、南朝方の旗頭として抗戦を続けていました。
そのため義興の存在は足利方にとって大きな脅威となっていたのです。
正平13年(1358年)、足利方は謀略によって義興を討とうと計画します。
義興は武蔵国矢口渡(現在の東京都大田区付近)で罠にはまり、多摩川の渡船上で敵軍に包囲されました。
しかし義昌は主君を見捨てませんでした。
義興を守るため最後まで戦い続けた義昌は、多摩川を渡って敵中へ突撃し、壮絶な戦いの末に討死したと伝えられています。
伊予国川之江城の城主として細川頼春と戦った義昌は、その後も二十年以上にわたって南朝のために戦い続け、最後は関東の地で新田一族への忠義を貫いて生涯を閉じたのです。
その最期は遠く関東の地でしたが、義昌の記憶は今も川之江の地に残されています。
川之江城の南麓には土居氏一族の墓所があり、その中央には石垣で築かれた一段高い区画が設けられています。

石段を上った先には大型の五輪塔が建ち、その前には「土肥義昌之墓」と刻まれた石碑が建てられています。


五輪塔には「明治二十一年一月 子孫建立」の銘が刻まれており、明治21年(1888年)に土居氏の子孫によって建立されたことが分かります。
南北朝の動乱から五百年以上を経た後もなお、義昌の忠義と功績は子孫や地域の人々によって大切に語り継がれてきたのです。

金谷経氏の最期
同じく南朝方として戦った金谷経氏も、千町ヶ原の戦いを生き延びた後、なお各地を転戦し続けました。
正平六年/観応二年(1351年)には、新田一族や南朝方諸将とともに山城国の石清水八幡宮周辺で戦ったことが知られています。
当時の石清水八幡宮は、京都と西国を結ぶ交通の要衝である男山に位置し、軍事上も極めて重要な拠点でした。
南朝方は京都奪還を目指してこの地へ攻勢をかけましたが、激しい戦いの末に敗北します。
しかし、この頃には南朝方の勢力はすでに大きく衰えており、戦況を覆すことはできませんでした。
その後の経氏については諸説あり、この石清水八幡宮周辺での戦いで自害したとも、なお戦い続けた末に翌年討死したとも伝えられています。
その最期の詳細は定かではありませんが、経氏が最後まで南朝方として戦い続けたことは間違いありません。
金谷経氏や土居義昌、そして南北朝の騒乱の中を生きた数多くの武将たち。
その生涯は、それぞれが信じる主君や理想のために戦い続けた激動の時代の姿を今に伝えています。
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